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第十二章 シロツメクサ、鎧を纏う
01 薔薇はミルクブラウンの湖に沈めて
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その日から、幸か不幸か、司の仕事量は増大した。
「……すみれがこないだ行方不明になっただろー? あの日まで、ここ数カ月、旦那様は仕事量をすごくセーブしてたみたいなんだ」
すみれの向かいの席は空席。
司不在の朝食の給仕をカツキが行いながらどこか済まなそうに告げた言葉に、すみれは胸が詰まるような思いだった。
薄々、感じてはいたのだ。しょっちゅうすみれの仕事あがりに合わせて庭に出てきたり、朝食もできるだけ一緒にする時間を工面したりと、司は春から夏にかけて、限界ぎりぎりまですみれと過ごそうと努力を重ねてくれていたのではないか、と。
「多分、とーぶん旦那様とは朝食も摂れないんじゃねーかなぁ……すみれ、寂しいかもしんないけど、オレがいるからなっ」
カツキが周りで世話を焼いてくれながらにこりと笑う。その笑顔にありがとうと頭を下げながら──だが内心、すみれはどこかで安堵している自分を知っていた。
司と、顔を合わせるのが、辛い。
(司さんはきっと、諦めない……)
顔を合わせればこの間の続きになりそうで、それがすみれには恐ろしかった。思い返せば、司を全力で振りほどいて逃げ出したあのタイミングは最悪だった気がする。
『君がその犠牲を払うことをやめれば、俺の命が危なくなる、ってところかな……?』
そんな司の言葉に激しく動揺して逃げ出すなんて、あからさまに司の言葉を肯定してしまったも同然ではないか。
(……本当に……私の馬鹿……っ)
悔いても、時は戻らない。
そしてすみれに出来ることなど一つしかなかった。
ただ口を閉ざすこと。それだけだ。
まだ状況は詰んではいない、そうすみれは自分に必死で言い聞かせた。
要はこの恋心を司に告白せず、悟らせもしなければいい、はずだ。
黙って、司の『家族』、そして『メイド』を演じればいい──そうして、少しずつ、距離を置けばいいだけ、だ。
ずきりと重く痛む胸を抱えながら、すみれは日々を過ごした。
逢えないほど忙しい状況でも、司はメッセージを毎日くれた。
意外にもメッセージには、すみれを追求するような言葉は一切ない。
──今日も暑かったけど、体調は大丈夫?
そんな、他愛のない言葉のやりとりがあるだけだ。
一見、平穏すぎるその文面に、クローバーの丘での詰問などは全て夢の中の出来事だったのではないかと思いたがる自分がいる。
春先からのあの穏やかな日々が、ひどく懐かしかった。
司を助けたことは今だって一片たりとも悔いはない。だが、過去から帰ってきた後の日々がこれほどに辛く、司と普通に話すことすら難しい状況になるなど、すみれには予測できなかったことだ。
八月末、日差しはいよいよ全てを焼きつくす勢いでその強さを増していた。うんざりするほどの暑さだが──夏休みをいいことに毎日メイドとしてフルで働き続けているすみれの肌は冷えていた。
空調はそれほどきつくはないとはいえ、全館空調完備の青龍家では、中で働いている限り暑さとは無縁だ。
たまに仕事で倉庫にいくために外に出たりすると、理不尽なほどの外の暑さにほっとする。
(……このまま、少しずつ、司さんと疎遠になるようにして……)
とぼとぼと倉庫に歩いていた足が、止まった。
(そしていつか、私が大学を卒業したら──この邸を出ればいい、ってことかな……)
その考えは、今となっては鉛のようにすみれの胸を塞いだ。
蝉時雨の声が世界中を包みこんでいた。
重い身体が押しつぶされそうなその声に打たれながら、すみれは一瞬目を閉じた。
ここで肌が熱を取り戻すまで、ほんの少しだけでも──太陽を感じていたかった。
*
こんな時に限って、電話は鳴るものだ。
夜の九時。部屋でくつろいでいるすみれの携帯が震えた。
充電スタンドからそれを抜き去りつつ、表示されている相手の名を確認し、すみれは一瞬この電話を取るべきか否か迷った。
「……はい、すみれです……」
結局すみれは出た。
ろくでもない用件なのか、それとも何かあるのだろうか。確かめなければいけない気がしたからだ。
果たして、携帯を耳に押し当てた瞬間、拍子抜けするほど明るい声が響いた。
『あー。出た! もう出てくれないかと思っちゃったよ。よかったぁ、嬉しいなぁ! でも、すみれちゃんさ、ちょっと元気ないけど大丈夫?』
池崎瑰が開口一番、全力で嬉しさを表現した後で、さらりとすみれを気遣ってくる。
瑰のこんなところが本当に憎めないし、上手だ、と思う。
「大丈夫です……そんなことより、どうしたんですか、瑰さん」
『あれ。全然大丈夫じゃない声だよね。まだ俺、何もしてないつもりなんだけど……』
意外そうに瑰は呟き、そして穏やかに告げた。
『こっちは特に、用件はないよ。なんとなく君の声を聞きたくなっただけ』
「……も、瑰さん……」
何もしていないつもりとは何だろう。突っ込みたい。激しく突っ込みたい。つまりはそのうち、何かを仕掛けてくるつもりだということだろうか。
やはりこの人は油断のならない人なのだと、すみれは心に喝をいれた。
『ねー、すみれちゃん』
そんなすみれの心の壁を崩す優しい声が、耳をくすぐる。
『今日電話したのは本当に気まぐれにすぎなかったんだけどね……もしかして電話して正解、だったのかな』
「……正解って、何がですか?」
『君がなんだかすごく辛そうだから。司と、何かあった?』
「……」
すみれは黙りこんだ。確かに自分の声に覇気はないことは認めるが、電話越しにも関わらず、瑰のこの勘の良さはなんだろう。
『あぁ、やっぱり図星かぁ。んじゃ、遠慮なく弱ってるすみれちゃんにつけこんでおくよ。何か辛いのなら、ウチにおいでよ、すみれちゃん』
「……またその話ですか……」
『別に諦めたなんて一言もいってないよ、俺は。いつだってすみれちゃん募集中です』
瑰の言葉に、思わずすみれは小さく苦笑した。
本当にこの人は狡猾なのか無邪気なのか判断に苦しむ時がある。
「私なんて雇っても、毎日カップ壊したりお仕事ミスしたりで迷惑しかかけないと思いますよ……」
自虐まじりにすみれは呟いた。
最近のすみれのぼんやり具合は酷かった。今日はカップをついに割ってしまったし、頼まれた仕事もど忘れして、後でそれを夏凛に指摘されて平謝りしたりと、本当にそんな自分が情けなくなる有様で。
『……そんなに仕事がおろそかになっちゃうほど、今の君はボロボロなの?』
ふと、回線の向こうで、瑰が表情を改めるのが見えた気がした。
『だとしたら、ますますそこに置いておけないなぁ。おいでよ、すみれちゃん。言ったよね、俺は君の逃げ場になるよ』
「……瑰さん」
すみれはそっと息を呑んだ。
逃げるつもりなどない。そう自らに言い聞かせ、瑰にもそう告げる──たったそれだけのことが、今、ひどくエネルギーのいることだと、不意に気付いてしまった。
今から大学卒業までの間だけだとしても──顔を突き合わせる度に司から妖精との誓約内容について追求され続けるのだろうか。そう考えると眩暈がする。
精霊に誓った内容は、一生秘め続け、墓場までもっていくしかすみれに選択肢はないのに……だ。
言えない事を、延々追求される日々に耐えるのは多分、とても、途方もなく、辛いことだ。
辛いだけならまだいい。
(この想いを知られたら、司さんが……)
死んでしまうかもしれない、なんて。
重すぎる現実を、抱える腕が痺れそうだ。
『……ね、すみれちゃん。疲れてるならおいでよ』
ひっそりと甘い瑰の声に誘われるとまるで、酸素を求めて水面に顔を出した瞬間に掬われた金魚のような気持ちになるから──優しくなんて、しないでほしい。
すみれは、目を閉じた。
『……なんなら、迎えに行こうか? いま』
瑰がふと本気を滲ませ囁いた、その瞬間。
耳に押し当てていた携帯が手の中で震えた。まるで、すみれを迷いの森から現実へと呼びもどすタイミングを知っていたかのように。
(……あ)
新着メッセージだと気付いてしまうと、どくんと心臓が鳴った。
連絡帳に記録されている人数からすれば、大学の知り合いや高校の友人である可能性のほうが遙かに高い。
それなのに、メッセージを寄こした相手の名を確かめずとも、湧きあがる強い予感に胸が震えたのは……何故なのだろう。
「瑰さん、ごめんなさい。私は、そっちには行けません」
『あれ。急に声がしっかりしちゃったねぇ。用事でも出来ちゃった?』
瑰がくすくすと笑う。
「……はい、すみません。おやすみなさい、瑰さん」
『うん。おやすみすみれちゃん。いい夢を』
意外にも瑰は引き止めなかった。あっさり通話終了した画面を操作し、すみれはせわしなくメッセージの相手を確かめた。
(やっぱり司さん、だ……)
名前を確認しただけで、もう、とくとくと鼓動が走り出す。
例え逢うのが怖くても、傍にいるのが辛くても、それでもやはりすみれの心をどうしようもなく掴んで離さないのは、司その人なのだった。
一方──耳から離した携帯を掌で弄びながら、瑰はそっと瞳を眇めたものだった。
「あーあ……切れちゃったかぁ」
切れる直前、すみれの携帯からバイブ特有の重い音が、微かに回線越しに聞こえたように思う。
(さしずめ、司からの新着メッセージってところかなぁ……)
携帯画面をぼんやりと眺めながら、そんなことまで考えてしまう辺りが我ながら面倒くさい。
「悪い事言わないからさ。おいでよ、すみれちゃん」
ぼそりと瑰は呟く。
「──この先、もっと君は辛くなっちゃうから、さ」
* * *
失礼します、と告げて部屋に踏み入る。
司の私室に漂うオリエンタルな香を嗅いだのは、久しぶりのような気がした。
デスクチェアから司が立ち上がる。
「……私服でいいって言ったのに」
司がどこか寂しそうに微笑む。そんな表情にどこか後ろめたさを覚え、すみれは曖昧に笑んだ。
「でも……紅茶を淹れさせていただくのですし」
「私服でも出来るよね?」
「……」
黙って司へ頭を下げ、すみれはワゴンを押して給湯室へ入った。
すでにすみれが仕事あがりの時間だということは承知の上で、司が部屋に誘ってきたのは初めてだった。
──こんな時間にごめんね。忙しくて昼間にどうしても時間がとれなくてね。今、一緒にお茶できないかな? 私服に着替えちゃったと思うし、そのまま部屋着でおいでよ。
そんな司の誘いに、大丈夫です、今行きますと返事しておいてから、すみれはその後しばし迷ったものだった。
結局、メイド服を着た。
……おそらく、今の自分には必要な衣装なのだ。
すみれは棚からカップとソーサーを選び出す。今日は何にしようか。迷いながらふと目に留めたティーカップは、ナルミのカレスだった。
深い湖のような碧色がアクセントになった美しいカップの中には、どことなく優しい色合いの赤い薔薇が一輪、そっとたゆたうように描かれている。
赤い薔薇の花言葉を思うと、微かに頬が熱を帯びる気がして、すみれは少し躊躇った。けれど、ふと思いついた甘酸っぱい誘惑には勝てず、そっと手を伸ばした。
このカップにミルクティーを注げば、薔薇には気付かれず司に差し出すことができるのだ……。
想いを口にすることもできない自分の、密やかな自己満足だ。どうせ薔薇の絵などティーカップにはありふれた絵柄だ。想いをこれで悟られることもないだろう。
(うん……これにしよう……)
蜜に惹かれる蝶のごとく、棚から一客のカレスを取り出した途端、横合いから声が飛んだ。
「──君の分も、淹れて」
はっとして給湯室の入り口を見れば、司が壁に寄り掛かって立っていた。私服である黒いシャツ姿で腕組みをした司は、どこかすみれが落ちつかなくなるほどの色気を感じさせる。
知らず、息を飲んで棒立ちになったすみれを見つめ、彼女の主は微かに瞳を細め囁いた。
「言ったはずだよ。お茶したいって。お茶を淹れてほしいわけじゃなくて、君とお茶を飲みたいんだ。一緒にね」
「……で、も」
「でもじゃないよ」
不意に、司の眼差しが挑むような強さを帯びた。
「君がその服装で来るのなら、俺はお願いではなく命じてもいいよね? ……すみれ」
「……っ」
「──そのメイド服はまるで鎧だね、今の君にとって」
ひっそりと司は微笑んだ。挑むような眼差しは一瞬のこと、すぐにどこか陰りを帯びた寂しげなそれにとってかわる。
「安心して。取って食ったりしないよ。一緒に、飲んでくれるよね」
「……はい」
すみれは頷いた。頷くしかなかった。
胸が痛い。どうしてこんな悲しげな目をした司から、ティータイムを共にせよとわざわざ『命令』されるような状況になってしまったんだろう。
ただ一杯の紅茶で主を幸せにしたいその一心で、この部屋に来る権利をもぎとったはずだったのに。
泣きたい思いで、それでも心をこめて、すみれはカレスのティーカップへとミルクティーを注ぎ入れた。
薔薇はそっとミルクブラウンの湖に沈みこみ、秘めたすみれの想いそのもののように姿を消していった。
* * *
どこか落ちつかない様子で、すみれがカップを傾ける。背筋を凛と伸ばし、憂いの滲んだ瞳を伏せて紅茶を味わうすみれの姿を、司は見つめた。
「……」
ちらりと目を上げるすみれが、司と視線があった瞬間、恥ずかしそうに目元を染めて再び俯く。そんな些細なすみれの反応の一つ一つが、司の胸を軋ませる。
司は毒の美酒にでも酔うような心持ちで、すみれの淹れたミルクティーを飲みながら瞳を細めた。
すみれを、困らせていることは解っている。
だが、こうして全身で司を意識しているすみれを見るのが──案外好きだと司は気付く。
これは、どこか自虐にも似た行為だ。
すみれの意思を、自由を、ずっと尊重したいと思ってきた。それは今だって寸分変わらぬ、司の願いだ。
だが、今は、その内側にさらに深く喰い込みたくて……たまらないのだ。
そんな己の牙を、司はだがそっと封じた。
例の精霊との契約だか誓いだかについては、今は問うまい。
ほんの少しの間だけでも、すみれと自分の間には何物にも邪魔されぬ優しい一時が、必要だった。
「……クッキー、食べるといいよ」
声は、内面を滲ませぬよう、つとめて穏やかに。
すみれを怯えさせぬようにそっと促してやると、すみれはありがとうございますと礼をいい、微かに頬を綻ばせた。
食事や、お茶の時に小難しいことは一切話題にしない。
それは明確に約束したわけではないにせよ、司とすみれの間では暗黙のルールだった。とはいえ、あんな尋問めいた追求の後、茶を共にする機会は今日まで無かった。
すみれはやはり久しぶりの司とのお茶で、緊張していたのに違いない。
ようやく少し安堵したのか、茶受けのクッキーに手を伸ばしかけ──ふとすみれはその手を止めた。
「……ん?」
不自然な静止に司が首を傾けて問うと、すみれは手を膝において小さく一礼した。
「司さんは、クッキー、食べませんよね……これ、私の為に用意してくださったんですよね……」
司は頷く。普段、司は客相手のお茶の時にしか茶菓子は口にしないから、すみれも菓子は持ってこないのだ。
これは、司がすみれの為に用意していたものだった。
「うん。君は食べるかなと思って出してみたんだ。良かったら食べて」
「ありがとう、ございます……」
困ったように、それでもどこか嬉しげにすみれが瞳を細める。その目元が、うっすらと紅を刷いたように染まるのだ。
あぁ、と司は声にならぬ声をあげ、陶然とその光景に見入った。
テーブル越し、触れぬまま、この可愛らしいメイドを眺めつづける。こんな至福の一時に縋りつきたくてたまらない己の弱さを、司は一方で自嘲しつつ冷静に眺めている。
全ては夢のなかの、ままごとのようなものだ。
この平穏なひとときは……今この瞬間でさえ、すみれが人知れず払った『犠牲』の上に成り立っている。
そう思うと、司の胸は愛しさに震えながらも、一方でどこまでも冷たく凍りついてゆくのだった。
「……でも、わたし、甘くないものでも構いません」
小さなクッキーを食べた後ですみれが囁いた、その不意打ちな台詞に、司は思わず目を瞠った。
これはおねだりだろうか。だとすれば珍しい。
「ん? じゃぁ、今度は甘くない菓子を用意しようか? いいよ。チーズを合わせたりもするものだしね」
「そうなんですか?」
「うん。もしも今食べたいなら、夜食っぽくなっちゃうけど、軽いサンドイッチでも作らせようか?」
「あ、いえ、今はこれを頂きますから……」
慌てたようにすみれが言い、不意に目線を合わせてきた。
ずっと、司の目を見るのを怖がっていたのに。
「甘くないのをお持ちしたら、一緒に、食べて頂けますか……?」
「……!」
そういうことか、と思わず胸を打たれ、司は息を呑んだ。
すみれが、そっと微笑む。憂いを纏っているのは相変わらずだが、それでも微かな笑みを口元に浮かべて──
「お茶受けも、できれば司さんと一緒に食べたいです……」
「……うん」
司は小さく頷いた。サンドイッチなどをつまむことのできるアフタヌーンティーをすみれと一緒に出来るなら、こんな切ない台詞を吐かせなくて済んだのにと思うと、己の多忙さが呪わしくもなる。
その一方で、すみれが小さなおねだりをしてくれたことが、ばかみたいに嬉しい自分もいるのだ。
──まったく、この感情は、手に負えない。
内心ひとりごちながら、司もまた微笑んでみせた。
「……じゃ、今度、何か持ってきて。俺も君と一緒に食べたいよ」
望みを言葉にすれば、こみ上げる感情に改めて胸が詰まった。
あの丘ですみれを無理やり抱きしめ、散々秘密を暴こうと嵐のように激しく言葉を叩きつけた司に、それでもまだ、すみれは一緒にお茶受けを食べたいなどと言ってくれるのだ。
まるでこのティータイムは、綱渡りのようだ。
蜘蛛の糸のように細く儚い一時の上で、震えながら二人で渡り切るべき対岸を探してもがいている……。
けれど、対岸は霧で未だ見えない。
……司は名残惜しい気持ちで、ミルクティーを飲み干した。
ナルミ・カレスのティーカップの中に沈んでいた薔薇へ、ふと目が留まる。その瞬間胸に走る痛みに、司は静かに瞳を眇めた。
給湯室でしばらく声をかけずに盗み見ていたすみれは、まるで何か祈りでも捧げるように切なげな瞳でカレスへと手を伸ばしていた。
(君は……)
十七年前の工場内で、すみれの濡れた胸に抱きしめられながら聞いた苦しげな呟きが、今も司の中にこびりついて離れない。
(君は、一体、誰を想ってるの……)
それは、すみれについてまわるもう一つの謎だった。
一つは精霊との誓約内容について。
そしてもう一つは、これだ。
自惚れかもしれない。
だがすみれは、はっきりと司に心を傾けてくれていると思えた──そう、あの日までは。
だが、すみれは過去の司と出会ったあの日、確かに言った。
好きな人は、外国よりもまだ遠い……ひたすら遠い場所にいるのだと。
それは司にとっては十七年前の話でも、すみれにとってはつい先日のこと、だ。
その事実は例え、春から夏にかけてどれほど司がすみれと時間をつくり、丁寧に逢瀬を重ねて絆を深めていったところで、変えようのない『事実であり、確定した過去』だった。
司は、苦しい胸の内を告げた時のすみれの眼差しを、今も忘れられない。
本当に、じくじくと痛む胸の傷に手を突っ込んで掻きまわしながら告げたのだろうと解るほどに、すみれは苦しげだったのだ。
今にも泣きだしそうな目で、それでも、すみれは最後に笑ってみせた。
その人を、好きになってよかったのだ、と──。
それは、司とは関係のない、誰かの話なのだろうか。
それとも。
……司は瞳を伏せた。
今、すみれの心を遮二無二暴いてしまいたい。だが、今それを仕掛けてもおそらく、すみれは心を閉ざすだけのような気がしていた。
十七年前のあの夜、あれほどに苦悩に満ちたさびしく儚い笑みを浮かべたすみれの表情は──おそらくはすみれの決意の表れだ。
想いを秘めると決意したすみれの意思が、あの夜の微笑みには在ったと、司は感じていた。
あの運命の日以降のお互いの関係がどう変質していくかは、かつての司にも読めなかったことだ。
ここから先は、本当の意味で、予測のつかない未来の始まりだった。
「……ごちそうさまでした」
やがて小さな声が、ぽつりと二人の間に落ちる。
見上げれば、すみれがするりとソファーから立ちあがるところだった。この甘く優しい一時の後に、何が待っているのか──すみれは知っているのだ。
「……下げますね」
ティーカップに伸ばしかけたその白い手を、咄嗟に司は握り締めた。
小さく息を呑み、すみれが司を見つめた。
「少し、話をしたい」
すみれを見上げたまま、司は真顔で告げた。すみれの白い頬に再び赤みが差す。
「……あ、の。用事が、ありますので」
「用事……こんな夜に?」
立ちあがり、司は改めてすみれの右手首を強く掴み直した。
「……すみれがこないだ行方不明になっただろー? あの日まで、ここ数カ月、旦那様は仕事量をすごくセーブしてたみたいなんだ」
すみれの向かいの席は空席。
司不在の朝食の給仕をカツキが行いながらどこか済まなそうに告げた言葉に、すみれは胸が詰まるような思いだった。
薄々、感じてはいたのだ。しょっちゅうすみれの仕事あがりに合わせて庭に出てきたり、朝食もできるだけ一緒にする時間を工面したりと、司は春から夏にかけて、限界ぎりぎりまですみれと過ごそうと努力を重ねてくれていたのではないか、と。
「多分、とーぶん旦那様とは朝食も摂れないんじゃねーかなぁ……すみれ、寂しいかもしんないけど、オレがいるからなっ」
カツキが周りで世話を焼いてくれながらにこりと笑う。その笑顔にありがとうと頭を下げながら──だが内心、すみれはどこかで安堵している自分を知っていた。
司と、顔を合わせるのが、辛い。
(司さんはきっと、諦めない……)
顔を合わせればこの間の続きになりそうで、それがすみれには恐ろしかった。思い返せば、司を全力で振りほどいて逃げ出したあのタイミングは最悪だった気がする。
『君がその犠牲を払うことをやめれば、俺の命が危なくなる、ってところかな……?』
そんな司の言葉に激しく動揺して逃げ出すなんて、あからさまに司の言葉を肯定してしまったも同然ではないか。
(……本当に……私の馬鹿……っ)
悔いても、時は戻らない。
そしてすみれに出来ることなど一つしかなかった。
ただ口を閉ざすこと。それだけだ。
まだ状況は詰んではいない、そうすみれは自分に必死で言い聞かせた。
要はこの恋心を司に告白せず、悟らせもしなければいい、はずだ。
黙って、司の『家族』、そして『メイド』を演じればいい──そうして、少しずつ、距離を置けばいいだけ、だ。
ずきりと重く痛む胸を抱えながら、すみれは日々を過ごした。
逢えないほど忙しい状況でも、司はメッセージを毎日くれた。
意外にもメッセージには、すみれを追求するような言葉は一切ない。
──今日も暑かったけど、体調は大丈夫?
そんな、他愛のない言葉のやりとりがあるだけだ。
一見、平穏すぎるその文面に、クローバーの丘での詰問などは全て夢の中の出来事だったのではないかと思いたがる自分がいる。
春先からのあの穏やかな日々が、ひどく懐かしかった。
司を助けたことは今だって一片たりとも悔いはない。だが、過去から帰ってきた後の日々がこれほどに辛く、司と普通に話すことすら難しい状況になるなど、すみれには予測できなかったことだ。
八月末、日差しはいよいよ全てを焼きつくす勢いでその強さを増していた。うんざりするほどの暑さだが──夏休みをいいことに毎日メイドとしてフルで働き続けているすみれの肌は冷えていた。
空調はそれほどきつくはないとはいえ、全館空調完備の青龍家では、中で働いている限り暑さとは無縁だ。
たまに仕事で倉庫にいくために外に出たりすると、理不尽なほどの外の暑さにほっとする。
(……このまま、少しずつ、司さんと疎遠になるようにして……)
とぼとぼと倉庫に歩いていた足が、止まった。
(そしていつか、私が大学を卒業したら──この邸を出ればいい、ってことかな……)
その考えは、今となっては鉛のようにすみれの胸を塞いだ。
蝉時雨の声が世界中を包みこんでいた。
重い身体が押しつぶされそうなその声に打たれながら、すみれは一瞬目を閉じた。
ここで肌が熱を取り戻すまで、ほんの少しだけでも──太陽を感じていたかった。
*
こんな時に限って、電話は鳴るものだ。
夜の九時。部屋でくつろいでいるすみれの携帯が震えた。
充電スタンドからそれを抜き去りつつ、表示されている相手の名を確認し、すみれは一瞬この電話を取るべきか否か迷った。
「……はい、すみれです……」
結局すみれは出た。
ろくでもない用件なのか、それとも何かあるのだろうか。確かめなければいけない気がしたからだ。
果たして、携帯を耳に押し当てた瞬間、拍子抜けするほど明るい声が響いた。
『あー。出た! もう出てくれないかと思っちゃったよ。よかったぁ、嬉しいなぁ! でも、すみれちゃんさ、ちょっと元気ないけど大丈夫?』
池崎瑰が開口一番、全力で嬉しさを表現した後で、さらりとすみれを気遣ってくる。
瑰のこんなところが本当に憎めないし、上手だ、と思う。
「大丈夫です……そんなことより、どうしたんですか、瑰さん」
『あれ。全然大丈夫じゃない声だよね。まだ俺、何もしてないつもりなんだけど……』
意外そうに瑰は呟き、そして穏やかに告げた。
『こっちは特に、用件はないよ。なんとなく君の声を聞きたくなっただけ』
「……も、瑰さん……」
何もしていないつもりとは何だろう。突っ込みたい。激しく突っ込みたい。つまりはそのうち、何かを仕掛けてくるつもりだということだろうか。
やはりこの人は油断のならない人なのだと、すみれは心に喝をいれた。
『ねー、すみれちゃん』
そんなすみれの心の壁を崩す優しい声が、耳をくすぐる。
『今日電話したのは本当に気まぐれにすぎなかったんだけどね……もしかして電話して正解、だったのかな』
「……正解って、何がですか?」
『君がなんだかすごく辛そうだから。司と、何かあった?』
「……」
すみれは黙りこんだ。確かに自分の声に覇気はないことは認めるが、電話越しにも関わらず、瑰のこの勘の良さはなんだろう。
『あぁ、やっぱり図星かぁ。んじゃ、遠慮なく弱ってるすみれちゃんにつけこんでおくよ。何か辛いのなら、ウチにおいでよ、すみれちゃん』
「……またその話ですか……」
『別に諦めたなんて一言もいってないよ、俺は。いつだってすみれちゃん募集中です』
瑰の言葉に、思わずすみれは小さく苦笑した。
本当にこの人は狡猾なのか無邪気なのか判断に苦しむ時がある。
「私なんて雇っても、毎日カップ壊したりお仕事ミスしたりで迷惑しかかけないと思いますよ……」
自虐まじりにすみれは呟いた。
最近のすみれのぼんやり具合は酷かった。今日はカップをついに割ってしまったし、頼まれた仕事もど忘れして、後でそれを夏凛に指摘されて平謝りしたりと、本当にそんな自分が情けなくなる有様で。
『……そんなに仕事がおろそかになっちゃうほど、今の君はボロボロなの?』
ふと、回線の向こうで、瑰が表情を改めるのが見えた気がした。
『だとしたら、ますますそこに置いておけないなぁ。おいでよ、すみれちゃん。言ったよね、俺は君の逃げ場になるよ』
「……瑰さん」
すみれはそっと息を呑んだ。
逃げるつもりなどない。そう自らに言い聞かせ、瑰にもそう告げる──たったそれだけのことが、今、ひどくエネルギーのいることだと、不意に気付いてしまった。
今から大学卒業までの間だけだとしても──顔を突き合わせる度に司から妖精との誓約内容について追求され続けるのだろうか。そう考えると眩暈がする。
精霊に誓った内容は、一生秘め続け、墓場までもっていくしかすみれに選択肢はないのに……だ。
言えない事を、延々追求される日々に耐えるのは多分、とても、途方もなく、辛いことだ。
辛いだけならまだいい。
(この想いを知られたら、司さんが……)
死んでしまうかもしれない、なんて。
重すぎる現実を、抱える腕が痺れそうだ。
『……ね、すみれちゃん。疲れてるならおいでよ』
ひっそりと甘い瑰の声に誘われるとまるで、酸素を求めて水面に顔を出した瞬間に掬われた金魚のような気持ちになるから──優しくなんて、しないでほしい。
すみれは、目を閉じた。
『……なんなら、迎えに行こうか? いま』
瑰がふと本気を滲ませ囁いた、その瞬間。
耳に押し当てていた携帯が手の中で震えた。まるで、すみれを迷いの森から現実へと呼びもどすタイミングを知っていたかのように。
(……あ)
新着メッセージだと気付いてしまうと、どくんと心臓が鳴った。
連絡帳に記録されている人数からすれば、大学の知り合いや高校の友人である可能性のほうが遙かに高い。
それなのに、メッセージを寄こした相手の名を確かめずとも、湧きあがる強い予感に胸が震えたのは……何故なのだろう。
「瑰さん、ごめんなさい。私は、そっちには行けません」
『あれ。急に声がしっかりしちゃったねぇ。用事でも出来ちゃった?』
瑰がくすくすと笑う。
「……はい、すみません。おやすみなさい、瑰さん」
『うん。おやすみすみれちゃん。いい夢を』
意外にも瑰は引き止めなかった。あっさり通話終了した画面を操作し、すみれはせわしなくメッセージの相手を確かめた。
(やっぱり司さん、だ……)
名前を確認しただけで、もう、とくとくと鼓動が走り出す。
例え逢うのが怖くても、傍にいるのが辛くても、それでもやはりすみれの心をどうしようもなく掴んで離さないのは、司その人なのだった。
一方──耳から離した携帯を掌で弄びながら、瑰はそっと瞳を眇めたものだった。
「あーあ……切れちゃったかぁ」
切れる直前、すみれの携帯からバイブ特有の重い音が、微かに回線越しに聞こえたように思う。
(さしずめ、司からの新着メッセージってところかなぁ……)
携帯画面をぼんやりと眺めながら、そんなことまで考えてしまう辺りが我ながら面倒くさい。
「悪い事言わないからさ。おいでよ、すみれちゃん」
ぼそりと瑰は呟く。
「──この先、もっと君は辛くなっちゃうから、さ」
* * *
失礼します、と告げて部屋に踏み入る。
司の私室に漂うオリエンタルな香を嗅いだのは、久しぶりのような気がした。
デスクチェアから司が立ち上がる。
「……私服でいいって言ったのに」
司がどこか寂しそうに微笑む。そんな表情にどこか後ろめたさを覚え、すみれは曖昧に笑んだ。
「でも……紅茶を淹れさせていただくのですし」
「私服でも出来るよね?」
「……」
黙って司へ頭を下げ、すみれはワゴンを押して給湯室へ入った。
すでにすみれが仕事あがりの時間だということは承知の上で、司が部屋に誘ってきたのは初めてだった。
──こんな時間にごめんね。忙しくて昼間にどうしても時間がとれなくてね。今、一緒にお茶できないかな? 私服に着替えちゃったと思うし、そのまま部屋着でおいでよ。
そんな司の誘いに、大丈夫です、今行きますと返事しておいてから、すみれはその後しばし迷ったものだった。
結局、メイド服を着た。
……おそらく、今の自分には必要な衣装なのだ。
すみれは棚からカップとソーサーを選び出す。今日は何にしようか。迷いながらふと目に留めたティーカップは、ナルミのカレスだった。
深い湖のような碧色がアクセントになった美しいカップの中には、どことなく優しい色合いの赤い薔薇が一輪、そっとたゆたうように描かれている。
赤い薔薇の花言葉を思うと、微かに頬が熱を帯びる気がして、すみれは少し躊躇った。けれど、ふと思いついた甘酸っぱい誘惑には勝てず、そっと手を伸ばした。
このカップにミルクティーを注げば、薔薇には気付かれず司に差し出すことができるのだ……。
想いを口にすることもできない自分の、密やかな自己満足だ。どうせ薔薇の絵などティーカップにはありふれた絵柄だ。想いをこれで悟られることもないだろう。
(うん……これにしよう……)
蜜に惹かれる蝶のごとく、棚から一客のカレスを取り出した途端、横合いから声が飛んだ。
「──君の分も、淹れて」
はっとして給湯室の入り口を見れば、司が壁に寄り掛かって立っていた。私服である黒いシャツ姿で腕組みをした司は、どこかすみれが落ちつかなくなるほどの色気を感じさせる。
知らず、息を飲んで棒立ちになったすみれを見つめ、彼女の主は微かに瞳を細め囁いた。
「言ったはずだよ。お茶したいって。お茶を淹れてほしいわけじゃなくて、君とお茶を飲みたいんだ。一緒にね」
「……で、も」
「でもじゃないよ」
不意に、司の眼差しが挑むような強さを帯びた。
「君がその服装で来るのなら、俺はお願いではなく命じてもいいよね? ……すみれ」
「……っ」
「──そのメイド服はまるで鎧だね、今の君にとって」
ひっそりと司は微笑んだ。挑むような眼差しは一瞬のこと、すぐにどこか陰りを帯びた寂しげなそれにとってかわる。
「安心して。取って食ったりしないよ。一緒に、飲んでくれるよね」
「……はい」
すみれは頷いた。頷くしかなかった。
胸が痛い。どうしてこんな悲しげな目をした司から、ティータイムを共にせよとわざわざ『命令』されるような状況になってしまったんだろう。
ただ一杯の紅茶で主を幸せにしたいその一心で、この部屋に来る権利をもぎとったはずだったのに。
泣きたい思いで、それでも心をこめて、すみれはカレスのティーカップへとミルクティーを注ぎ入れた。
薔薇はそっとミルクブラウンの湖に沈みこみ、秘めたすみれの想いそのもののように姿を消していった。
* * *
どこか落ちつかない様子で、すみれがカップを傾ける。背筋を凛と伸ばし、憂いの滲んだ瞳を伏せて紅茶を味わうすみれの姿を、司は見つめた。
「……」
ちらりと目を上げるすみれが、司と視線があった瞬間、恥ずかしそうに目元を染めて再び俯く。そんな些細なすみれの反応の一つ一つが、司の胸を軋ませる。
司は毒の美酒にでも酔うような心持ちで、すみれの淹れたミルクティーを飲みながら瞳を細めた。
すみれを、困らせていることは解っている。
だが、こうして全身で司を意識しているすみれを見るのが──案外好きだと司は気付く。
これは、どこか自虐にも似た行為だ。
すみれの意思を、自由を、ずっと尊重したいと思ってきた。それは今だって寸分変わらぬ、司の願いだ。
だが、今は、その内側にさらに深く喰い込みたくて……たまらないのだ。
そんな己の牙を、司はだがそっと封じた。
例の精霊との契約だか誓いだかについては、今は問うまい。
ほんの少しの間だけでも、すみれと自分の間には何物にも邪魔されぬ優しい一時が、必要だった。
「……クッキー、食べるといいよ」
声は、内面を滲ませぬよう、つとめて穏やかに。
すみれを怯えさせぬようにそっと促してやると、すみれはありがとうございますと礼をいい、微かに頬を綻ばせた。
食事や、お茶の時に小難しいことは一切話題にしない。
それは明確に約束したわけではないにせよ、司とすみれの間では暗黙のルールだった。とはいえ、あんな尋問めいた追求の後、茶を共にする機会は今日まで無かった。
すみれはやはり久しぶりの司とのお茶で、緊張していたのに違いない。
ようやく少し安堵したのか、茶受けのクッキーに手を伸ばしかけ──ふとすみれはその手を止めた。
「……ん?」
不自然な静止に司が首を傾けて問うと、すみれは手を膝において小さく一礼した。
「司さんは、クッキー、食べませんよね……これ、私の為に用意してくださったんですよね……」
司は頷く。普段、司は客相手のお茶の時にしか茶菓子は口にしないから、すみれも菓子は持ってこないのだ。
これは、司がすみれの為に用意していたものだった。
「うん。君は食べるかなと思って出してみたんだ。良かったら食べて」
「ありがとう、ございます……」
困ったように、それでもどこか嬉しげにすみれが瞳を細める。その目元が、うっすらと紅を刷いたように染まるのだ。
あぁ、と司は声にならぬ声をあげ、陶然とその光景に見入った。
テーブル越し、触れぬまま、この可愛らしいメイドを眺めつづける。こんな至福の一時に縋りつきたくてたまらない己の弱さを、司は一方で自嘲しつつ冷静に眺めている。
全ては夢のなかの、ままごとのようなものだ。
この平穏なひとときは……今この瞬間でさえ、すみれが人知れず払った『犠牲』の上に成り立っている。
そう思うと、司の胸は愛しさに震えながらも、一方でどこまでも冷たく凍りついてゆくのだった。
「……でも、わたし、甘くないものでも構いません」
小さなクッキーを食べた後ですみれが囁いた、その不意打ちな台詞に、司は思わず目を瞠った。
これはおねだりだろうか。だとすれば珍しい。
「ん? じゃぁ、今度は甘くない菓子を用意しようか? いいよ。チーズを合わせたりもするものだしね」
「そうなんですか?」
「うん。もしも今食べたいなら、夜食っぽくなっちゃうけど、軽いサンドイッチでも作らせようか?」
「あ、いえ、今はこれを頂きますから……」
慌てたようにすみれが言い、不意に目線を合わせてきた。
ずっと、司の目を見るのを怖がっていたのに。
「甘くないのをお持ちしたら、一緒に、食べて頂けますか……?」
「……!」
そういうことか、と思わず胸を打たれ、司は息を呑んだ。
すみれが、そっと微笑む。憂いを纏っているのは相変わらずだが、それでも微かな笑みを口元に浮かべて──
「お茶受けも、できれば司さんと一緒に食べたいです……」
「……うん」
司は小さく頷いた。サンドイッチなどをつまむことのできるアフタヌーンティーをすみれと一緒に出来るなら、こんな切ない台詞を吐かせなくて済んだのにと思うと、己の多忙さが呪わしくもなる。
その一方で、すみれが小さなおねだりをしてくれたことが、ばかみたいに嬉しい自分もいるのだ。
──まったく、この感情は、手に負えない。
内心ひとりごちながら、司もまた微笑んでみせた。
「……じゃ、今度、何か持ってきて。俺も君と一緒に食べたいよ」
望みを言葉にすれば、こみ上げる感情に改めて胸が詰まった。
あの丘ですみれを無理やり抱きしめ、散々秘密を暴こうと嵐のように激しく言葉を叩きつけた司に、それでもまだ、すみれは一緒にお茶受けを食べたいなどと言ってくれるのだ。
まるでこのティータイムは、綱渡りのようだ。
蜘蛛の糸のように細く儚い一時の上で、震えながら二人で渡り切るべき対岸を探してもがいている……。
けれど、対岸は霧で未だ見えない。
……司は名残惜しい気持ちで、ミルクティーを飲み干した。
ナルミ・カレスのティーカップの中に沈んでいた薔薇へ、ふと目が留まる。その瞬間胸に走る痛みに、司は静かに瞳を眇めた。
給湯室でしばらく声をかけずに盗み見ていたすみれは、まるで何か祈りでも捧げるように切なげな瞳でカレスへと手を伸ばしていた。
(君は……)
十七年前の工場内で、すみれの濡れた胸に抱きしめられながら聞いた苦しげな呟きが、今も司の中にこびりついて離れない。
(君は、一体、誰を想ってるの……)
それは、すみれについてまわるもう一つの謎だった。
一つは精霊との誓約内容について。
そしてもう一つは、これだ。
自惚れかもしれない。
だがすみれは、はっきりと司に心を傾けてくれていると思えた──そう、あの日までは。
だが、すみれは過去の司と出会ったあの日、確かに言った。
好きな人は、外国よりもまだ遠い……ひたすら遠い場所にいるのだと。
それは司にとっては十七年前の話でも、すみれにとってはつい先日のこと、だ。
その事実は例え、春から夏にかけてどれほど司がすみれと時間をつくり、丁寧に逢瀬を重ねて絆を深めていったところで、変えようのない『事実であり、確定した過去』だった。
司は、苦しい胸の内を告げた時のすみれの眼差しを、今も忘れられない。
本当に、じくじくと痛む胸の傷に手を突っ込んで掻きまわしながら告げたのだろうと解るほどに、すみれは苦しげだったのだ。
今にも泣きだしそうな目で、それでも、すみれは最後に笑ってみせた。
その人を、好きになってよかったのだ、と──。
それは、司とは関係のない、誰かの話なのだろうか。
それとも。
……司は瞳を伏せた。
今、すみれの心を遮二無二暴いてしまいたい。だが、今それを仕掛けてもおそらく、すみれは心を閉ざすだけのような気がしていた。
十七年前のあの夜、あれほどに苦悩に満ちたさびしく儚い笑みを浮かべたすみれの表情は──おそらくはすみれの決意の表れだ。
想いを秘めると決意したすみれの意思が、あの夜の微笑みには在ったと、司は感じていた。
あの運命の日以降のお互いの関係がどう変質していくかは、かつての司にも読めなかったことだ。
ここから先は、本当の意味で、予測のつかない未来の始まりだった。
「……ごちそうさまでした」
やがて小さな声が、ぽつりと二人の間に落ちる。
見上げれば、すみれがするりとソファーから立ちあがるところだった。この甘く優しい一時の後に、何が待っているのか──すみれは知っているのだ。
「……下げますね」
ティーカップに伸ばしかけたその白い手を、咄嗟に司は握り締めた。
小さく息を呑み、すみれが司を見つめた。
「少し、話をしたい」
すみれを見上げたまま、司は真顔で告げた。すみれの白い頬に再び赤みが差す。
「……あ、の。用事が、ありますので」
「用事……こんな夜に?」
立ちあがり、司は改めてすみれの右手首を強く掴み直した。
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