5 / 7
第5話
しおりを挟む
ある名前を口にしようとした時、エリカの背中に悪寒が走った。聖女の法力が『異物』の気配を察知した。聖女が治め、その法力で満ちた大地とは違う、不吉で不穏な雰囲気が忽然と現れたのだ。
――冥界の蓋が開き、魔が侵入した。
大地に人間界、地下には冥界、というのがこの世界の常識である。大地は聖女の領域であり、生者の世界。地下には死者の世界があり、死者の王、冥界王の領域だ。
人間界と冥界は普段交わらないものの、隣り合う世界だ。たまに境界がまじりあう時があり、この現象を「冥界の蓋が開く」と呼ぶ。冥界の死者は生に焦がれて人間界に姿を現わし、冥界にすまう魔物は食物である死者を追いかけて地上に出てくるが、生者と死者の区別がつかずに辺りを食い散らかす。
各地に散らばる神官たちの仕事は、聖女の代行者として死者と魔物を冥界に追い返し、開いてしまった冥界の蓋を封じることにある。
「蓋が開いたか」
男も魔の気配に気づいたようで、眼光を鋭くしながらベンチから立つ。
エリカは感心した。今の気配は聖女であるエリカだからこそ感じ取れた程度のものだ。仙宮にいる高位神官でなければ普通は気づかない。
「あなた、法力も強いのね」
男は答えずに「行くか」と問うた。
「うん、行く。……きゃあっ」
エリカが驚いたのは、男がエリカの身体を肩に乗せたからである。彼はエリカが落ちないように支えながら、幼女を軽々と運ぶ。
「走るぞ」
男は風のように駆ける。しかし、身体の芯はぶれないので、肩に乗ったエリカには安心感があった。移動する魔の気配を追い、
「おとうさま、あっちを右へ行って」
「次を左、もっと奥へ」
「……上。屋根へ飛んで!」
男はエリカの指示に従い、少し助走をつけたかと思うと、大きく跳躍して、屋根の上まで飛んだ。法力の補助があったにしろ、高い身体能力である。
――私が知る「あの人」とは法力が違いすぎるけれど……まあ、いいわ。
「すごいのね、あなた」
男の肩がびくりと震える。褒めただけなのに。
エリカは前方を見た。明るい陽射しの下、屋根の上をのそのそと移動する黒い影がある。
「見つけた。あれね」
エリカは手首に付けた金の腕輪を抜き、法力を込めた。蛇を象った腕輪は法力を受けて、するすると「鎌首」をもたげた。
「さあ、起きて。金蛇《きんだ》くん。――行って!」
主人の意を受けた金の蛇は、矢のように影へ迫り、あっという間に影を締め付けて捕らえた。エリカがちょいちょいと人差し指で合図をすると、蛇は捕まえた影ごと戻ってきた。
影というのは女の死者であった。それもまだ若い。娘か若妻といった風貌で、視線はおどおどとしていて落ち着かない様子である。うー、うー、と唸っている。
エリカはじっくりと女を観察して、
「変ね」
「変だな」
男と声を合わせていた。男はエリカに目で続きを促した。
「ひとつ、冥界の蓋を潜り抜けたわりに弱すぎること。ふたつ、今は悪寒がないこと。みっつ、冥界の蓋が開いて間もないはずなのにここまで死者が離れることは珍しい。よっつ、なぜ昼間に冥界の蓋が開いたのか。冥界の蓋は闇の深い夜に開くことが多いのに」
エリカが指で数え上げると、男の方も意を得たり、と頷いた。
「死者から話を聞くか?」
「できないわ」
エリカは金蛇に命じて、女の口を開かせた。女の口には舌がなかった。
「舌と一緒に魂が傷つけられている。意思があっても、伝える術がありません」
そして、法力は死者との相性が悪い。傷つけ、消滅させたりはできるが、その意思を正確に汲み取る術には秀でていない。しかも相手は弱っている死者なのだから、エリカが法力を注げば、壊れてしまいかねない。
「だが理性は少し残っているようだ」
「根気よく聞きだしていくしかありません」
男は何かを考え込んでいるようだ。
舌を切り取られたのは生前のことだ。おそらくこの死者は不本意な死に方をしている。冥界の蓋が開きやすいのはこうした死者の無念や妄執が吹き溜まりやすいところで、蓋を開けて出てくる死者も、己の所縁に引き寄せられ、その蓋から出てくることが多い。
聖女は人間界を統べる存在だが、彼らの心の中までを操ることはできない。人間の浅ましい業は変えられない。
エリカは嘆息した。
「すぐに解決できる問題ではなさそうです。ここでこの地を統括する神官の到着を待って」
言いかけた聖女がふと気づいて、もやっとする胸を押さえた。
「……昼間に冥界の蓋が開いたとして。開かせたのが、この女性ではなかったら……?」
今、背中に悪寒が走らないのは、女の死者ではなく、別の何かに反応していたとしたら。それは昼間に出てこられるほど凶悪で。弱い女は、それから逃げて来ただけだったら。
エリカは神経を集中し、気配を探った。町中に法力の網を張り、少しずつ狭めていく。不審な場所がないか。闇の深い場所がないか。
「……あった」
エリカは北の方角を指さした。エリカをずっと抱えていた男は「連れていく」と言葉少なに答える。エリカは女の死者を向くと、「申し訳ないのですが、あなたを連れていきますよ」と言い、金蛇を彼女に噛みつかせた。金蛇の口は恐ろしく広がり、蛇が女を丸呑みした格好になる。そして、金蛇は腕輪となってエリカの腕に戻った。そして腕輪の蛇の口元に新しく真珠のような飾りがついた。女の死者の形を法力で変えたのだ。
男はその様を片眉をあげて興味深そうに見ていたが、すぐにエリカが指す方向へ駆け出した。
――冥界の蓋が開き、魔が侵入した。
大地に人間界、地下には冥界、というのがこの世界の常識である。大地は聖女の領域であり、生者の世界。地下には死者の世界があり、死者の王、冥界王の領域だ。
人間界と冥界は普段交わらないものの、隣り合う世界だ。たまに境界がまじりあう時があり、この現象を「冥界の蓋が開く」と呼ぶ。冥界の死者は生に焦がれて人間界に姿を現わし、冥界にすまう魔物は食物である死者を追いかけて地上に出てくるが、生者と死者の区別がつかずに辺りを食い散らかす。
各地に散らばる神官たちの仕事は、聖女の代行者として死者と魔物を冥界に追い返し、開いてしまった冥界の蓋を封じることにある。
「蓋が開いたか」
男も魔の気配に気づいたようで、眼光を鋭くしながらベンチから立つ。
エリカは感心した。今の気配は聖女であるエリカだからこそ感じ取れた程度のものだ。仙宮にいる高位神官でなければ普通は気づかない。
「あなた、法力も強いのね」
男は答えずに「行くか」と問うた。
「うん、行く。……きゃあっ」
エリカが驚いたのは、男がエリカの身体を肩に乗せたからである。彼はエリカが落ちないように支えながら、幼女を軽々と運ぶ。
「走るぞ」
男は風のように駆ける。しかし、身体の芯はぶれないので、肩に乗ったエリカには安心感があった。移動する魔の気配を追い、
「おとうさま、あっちを右へ行って」
「次を左、もっと奥へ」
「……上。屋根へ飛んで!」
男はエリカの指示に従い、少し助走をつけたかと思うと、大きく跳躍して、屋根の上まで飛んだ。法力の補助があったにしろ、高い身体能力である。
――私が知る「あの人」とは法力が違いすぎるけれど……まあ、いいわ。
「すごいのね、あなた」
男の肩がびくりと震える。褒めただけなのに。
エリカは前方を見た。明るい陽射しの下、屋根の上をのそのそと移動する黒い影がある。
「見つけた。あれね」
エリカは手首に付けた金の腕輪を抜き、法力を込めた。蛇を象った腕輪は法力を受けて、するすると「鎌首」をもたげた。
「さあ、起きて。金蛇《きんだ》くん。――行って!」
主人の意を受けた金の蛇は、矢のように影へ迫り、あっという間に影を締め付けて捕らえた。エリカがちょいちょいと人差し指で合図をすると、蛇は捕まえた影ごと戻ってきた。
影というのは女の死者であった。それもまだ若い。娘か若妻といった風貌で、視線はおどおどとしていて落ち着かない様子である。うー、うー、と唸っている。
エリカはじっくりと女を観察して、
「変ね」
「変だな」
男と声を合わせていた。男はエリカに目で続きを促した。
「ひとつ、冥界の蓋を潜り抜けたわりに弱すぎること。ふたつ、今は悪寒がないこと。みっつ、冥界の蓋が開いて間もないはずなのにここまで死者が離れることは珍しい。よっつ、なぜ昼間に冥界の蓋が開いたのか。冥界の蓋は闇の深い夜に開くことが多いのに」
エリカが指で数え上げると、男の方も意を得たり、と頷いた。
「死者から話を聞くか?」
「できないわ」
エリカは金蛇に命じて、女の口を開かせた。女の口には舌がなかった。
「舌と一緒に魂が傷つけられている。意思があっても、伝える術がありません」
そして、法力は死者との相性が悪い。傷つけ、消滅させたりはできるが、その意思を正確に汲み取る術には秀でていない。しかも相手は弱っている死者なのだから、エリカが法力を注げば、壊れてしまいかねない。
「だが理性は少し残っているようだ」
「根気よく聞きだしていくしかありません」
男は何かを考え込んでいるようだ。
舌を切り取られたのは生前のことだ。おそらくこの死者は不本意な死に方をしている。冥界の蓋が開きやすいのはこうした死者の無念や妄執が吹き溜まりやすいところで、蓋を開けて出てくる死者も、己の所縁に引き寄せられ、その蓋から出てくることが多い。
聖女は人間界を統べる存在だが、彼らの心の中までを操ることはできない。人間の浅ましい業は変えられない。
エリカは嘆息した。
「すぐに解決できる問題ではなさそうです。ここでこの地を統括する神官の到着を待って」
言いかけた聖女がふと気づいて、もやっとする胸を押さえた。
「……昼間に冥界の蓋が開いたとして。開かせたのが、この女性ではなかったら……?」
今、背中に悪寒が走らないのは、女の死者ではなく、別の何かに反応していたとしたら。それは昼間に出てこられるほど凶悪で。弱い女は、それから逃げて来ただけだったら。
エリカは神経を集中し、気配を探った。町中に法力の網を張り、少しずつ狭めていく。不審な場所がないか。闇の深い場所がないか。
「……あった」
エリカは北の方角を指さした。エリカをずっと抱えていた男は「連れていく」と言葉少なに答える。エリカは女の死者を向くと、「申し訳ないのですが、あなたを連れていきますよ」と言い、金蛇を彼女に噛みつかせた。金蛇の口は恐ろしく広がり、蛇が女を丸呑みした格好になる。そして、金蛇は腕輪となってエリカの腕に戻った。そして腕輪の蛇の口元に新しく真珠のような飾りがついた。女の死者の形を法力で変えたのだ。
男はその様を片眉をあげて興味深そうに見ていたが、すぐにエリカが指す方向へ駆け出した。
3
あなたにおすすめの小説
タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。
渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。
しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。
「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」
※※※
虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
存在感のない聖女が姿を消した後 [完]
風龍佳乃
恋愛
聖女であるディアターナは
永く仕えた国を捨てた。
何故って?
それは新たに現れた聖女が
ヒロインだったから。
ディアターナは
いつの日からか新聖女と比べられ
人々の心が離れていった事を悟った。
もう私の役目は終わったわ…
神託を受けたディアターナは
手紙を残して消えた。
残された国は天災に見舞われ
てしまった。
しかし聖女は戻る事はなかった。
ディアターナは西帝国にて
初代聖女のコリーアンナに出会い
運命を切り開いて
自分自身の幸せをみつけるのだった。
元公爵令嬢は年下騎士たちに「用済みのおばさん」と捨てられる 〜今更戻ってこいと泣きつかれても献身的な美少年に溺愛されているのでもう遅いです〜
日々埋没。
ファンタジー
「新しい従者を雇うことにした。おばさんはもう用済みだ。今すぐ消えてくれ」
かつて婚約破棄され、実家を追放された元公爵令嬢のレアーヌ。
その身分を隠し、年下の冒険者たちの身の回りを世話する『メイド』として献身的に尽くしてきた彼女に突きつけられたのは、あまりに非情な追放宣告だった。
レアーヌがこれまで教育し、支えてきた若い男たちは、新しく現れた他人の物を欲しがり子悪魔メイドに骨抜きにされ、彼女を「加齢臭のする汚いおばさん」と蔑み、笑いながら追い出したのだ。
地位も、居場所も、信じていた絆も……すべてを失い、絶望する彼女の前に現れたのは、一人の美少年だった。
「僕とパーティーを組んでくれませんか? 貴方が必要なんです」
新米ながら将来の可能性を感じさせる彼は、レアーヌを「おばさん」ではなく「一人の女性」として、甘く狂おしく溺愛し始める。
一方でレアーヌという『真の支柱』を失った元パーティーは、自分たちがどれほど愚かな選択をしたかを知る由もなかった。
やがて彼らが地獄の淵で「戻ってきてくれ」と泣きついてきても、もう遅い。
レアーヌの隣には、彼女を離さないと誓った執着愛の化身が微笑んでいるのだから。
冷酷侯爵と政略結婚したら、実家がざまぁされました
鍛高譚
恋愛
「この結婚は、家のため。ただの政略結婚よ」
そう言い聞かせ、愛のない結婚を受け入れた公爵令嬢リゼット。
しかし、挙式後すぐに父が「婚約破棄しろ」と命じてきた!?
だが、夫であるアレクシス・フォン・シュヴァルツ侯爵は冷たく言い放つ。
「彼女を渡すつもりはない」
冷酷無慈悲と噂される侯爵が、なぜかリゼットを溺愛し始める!?
毎日甘やかされ、守られ、気づけば逃げ場なし!
さらに、父の不正が明るみに出て、公爵家は失墜――
リゼットを道具として利用しようとした者たちに、ざまぁの鉄槌が下される!
政略結婚から始まる、甘々溺愛ラブストーリー!
「愛なんてないはずなのに……どうしてこんなに大切にされるの?」
王家の血を引いていないと判明した私は、何故か変わらず愛されています。
木山楽斗
恋愛
第二王女であるスレリアは、自身が王家の血筋ではないことを知った。
それによって彼女は、家族との関係が終わると思っていた。父や母、兄弟の面々に事実をどう受け止められるのか、彼女は不安だったのだ。
しかしそれは、杞憂に終わった。
スレリアの家族は、彼女を家族として愛しており、排斥するつもりなどはなかったのだ。
ただその愛し方は、それぞれであった。
今まで通りの距離を保つ者、溺愛してくる者、さらには求婚してくる者、そんな家族の様々な対応に、スレリアは少々困惑するのだった。
婚約破棄して泥を投げつけた元婚約者が「無能」と笑う中、光り輝く幼なじみの王子に掠め取られました。
ムラサメ
恋愛
「お前のような無能、我が家には不要だ。今すぐ消えろ!」
婚約者・エドワードのために身を粉にして尽くしてきたフィオナは、卒業パーティーの夜、雨の中に放り出される。
泥にまみれ、絶望に沈む彼女の前に現れたのは、かつての幼なじみであり、今や国中から愛される「黄金の王子」シリルだった。
「やっと見つけた。……ねえ、フィオナ。あんなゴミに君を傷つけさせるなんて、僕の落ち度だね」
汚れを厭わずフィオナを抱き上げたシリルは、彼女を自分の屋敷へと連れ帰る。
「自分には価値がない」と思い込むフィオナを、シリルは異常なまでの執着と甘い言葉で、とろけるように溺愛し始めて――。
一方で、フィオナを捨てたエドワードは気づいていなかった。
自分の手柄だと思っていた仕事も、領地の繁栄も、すべてはフィオナの才能によるものだったということに。
ボロボロになっていく元婚約者。美しく着飾られ、シリルの腕の中で幸せに微笑むフィオナ。
「僕の星を捨てた報い、たっぷりと受けてもらうよ?」
圧倒的な光を放つ幼なじみによる、最高に華やかな逆転劇がいま始まる!
団長様、再婚しましょう!~お転婆聖女の無茶苦茶な求婚~
甘寧
恋愛
主人公であるシャルルは、聖女らしからぬ言動を取っては側仕えを困らせていた。
そんなシャルルも、年頃の女性らしく好意を寄せる男性がいる。それが、冷酷無情で他人を寄せ付けない威圧感のある騎士団長のレオナード。
「大人の余裕が素敵」
彼にそんな事を言うのはシャルルだけ。
実は、そんな彼にはリオネルと言う一人息子がいる。だが、彼に妻がいた事を知る者も子供がいたと知る者もいなかった。そんな出生不明のリオネルだが、レオナードの事を父と尊敬し、彼に近付く令嬢は片っ端から潰していくほどのファザコンに育っていた。
ある日、街で攫われそうになったリオネルをシャルルが助けると、リオネルのシャルルを見る目が変わっていき、レオナードとの距離も縮まり始めた。
そんな折、リオネルの母だと言う者が現れ、波乱の予感が……
魔力ゼロと捨てられた私を、王子がなぜか離してくれません ――無自覚聖女の王宮生活――
ムラサメ
恋愛
伯爵家で使用人同然に扱われてきた少女、エリナ。
魔力も才能もないとされ、義妹アリシアの影で静かに生きていた。
ある日、王国第一王子カイルの視察で運命が動き出す。
誰も気づかなかった“違和感”に、彼だけが目を留めて――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる