惚れっぽい恋愛小説家令嬢は百戦錬磨の青年貴族に口説かれる→気づかない

川上桃園

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「……ジドレル? どうして外を見ている。何かあるのか?」

「ちょっと、毛色の違う小鹿を見つけてね。とても元気に跳ね回っているものだから、先ほど危うく引かれかけてしまった」

「は? シルドンパークで鹿は飼っていなかったはずだが。リスならわかるが」

 窓枠に腰かけた男は首だけ巡らせて、眼下を指さした。

 王宮の西門からすぐの建物は、王太子が日ごろ好んで執務室として使っている部屋がある。防犯の理由からバルコニーはついていないが、王宮を囲む塀向こうに広がるパークの一部を見渡せた。

 もう一人の男が窓を覗き込んだ時、ちょうど交代終わりの衛兵たちから離れ、自転車に乗る女がいた。

彼女の顔は天を仰ぐように上向くと、見知った者だった。

「ああ、セフィーヌ・フラゴニア辺境伯令嬢か?」

「知人か?」

「……妻と交流がある」

「へえ」

 男の黒い眼が眇められ、自転車に乗った彼女が木立の影に隠れてしまうまで見送る。そうしてからやっと隣に立つ友人に顔を向けた。

 彼は濃茶のコートを着ていた。

「彼女、あの衛兵たちと何を話していたんだろう」

「いつものことだ。ひとめぼれして、すぐに告白して振られているんだよ。『フラゴニアの失恋姫』と言ったら彼女のことだ」

「それは知らなかった」

 男は何かを思案するように右手の人差し指を唇に当てる。薄い唇は軽く開き、その指はたわいもなく中に入り込みそうだ。

「君が知らないのも無理はない。あれはほとんど君が留学してから名を知られるようになった。失恋回数は数えきれないほど。自己申告によるとそろそろ千回を越えそうなのだとか」

「そんなに? ……本当か?」

「それこそ見境がないからな。彼女はたまに王宮にも出入りするから、めぼしい男は老若関係なく皆『失恋劇場』の餌食になっている」

「それはそれは。とても愉快な見世物だね」

 想像してみたのか、男は軽やかな笑い声をあげた。相手は冗談じゃないと手を振った。

「一過性の嵐か、はたまた不意の弾丸のようなものだよ、あれは。どれだけ断られても彼女は全然へこたれない。大変なのは周囲ばかりさ。家族の心労を思うと泣けてくる話だよ。おかげでちっとも縁談がまとまらないんだそうだ」

「へえ? 年はいくつ?」

「妻より三つ下だから、十九だったか。しかし、それにしてもジドレル。帰国早々に女性に手を出すつもりか? 君だってそろそろお父上に結婚をせっつかれる頃だろうに、そんなことをしていてはどうかと思うが」

 男は友人の忠告を聞き流し、窓枠から離れて来客用のソファーに腰かけた。そうして腕を組んで見せればまるで彼の方が部屋の主のようである。

「そういう君には息子が生まれたと聞いた。おめでとう。これで王室の未来は明るいな」

「ああ、こちらこそわざわざ留学先から祝いの品をすまないな」

「いいや、あれは大した手間でもなかったが……レウレスが父親とは想像がつかないな」

「なに、これでもちゃんと父親の役目を果たしているよ。せめて小さい時だけは普通の子どものように育ててやりたくて、できるだけ一緒にいられるように時間を割いている。日に日に重くなる息子を抱き上げるたびに成長を実感できるよ。顔立ちも最初はサルみたいだったのにだんだん私に似ていって……。疲れるけれど楽しい日々だ」

 穏やかな顔で息子のことを語る友人だが、男にはよくわからない感覚だったのか、特に心動かされる様子もなく、上滑りな言葉で「それはよかったな」と返す。

「そうだ、せっかくだから抱いていくか? 今はまだナニーが面倒を見ている時間だが、ぜひとも友人の君には見ていってほしい」

「いや……あいにくだが、今日は君に帰国の挨拶をしに来ただけだ。そろそろ帰ることにする」

「は、もうか?」

「中央駅からここまでほとんど直行だったんだ。色々やることは残っていてね」

 結局、最後まで濃茶のコートを脱がなかった男はそう言って立ち上がる。ふと気が付いたように、「話が戻るようだが」と言う。

「セフィーヌ・フラゴニア……。彼女と私が出会ったとしたらどうなるかな」

「え、そうだな……。君は『王国一の美男』で、家柄も財産も最高クラスの貴公子だから……一発で惚れるかもしれないな。あくまでも予想だが」

「そうか。わかった」

 彼はテーブルの上のトップハットを取り、立てかけていたステッキを持ち、空いた手をひらひらと振った。

「では頑張ってみるよ」

 バタン、と閉まる木製のドア。中に残された友人が慌ててこちらを止めるように手を伸ばしていたのを後にする。

 王宮の廊下を知った顔で歩く男。

 艶やかな黒髪と黒真珠のような瞳を持つ。

 きりりとした凛々しい顔は古代の彫像を思わせ、隙のない服装の下には鍛え上げられた体躯が隠れている。

 だが微笑めば素材の硬質さが霧散する。

 男の笑みはジャムや蜂蜜、砂糖よりも甘く、目元にある小さな黒子はどうしようもなくエロチックな風情を与え、その唇から漏れ出る睦言は、すべての女性たちを酔わせてしまうに十分すぎるほど。

 きらめく黒い瞳はたやすく心をのぞかせてくれないが、それでも多くの女性たちがその男に幻想を見る。

 一度でいいからその腕に抱かれたいと願う、完全無欠の貴公子。

 女性にさしのべた手の、指先までもが色気に彩られているような美男。


 そんな彼の口が小さく動く。

「セフィーヌ・フラゴニア……」

 その名を舌先で優しく転がして、甘い声で包み込む。

 彼の名はジドレル・キッソン。


 百戦錬磨の色男が、駆け引き皆無の『フラゴニアの失恋姫』を見つけてしまった日の出来事だった。
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