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11 おまえに拒否権はない
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◆おまえに拒否権はない
給仕の者の案内で、シマームの方々が滞在するフロアへ進む。
廊下のところどころに護衛官が立っていた。日本なので、表立って銃などは携帯していないように見えるけれど。なにかしらの武器は所持しているのだろうな、と察せられる空気感です。
シマームにいたときは、王族の屋敷に御厄介になっていたので。
警護の重要性は理解できますし、彼らが放つ威圧感にも慣れています。
取次が済んで、部屋の中へ入るが。そこは無人だ。
別室で、隠しカメラによってセキュリティーチェックがなされているのです。
上流階級の家ほど、人に会うのに時間がかかるものなのだ。そのことも知っていた。
「天野さま、どうぞこちらへ」
ある部屋の扉が開けられ。
室内には、上衣とゴトラを身につけた煌びやかな側近が、左右三名ずつ並んでいた。
そして中央の椅子には、中ほどまで垂れた幕で顔は見えないが。
シマーム国王のラダウィが座っている。
会議に出ていたときとは、別の緊張感が迫る。
国王という高貴な存在と、ひとりで対面していること。
蓮月だと悟らせないこと。
会社に迷惑をかけられないから、粗相は厳禁なこと、などなど。
すべてをのみ込み。最大限の礼を尽くす。
私は両膝を床につき、両手は胸の前に当てて、頭を下げた。
「人払いだ」
王の声を受け、側近が退室する気配がした。
「顔を上げろ」
彼の言葉に従い、私は顔だけを上げた。
その場に、ひとりだけ側近が残っている。
ムサファだった。
ムサファと私は、九歳の年の差があるので、現在は三十六歳になるのでしょうか?
しかし依然、若々しく見えた。
子供のとき、私はムサファを先生として、年の離れた兄として、憧れや尊敬の気持ちで見ていたから。とても大きくて、大人のイメージだったのですが。
その頃と、外見はあまり変わっていないように感じます。
薄茶色の前髪が、ゴトラから見えていて。フチなしのメガネが知性的。
柔らかい眼差しは、変わらず。穏やかな光で私を見ていた。
ムサファがラダウィのそばにいるのを見て、当時の記憶がよみがえり。
懐かしさが胸に込み上げます。
周囲の環境が変わっても、ラダウィが王になっても。長年変わることなく、ムサファは彼に仕えていたのですね?
それが、うらやましくもあり。
変化のないことが、嬉しいとも感じた。
人知れず感慨に浸っていると、ラダウィが悠然と椅子から立ち上がった。
幕を手でよけ、金の瞳の青年が姿を現す。
足を進めて、跪く私の前に立った。
会議中は、緊張していたし。仕事に集中するため、彼の存在を考えないようにしていた。
しかし、こうして目を合わせてしまえば。瞬時に心が縛りつけられてしまう。
今、目の前にいる彼は。上に立つ者独特の尊大さをにじませていた。
「他人の目があったゆえ、先ほどは差し控えたが。我の身内たる挨拶を許す」
睥睨するラダウィに言われ、私はハッと瞬きをする。
見惚れて、外せなくなっていた視線をもぎ離し。
作法に則り、王のゴトラを手で捧げ持ち。その布にくちづけた。
あぁ、彼の香りがする。
私が持っている聖布からは失われてしまった、懐かしく、胸を締めつける香りだ。
この所作は、昔、彼に許された特別な挨拶です。
王族が身につけるゴトラは、モスクでひと月以上祈りを捧げられた聖布で。その聖布に触れられるのは、身内や、彼が親愛を持つ者、許可を与えた者だけなのだ。
親族ではない私が、この挨拶を許されているのは、特別なことで。
ラダウィが、私たち天野家の親子に心を傾けた証なのだろう。
無論、ラダウィは。この場にいるのが華月だと思っているのだから。
恋人に、心を許しているということです。
私も彼の許しを得ているが。
それは、彼の意のままになる従僕だからで。
恋人の華月が許されている意味合いと違うことは、弁えています。
「立って、私によく顔を見せろ」
従順に、私は彼の言葉の通りに立ち上がる。
視線が、ラダウィの胸元辺りになった。
先ほども思いましたが、十年前より上背もさらに高くなったのですね? 目を合わせるには、見上げなければなりません。
そろ、と。目線を彼の顔に向けると。
そばでじっくりと、ラダウィが私を見ていて。
も、もしかして。バレてしまいましたか?
恐れの気持ちが胸に湧いたけれど。
ラダウィが、ニヤリと片頬をゆがめる笑みを浮かべた。
「長く、このときを待っていた」
私の頬を大きな手で包んだラダウィは、唇にくちづけた。
いきなりのことに、私はドキンと心臓が高鳴って。体がこわばって動けなくなる。
ついばむように、唇に唇で吸いついて。深く重ねられ。歯列を割ってくる肉厚の舌に、舌を撫でられ。情熱的に絡め合わせる。
キスの仕方は、すべて彼に教わった。
そして、彼以外のくちづけは、知らない。
今でも、あの苦い初恋が忘れられなくて。
彼以外に、触れられたくなかった。
なぜなのかな?
傲慢で意地悪な王子だった。
頬をつねったり、髪を引っ張ったり、鷹で追い回されたり。イジメられた記憶しかないのに。
だけど。たとえ、彼に嫌われていても。イジメられても。
彼のことを嫌いになれなくて。
好きだと、思ってしまって。
こうして、キスをされたら。
十年以上も離れていたというのに、当時に気持ちが舞い戻って、胸がきゅんと疼くのだから。
私は今も、ラダウィのことが好きなのだ。
そんなことを思っては、いけないのに。
ラダウィは、弟の恋人なのだから。
本当は、キスも駄目なのに。
だけど、社長に弟のフリをしろと言われているから。
どうしたらいいのか。どうするのが正解なのか。
なにもかもがわからない。
「…ん」
それでも、好きな人とのキスだ。
唇を離されたとき。嬉しさに心が満ちて、年甲斐もなく心を浮き立たせてしまったけれど。
王の後ろに控えているムサファと目が合ってしまい。
途端に、恥ずかしくなる。
王のキスに、はしたなくも喜んでしまった、自分の顔を見られてしまっただろうか?
「…五年ほど前になるな」
ラダウィは私の周りを歩きながら、話し始めた。
「私は王位継承問題に巻き込まれ、おまえたちとは疎遠になったが…」
その言葉に、私は驚いた。
華月とは、月一くらいで連絡を取っているのだが、ラダウィと別れたという話を聞いていないので。私は今でも、ふたりは付き合っているのだと思っていました。
だから、疎遠になったというのは。知らなかった。
「過去の話を蒸し返す気はない。私は新たに、おまえと関係を築くつもりだ。私の望みが、わかるな?」
ラダウィがぐるりと一周し、目の前に戻り。指先で私の頬を優しく撫でた。
「おまえを手放したことを、後悔した。ようやく己の意志で動けるようになった今、おまえを再び手中にする」
真剣な色の目。まるで自分に言われているように感じ。また胸がドキッと跳ねた。
だけど、勘違いをしてはならない。これは、華月への言葉。
王が求めているのは、あくまで華月。
自分が受け取ってはいけない言葉なのだ。
「それは…」
「おまえに拒否権はない」
尊大に言い放たれ。私は声を詰まらせた。
あまり深く考えずに、間違いを口にしそうになったが。
それによって。ラダウィの不興を買い、会社の契約が破棄されては困ります。
社長には、契約が締結するまで弟のフリをしろと言われているし。
とはいえ、華月として彼の恋人になるのも違う…。
どうしたらよいのでしょうかっ?
新たな関係は、復縁という意味でしょう。
望みは…ラダウィの望みは、なんでしょうか?
華月とともに住むとか? そういうこと?
どうするのがベストの選択なのか、わからないながら。ただ、王をみつめていると。
彼は話を続けた。
「私は王となり、欲しいものをすべて奪う権利を有した。そして、今一番欲しいものに手を伸ばしている。察しの良いおまえなら、すべてを言わずともわかるだろうが、あえて言っておく」
いいえ、私は今、なにもわかっておりません。
ラダウィに、彼の思惑を話してもらわないと。一歩も動けなかった。
彼は、恋人をみつめるような愛おしげな色の目で、私をみつめるけれど。
言葉は、それとは真逆のシビアなものが語られた。
「私とおまえの関係は、おまえの会社の利益だけでなく。国家間の利益にも関わってくる。言動のひとつひとつに注意することだ。私の機嫌を損ねるようなことがあれば、この小さな島国は…それを自覚しておけ」
国家と言われ、私は鳥肌が立った。
この小さな島国は…どうなってしまうのですかっ?
いえ、わかっています。
資源を持たない日本は、エネルギー源のほとんどを他国から輸入する化石燃料に頼っています。中東との関係悪化は、国の死活問題に直結する。
ですが、ですがっ。企業の一社員である私には、その重荷は過積載すぎますっ。
「そんな顔をするな。私が脅しているようではないか?」
ふふふと、王は楽しげに笑っているが。
完璧に脅されていますっ。
「会社の契約が円満に済めば、おまえの面目は保たれるのだろう? ならば。この先どう振舞えばよいかはわかるはずだ。それに、肌と肌を合わせたときの、あの官能を忘れたとは言わせない」
そうして、意味深に。ラダウィは手を背筋に這わせた。
ぞくりと、する。
紺野課長に触られたときのような不快なものではなく。期待に打ち震える快感、だ。
「スーツ姿のおまえは新鮮だな。禁欲的で犯しがたいおまえのネクタイをほどくとき。どんな表情を見せてくれるのか…今から楽しみでならない」
やんわりと抱き寄せられると、たっぷりとした民族衣装の生地に包まれて。彼のスパイシーな香りの沼に溺れてしまう。
暗に、体の関係を匂わされた。
ふたりは恋人同士だったから、当然、性行為を済ませているのだろう。
経験があるのだから、今更拒むな、ということなのでしょうけど。
でも。私は華月ではない。
一度だけ、ラダウィと肌を合わせたことはある。
けれど、それは子供の触りっこ…だった。
いえ、挿入に至らなかっただけで、内容は、濃密でエロティックで、淫らで。
今思い出しても、赤面してしまうほどのものではありましたが。
ですが、ベッドをともにしたら、さすがに弟ではないとバレるでしょう?
だって私は、経験がないのですから。
だけど、拒んだら、会社が、国が。
どんな要求も呑む勢いだ、と社長は言ってた。
ならば私も、会社の一員として。王に応じるべき、なのか?
しかし。ただ、華月に成り代わって、昔話を楽しむくらいなら良かったのだけど。それでは済まない。
復縁を望んでいるらしいラダウィのそばで、華月として振舞えば。
ほのめかされたように。必ず体の関係を求められる。
一度だけ体験した、彼との情事を思い起こせば、体の奥から指先まで熱くなる。
ラダウィへの想いは、私の中で消えていない。
でも、いくら私の恋心がくすぶっていようとも。
弟の恋人を寝取るわけにはいかないのだ。
別れた、みたいなことをラダウィは言ったけれど。
でも、忙しくてすれ違っただけならば。きっとふたりは、嫌いになって別れたのではないのだろう。
ラダウィが復縁を望んだら、華月だって喜んで受けるはず。
とても仲睦まじそうに、長く関係を続けていたのだから。
だったら、そんな彼らの間に自分が割って入るのは、あってはならない。
そうは思うのだが。
会社のためを思えば、ラダウィの求めに応じて円満におさめるべき。
王のこと、弟のこと、会社のこと、考えに考え、頭を回転させるけど。
結局なにも決断できなくて、棒のように突っ立っているしかなかった。
そんな私に、ラダウィは当然のように唇を寄せてきて。
反射的に、彼の胸板を手で押してしまう。
「なんだ、まだ理解できていないのか?」
拒むな、という視線の圧に、私はウッとなるが。
「い、いえ。あの、ムサファ先生が…」
先ほどもキスシーンをムサファに見られて、恥ずかしい思いをした。
そんな私の気持ちを察してくれたのか。ふと、王は思案顔を見せたが。
有無を言わさぬ力で、私をギュッと抱き込んで。深く唇を合わせた。
彼の舌が、ぬるりと私の舌の面を撫でていき。
同じことを返すのが礼儀だと、昔、言われていたから。そのように、して返す。
絡められたら、絡め返し。そうして淫猥で濃厚な接吻を…ムサファの前でする羽目になってしまった。
うぅ、ひどいです。人前でこんなこと、辱めです。
でも。わざと見せつけるような、口の中でくちゅくちゅと音を立てる破廉恥なくちづけを。王がほどいたときには。
痺れる舌先から唾液がつぅと引いて。
それを恥ずかしいと感じる余裕を与えないくらいに、蕩けさせられて。
そんな熱烈なディープキスについていけず、私はただただ息を乱すばかりだった。
「アレは飾りだ。気にするな」
それを示すために、あのようなキスを? 卑猥すぎます。
「ですが、私にとってムサファさんは先生なので。困ります」
かなり濃厚なチュウを、つぶさに見られてしまって、もう遅いのですけど。とりあえず、苦言を呈してみた。
「ムサファは、今は宰相であり、国防省のトップ。私の右腕であり、護衛だ。もうただの家庭教師ではない。私のそばから彼が離れることはないから…慣れるしかないな?」
「そうですか。出世されたのですね?」
慣れる、というのは。さておいて。
幼い頃の知り合いが、王であり、大臣であることが。誇らしかった。
だがその一方で、一企業の片隅にいる自分が、ひどく小さく感じられる。
日本では、五本の指に入るくらいの大企業なのですけどね?
「まぁ、寝室にまでは入ってこない。そこは心配するな?」
その言葉に、えっ、と思うが。
声を出す間もなく、私は荷物のように彼の肩に担がれてしまった。
去り際に、深々と頭を下げるムサファに見送られ。
居たたまれなくて。恥ずかしすぎて。頭がグルグルになりましたが。
いや、これは本当に、どうしたらいいのでしょうか?
このまま運ばれてしまうのですか?
寝室には入ってこないって、寝室直行ですか?
自分の振る舞いの行方をなにも考えられないまま。私は王にさらわれたのだった。
給仕の者の案内で、シマームの方々が滞在するフロアへ進む。
廊下のところどころに護衛官が立っていた。日本なので、表立って銃などは携帯していないように見えるけれど。なにかしらの武器は所持しているのだろうな、と察せられる空気感です。
シマームにいたときは、王族の屋敷に御厄介になっていたので。
警護の重要性は理解できますし、彼らが放つ威圧感にも慣れています。
取次が済んで、部屋の中へ入るが。そこは無人だ。
別室で、隠しカメラによってセキュリティーチェックがなされているのです。
上流階級の家ほど、人に会うのに時間がかかるものなのだ。そのことも知っていた。
「天野さま、どうぞこちらへ」
ある部屋の扉が開けられ。
室内には、上衣とゴトラを身につけた煌びやかな側近が、左右三名ずつ並んでいた。
そして中央の椅子には、中ほどまで垂れた幕で顔は見えないが。
シマーム国王のラダウィが座っている。
会議に出ていたときとは、別の緊張感が迫る。
国王という高貴な存在と、ひとりで対面していること。
蓮月だと悟らせないこと。
会社に迷惑をかけられないから、粗相は厳禁なこと、などなど。
すべてをのみ込み。最大限の礼を尽くす。
私は両膝を床につき、両手は胸の前に当てて、頭を下げた。
「人払いだ」
王の声を受け、側近が退室する気配がした。
「顔を上げろ」
彼の言葉に従い、私は顔だけを上げた。
その場に、ひとりだけ側近が残っている。
ムサファだった。
ムサファと私は、九歳の年の差があるので、現在は三十六歳になるのでしょうか?
しかし依然、若々しく見えた。
子供のとき、私はムサファを先生として、年の離れた兄として、憧れや尊敬の気持ちで見ていたから。とても大きくて、大人のイメージだったのですが。
その頃と、外見はあまり変わっていないように感じます。
薄茶色の前髪が、ゴトラから見えていて。フチなしのメガネが知性的。
柔らかい眼差しは、変わらず。穏やかな光で私を見ていた。
ムサファがラダウィのそばにいるのを見て、当時の記憶がよみがえり。
懐かしさが胸に込み上げます。
周囲の環境が変わっても、ラダウィが王になっても。長年変わることなく、ムサファは彼に仕えていたのですね?
それが、うらやましくもあり。
変化のないことが、嬉しいとも感じた。
人知れず感慨に浸っていると、ラダウィが悠然と椅子から立ち上がった。
幕を手でよけ、金の瞳の青年が姿を現す。
足を進めて、跪く私の前に立った。
会議中は、緊張していたし。仕事に集中するため、彼の存在を考えないようにしていた。
しかし、こうして目を合わせてしまえば。瞬時に心が縛りつけられてしまう。
今、目の前にいる彼は。上に立つ者独特の尊大さをにじませていた。
「他人の目があったゆえ、先ほどは差し控えたが。我の身内たる挨拶を許す」
睥睨するラダウィに言われ、私はハッと瞬きをする。
見惚れて、外せなくなっていた視線をもぎ離し。
作法に則り、王のゴトラを手で捧げ持ち。その布にくちづけた。
あぁ、彼の香りがする。
私が持っている聖布からは失われてしまった、懐かしく、胸を締めつける香りだ。
この所作は、昔、彼に許された特別な挨拶です。
王族が身につけるゴトラは、モスクでひと月以上祈りを捧げられた聖布で。その聖布に触れられるのは、身内や、彼が親愛を持つ者、許可を与えた者だけなのだ。
親族ではない私が、この挨拶を許されているのは、特別なことで。
ラダウィが、私たち天野家の親子に心を傾けた証なのだろう。
無論、ラダウィは。この場にいるのが華月だと思っているのだから。
恋人に、心を許しているということです。
私も彼の許しを得ているが。
それは、彼の意のままになる従僕だからで。
恋人の華月が許されている意味合いと違うことは、弁えています。
「立って、私によく顔を見せろ」
従順に、私は彼の言葉の通りに立ち上がる。
視線が、ラダウィの胸元辺りになった。
先ほども思いましたが、十年前より上背もさらに高くなったのですね? 目を合わせるには、見上げなければなりません。
そろ、と。目線を彼の顔に向けると。
そばでじっくりと、ラダウィが私を見ていて。
も、もしかして。バレてしまいましたか?
恐れの気持ちが胸に湧いたけれど。
ラダウィが、ニヤリと片頬をゆがめる笑みを浮かべた。
「長く、このときを待っていた」
私の頬を大きな手で包んだラダウィは、唇にくちづけた。
いきなりのことに、私はドキンと心臓が高鳴って。体がこわばって動けなくなる。
ついばむように、唇に唇で吸いついて。深く重ねられ。歯列を割ってくる肉厚の舌に、舌を撫でられ。情熱的に絡め合わせる。
キスの仕方は、すべて彼に教わった。
そして、彼以外のくちづけは、知らない。
今でも、あの苦い初恋が忘れられなくて。
彼以外に、触れられたくなかった。
なぜなのかな?
傲慢で意地悪な王子だった。
頬をつねったり、髪を引っ張ったり、鷹で追い回されたり。イジメられた記憶しかないのに。
だけど。たとえ、彼に嫌われていても。イジメられても。
彼のことを嫌いになれなくて。
好きだと、思ってしまって。
こうして、キスをされたら。
十年以上も離れていたというのに、当時に気持ちが舞い戻って、胸がきゅんと疼くのだから。
私は今も、ラダウィのことが好きなのだ。
そんなことを思っては、いけないのに。
ラダウィは、弟の恋人なのだから。
本当は、キスも駄目なのに。
だけど、社長に弟のフリをしろと言われているから。
どうしたらいいのか。どうするのが正解なのか。
なにもかもがわからない。
「…ん」
それでも、好きな人とのキスだ。
唇を離されたとき。嬉しさに心が満ちて、年甲斐もなく心を浮き立たせてしまったけれど。
王の後ろに控えているムサファと目が合ってしまい。
途端に、恥ずかしくなる。
王のキスに、はしたなくも喜んでしまった、自分の顔を見られてしまっただろうか?
「…五年ほど前になるな」
ラダウィは私の周りを歩きながら、話し始めた。
「私は王位継承問題に巻き込まれ、おまえたちとは疎遠になったが…」
その言葉に、私は驚いた。
華月とは、月一くらいで連絡を取っているのだが、ラダウィと別れたという話を聞いていないので。私は今でも、ふたりは付き合っているのだと思っていました。
だから、疎遠になったというのは。知らなかった。
「過去の話を蒸し返す気はない。私は新たに、おまえと関係を築くつもりだ。私の望みが、わかるな?」
ラダウィがぐるりと一周し、目の前に戻り。指先で私の頬を優しく撫でた。
「おまえを手放したことを、後悔した。ようやく己の意志で動けるようになった今、おまえを再び手中にする」
真剣な色の目。まるで自分に言われているように感じ。また胸がドキッと跳ねた。
だけど、勘違いをしてはならない。これは、華月への言葉。
王が求めているのは、あくまで華月。
自分が受け取ってはいけない言葉なのだ。
「それは…」
「おまえに拒否権はない」
尊大に言い放たれ。私は声を詰まらせた。
あまり深く考えずに、間違いを口にしそうになったが。
それによって。ラダウィの不興を買い、会社の契約が破棄されては困ります。
社長には、契約が締結するまで弟のフリをしろと言われているし。
とはいえ、華月として彼の恋人になるのも違う…。
どうしたらよいのでしょうかっ?
新たな関係は、復縁という意味でしょう。
望みは…ラダウィの望みは、なんでしょうか?
華月とともに住むとか? そういうこと?
どうするのがベストの選択なのか、わからないながら。ただ、王をみつめていると。
彼は話を続けた。
「私は王となり、欲しいものをすべて奪う権利を有した。そして、今一番欲しいものに手を伸ばしている。察しの良いおまえなら、すべてを言わずともわかるだろうが、あえて言っておく」
いいえ、私は今、なにもわかっておりません。
ラダウィに、彼の思惑を話してもらわないと。一歩も動けなかった。
彼は、恋人をみつめるような愛おしげな色の目で、私をみつめるけれど。
言葉は、それとは真逆のシビアなものが語られた。
「私とおまえの関係は、おまえの会社の利益だけでなく。国家間の利益にも関わってくる。言動のひとつひとつに注意することだ。私の機嫌を損ねるようなことがあれば、この小さな島国は…それを自覚しておけ」
国家と言われ、私は鳥肌が立った。
この小さな島国は…どうなってしまうのですかっ?
いえ、わかっています。
資源を持たない日本は、エネルギー源のほとんどを他国から輸入する化石燃料に頼っています。中東との関係悪化は、国の死活問題に直結する。
ですが、ですがっ。企業の一社員である私には、その重荷は過積載すぎますっ。
「そんな顔をするな。私が脅しているようではないか?」
ふふふと、王は楽しげに笑っているが。
完璧に脅されていますっ。
「会社の契約が円満に済めば、おまえの面目は保たれるのだろう? ならば。この先どう振舞えばよいかはわかるはずだ。それに、肌と肌を合わせたときの、あの官能を忘れたとは言わせない」
そうして、意味深に。ラダウィは手を背筋に這わせた。
ぞくりと、する。
紺野課長に触られたときのような不快なものではなく。期待に打ち震える快感、だ。
「スーツ姿のおまえは新鮮だな。禁欲的で犯しがたいおまえのネクタイをほどくとき。どんな表情を見せてくれるのか…今から楽しみでならない」
やんわりと抱き寄せられると、たっぷりとした民族衣装の生地に包まれて。彼のスパイシーな香りの沼に溺れてしまう。
暗に、体の関係を匂わされた。
ふたりは恋人同士だったから、当然、性行為を済ませているのだろう。
経験があるのだから、今更拒むな、ということなのでしょうけど。
でも。私は華月ではない。
一度だけ、ラダウィと肌を合わせたことはある。
けれど、それは子供の触りっこ…だった。
いえ、挿入に至らなかっただけで、内容は、濃密でエロティックで、淫らで。
今思い出しても、赤面してしまうほどのものではありましたが。
ですが、ベッドをともにしたら、さすがに弟ではないとバレるでしょう?
だって私は、経験がないのですから。
だけど、拒んだら、会社が、国が。
どんな要求も呑む勢いだ、と社長は言ってた。
ならば私も、会社の一員として。王に応じるべき、なのか?
しかし。ただ、華月に成り代わって、昔話を楽しむくらいなら良かったのだけど。それでは済まない。
復縁を望んでいるらしいラダウィのそばで、華月として振舞えば。
ほのめかされたように。必ず体の関係を求められる。
一度だけ体験した、彼との情事を思い起こせば、体の奥から指先まで熱くなる。
ラダウィへの想いは、私の中で消えていない。
でも、いくら私の恋心がくすぶっていようとも。
弟の恋人を寝取るわけにはいかないのだ。
別れた、みたいなことをラダウィは言ったけれど。
でも、忙しくてすれ違っただけならば。きっとふたりは、嫌いになって別れたのではないのだろう。
ラダウィが復縁を望んだら、華月だって喜んで受けるはず。
とても仲睦まじそうに、長く関係を続けていたのだから。
だったら、そんな彼らの間に自分が割って入るのは、あってはならない。
そうは思うのだが。
会社のためを思えば、ラダウィの求めに応じて円満におさめるべき。
王のこと、弟のこと、会社のこと、考えに考え、頭を回転させるけど。
結局なにも決断できなくて、棒のように突っ立っているしかなかった。
そんな私に、ラダウィは当然のように唇を寄せてきて。
反射的に、彼の胸板を手で押してしまう。
「なんだ、まだ理解できていないのか?」
拒むな、という視線の圧に、私はウッとなるが。
「い、いえ。あの、ムサファ先生が…」
先ほどもキスシーンをムサファに見られて、恥ずかしい思いをした。
そんな私の気持ちを察してくれたのか。ふと、王は思案顔を見せたが。
有無を言わさぬ力で、私をギュッと抱き込んで。深く唇を合わせた。
彼の舌が、ぬるりと私の舌の面を撫でていき。
同じことを返すのが礼儀だと、昔、言われていたから。そのように、して返す。
絡められたら、絡め返し。そうして淫猥で濃厚な接吻を…ムサファの前でする羽目になってしまった。
うぅ、ひどいです。人前でこんなこと、辱めです。
でも。わざと見せつけるような、口の中でくちゅくちゅと音を立てる破廉恥なくちづけを。王がほどいたときには。
痺れる舌先から唾液がつぅと引いて。
それを恥ずかしいと感じる余裕を与えないくらいに、蕩けさせられて。
そんな熱烈なディープキスについていけず、私はただただ息を乱すばかりだった。
「アレは飾りだ。気にするな」
それを示すために、あのようなキスを? 卑猥すぎます。
「ですが、私にとってムサファさんは先生なので。困ります」
かなり濃厚なチュウを、つぶさに見られてしまって、もう遅いのですけど。とりあえず、苦言を呈してみた。
「ムサファは、今は宰相であり、国防省のトップ。私の右腕であり、護衛だ。もうただの家庭教師ではない。私のそばから彼が離れることはないから…慣れるしかないな?」
「そうですか。出世されたのですね?」
慣れる、というのは。さておいて。
幼い頃の知り合いが、王であり、大臣であることが。誇らしかった。
だがその一方で、一企業の片隅にいる自分が、ひどく小さく感じられる。
日本では、五本の指に入るくらいの大企業なのですけどね?
「まぁ、寝室にまでは入ってこない。そこは心配するな?」
その言葉に、えっ、と思うが。
声を出す間もなく、私は荷物のように彼の肩に担がれてしまった。
去り際に、深々と頭を下げるムサファに見送られ。
居たたまれなくて。恥ずかしすぎて。頭がグルグルになりましたが。
いや、これは本当に、どうしたらいいのでしょうか?
このまま運ばれてしまうのですか?
寝室には入ってこないって、寝室直行ですか?
自分の振る舞いの行方をなにも考えられないまま。私は王にさらわれたのだった。
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