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九
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来なければいいと思っていた春が来た。
勝太は夜、一度は寝床に入ったものの、眠れずに文机に座る。
明かり取りを開くと、月光が差し込んできた。
今日は十五日――満月だ。
明るいのだが、どこかぼんやりして感じた。
文机の上には、はつと手習いを繰り返しているうちに汚した墨の跡がある。
墨を摺るのも初めてのはつは、口を一文字にして一心不乱に水を黒く染め上げていた。
最初のうちは無駄な力が入って疲れたのだろう、ときどき息をついて手を休めては、額の汗を拭っていた。そのとき、顔に指先の墨がついて勝太が笑ったものだ。
はつは勝太に汚れを笑われて、恥ずかしそうに唇をとがらせていた。
勝太は母から手ぬぐいをもらって、はつの顔を拭いてやった。
妹がいたらこんな感じかなと思った。
はつは手を墨で黒くしたまま、ありがとう、と笑った。
最初に教えた「永」の字から、はつ、という名前へ。
それが終われば、はつの父、母、弟、妹の名前へ。
最後にはつが教えてくれと言ったのは「勝太」の字だった。
その頃にはだいぶ、筆の扱いに慣れてきた手で、そう上手いともいえない勝太の字を懸命に真似ていた。
はつの家族の名前に、勝太の名前が並んだ。
はつは笑って、「この紙は持って帰る」と懐にしまい込んだ。
持って帰る。はつは確かにそう言った。
帰るのだ。はつは村に。勝太のいない場所に帰る。
不意に、息が詰まった。
反古紙の山の中に、はつの手習いを見つける。
そっと手を伸ばして、一枚を月明かりにかざした。
何枚も書いて、ようやく勝太が及第点をくれてやった、はつの「永」の字。
勝太はふん、と鼻を鳴らした。
「……下手くそ」
ぽつり、とつぶやいた言葉が、薄暗がりへと落ちていく。
勝太ははつの筆づかいを指でなぞった。
大切そうに紙をたたみ、懐にしまっていたはつの顔がまぶたの裏に浮かぶ。
その顔は、嬉しそうに笑っていた。
ふるさとに帰る喜びにほころんでいた。
息が詰まる。胸が苦しい。
こんな気持ちを、勝太は知らない。
俺なら、と小さな言葉が、口から漏れた。
「もっといろいろ、教えてやれるのに……」
はつに言いたいことが、山ほどあった。
けれどそれは、言ってはいけないことだった。言うべきことはもっと他にある。
元気でいろよ。そう言って送り出してやらなければいけないと、分かっていた。
その一言が、言えそうになかった。
目が厚ぼったくなった感覚に、勝太は顔を上げて外を見た。
空にはぽかんと、満月が浮いている。
雲はないのに、霞がかかっているようだ。
ああ、そうか。
春だから、おぼろ月なのだ。
ぼんやり眺めながら、勝太は思った。
おぼろ月だ。
だから、かすんでいるのも当然だ。
――当然だ。
目尻に染み出る生ぬるさに、勝太は気づかないふりをした。
別れの日は、もうそこまで迫っている。
勝太は夜、一度は寝床に入ったものの、眠れずに文机に座る。
明かり取りを開くと、月光が差し込んできた。
今日は十五日――満月だ。
明るいのだが、どこかぼんやりして感じた。
文机の上には、はつと手習いを繰り返しているうちに汚した墨の跡がある。
墨を摺るのも初めてのはつは、口を一文字にして一心不乱に水を黒く染め上げていた。
最初のうちは無駄な力が入って疲れたのだろう、ときどき息をついて手を休めては、額の汗を拭っていた。そのとき、顔に指先の墨がついて勝太が笑ったものだ。
はつは勝太に汚れを笑われて、恥ずかしそうに唇をとがらせていた。
勝太は母から手ぬぐいをもらって、はつの顔を拭いてやった。
妹がいたらこんな感じかなと思った。
はつは手を墨で黒くしたまま、ありがとう、と笑った。
最初に教えた「永」の字から、はつ、という名前へ。
それが終われば、はつの父、母、弟、妹の名前へ。
最後にはつが教えてくれと言ったのは「勝太」の字だった。
その頃にはだいぶ、筆の扱いに慣れてきた手で、そう上手いともいえない勝太の字を懸命に真似ていた。
はつの家族の名前に、勝太の名前が並んだ。
はつは笑って、「この紙は持って帰る」と懐にしまい込んだ。
持って帰る。はつは確かにそう言った。
帰るのだ。はつは村に。勝太のいない場所に帰る。
不意に、息が詰まった。
反古紙の山の中に、はつの手習いを見つける。
そっと手を伸ばして、一枚を月明かりにかざした。
何枚も書いて、ようやく勝太が及第点をくれてやった、はつの「永」の字。
勝太はふん、と鼻を鳴らした。
「……下手くそ」
ぽつり、とつぶやいた言葉が、薄暗がりへと落ちていく。
勝太ははつの筆づかいを指でなぞった。
大切そうに紙をたたみ、懐にしまっていたはつの顔がまぶたの裏に浮かぶ。
その顔は、嬉しそうに笑っていた。
ふるさとに帰る喜びにほころんでいた。
息が詰まる。胸が苦しい。
こんな気持ちを、勝太は知らない。
俺なら、と小さな言葉が、口から漏れた。
「もっといろいろ、教えてやれるのに……」
はつに言いたいことが、山ほどあった。
けれどそれは、言ってはいけないことだった。言うべきことはもっと他にある。
元気でいろよ。そう言って送り出してやらなければいけないと、分かっていた。
その一言が、言えそうになかった。
目が厚ぼったくなった感覚に、勝太は顔を上げて外を見た。
空にはぽかんと、満月が浮いている。
雲はないのに、霞がかかっているようだ。
ああ、そうか。
春だから、おぼろ月なのだ。
ぼんやり眺めながら、勝太は思った。
おぼろ月だ。
だから、かすんでいるのも当然だ。
――当然だ。
目尻に染み出る生ぬるさに、勝太は気づかないふりをした。
別れの日は、もうそこまで迫っている。
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