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9 少年時代の失恋

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     ◆少年時代の失恋

 挿入までは至らない、子供の遊戯。けれど稚拙というには濃密すぎる、彼との行為に私は溺れた。
 溺れて、のぼせて、頭はぼんやりとしてしまい。長い時間、ラダウィに翻弄されて。
 気づいたときには、ぺったりとベッドの上で座り込んでいた。
 深い官能をもたらされて、放心していたみたいです。

 ふと、我に返って。時計に目をやれば、深夜を過ぎている。
 体に視線を落とすと、互いの精液や体液で、ぬるりとしていて。
 歯形もそこかしこについている。
 そういえば、最後の方では。ラダウィが、噛んで体に跡を残すのにはまっていましたね。

 渇いた喉を、唾液をこくりと飲んで潤す。
 ラダウィと、抱き合ってしまった。
 それを思うと。胸がときめく。
 初恋の人と。こんなに深く触れ合うことができるなんて。夢のようだ。
 決して報われぬ想いが、一瞬だけでも叶ったのだと思えば。幸せな感覚が、頭から指先にまで染みわたる。
 あまり上手にはできませんでしたが、彼を怒らせることなく最後まで付き合えたことも、嬉しかった。
 失敗ばかりしてきたから。
 これは自分にとって、とても重要なことなのだ。

 だけど。これは罰。

 あくまで、弟の身代わりで受けたことなのだと。浮き立ちそうになる心に言い聞かせる。
 しかし。そうだったのだとすると。

 ラダウィが本当に抱きたかったのは、華月なのではないか?

 自分は、先ほど。友ではないと言い切られているから。彼に好かれる要素はない。
 きっとラダウィは、華月に想いを打ち明けられなくて。
 同じ顔の自分を、身代わりに…。

「レン? 喉が渇いただろう? いっぱい、鳴いたものなぁ?」
 考えている途中で、彼に名を呼ばれた。
 情けなく彼の手管にあえいだことを、からかわれ。私は羞恥に顔を赤くするが。
 王子はベッド脇の台に乗った水差しを手に取ると。グラスを煽り。私の頭を抱き寄せて、口移しで水を飲ませた。
 ぬるい液体が喉を通るが、乾いた体はその水を欲して。
 ラダウィの唇を喜んで受け入れ、貪る。
 王子は満足そうに目を細め、水を嚥下した私の口内を舌でかき混ぜる。
 優しく頭を撫でる手が、首筋を通って下へ降りていき。
 今日はじめて官能を呼び覚まされた乳首をくすぐる、淫らな指の動き。

「ラダウィ様、もう…」
 彼を拒みたくないし、逃げる気もないのだが。
 普通にしていても、足に細かい震えがずっと走っている。足を長く開いていたから、股関節が痛くて。痺れているのだ。
 それに。たぶん。
 もうなにも出ません。

「わかっている。充分に謝罪は受け取った。もう遅いから、ここで寝ていけ」
 ラダウィは寝台に寝そべり、私の腕を引いて横になるようにうながした。
 でも、その前に。
 彼に言わなければならないことがあります。

「あの。明日、父が。シマームに戻るそうです。中東での仕事を終え、数日のうちに出国し日本へ…」
「なに?」
 ラダウィは鋭い視線を向ける。
 やはり彼にも話は伝わっていなかったみたいだ。驚いた顔つきで、身を起こした。

「だから、もし。今のようなことを弟に望んでいるのなら。ハナちゃんと話をした方がいいのではないかと…」
 私の話を聞いて、彼は唇を引き結ぶ。
 不快だと、表情が示していた。

 また、余計なことを言ってしまったかもしれない。
 せっかく、彼を怒らせることなく、いられたのに。と、後悔しそうになるが。
 でも、もしかしたら。
 ラダウィは、華月に恋をしているという自覚がないかもしれないから。
 自分で、恋の終止符を打つみたいで、馬鹿みたいですけど。
 彼が間違った方向へ進んでいるのなら、言わないと、誠実ではないような気がしたのだ。

 彼に抱かれているとき。
 自分の肌を撫でるように、ラダウィが華月を撫でたら。嫌だと思った。
 でもそれは、ラダウィの気持ちを全く無視した、醜い独占欲だ。
 私の心の闇、己の浅ましさを。これ以上、彼に押しつけたくない。

「私を身代わりにして、気持ちを誤魔化してはいけません。時間はもう少ないのです。弟と向き合っていただけませんか? ラダウィ様」
 自分の気持ちを押し殺して、彼に微笑みかけると。
 ラダウィは、奥歯を噛んで。剣呑な光を宿す目で、私を突き刺した。
「出て行け。興がそがれた」

 結局、最後の最後で。私はやっぱり、王子を怒らせてしまった。
 どうしてもうまく立ち回れない自分に、私はひどくがっかりしたのだ。
 これ以上、ラダウィを怒らせたくない。
 彼の言う通り、私はベッドを降りて。下着とズボンを身につけた。
 けれど、シャツは切り裂かれていて、着られない。
 ラダウィの私室から私の部屋までは、それなりの距離があって。中東では肌を見せることを良いとされないから。半裸で屋敷の中を歩くのに、抵抗があった。

 困っていると。大きな布を頭からかぶせられた。
 ラダウィの、ゴトラだ。

「それ、やる」
 彼の厚意に甘え。私はゴトラを頭からかぶって、裸の上半身を隠し。部屋を出た。

 ラダウィの香りがする、その布。
 彼の香りに身を包みながら。私は失恋を意識した。

     ★★★★★

 父がシマームに戻ってきた日。
 屋敷では、父のご学友であった皇太子が主催となって、盛大な送別会が開かれた。
 でも、私はラダウィに声をかけてもらえず。
 彼の機嫌を損ねたくなくて、私からもなにも話せなかった。

 そして、いよいよ。私たち親子が日本へ帰るときが来た。

 私たち兄弟は十六歳になっていた。
 十二歳からシマームで暮らし。この中東の風を、故郷のように感じ始めていた矢先だったのに。
「世話になったな? ラダウィ王子、ムサファ先生」
 別れ際、空港まで見送りに来てくれたラダウィとムサファに。華月は握手を求めた。
 彼らもそれに応え、肩を抱いてハグをする。
 シマームでは親密な者と行う挨拶方式で、ふたりとも華月に多大な親愛の情を示していた。

「ラダウィ様、お元気で…先生も」
 思い切って、私もラダウィに声をかけたが。
 華月とは親しみのこもった挨拶をしたのに。私には小さくうなずくだけだった。

 結局、あの夜以来、私はラダウィに一度も声をかけてもらえないまま、シマームを去ったのだった。

 飛行機の中で、私の胸は悲しみに満ちあふれていたのだが。
 隣に座る弟が、こっそりと囁いてきた。
「実は俺、ラダウィと付き合うことになったんだ。長距離恋愛になるけど、あいつがどうしてもって言うから…」
 鼻の頭を指で掻きながら、照れくさそうに言う弟を。私はショックを顔に出さないよう気をつけて。みつめた。

 やっぱり。ラダウィは華月のことが好きだったのですね?
 そして、告白して。望みを叶えた。
 本当の意味で、このとき私は失恋したのだ。

 こうなるだろうと予想していたことが、現実になり。
 悲しいけれど。
 それが正しいこと、あるべき姿なのだということも、納得していた。
 あの日、ラダウィは。己の気持ちに気づかぬまま、罰という形で欲望を晴らしただけ。
 間違いを正し、好きなもの同士で結びついた今の形が、自然なのです。
「良かったね? ラダウィ様は素敵な方だから。きっと華月を大事にしてくれるよ」
「父さんには内緒、な?」
 傷ついた心を隠して。私は弟に微笑み返す。
 そうするしかなかった。

     ★★★★★

 それきり、私は。ラダウィと会うことはなかったのだが。
 一度だけ、日本でムサファに会った。
 高校一年の夏。学校帰りに。スーツ姿の彼が、校門の前で待っていたのだ。
 理知的な眼鏡イケメンがいるって、校内で、同級生たちが大騒ぎしたくらいに。彼の存在は目立っていた。

「蓮月様、お久しぶりです。実は王子の…」
「勝手に、兄と話をされては困るな」
 ムサファが私に言いかけたところで。華月があらわれ。
 話を聞く前に、華月がムサファを連れてどこかへ行ってしまったから、それ以上のことは聞けなかったのですが。
 その日の夜、ムサファはなんの用だったんだって、弟に聞いたら。

「あぁ、ムサファはね。えっと、俺とラダウィが喧嘩して。その仲裁に来たっていうか? レンちゃんにも、仲直りをすすめてもらう気だったらしい」
「そうなのか? 早く仲直りしなさい。どうせハナちゃんが我が儘言ったんでしょう?」
 華月は、天真爛漫で、人当たりが良く。だけどちょっと無鉄砲なところがある。そんな小悪魔チックなところが可愛いとか魅力的とか、よく言われています。
 でも、兄としては。そういう危なっかしいところが気が気じゃないというか。
 一国の王子様に、喧嘩の仲裁役として使者を派遣させるなんて。
 大事おおごとにするなって、思ってしまうのだ。

「仲直りしたよ。全く、ムサファやレンちゃんを巻き込むなっていうのっ。つうか、レンちゃん、俺が悪いって決めつけてるでしょ? レンちゃんはいつもラダウィの味方するぅ」
 ぎくりとして、慌てて笑顔を向ける。
 ラダウィへの恋心が漏れていたら。大変だ。

 喧嘩するほど仲が良い、というか。ムサファを仲裁に立てるくらい、ラダウィは本気で華月を好きなんだから。
 彼らの仲に、水を差せません。
「そんなことないよ。色恋はよくわからないから、アドバイスとかはできないけど。兄として、ふたりの仲を応援しているよ?」
 なんとか誤魔化すと。華月は私の腕に腕を絡ませて。体をくっつけてきた。

「いいの、レンちゃんに色恋なんて、まだ早いんだから。真面目で気の優しいレンちゃんには、特別可愛いくて、性格の良い、小さな女の子が似合うよ。でもレンちゃんに相応しい子って、なかなか見当たらないな。日本は奥ゆかしい国だと思っていたけど。案外ぐいぐい来る女の子が多いよな? レンちゃんはそんな子に引っかかっちゃダメだからねっ? 俺が見極めてやるから」

 そんなふうに華月は、理想をいっぱい並べ立てたけど。
 私は、色恋にはあまり興味はない。
 ラダウィに失恋したばかりだということもあるけれど。
 誰かと、親密になろうという気が、なんだか起きないのだ。
 すごく近くに誰かが寄ってくると、触られたくないって無意識に思ってしまって。
 こちらが余所余所しくすれば、向こうも近寄ろうという気にはならないようで。
 この国でも、私は人との距離感を測りかねている。
 だから、そんな私に恋人なんて、想像が全く及びません。

 それとは、別に。
 華月が言うような、可愛い女の子と付き合うのは無理だと思います。
 自分は。たくましくて、他者を振り回すくらいに芯のある男に魅かれる。
 ラダウィみたいな。

「ハナちゃん、ラダウィ様は王子様だし。厳しい戒律もあるんだから。無茶を言って困らせたらいけないよ?」
 彼が穏便に、弟と付き合っていけるように。華月に忠告するが。
 華月は、口をとがらせて。拗ねた。
「わかってるってば。レンちゃんはクソ真面目で、文句ばっかで、つまんないっ。レンちゃんはラダウィにばかり、甘いしぃ。俺の恋人なんだから、絶対取らないでよね?」
「当たり前だろう? 大事なハナちゃんの大切な恋人を、取ったりしない」
 胸に痛みが走るけど。私の言葉に、弟が満足そうに笑うから。
 それでいいのだ。

      ★★★★★

 その後、しばらく。日本で親子三人暮らしをしていましたが。
 欧米式にフレンドリーな性格をしている華月は、すぐには心を開かない日本人の性質に馴染めなかったようで。
 高校二年の夏にアメリカに留学してしまった。
 逆に、積極的でなければ主張が通らない外国に馴染めなかった私は、空気を読んでくれて、ずかずかプライベートに踏み込んでこない日本の風潮に、とけ込むことができた。
 最初こそ戸惑ったが。日本の人々の距離感がとても心安く。
 自分は生粋の日本人だったのだなと、しみじみ実感したほどだ。

 私は、高校、大学と、日本の学校に進み。
 華月は、アメリカのハイスクールに留学したあと、そのまま大学に進み。日本には戻ってこなかった。
 いろいろ理由はあるだろうけど。弟は外国の方が性に合っているのだ。
 連絡をする中で、アメリカで楽しく暮らしているのがわかるから。彼が生きやすい場所でのびやかに生活できているのなら、それが一番いいのだと思います。

 でも、もしかしたら。
 華月は、ラダウィとの愛を深めるために、日本を出たのではないかな?
「ハナちゃん、ラダウィ様と仲良くしている?」
 定期的な電話連絡のときに、彼にたずねると。
「あぁ、もちろん。もう、兄貴にこんな話するのは照れ臭いからっ。俺の恋バナは禁止っ」
 なんて、ラダウィのことを聞いただけなのに、照れちゃって。そんなふうに言う。
 電話の向こうで、華月が顔を赤くしているのが、想像できるのです。
 成人したあとも、彼らは素晴らしい恋人同士でいるのだ。
 それがわかって、兄は安心しました。

 だけど。淡々と過ぎていく日々の中で。私は時折、ラダウィのことを思い出した。
 猛々しく、威厳に満ちた、砂漠の王子様。
 私の初恋を。
 なにをやってもうまくできず。性格も暗くて。いつもオドオドしていた自分が。
 一度だけ、彼と肌を合わせた。
 そのことが信じられない。
 今は弟の恋人だから、そんなことを思い出してはいけないのかもしれないけれど。
 シマームでの出来事は、夢のようにきらめいていて。私の胸に、深く残っている。

 少年時代の失恋を。私は大人になってからも引きずっていた。
 引き出しの奥に大事にしまってある、白い布を。時折取り出して、眺める。
 彼とともに時を過ごした、唯一の証。
 これだけは。父にも弟にも見せず。私だけの秘密にしていた。
 ラダウィからもらった聖布。
 彼の香りは、もう失われたけれど。その布を抱き締めると。あの日に帰れる。そんな気がするのだ。 

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