薔薇の聖女と白蓮の冥界王~聖女が幼女となってしまった日の顛末について~

川上桃園

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第5話

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 ある名前を口にしようとした時、エリカの背中に悪寒が走った。聖女の法力が『異物』の気配を察知した。聖女が治め、その法力で満ちた大地とは違う、不吉で不穏な雰囲気が忽然と現れたのだ。
 ――冥界の蓋が開き、魔が侵入した。
 大地に人間界、地下には冥界、というのがこの世界の常識である。大地は聖女の領域であり、生者の世界。地下には死者の世界があり、死者の王、冥界王の領域だ。
 人間界と冥界は普段交わらないものの、隣り合う世界だ。たまに境界がまじりあう時があり、この現象を「冥界の蓋が開く」と呼ぶ。冥界の死者は生に焦がれて人間界に姿を現わし、冥界にすまう魔物は食物である死者を追いかけて地上に出てくるが、生者と死者の区別がつかずに辺りを食い散らかす。
 各地に散らばる神官たちの仕事は、聖女の代行者として死者と魔物を冥界に追い返し、開いてしまった冥界の蓋を封じることにある。

「蓋が開いたか」

 男も魔の気配に気づいたようで、眼光を鋭くしながらベンチから立つ。
 エリカは感心した。今の気配は聖女であるエリカだからこそ感じ取れた程度のものだ。仙宮にいる高位神官でなければ普通は気づかない。

「あなた、法力も強いのね」

 男は答えずに「行くか」と問うた。

「うん、行く。……きゃあっ」

 エリカが驚いたのは、男がエリカの身体を肩に乗せたからである。彼はエリカが落ちないように支えながら、幼女を軽々と運ぶ。

「走るぞ」

 男は風のように駆ける。しかし、身体の芯はぶれないので、肩に乗ったエリカには安心感があった。移動する魔の気配を追い、

「おとうさま、あっちを右へ行って」
「次を左、もっと奥へ」
「……上。屋根へ飛んで!」

 男はエリカの指示に従い、少し助走をつけたかと思うと、大きく跳躍して、屋根の上まで飛んだ。法力の補助があったにしろ、高い身体能力である。

 ――私が知る「あの人」とは法力が違いすぎるけれど……まあ、いいわ。

「すごいのね、あなた」

 男の肩がびくりと震える。褒めただけなのに。
 エリカは前方を見た。明るい陽射しの下、屋根の上をのそのそと移動する黒い影がある。

「見つけた。あれね」

 エリカは手首に付けた金の腕輪を抜き、法力を込めた。蛇を象った腕輪は法力を受けて、するすると「鎌首」をもたげた。

「さあ、起きて。金蛇《きんだ》くん。――行って!」

 主人の意を受けた金の蛇は、矢のように影へ迫り、あっという間に影を締め付けて捕らえた。エリカがちょいちょいと人差し指で合図をすると、蛇は捕まえた影ごと戻ってきた。
 影というのは女の死者であった。それもまだ若い。娘か若妻といった風貌で、視線はおどおどとしていて落ち着かない様子である。うー、うー、と唸っている。
 エリカはじっくりと女を観察して、

「変ね」
「変だな」

 男と声を合わせていた。男はエリカに目で続きを促した。

「ひとつ、冥界の蓋を潜り抜けたわりに弱すぎること。ふたつ、今は悪寒がないこと。みっつ、冥界の蓋が開いて間もないはずなのにここまで死者が離れることは珍しい。よっつ、なぜ昼間に冥界の蓋が開いたのか。冥界の蓋は闇の深い夜に開くことが多いのに」

 エリカが指で数え上げると、男の方も意を得たり、と頷いた。

「死者から話を聞くか?」
「できないわ」

 エリカは金蛇に命じて、女の口を開かせた。女の口には舌がなかった。

「舌と一緒に魂が傷つけられている。意思があっても、伝える術がありません」

 そして、法力は死者との相性が悪い。傷つけ、消滅させたりはできるが、その意思を正確に汲み取る術には秀でていない。しかも相手は弱っている死者なのだから、エリカが法力を注げば、壊れてしまいかねない。

「だが理性は少し残っているようだ」
「根気よく聞きだしていくしかありません」

 男は何かを考え込んでいるようだ。
 舌を切り取られたのは生前のことだ。おそらくこの死者は不本意な死に方をしている。冥界の蓋が開きやすいのはこうした死者の無念や妄執が吹き溜まりやすいところで、蓋を開けて出てくる死者も、己の所縁に引き寄せられ、その蓋から出てくることが多い。
 聖女は人間界を統べる存在だが、彼らの心の中までを操ることはできない。人間の浅ましい業は変えられない。
 エリカは嘆息した。

「すぐに解決できる問題ではなさそうです。ここでこの地を統括する神官の到着を待って」

 言いかけた聖女がふと気づいて、もやっとする胸を押さえた。

「……昼間に冥界の蓋が開いたとして。開かせたのが、この女性ではなかったら……?」

 今、背中に悪寒が走らないのは、女の死者ではなく、別の何かに反応していたとしたら。それは昼間に出てこられるほど凶悪で。弱い女は、それから逃げて来ただけだったら。
 エリカは神経を集中し、気配を探った。町中に法力の網を張り、少しずつ狭めていく。不審な場所がないか。闇の深い場所がないか。

「……あった」

 エリカは北の方角を指さした。エリカをずっと抱えていた男は「連れていく」と言葉少なに答える。エリカは女の死者を向くと、「申し訳ないのですが、あなたを連れていきますよ」と言い、金蛇を彼女に噛みつかせた。金蛇の口は恐ろしく広がり、蛇が女を丸呑みした格好になる。そして、金蛇は腕輪となってエリカの腕に戻った。そして腕輪の蛇の口元に新しく真珠のような飾りがついた。女の死者の形を法力で変えたのだ。
 男はその様を片眉をあげて興味深そうに見ていたが、すぐにエリカが指す方向へ駆け出した。
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