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9 少年時代の失恋
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◆少年時代の失恋
挿入までは至らない、子供の遊戯。けれど稚拙というには濃密すぎる、彼との行為に私は溺れた。
溺れて、のぼせて、頭はぼんやりとしてしまい。長い時間、ラダウィに翻弄されて。
気づいたときには、ぺったりとベッドの上で座り込んでいた。
深い官能をもたらされて、放心していたみたいです。
ふと、我に返って。時計に目をやれば、深夜を過ぎている。
体に視線を落とすと、互いの精液や体液で、ぬるりとしていて。
歯形もそこかしこについている。
そういえば、最後の方では。ラダウィが、噛んで体に跡を残すのにはまっていましたね。
渇いた喉を、唾液をこくりと飲んで潤す。
ラダウィと、抱き合ってしまった。
それを思うと。胸がときめく。
初恋の人と。こんなに深く触れ合うことができるなんて。夢のようだ。
決して報われぬ想いが、一瞬だけでも叶ったのだと思えば。幸せな感覚が、頭から指先にまで染みわたる。
あまり上手にはできませんでしたが、彼を怒らせることなく最後まで付き合えたことも、嬉しかった。
失敗ばかりしてきたから。
これは自分にとって、とても重要なことなのだ。
だけど。これは罰。
あくまで、弟の身代わりで受けたことなのだと。浮き立ちそうになる心に言い聞かせる。
しかし。そうだったのだとすると。
ラダウィが本当に抱きたかったのは、華月なのではないか?
自分は、先ほど。友ではないと言い切られているから。彼に好かれる要素はない。
きっとラダウィは、華月に想いを打ち明けられなくて。
同じ顔の自分を、身代わりに…。
「レン? 喉が渇いただろう? いっぱい、鳴いたものなぁ?」
考えている途中で、彼に名を呼ばれた。
情けなく彼の手管にあえいだことを、からかわれ。私は羞恥に顔を赤くするが。
王子はベッド脇の台に乗った水差しを手に取ると。グラスを煽り。私の頭を抱き寄せて、口移しで水を飲ませた。
ぬるい液体が喉を通るが、乾いた体はその水を欲して。
ラダウィの唇を喜んで受け入れ、貪る。
王子は満足そうに目を細め、水を嚥下した私の口内を舌でかき混ぜる。
優しく頭を撫でる手が、首筋を通って下へ降りていき。
今日はじめて官能を呼び覚まされた乳首をくすぐる、淫らな指の動き。
「ラダウィ様、もう…」
彼を拒みたくないし、逃げる気もないのだが。
普通にしていても、足に細かい震えがずっと走っている。足を長く開いていたから、股関節が痛くて。痺れているのだ。
それに。たぶん。
もうなにも出ません。
「わかっている。充分に謝罪は受け取った。もう遅いから、ここで寝ていけ」
ラダウィは寝台に寝そべり、私の腕を引いて横になるようにうながした。
でも、その前に。
彼に言わなければならないことがあります。
「あの。明日、父が。シマームに戻るそうです。中東での仕事を終え、数日のうちに出国し日本へ…」
「なに?」
ラダウィは鋭い視線を向ける。
やはり彼にも話は伝わっていなかったみたいだ。驚いた顔つきで、身を起こした。
「だから、もし。今のようなことを弟に望んでいるのなら。ハナちゃんと話をした方がいいのではないかと…」
私の話を聞いて、彼は唇を引き結ぶ。
不快だと、表情が示していた。
また、余計なことを言ってしまったかもしれない。
せっかく、彼を怒らせることなく、いられたのに。と、後悔しそうになるが。
でも、もしかしたら。
ラダウィは、華月に恋をしているという自覚がないかもしれないから。
自分で、恋の終止符を打つみたいで、馬鹿みたいですけど。
彼が間違った方向へ進んでいるのなら、言わないと、誠実ではないような気がしたのだ。
彼に抱かれているとき。
自分の肌を撫でるように、ラダウィが華月を撫でたら。嫌だと思った。
でもそれは、ラダウィの気持ちを全く無視した、醜い独占欲だ。
私の心の闇、己の浅ましさを。これ以上、彼に押しつけたくない。
「私を身代わりにして、気持ちを誤魔化してはいけません。時間はもう少ないのです。弟と向き合っていただけませんか? ラダウィ様」
自分の気持ちを押し殺して、彼に微笑みかけると。
ラダウィは、奥歯を噛んで。剣呑な光を宿す目で、私を突き刺した。
「出て行け。興がそがれた」
結局、最後の最後で。私はやっぱり、王子を怒らせてしまった。
どうしてもうまく立ち回れない自分に、私はひどくがっかりしたのだ。
これ以上、ラダウィを怒らせたくない。
彼の言う通り、私はベッドを降りて。下着とズボンを身につけた。
けれど、シャツは切り裂かれていて、着られない。
ラダウィの私室から私の部屋までは、それなりの距離があって。中東では肌を見せることを良いとされないから。半裸で屋敷の中を歩くのに、抵抗があった。
困っていると。大きな布を頭からかぶせられた。
ラダウィの、ゴトラだ。
「それ、やる」
彼の厚意に甘え。私はゴトラを頭からかぶって、裸の上半身を隠し。部屋を出た。
ラダウィの香りがする、その布。
彼の香りに身を包みながら。私は失恋を意識した。
★★★★★
父がシマームに戻ってきた日。
屋敷では、父のご学友であった皇太子が主催となって、盛大な送別会が開かれた。
でも、私はラダウィに声をかけてもらえず。
彼の機嫌を損ねたくなくて、私からもなにも話せなかった。
そして、いよいよ。私たち親子が日本へ帰るときが来た。
私たち兄弟は十六歳になっていた。
十二歳からシマームで暮らし。この中東の風を、故郷のように感じ始めていた矢先だったのに。
「世話になったな? ラダウィ王子、ムサファ先生」
別れ際、空港まで見送りに来てくれたラダウィとムサファに。華月は握手を求めた。
彼らもそれに応え、肩を抱いてハグをする。
シマームでは親密な者と行う挨拶方式で、ふたりとも華月に多大な親愛の情を示していた。
「ラダウィ様、お元気で…先生も」
思い切って、私もラダウィに声をかけたが。
華月とは親しみのこもった挨拶をしたのに。私には小さくうなずくだけだった。
結局、あの夜以来、私はラダウィに一度も声をかけてもらえないまま、シマームを去ったのだった。
飛行機の中で、私の胸は悲しみに満ちあふれていたのだが。
隣に座る弟が、こっそりと囁いてきた。
「実は俺、ラダウィと付き合うことになったんだ。長距離恋愛になるけど、あいつがどうしてもって言うから…」
鼻の頭を指で掻きながら、照れくさそうに言う弟を。私はショックを顔に出さないよう気をつけて。みつめた。
やっぱり。ラダウィは華月のことが好きだったのですね?
そして、告白して。望みを叶えた。
本当の意味で、このとき私は失恋したのだ。
こうなるだろうと予想していたことが、現実になり。
悲しいけれど。
それが正しいこと、あるべき姿なのだということも、納得していた。
あの日、ラダウィは。己の気持ちに気づかぬまま、罰という形で欲望を晴らしただけ。
間違いを正し、好きなもの同士で結びついた今の形が、自然なのです。
「良かったね? ラダウィ様は素敵な方だから。きっと華月を大事にしてくれるよ」
「父さんには内緒、な?」
傷ついた心を隠して。私は弟に微笑み返す。
そうするしかなかった。
★★★★★
それきり、私は。ラダウィと会うことはなかったのだが。
一度だけ、日本でムサファに会った。
高校一年の夏。学校帰りに。スーツ姿の彼が、校門の前で待っていたのだ。
理知的な眼鏡イケメンがいるって、校内で、同級生たちが大騒ぎしたくらいに。彼の存在は目立っていた。
「蓮月様、お久しぶりです。実は王子の…」
「勝手に、兄と話をされては困るな」
ムサファが私に言いかけたところで。華月があらわれ。
話を聞く前に、華月がムサファを連れてどこかへ行ってしまったから、それ以上のことは聞けなかったのですが。
その日の夜、ムサファはなんの用だったんだって、弟に聞いたら。
「あぁ、ムサファはね。えっと、俺とラダウィが喧嘩して。その仲裁に来たっていうか? レンちゃんにも、仲直りをすすめてもらう気だったらしい」
「そうなのか? 早く仲直りしなさい。どうせハナちゃんが我が儘言ったんでしょう?」
華月は、天真爛漫で、人当たりが良く。だけどちょっと無鉄砲なところがある。そんな小悪魔チックなところが可愛いとか魅力的とか、よく言われています。
でも、兄としては。そういう危なっかしいところが気が気じゃないというか。
一国の王子様に、喧嘩の仲裁役として使者を派遣させるなんて。
大事にするなって、思ってしまうのだ。
「仲直りしたよ。全く、ムサファやレンちゃんを巻き込むなっていうのっ。つうか、レンちゃん、俺が悪いって決めつけてるでしょ? レンちゃんはいつもラダウィの味方するぅ」
ぎくりとして、慌てて笑顔を向ける。
ラダウィへの恋心が漏れていたら。大変だ。
喧嘩するほど仲が良い、というか。ムサファを仲裁に立てるくらい、ラダウィは本気で華月を好きなんだから。
彼らの仲に、水を差せません。
「そんなことないよ。色恋はよくわからないから、アドバイスとかはできないけど。兄として、ふたりの仲を応援しているよ?」
なんとか誤魔化すと。華月は私の腕に腕を絡ませて。体をくっつけてきた。
「いいの、レンちゃんに色恋なんて、まだ早いんだから。真面目で気の優しいレンちゃんには、特別可愛いくて、性格の良い、小さな女の子が似合うよ。でもレンちゃんに相応しい子って、なかなか見当たらないな。日本は奥ゆかしい国だと思っていたけど。案外ぐいぐい来る女の子が多いよな? レンちゃんはそんな子に引っかかっちゃダメだからねっ? 俺が見極めてやるから」
そんなふうに華月は、理想をいっぱい並べ立てたけど。
私は、色恋にはあまり興味はない。
ラダウィに失恋したばかりだということもあるけれど。
誰かと、親密になろうという気が、なんだか起きないのだ。
すごく近くに誰かが寄ってくると、触られたくないって無意識に思ってしまって。
こちらが余所余所しくすれば、向こうも近寄ろうという気にはならないようで。
この国でも、私は人との距離感を測りかねている。
だから、そんな私に恋人なんて、想像が全く及びません。
それとは、別に。
華月が言うような、可愛い女の子と付き合うのは無理だと思います。
自分は。たくましくて、他者を振り回すくらいに芯のある男に魅かれる。
ラダウィみたいな。
「ハナちゃん、ラダウィ様は王子様だし。厳しい戒律もあるんだから。無茶を言って困らせたらいけないよ?」
彼が穏便に、弟と付き合っていけるように。華月に忠告するが。
華月は、口をとがらせて。拗ねた。
「わかってるってば。レンちゃんはクソ真面目で、文句ばっかで、つまんないっ。レンちゃんはラダウィにばかり、甘いしぃ。俺の恋人なんだから、絶対取らないでよね?」
「当たり前だろう? 大事なハナちゃんの大切な恋人を、取ったりしない」
胸に痛みが走るけど。私の言葉に、弟が満足そうに笑うから。
それでいいのだ。
★★★★★
その後、しばらく。日本で親子三人暮らしをしていましたが。
欧米式にフレンドリーな性格をしている華月は、すぐには心を開かない日本人の性質に馴染めなかったようで。
高校二年の夏にアメリカに留学してしまった。
逆に、積極的でなければ主張が通らない外国に馴染めなかった私は、空気を読んでくれて、ずかずかプライベートに踏み込んでこない日本の風潮に、とけ込むことができた。
最初こそ戸惑ったが。日本の人々の距離感がとても心安く。
自分は生粋の日本人だったのだなと、しみじみ実感したほどだ。
私は、高校、大学と、日本の学校に進み。
華月は、アメリカのハイスクールに留学したあと、そのまま大学に進み。日本には戻ってこなかった。
いろいろ理由はあるだろうけど。弟は外国の方が性に合っているのだ。
連絡をする中で、アメリカで楽しく暮らしているのがわかるから。彼が生きやすい場所でのびやかに生活できているのなら、それが一番いいのだと思います。
でも、もしかしたら。
華月は、ラダウィとの愛を深めるために、日本を出たのではないかな?
「ハナちゃん、ラダウィ様と仲良くしている?」
定期的な電話連絡のときに、彼にたずねると。
「あぁ、もちろん。もう、兄貴にこんな話するのは照れ臭いからっ。俺の恋バナは禁止っ」
なんて、ラダウィのことを聞いただけなのに、照れちゃって。そんなふうに言う。
電話の向こうで、華月が顔を赤くしているのが、想像できるのです。
成人したあとも、彼らは素晴らしい恋人同士でいるのだ。
それがわかって、兄は安心しました。
だけど。淡々と過ぎていく日々の中で。私は時折、ラダウィのことを思い出した。
猛々しく、威厳に満ちた、砂漠の王子様。
私の初恋を。
なにをやってもうまくできず。性格も暗くて。いつもオドオドしていた自分が。
一度だけ、彼と肌を合わせた。
そのことが信じられない。
今は弟の恋人だから、そんなことを思い出してはいけないのかもしれないけれど。
シマームでの出来事は、夢のようにきらめいていて。私の胸に、深く残っている。
少年時代の失恋を。私は大人になってからも引きずっていた。
引き出しの奥に大事にしまってある、白い布を。時折取り出して、眺める。
彼とともに時を過ごした、唯一の証。
これだけは。父にも弟にも見せず。私だけの秘密にしていた。
ラダウィからもらった聖布。
彼の香りは、もう失われたけれど。その布を抱き締めると。あの日に帰れる。そんな気がするのだ。
挿入までは至らない、子供の遊戯。けれど稚拙というには濃密すぎる、彼との行為に私は溺れた。
溺れて、のぼせて、頭はぼんやりとしてしまい。長い時間、ラダウィに翻弄されて。
気づいたときには、ぺったりとベッドの上で座り込んでいた。
深い官能をもたらされて、放心していたみたいです。
ふと、我に返って。時計に目をやれば、深夜を過ぎている。
体に視線を落とすと、互いの精液や体液で、ぬるりとしていて。
歯形もそこかしこについている。
そういえば、最後の方では。ラダウィが、噛んで体に跡を残すのにはまっていましたね。
渇いた喉を、唾液をこくりと飲んで潤す。
ラダウィと、抱き合ってしまった。
それを思うと。胸がときめく。
初恋の人と。こんなに深く触れ合うことができるなんて。夢のようだ。
決して報われぬ想いが、一瞬だけでも叶ったのだと思えば。幸せな感覚が、頭から指先にまで染みわたる。
あまり上手にはできませんでしたが、彼を怒らせることなく最後まで付き合えたことも、嬉しかった。
失敗ばかりしてきたから。
これは自分にとって、とても重要なことなのだ。
だけど。これは罰。
あくまで、弟の身代わりで受けたことなのだと。浮き立ちそうになる心に言い聞かせる。
しかし。そうだったのだとすると。
ラダウィが本当に抱きたかったのは、華月なのではないか?
自分は、先ほど。友ではないと言い切られているから。彼に好かれる要素はない。
きっとラダウィは、華月に想いを打ち明けられなくて。
同じ顔の自分を、身代わりに…。
「レン? 喉が渇いただろう? いっぱい、鳴いたものなぁ?」
考えている途中で、彼に名を呼ばれた。
情けなく彼の手管にあえいだことを、からかわれ。私は羞恥に顔を赤くするが。
王子はベッド脇の台に乗った水差しを手に取ると。グラスを煽り。私の頭を抱き寄せて、口移しで水を飲ませた。
ぬるい液体が喉を通るが、乾いた体はその水を欲して。
ラダウィの唇を喜んで受け入れ、貪る。
王子は満足そうに目を細め、水を嚥下した私の口内を舌でかき混ぜる。
優しく頭を撫でる手が、首筋を通って下へ降りていき。
今日はじめて官能を呼び覚まされた乳首をくすぐる、淫らな指の動き。
「ラダウィ様、もう…」
彼を拒みたくないし、逃げる気もないのだが。
普通にしていても、足に細かい震えがずっと走っている。足を長く開いていたから、股関節が痛くて。痺れているのだ。
それに。たぶん。
もうなにも出ません。
「わかっている。充分に謝罪は受け取った。もう遅いから、ここで寝ていけ」
ラダウィは寝台に寝そべり、私の腕を引いて横になるようにうながした。
でも、その前に。
彼に言わなければならないことがあります。
「あの。明日、父が。シマームに戻るそうです。中東での仕事を終え、数日のうちに出国し日本へ…」
「なに?」
ラダウィは鋭い視線を向ける。
やはり彼にも話は伝わっていなかったみたいだ。驚いた顔つきで、身を起こした。
「だから、もし。今のようなことを弟に望んでいるのなら。ハナちゃんと話をした方がいいのではないかと…」
私の話を聞いて、彼は唇を引き結ぶ。
不快だと、表情が示していた。
また、余計なことを言ってしまったかもしれない。
せっかく、彼を怒らせることなく、いられたのに。と、後悔しそうになるが。
でも、もしかしたら。
ラダウィは、華月に恋をしているという自覚がないかもしれないから。
自分で、恋の終止符を打つみたいで、馬鹿みたいですけど。
彼が間違った方向へ進んでいるのなら、言わないと、誠実ではないような気がしたのだ。
彼に抱かれているとき。
自分の肌を撫でるように、ラダウィが華月を撫でたら。嫌だと思った。
でもそれは、ラダウィの気持ちを全く無視した、醜い独占欲だ。
私の心の闇、己の浅ましさを。これ以上、彼に押しつけたくない。
「私を身代わりにして、気持ちを誤魔化してはいけません。時間はもう少ないのです。弟と向き合っていただけませんか? ラダウィ様」
自分の気持ちを押し殺して、彼に微笑みかけると。
ラダウィは、奥歯を噛んで。剣呑な光を宿す目で、私を突き刺した。
「出て行け。興がそがれた」
結局、最後の最後で。私はやっぱり、王子を怒らせてしまった。
どうしてもうまく立ち回れない自分に、私はひどくがっかりしたのだ。
これ以上、ラダウィを怒らせたくない。
彼の言う通り、私はベッドを降りて。下着とズボンを身につけた。
けれど、シャツは切り裂かれていて、着られない。
ラダウィの私室から私の部屋までは、それなりの距離があって。中東では肌を見せることを良いとされないから。半裸で屋敷の中を歩くのに、抵抗があった。
困っていると。大きな布を頭からかぶせられた。
ラダウィの、ゴトラだ。
「それ、やる」
彼の厚意に甘え。私はゴトラを頭からかぶって、裸の上半身を隠し。部屋を出た。
ラダウィの香りがする、その布。
彼の香りに身を包みながら。私は失恋を意識した。
★★★★★
父がシマームに戻ってきた日。
屋敷では、父のご学友であった皇太子が主催となって、盛大な送別会が開かれた。
でも、私はラダウィに声をかけてもらえず。
彼の機嫌を損ねたくなくて、私からもなにも話せなかった。
そして、いよいよ。私たち親子が日本へ帰るときが来た。
私たち兄弟は十六歳になっていた。
十二歳からシマームで暮らし。この中東の風を、故郷のように感じ始めていた矢先だったのに。
「世話になったな? ラダウィ王子、ムサファ先生」
別れ際、空港まで見送りに来てくれたラダウィとムサファに。華月は握手を求めた。
彼らもそれに応え、肩を抱いてハグをする。
シマームでは親密な者と行う挨拶方式で、ふたりとも華月に多大な親愛の情を示していた。
「ラダウィ様、お元気で…先生も」
思い切って、私もラダウィに声をかけたが。
華月とは親しみのこもった挨拶をしたのに。私には小さくうなずくだけだった。
結局、あの夜以来、私はラダウィに一度も声をかけてもらえないまま、シマームを去ったのだった。
飛行機の中で、私の胸は悲しみに満ちあふれていたのだが。
隣に座る弟が、こっそりと囁いてきた。
「実は俺、ラダウィと付き合うことになったんだ。長距離恋愛になるけど、あいつがどうしてもって言うから…」
鼻の頭を指で掻きながら、照れくさそうに言う弟を。私はショックを顔に出さないよう気をつけて。みつめた。
やっぱり。ラダウィは華月のことが好きだったのですね?
そして、告白して。望みを叶えた。
本当の意味で、このとき私は失恋したのだ。
こうなるだろうと予想していたことが、現実になり。
悲しいけれど。
それが正しいこと、あるべき姿なのだということも、納得していた。
あの日、ラダウィは。己の気持ちに気づかぬまま、罰という形で欲望を晴らしただけ。
間違いを正し、好きなもの同士で結びついた今の形が、自然なのです。
「良かったね? ラダウィ様は素敵な方だから。きっと華月を大事にしてくれるよ」
「父さんには内緒、な?」
傷ついた心を隠して。私は弟に微笑み返す。
そうするしかなかった。
★★★★★
それきり、私は。ラダウィと会うことはなかったのだが。
一度だけ、日本でムサファに会った。
高校一年の夏。学校帰りに。スーツ姿の彼が、校門の前で待っていたのだ。
理知的な眼鏡イケメンがいるって、校内で、同級生たちが大騒ぎしたくらいに。彼の存在は目立っていた。
「蓮月様、お久しぶりです。実は王子の…」
「勝手に、兄と話をされては困るな」
ムサファが私に言いかけたところで。華月があらわれ。
話を聞く前に、華月がムサファを連れてどこかへ行ってしまったから、それ以上のことは聞けなかったのですが。
その日の夜、ムサファはなんの用だったんだって、弟に聞いたら。
「あぁ、ムサファはね。えっと、俺とラダウィが喧嘩して。その仲裁に来たっていうか? レンちゃんにも、仲直りをすすめてもらう気だったらしい」
「そうなのか? 早く仲直りしなさい。どうせハナちゃんが我が儘言ったんでしょう?」
華月は、天真爛漫で、人当たりが良く。だけどちょっと無鉄砲なところがある。そんな小悪魔チックなところが可愛いとか魅力的とか、よく言われています。
でも、兄としては。そういう危なっかしいところが気が気じゃないというか。
一国の王子様に、喧嘩の仲裁役として使者を派遣させるなんて。
大事にするなって、思ってしまうのだ。
「仲直りしたよ。全く、ムサファやレンちゃんを巻き込むなっていうのっ。つうか、レンちゃん、俺が悪いって決めつけてるでしょ? レンちゃんはいつもラダウィの味方するぅ」
ぎくりとして、慌てて笑顔を向ける。
ラダウィへの恋心が漏れていたら。大変だ。
喧嘩するほど仲が良い、というか。ムサファを仲裁に立てるくらい、ラダウィは本気で華月を好きなんだから。
彼らの仲に、水を差せません。
「そんなことないよ。色恋はよくわからないから、アドバイスとかはできないけど。兄として、ふたりの仲を応援しているよ?」
なんとか誤魔化すと。華月は私の腕に腕を絡ませて。体をくっつけてきた。
「いいの、レンちゃんに色恋なんて、まだ早いんだから。真面目で気の優しいレンちゃんには、特別可愛いくて、性格の良い、小さな女の子が似合うよ。でもレンちゃんに相応しい子って、なかなか見当たらないな。日本は奥ゆかしい国だと思っていたけど。案外ぐいぐい来る女の子が多いよな? レンちゃんはそんな子に引っかかっちゃダメだからねっ? 俺が見極めてやるから」
そんなふうに華月は、理想をいっぱい並べ立てたけど。
私は、色恋にはあまり興味はない。
ラダウィに失恋したばかりだということもあるけれど。
誰かと、親密になろうという気が、なんだか起きないのだ。
すごく近くに誰かが寄ってくると、触られたくないって無意識に思ってしまって。
こちらが余所余所しくすれば、向こうも近寄ろうという気にはならないようで。
この国でも、私は人との距離感を測りかねている。
だから、そんな私に恋人なんて、想像が全く及びません。
それとは、別に。
華月が言うような、可愛い女の子と付き合うのは無理だと思います。
自分は。たくましくて、他者を振り回すくらいに芯のある男に魅かれる。
ラダウィみたいな。
「ハナちゃん、ラダウィ様は王子様だし。厳しい戒律もあるんだから。無茶を言って困らせたらいけないよ?」
彼が穏便に、弟と付き合っていけるように。華月に忠告するが。
華月は、口をとがらせて。拗ねた。
「わかってるってば。レンちゃんはクソ真面目で、文句ばっかで、つまんないっ。レンちゃんはラダウィにばかり、甘いしぃ。俺の恋人なんだから、絶対取らないでよね?」
「当たり前だろう? 大事なハナちゃんの大切な恋人を、取ったりしない」
胸に痛みが走るけど。私の言葉に、弟が満足そうに笑うから。
それでいいのだ。
★★★★★
その後、しばらく。日本で親子三人暮らしをしていましたが。
欧米式にフレンドリーな性格をしている華月は、すぐには心を開かない日本人の性質に馴染めなかったようで。
高校二年の夏にアメリカに留学してしまった。
逆に、積極的でなければ主張が通らない外国に馴染めなかった私は、空気を読んでくれて、ずかずかプライベートに踏み込んでこない日本の風潮に、とけ込むことができた。
最初こそ戸惑ったが。日本の人々の距離感がとても心安く。
自分は生粋の日本人だったのだなと、しみじみ実感したほどだ。
私は、高校、大学と、日本の学校に進み。
華月は、アメリカのハイスクールに留学したあと、そのまま大学に進み。日本には戻ってこなかった。
いろいろ理由はあるだろうけど。弟は外国の方が性に合っているのだ。
連絡をする中で、アメリカで楽しく暮らしているのがわかるから。彼が生きやすい場所でのびやかに生活できているのなら、それが一番いいのだと思います。
でも、もしかしたら。
華月は、ラダウィとの愛を深めるために、日本を出たのではないかな?
「ハナちゃん、ラダウィ様と仲良くしている?」
定期的な電話連絡のときに、彼にたずねると。
「あぁ、もちろん。もう、兄貴にこんな話するのは照れ臭いからっ。俺の恋バナは禁止っ」
なんて、ラダウィのことを聞いただけなのに、照れちゃって。そんなふうに言う。
電話の向こうで、華月が顔を赤くしているのが、想像できるのです。
成人したあとも、彼らは素晴らしい恋人同士でいるのだ。
それがわかって、兄は安心しました。
だけど。淡々と過ぎていく日々の中で。私は時折、ラダウィのことを思い出した。
猛々しく、威厳に満ちた、砂漠の王子様。
私の初恋を。
なにをやってもうまくできず。性格も暗くて。いつもオドオドしていた自分が。
一度だけ、彼と肌を合わせた。
そのことが信じられない。
今は弟の恋人だから、そんなことを思い出してはいけないのかもしれないけれど。
シマームでの出来事は、夢のようにきらめいていて。私の胸に、深く残っている。
少年時代の失恋を。私は大人になってからも引きずっていた。
引き出しの奥に大事にしまってある、白い布を。時折取り出して、眺める。
彼とともに時を過ごした、唯一の証。
これだけは。父にも弟にも見せず。私だけの秘密にしていた。
ラダウィからもらった聖布。
彼の香りは、もう失われたけれど。その布を抱き締めると。あの日に帰れる。そんな気がするのだ。
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