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ジャスミン4
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真っ暗な視界の中、私の頬へ延びていた春樹の手が、小刻みにぷるぷると震えた。それは、次第に大きく波打ち始める。
恐る恐る目を開けると、春樹が俯いて肩を細かく上下していた。
私は目を見開いたまま、しばらく凝視していると、今度こそもう耐えきれないとばかりに腹その底から笑い声をあげていた。私はただ、その状況がよくわからず唖然とするばかりだった。そして、一通り笑い転げたあと、春樹はやっと顔を上げた。
しかし、その視線は私を通り過ぎていく。春樹の黒目は私を飛び越えて、ずっと後ろへ移動していた。それがぴたりと一点で止まると、春樹は再び鼻先でくすくすと、笑った。
「ただの冗談だよ。そんなに怒ることないだろ?」
相変わらず、私と視線は合わない。向いているのは、部屋の入口。
私は、勢いよく振り返った。その瞬間、心臓が口から飛び出しそうになった。
そこで立っていた背の高い人物。
飛んで行った心臓はそのまま、もう二度と元の場所に戻らないかと思うくらいのくらいの衝撃だった。
背が高く、端正な顔立ち。その顔は、怒りが前面に出ていたが、間違いようがない。
「湊さん……どうして……」
「これ以上、おイタが過ぎると、殺されかねないぜ」
湊は、一直線に春樹を睨んでいる。
春樹は、再びゲラゲラ笑っていたが、引っ込めて立ち上がった。そして、座ったままの動けずにいる私へ口角を上げる。
「佐藤蓮は、うちのCMで起用されていること知ってるだろ? 顔馴染みなんだ。ま、細かい話はまたいつかっていうことで」
左手をズボンに突っ込み、右手を挙げる。春樹はそのままドアの方へつま先を向けた。
そして、湊とすれ違いざまに、春樹は湊へ意味深な笑み浮かべる。
「この貸しは、返してもらうぜ」
「わかってますよ」
湊は、むすっとしたままだった。春樹は機嫌直せよと言わんばかりに、湊の肩を叩く。
「じゃあ、僕は退散するよ。また、仕事の時にでも」
春樹は行ってしまい、湊と二人になる。
間近に湊がいる。まるで幻を見ているようだった。もう二度と会えないと思っていたその人がすぐそこにいる。
私は、本当に今夢を見ているのではないだろうか。 目や口を開けるばかりで、声もでなかった。
そんな私をみた湊の唇には、うっすらと笑みが零れていた。
「さて。では、行きましょうか」
三か月前マネージャーとしてずっと横にいた時の延長線上にいるかのように、そういった。
私は、それでやっと正気を取り戻した。私は、勢いよく立ち上がって、湊の正面へ。
私よりも少し高い場所にある端正な顔を、目の前にして、懸念がそのまま口をついた。
「湊さん、お仕事は……?」
今は、平日の午前中。
湊がこんな時間に、フリーになることはまずない。仕事をすっぽかしてきたかもしれない。だとしたら、今頃、大騒ぎだ。小早川社長も、怒り狂うだろう。そんな焦りがこみ上げてくる。
湊は、目を丸くするだけだった。
「まさか、そっちの質問が先に来るとは。相変わらず、ですね」
湊は初めて出会った時のように目を細めて、くすくす笑う。私の心臓は呼応するようにきゅっと締め付けられていく。ずっと忘れていた痛みだった。
「紅羽さんが、いなくなった直後に取る予定だった一週間の休みを返上したんです。それで、やっと今日から休みです」
「……そうだったんですか……。すみません、私のせいですね……」
あれから、ずいぶん時間が経っている。
その間休みが取れなかったということは、私がやらかした後始末が一気に押し寄せたせいだろう。
しゅんとする私とは、真逆の明るい笑顔で湊はいった。
「というわけで、紅羽さんに約束を果たしてもらいに来たというわけです」
「約束?」
「紅羽さんがいなくなる前にした約束、忘れてもらっては困るなぁ」
湊が提案してくれて、浮足立っていたあの時を、忘れるはずがない。
『休みの使い方がわからない同士、一緒に出かけませんか?』と、言ってくれた言葉は、今もずっと私の心臓を締め付けてくる。
もう叶うことはないと、思っていたことだ。
「もちろん、覚えています……。でも、私……湊さんを陥れて、騙した人間ですよ? 一緒に出掛ける資格が、ありません」
川島に大立ち回りした理由は、話さないでほしいとお願いした。湊にとって、今も私は悪人のはずだ。
そんな人間と、一緒に出掛けようなんて、ストレス以外ないだろう。
しかし、湊は、はぁっと大きなため息をついて、呆れたようにいった。
「まだ、そんなこと言ってるんですか? 紅羽さんの大演説の後の由紀子さんの顔が怖すぎて、みんな驚いて何も言えませんでしたけど、誰も信じていませんでしたよ。信じたのは、由紀子さんたちくらいだ」
「でも……みんな、私から湊さんを遠ざけるようにしていました」
私を遠巻きにしていた。すべてに見捨てられたような感覚は、今も心を抉ってくる。あれは、勘違いなんかじゃない。
湊は、再び大きく息を吐いた。
「由紀子さんって怒ると、モノを投げつけてくるタイプなんですよね?」
由紀子が投げつけた花瓶がガシャンと派手な音を立てて、粉々に飛び散った瞬間がフラッシュバックする。
反射的に自分の左腕を、右手で摩る。
ガラスで切った傷は、もう消えているが、腕の痛みはなかなか消えてくれない。
「まぁ……そんなことも、あります」
苦々しく答えながら、それとどう繋がるのか首をかしげる。
湊は、少しだけ眉を潜めて、その先を続けた。
「僕に何か飛んでこないか心配で、みんなが盾になってくれたんですよ。画面に映る人間なので、顔に怪我でもすると、色々と支障をきたすので。社長だって仕方なく、紅羽さんの茶番に乗っただけだ」
その時のことを思い出したのだろう。湊の顔に、怒りが滲みだしている。
「紅羽さんの大演説の後……紅羽さんが出ていく間際、僕が言ったこと覚えていますか?」
『僕はこれまでの人生の中で、一番頭にきています』
湊が私へ向けた初めての怒りだ。忘れられるはずがない。
「……はい」
目を逸らして頷くことしかできない。
湊は、紅羽さんが感違いしているようだから、はっきり言っておきますと、私の頭上から少しだけ鋭い声が突き刺さった。そのあと、飛んでくるであろう厳しさに備えるべく、全身に力を込めた。
しかし、そのあとに続いたのは、怒声ではなかった。諭すような柔らかい声が降ってきていた。
「僕はあの方便を信じて、怒ったんじゃありませんよ。紅羽さんは、僕らにとってかけがえのないメンバーの一人だった。貴方のことを、みんなが大切に思っていました。そんな人が困っていたら、助けたい、力になりたいって思うのは、当然のことでしょう? あなたは、一人じゃなかった。それなのにいい、紅羽さんは自分を捨てて、僕らを突き放すようなことをした。だから、あの時、怒っているといったんです」
肩の力が抜ける。ずっと寂しいと叫んでいた私の心臓を包み込んでいくようだった。
私の存在意義は、誰かの役に立つこと。やってもらったことは、身を砕いてでも返すこと。
それが、私の生きる術で、それしか知らなかった。その方法が間違っているなんて、思いもしなかった。心臓をいつもギリギリの状態で懸命に動かしていないと、私が私でなくなってしまう気がしていたから。
湊の優しい声が、更に降ってきていた。
「初めて出会った時から、僕はずっと貴方の力になりたいと思っていた。僕が何かするたびに、紅羽さんは『迷惑をかけないようにしなければ。恩を返さなければ』って、言っていたけれど、最初から僕はそんなこと求めていなかった。ただ紅羽さんが自分らしく僕の隣にいて、笑ってくれてさえいれば、それで十分だった」
私の心臓の真ん中には、ぽっかりと空いた穴がある。
その部分を暴かれることを恐れていた場所。
そこへ真っ直ぐ光で照らされるような気がした。
あまりに幼稚で、恥ずかしくて、情けなくなる一番知られたくない部分。
だけど、私は、きっとずっと誰かに気付いてほしかったのだと思う。
母の言いつけられたことを守り、言う通りにして、期待に応え続けていれば、いつかきっと。会社の付属品としての私ではなく、私自身を見てくれる。
そうすればきっと、その穴をきっと綺麗に埋まって消えていく。
ずっとそう信じていたけれど、いつまで経っても埋まることはなかった。
ぽっかり空いた穴は、開いていくばかり。いくらその穴を埋めてくれるピースへ手を伸ばしても、生産性はないと、無意味なものだと、手を払われ続けた。
それでも、どうしても欲しかった。
湊がくれた言葉は、空いていた形にぴったりとはまって、消えていく。とたん、ずっと干上がっていた場所が、水で満たされていくようだった。
眼の淵からじわりと水が滲んできて、膜が張っていく。本音が零れた。
「……私ずっと一人だって、思っていました……。私の居場所は、いつもどこにもなくて……いくら手を伸ばしても、届かない……。たとえ、ほんの少しだけ掠めたとしても、すぐに離れていく。今までずっと、そうだったから……もう、ずっとどうしていいのか、わかりませんでした……」
やってもらった分だけ、何か返さなければ、離れていってしまう。嫌われてしまう。そればかりで、目の前にいる人の顔さえも、見えていなかった。
瞳の表面で分厚くなっていた膜が、破けて、ぽろりと、一筋の水の道が出来上がる。涙で滲んでよくみえなかった湊の顔が、はっきりと見えた。
そこにあったのは、優し気に目を細める穏やかな微笑み。
湊は、零れた涙を温かい指先でそっと拭ってくれる。
「家にいるときは、確かにそうだったかもしれない。でも、家を飛び出してからの日々は、違った。そうでしょ?」
またほろりと、涙が落ちる。色鮮やかな景色が蘇った。
ソメイヨシノの桜に見送られたとき。胡蝶蘭を前に、新しい部屋を与えられ、新鮮な気持ちになったとき。喫茶店のコーヒーの香りと共に、笑顔で迎え入れられたとき。そして、ヒマワリのように華やぐ湊が現れたとき。
みんな、私を支えてくれた。ただ、それだけだった。
「紅羽さんの周りには、あなたのことを心から思い、心配している人がたくさんいる。今だって、紅羽さんがいなくなった後、どうしようかとそんな話ばかりで、仕事もろくに手につかない状態なんですよ?」
湊は目を細めて、唇はゆっくりと弧を描かせていく。
今まで、さんざん助けられてきたのに、それでも一人だと思い込んでいた。なんて私は、自分ばっかりだったのだろう。
私の一人のせいで、みんなを巻き込みたくなかった。私の面倒事だから、自分一人で解決するべき。
ずっと、そう思ってきたけれど、全部思い上がりだった。こんなに私のことを考えてくれていることなど、かけらも考えたことがなかった。
「……私、ほんとに、なにもわかって、いませんでした……ほんとに……ごめんなさい」
湊は、私の体をそっとその胸に閉じ込めた。
胸の酷く優しい鼓動と、温かさが伝わってきて、涙が一気に溢れてくる。肩がしゃっくりするように、上下する。まるで、子供の頃に戻ったように、嗚咽が漏れた。
「わかってくれたのなら、全部帳消しです」
今いったことは、どうか忘れないで。
そういって、湊は、私の熱がこもった頭を子供をあやすように優しく撫で続ける。
ずっと小さい頃、求め続けていたものが、時を経て今やっと私を包みこんでくれるようだった。
いくら必死に手を伸ばしても、届かなかった手。
今度は湊が必死に手を伸ばしてくれる。私は湊の背中へ、ぎこちなく手をまわした。
湊はそれに応えてくれるように、私をきゅっと抱きしめ返してくれる。
いつまで経っても涙が止まらない私を、湊は呆れることなく、ただ静かに受け止めてくれていた。
その手を、私はもう絶対に離したくない。
恐る恐る目を開けると、春樹が俯いて肩を細かく上下していた。
私は目を見開いたまま、しばらく凝視していると、今度こそもう耐えきれないとばかりに腹その底から笑い声をあげていた。私はただ、その状況がよくわからず唖然とするばかりだった。そして、一通り笑い転げたあと、春樹はやっと顔を上げた。
しかし、その視線は私を通り過ぎていく。春樹の黒目は私を飛び越えて、ずっと後ろへ移動していた。それがぴたりと一点で止まると、春樹は再び鼻先でくすくすと、笑った。
「ただの冗談だよ。そんなに怒ることないだろ?」
相変わらず、私と視線は合わない。向いているのは、部屋の入口。
私は、勢いよく振り返った。その瞬間、心臓が口から飛び出しそうになった。
そこで立っていた背の高い人物。
飛んで行った心臓はそのまま、もう二度と元の場所に戻らないかと思うくらいのくらいの衝撃だった。
背が高く、端正な顔立ち。その顔は、怒りが前面に出ていたが、間違いようがない。
「湊さん……どうして……」
「これ以上、おイタが過ぎると、殺されかねないぜ」
湊は、一直線に春樹を睨んでいる。
春樹は、再びゲラゲラ笑っていたが、引っ込めて立ち上がった。そして、座ったままの動けずにいる私へ口角を上げる。
「佐藤蓮は、うちのCMで起用されていること知ってるだろ? 顔馴染みなんだ。ま、細かい話はまたいつかっていうことで」
左手をズボンに突っ込み、右手を挙げる。春樹はそのままドアの方へつま先を向けた。
そして、湊とすれ違いざまに、春樹は湊へ意味深な笑み浮かべる。
「この貸しは、返してもらうぜ」
「わかってますよ」
湊は、むすっとしたままだった。春樹は機嫌直せよと言わんばかりに、湊の肩を叩く。
「じゃあ、僕は退散するよ。また、仕事の時にでも」
春樹は行ってしまい、湊と二人になる。
間近に湊がいる。まるで幻を見ているようだった。もう二度と会えないと思っていたその人がすぐそこにいる。
私は、本当に今夢を見ているのではないだろうか。 目や口を開けるばかりで、声もでなかった。
そんな私をみた湊の唇には、うっすらと笑みが零れていた。
「さて。では、行きましょうか」
三か月前マネージャーとしてずっと横にいた時の延長線上にいるかのように、そういった。
私は、それでやっと正気を取り戻した。私は、勢いよく立ち上がって、湊の正面へ。
私よりも少し高い場所にある端正な顔を、目の前にして、懸念がそのまま口をついた。
「湊さん、お仕事は……?」
今は、平日の午前中。
湊がこんな時間に、フリーになることはまずない。仕事をすっぽかしてきたかもしれない。だとしたら、今頃、大騒ぎだ。小早川社長も、怒り狂うだろう。そんな焦りがこみ上げてくる。
湊は、目を丸くするだけだった。
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湊は初めて出会った時のように目を細めて、くすくす笑う。私の心臓は呼応するようにきゅっと締め付けられていく。ずっと忘れていた痛みだった。
「紅羽さんが、いなくなった直後に取る予定だった一週間の休みを返上したんです。それで、やっと今日から休みです」
「……そうだったんですか……。すみません、私のせいですね……」
あれから、ずいぶん時間が経っている。
その間休みが取れなかったということは、私がやらかした後始末が一気に押し寄せたせいだろう。
しゅんとする私とは、真逆の明るい笑顔で湊はいった。
「というわけで、紅羽さんに約束を果たしてもらいに来たというわけです」
「約束?」
「紅羽さんがいなくなる前にした約束、忘れてもらっては困るなぁ」
湊が提案してくれて、浮足立っていたあの時を、忘れるはずがない。
『休みの使い方がわからない同士、一緒に出かけませんか?』と、言ってくれた言葉は、今もずっと私の心臓を締め付けてくる。
もう叶うことはないと、思っていたことだ。
「もちろん、覚えています……。でも、私……湊さんを陥れて、騙した人間ですよ? 一緒に出掛ける資格が、ありません」
川島に大立ち回りした理由は、話さないでほしいとお願いした。湊にとって、今も私は悪人のはずだ。
そんな人間と、一緒に出掛けようなんて、ストレス以外ないだろう。
しかし、湊は、はぁっと大きなため息をついて、呆れたようにいった。
「まだ、そんなこと言ってるんですか? 紅羽さんの大演説の後の由紀子さんの顔が怖すぎて、みんな驚いて何も言えませんでしたけど、誰も信じていませんでしたよ。信じたのは、由紀子さんたちくらいだ」
「でも……みんな、私から湊さんを遠ざけるようにしていました」
私を遠巻きにしていた。すべてに見捨てられたような感覚は、今も心を抉ってくる。あれは、勘違いなんかじゃない。
湊は、再び大きく息を吐いた。
「由紀子さんって怒ると、モノを投げつけてくるタイプなんですよね?」
由紀子が投げつけた花瓶がガシャンと派手な音を立てて、粉々に飛び散った瞬間がフラッシュバックする。
反射的に自分の左腕を、右手で摩る。
ガラスで切った傷は、もう消えているが、腕の痛みはなかなか消えてくれない。
「まぁ……そんなことも、あります」
苦々しく答えながら、それとどう繋がるのか首をかしげる。
湊は、少しだけ眉を潜めて、その先を続けた。
「僕に何か飛んでこないか心配で、みんなが盾になってくれたんですよ。画面に映る人間なので、顔に怪我でもすると、色々と支障をきたすので。社長だって仕方なく、紅羽さんの茶番に乗っただけだ」
その時のことを思い出したのだろう。湊の顔に、怒りが滲みだしている。
「紅羽さんの大演説の後……紅羽さんが出ていく間際、僕が言ったこと覚えていますか?」
『僕はこれまでの人生の中で、一番頭にきています』
湊が私へ向けた初めての怒りだ。忘れられるはずがない。
「……はい」
目を逸らして頷くことしかできない。
湊は、紅羽さんが感違いしているようだから、はっきり言っておきますと、私の頭上から少しだけ鋭い声が突き刺さった。そのあと、飛んでくるであろう厳しさに備えるべく、全身に力を込めた。
しかし、そのあとに続いたのは、怒声ではなかった。諭すような柔らかい声が降ってきていた。
「僕はあの方便を信じて、怒ったんじゃありませんよ。紅羽さんは、僕らにとってかけがえのないメンバーの一人だった。貴方のことを、みんなが大切に思っていました。そんな人が困っていたら、助けたい、力になりたいって思うのは、当然のことでしょう? あなたは、一人じゃなかった。それなのにいい、紅羽さんは自分を捨てて、僕らを突き放すようなことをした。だから、あの時、怒っているといったんです」
肩の力が抜ける。ずっと寂しいと叫んでいた私の心臓を包み込んでいくようだった。
私の存在意義は、誰かの役に立つこと。やってもらったことは、身を砕いてでも返すこと。
それが、私の生きる術で、それしか知らなかった。その方法が間違っているなんて、思いもしなかった。心臓をいつもギリギリの状態で懸命に動かしていないと、私が私でなくなってしまう気がしていたから。
湊の優しい声が、更に降ってきていた。
「初めて出会った時から、僕はずっと貴方の力になりたいと思っていた。僕が何かするたびに、紅羽さんは『迷惑をかけないようにしなければ。恩を返さなければ』って、言っていたけれど、最初から僕はそんなこと求めていなかった。ただ紅羽さんが自分らしく僕の隣にいて、笑ってくれてさえいれば、それで十分だった」
私の心臓の真ん中には、ぽっかりと空いた穴がある。
その部分を暴かれることを恐れていた場所。
そこへ真っ直ぐ光で照らされるような気がした。
あまりに幼稚で、恥ずかしくて、情けなくなる一番知られたくない部分。
だけど、私は、きっとずっと誰かに気付いてほしかったのだと思う。
母の言いつけられたことを守り、言う通りにして、期待に応え続けていれば、いつかきっと。会社の付属品としての私ではなく、私自身を見てくれる。
そうすればきっと、その穴をきっと綺麗に埋まって消えていく。
ずっとそう信じていたけれど、いつまで経っても埋まることはなかった。
ぽっかり空いた穴は、開いていくばかり。いくらその穴を埋めてくれるピースへ手を伸ばしても、生産性はないと、無意味なものだと、手を払われ続けた。
それでも、どうしても欲しかった。
湊がくれた言葉は、空いていた形にぴったりとはまって、消えていく。とたん、ずっと干上がっていた場所が、水で満たされていくようだった。
眼の淵からじわりと水が滲んできて、膜が張っていく。本音が零れた。
「……私ずっと一人だって、思っていました……。私の居場所は、いつもどこにもなくて……いくら手を伸ばしても、届かない……。たとえ、ほんの少しだけ掠めたとしても、すぐに離れていく。今までずっと、そうだったから……もう、ずっとどうしていいのか、わかりませんでした……」
やってもらった分だけ、何か返さなければ、離れていってしまう。嫌われてしまう。そればかりで、目の前にいる人の顔さえも、見えていなかった。
瞳の表面で分厚くなっていた膜が、破けて、ぽろりと、一筋の水の道が出来上がる。涙で滲んでよくみえなかった湊の顔が、はっきりと見えた。
そこにあったのは、優し気に目を細める穏やかな微笑み。
湊は、零れた涙を温かい指先でそっと拭ってくれる。
「家にいるときは、確かにそうだったかもしれない。でも、家を飛び出してからの日々は、違った。そうでしょ?」
またほろりと、涙が落ちる。色鮮やかな景色が蘇った。
ソメイヨシノの桜に見送られたとき。胡蝶蘭を前に、新しい部屋を与えられ、新鮮な気持ちになったとき。喫茶店のコーヒーの香りと共に、笑顔で迎え入れられたとき。そして、ヒマワリのように華やぐ湊が現れたとき。
みんな、私を支えてくれた。ただ、それだけだった。
「紅羽さんの周りには、あなたのことを心から思い、心配している人がたくさんいる。今だって、紅羽さんがいなくなった後、どうしようかとそんな話ばかりで、仕事もろくに手につかない状態なんですよ?」
湊は目を細めて、唇はゆっくりと弧を描かせていく。
今まで、さんざん助けられてきたのに、それでも一人だと思い込んでいた。なんて私は、自分ばっかりだったのだろう。
私の一人のせいで、みんなを巻き込みたくなかった。私の面倒事だから、自分一人で解決するべき。
ずっと、そう思ってきたけれど、全部思い上がりだった。こんなに私のことを考えてくれていることなど、かけらも考えたことがなかった。
「……私、ほんとに、なにもわかって、いませんでした……ほんとに……ごめんなさい」
湊は、私の体をそっとその胸に閉じ込めた。
胸の酷く優しい鼓動と、温かさが伝わってきて、涙が一気に溢れてくる。肩がしゃっくりするように、上下する。まるで、子供の頃に戻ったように、嗚咽が漏れた。
「わかってくれたのなら、全部帳消しです」
今いったことは、どうか忘れないで。
そういって、湊は、私の熱がこもった頭を子供をあやすように優しく撫で続ける。
ずっと小さい頃、求め続けていたものが、時を経て今やっと私を包みこんでくれるようだった。
いくら必死に手を伸ばしても、届かなかった手。
今度は湊が必死に手を伸ばしてくれる。私は湊の背中へ、ぎこちなく手をまわした。
湊はそれに応えてくれるように、私をきゅっと抱きしめ返してくれる。
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