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二章 帝都に蠢く黒い影

赤く染まった着物

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 格子縞こうしじまの着物に着換えてから、宵子しょうこ真上まがみ家の門を出た。
 ほんの何枚かしか持っていない着物は、どれも何度も身丈みたけを直して何年も着古したものだ。女中同然の呪われた子は、暁子あきこのように季節ごとに振袖を仕立ててもらうという訳にはいかない。
 だから、貴重な一枚を汚してしまったのは困ったことではあるのだけれど。宵子がどんくさいのが悪かったと思うしかないのだろう。

(絹の着物じゃない、丈夫な木綿だもの。洗って乾かせば良いのよ)

 宵子は、自分に言い聞かせながら歩く。ざり、ざり、と。下駄が土を踏む音に混ざって、足首に結ばれた鈴が規則正しくりん、りんと鳴る。

 母に命じられたお使いは、味噌が減っているから新しいたるをもらってこい、というものだった。今日明日にでもなくなってしまう、というものではないだろうから、 たぶん、暁子の友人たちに宵子が見られないように念を入れる、という意味合いなのだろう。盗み聞きのようなことをしていたのは事実だから、母が心配したのも無理はない。

(あの方の話が気になるからって、無作法だったわ……)

 恥ずかしさに頬を染めつつ、宵子は目的の商店に辿り着いた。真上家御用達ごようたしの味噌屋だ。

「真上様の女中さんか。いつものだね、ちょっと待ってくれよ」

 鈴の音で宵子が来たのが分かったのだろう、前掛けをした味噌屋の主人はすぐに店先に顔を出した。と思うと、すぐに奥に引っ込んだ。

 質素な着物を纏った娘が、まさか真上家の令嬢のひとりだなんて誰も思わない。真上家に出入りする商店の者は、みんな、宵子のことを女中だと思っている。
 そして、口が利けない娘を雇ってくれる真上様は優しいとか、無言ながらお使いをこなす宵子は頑張っているとか、感心してくれるのだ。

「ほら。重いから気をつけてな。お代は、今度お屋敷に伺う時にいただくから」

 今日も、主人はすぐに味噌樽を宵子に渡してくれた。重いといっても、宵子が抱えられるていどの小さな樽だ。水を汲んだりまきを運んだりするのに比べたら、何でもないのに。
 それでも気遣いは嬉しいから、宵子は味噌樽を抱えて頭を下げた。

(いつもありがとうございます。美味しくいただいています)

 言葉で伝えられない分、丁寧に、深く──と、伏せた宵子の鼻先に、香ばしい焼いた味噌の香りが届く。

「そんなに細くちゃお勤めも大変だろう。あり合わせだけど、良かったら──」

 味噌屋の主人が、竹皮に包んだ焼おにぎりを差し出してくれたのだ。この店の賄いを、さっと包んでくれたのだろう。仕事の合間に残り物を急いで口にする宵子にとっては、とても嬉しいおやつだった。

「ご主人たちに見つからないように食べな」

 目を輝かせて、再び、今度はより勢い良く頭を下げた宵子に、主人は照れたように笑った。そして、すぐに真剣な表情になって、声を潜める。

「あと──気をつけろよ。最近、妙な事件が続いているからな」

 事件とは、と。宵子が目を瞬かせて首を傾げると、主人はぎゅっと顔を顰めた。

「若い娘の無残な死体が幾つも出てるんだよ。野犬か何かに襲われたみたいな、ひでえ傷痕でな。狼みたいにでかい犬を見たって噂もあるが……」

 言いながら、主人はきょろきょろと辺りを見渡した。その視線は、死体が見つかった路地や空き地を指しているのだろうか。
 だとしたら、確かにあちこちで、しかも近くでひどいことが起きていることになる。宵子も急に肌寒さに似た不安を感じた。

(大きな犬……犬神いぬがみ様、みたいな……?)

 犬神様は、宵子を乗せられるくらいに大きかった。口も、牙も。
 あの鋭い牙が目の前に迫った記憶が蘇って、宵子は思わず喉元を押さえた。
 宵子怯えた様子を見て、味噌屋の主人はすまなそうに眉を下げた。

「そんなにでかい野犬なら、早く捕まると良いんだけどな。──そういう訳だから、明るいうちに帰りなよ。引き留めて悪かったな」

 気を付けて、と重ねての忠告を背中に聞きながら、別れの挨拶代わりに何度も頭を提げながら。宵子は真上家への帰り道を急いだ。

(暁子のお友だちは、もうお帰りかしら)

 令嬢たちがちょうど退出する時に帰宅しては、よろしくないから、勝手口から入ろう。そのほうが、すぐに味噌を届けられるし。

 味噌樽を抱えて、もらった焼きおにぎりは懐に入れて。鈴の音を響かせながら宵子が足を急がせていると──

「死体だ! 誰か来てくれ! またやられた……!」

 男の人の悲鳴が響き渡った。宵子は足を止めたし、通行人や、通りの左右に並んだ商店の人たちの間にもぴりりとした緊張が走る。

って……誰かが野犬に襲われたの!?)

 話を聞いたばかりで、しかもまだ明るいうちだというのに。

(嫌だ、怖いわ……!)

 味噌屋の主人の忠告を思い出して、宵子は悲鳴に背を向けようとした。
 でも、多くの人は彼女とは逆のことを考えたらしい。恐ろしい現場を見ようという野次馬があちこちから押し寄せてきて、宵子は思ったように進めない。

「どっちから聞こえた!?」
「あっちだろう」
「例の狼騒ぎだよな。もう何件目だ……?」

 それどころか、人の波に流されるようにして、遠ざかりたいほうへと押しやられてしまう。

(帰りたい、のに……!)

 狭い路地に押し込まれた瞬間に、嫌な臭いが鼻を突いた。
 生臭い、鉄さびのような──血の臭いだ。お腹の底がぐるぐると動く感覚に、宵子は口元を押さえる。集まった人たちの、羽織や着物の合間から、恐ろしい光景が見えてしまったのだ。

 望んで見に来たはずの野次馬たちも、怯えたように後ずさり、引き攣った声を漏らす。

「ひどいな」
「やっぱり、若い娘か」
「可哀想に……」

 地面に倒れているのは、赤い着物を纏った少女だった。
 ううん、違う。こんな鮮やかな赤い生地は、普段着にできない。

 着物が赤いのは、少女の首を引き裂いた傷口から流れた血によって染め上げられたからだ。それに、血を失った彼女の肌が青いほどに真っ白で、血の赤が映えるから。

 宵子も、ざあっと音を立てて血の気が引くのが分かった。きっと、死人さながらの真っ白な顔色になっているだろう。
 頭がぼうっとして、ふらついて。立っているのもやっとの彼女の耳に、野次馬の不安そうな囁きが届く。

「医者は?」
「もう遅いだろう。呼ぶなら警察だ」
「ま、まだその辺にいるんじゃないか? 人喰い犬が……!」

 誰かの呟きが引き起こした恐怖は、瞬く間に伝染した。悲鳴のようなどよめきが聞こえたかと思うと、人垣が揺れて、宵子の身体も引きずられる。

(怖い、転んでしまう……!)

 事件現場に押しかけた野次馬は、今や我先にその場から逃れようとしていた。

 抱えた味噌樽を庇いながら、人の身体とぶつかってもみくちゃにされながら。宵子はどうにか身体の均衡を保とうとした。
 頭を上げて、一歩一歩を、ちゃんと地につけて。押されても、突かれても、呼吸を忘れてはいけない。
 味噌樽は絶対に落としてはいけないから、手を使って周囲の人や塀なんかに縋ることができないのが難しいけれど。

 それでも──しばらくの間もがいた結果、宵子はどうにか人混みから逃れて息を吐くことができていた。髪も息も乱れているし、着物もしわくちゃになってしまったけれど、味噌樽は無事だ。

(お屋敷は──大丈夫、道は分かるわ)

 普段使わない通りに出てしまって、不安はあるけれど。首を伸ばして辺りを見れば、洋館の瀟洒しょうしゃな屋根が連なる──つまりは、華族のお屋敷が立ち並ぶ一角は、見て取れた。

(遅くなったら、叱られてしまう……!)

 まずは見慣れた場所に出なくては、と。方角に当たりをつけて、宵子が足を踏み出した、その瞬間だった。

 ぐるるるるる──

 低い獣の唸り声が耳に入って、宵子は飛び跳ねた。恐る恐る辺りを見渡しても、獣どころか人影さえ見えないけれど──先ほどの野次馬の声が、蘇ってしまう。

(人喰い犬が、まだ近くにいるかもしれない……!?)

 恐怖と不安に高鳴り始めた胸を押さえて、宵子は帰路を急ごうとしたのだけれど。前を向こうとした彼女の視界の端に、黒くはやい影が放たれた矢のように躍った。
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