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三章 伝えたい想い

星空の下で綴る思い

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 屋根裏部屋にこもった宵子しょうこは、暁子あきこに押し付けられた学校の宿題を机に広げた。

 部屋の隅にはめ込んだ机に向かうと、斜めに傾いた天井が頭のすぐ上に迫って息苦しさを感じる。まるで洞窟の中にでも閉じ込められたような狭さと暗さだ。
 でも、狭い部屋だからこそ。屋根の形に影響される、屋敷のてっぺんに位置するからこそ。顔を上げれば、周囲の建物に遮られることのない星空が間近に見える。

(あの夜と同じね……星は、どこから見ても綺麗……)

 星の輝きに励まされる思いで、宵子は蝋燭ろうそくともし、すずりすみった。

 女中とほとんど変わらない宵子にとって、蝋燭は好きなだけ使えるものではない。でも、今夜に限っては良いだろう。暁子の宿題のためだと言えば、嫌な顔はされても叱られることはないだろう。

(あの方に伝えたいこと──まずは、日本語で書き出してみよう)

 宵子は、学校に通ってこそいないものの、勉強の量では女学生に負けていないはずだ。暁子の命令に応えるためには、何も分からないままではいられないから。

 だから、帳面に文字や数字を綴る時も、考え込むことはほとんどなかった。

 計算や書き取りをすらすらと進めながら、頭の隅ではクラウスの眩しい銀の髪や、煌めく青い目を思い浮かべることだって、できる。
 たった一度の夢のような時間、異国の美しい人と踊った夜を心の中に蘇らせて、あの方の手の温もりや、控えめな気遣い、ややぎこちなく紡がれた日本語の響きを何度でも大切に味わうのだ。

 そんなことだから、勉強のほうこそ頭の片隅でしか考えていないかもしれない。

 自分の思いをクラウスに伝えられるかもしれない、というひらめきはとても素敵で、けれど簡単なことではないと分かっていたから。
 辞書を使っても、教科書があっても、思ったことを外国の言葉で伝えるのは難しいだろう。クラウスにとっては訳の分からない下手くそな文章に見えるのかも、と思うと込み入ったことは書けないと思う。

(長々と書いても読んでいただけるか分からないし。……呪いのことなんて、お伝えしてもしかたないし)

 犬神いぬがみ、なんて言葉はたぶん辞書には載っていないだろう。外国の方には理解できないだろうし、何より気味が悪いと思われたら悲しすぎる。

 だから──伝えたいのは、もっと別のこと。もっと、根本的なことだ。

(私が──真上まがみ宵子という娘がいたことを、知ってください。暁子とは違う人間なんです。たとえ、としてはお会いできなくても……!)

 宵子は、暁子の影として生きていく定めなのだろう。

 人前に出るのは、暁子を演じる時だけ。暁子が嫌がることを押し付けられるだけで、自分のやりたいことなんてできはしない。思ったことを文字で伝えようとしても、暁子なら笑って破り捨てそうだ。

(それは、どうにもならないこと。諦めるしかないことよ)

 「真上家のもうひとりの令嬢」のことなんて、誰からも忘れられていくのだ。遠くで療養中だなんてことになっているけれど、いずれ死んだことにでもされるのかもしれない。
 呪いを別にしても、口の利けない娘なんて外聞が悪いものだ。両親も、だから宵子を疎ましく思っている。

 暁子に、両親に、宵子という存在は押しつぶされて消されてしまうのだろう。そして、誰も悲しんだり惜しんだりしてくれない。──だからせめて、クラウスに覚えていて欲しいのだ。

(あの夜お会いしたのは、です。暁子ではなかったんです。本当は、もっとちゃんとお話したかった……!)

 一度会っただけの異国の人に、どうしてこうも大それた願いを抱いてしまうのか、自分でも分からない。

 踊ってくれたから? 名前を聞いてくれたから? そんなこと、誰にでもすることなのかもしれない。でも──宵子にとっては初めてのことだった。
 ひな鳥が、最初に見たものを親だと思ってしまうようなもの。あの方は、宵子の人生に初めて輝いた太陽のような存在だった。あまりに明るくて温かくて──だから忘れられないし、慕わずにはいられない。

 蝋燭の芯はもう短くなって、小さな炎は危うく揺らいでいた。帳面を焦がさないように気をつけながら、疲れた目を瞬かせながら、宵子は思いを綴っていった。



 ──貴方様とお会いできたことは私の人生でもっとも嬉しく楽しい、そして幸せなことでした。

 子爵家の娘が、何をおかしなことを申すのだと思われるでしょうか。貴方様がお話になった「真上暁子」は自信に満ちた生意気な娘だったでしょうから、意外に思われるかもしれません。

 私がお伝えしようとしていることは、我が家にとっては醜聞にもなります。知っていただいたところで、お困りになるだけでしょう。
 何をしていただきたいということではございません。ただ、貴方様のお心にしまっておいていただきたいだけなのです。

 以前の夜会で踊ってくださった私。
 あの夜、露台バルコニーに連れ出してくださった私。
 名前を尋ねてくださった私。まともにお答えできなくて、さぞ無礼な女だと思われたことでしょう。

 あれは、真上暁子ではありません。暁子は私の双子の妹。私は、妹の名前を着せられてあの場にいたのです。私は口が利けない役立たずですので、暁子が外国の殿方と踊るのが嫌だと言えば、家のためにも従うほかはありませんでした。

 貴方様が会ったは、宵子といいます。

 宵、は日本語では夕暮れや夜という意味です。
 私の名前の時間に、星空の下で貴方様と会えたことは運命のように思います。だから、困らせてしまうことを承知で、このように立ち入ったことをお伝えしてしまうのです。

 名前の通り、私は夜の闇の中でひっそりと生きる存在でしかありません。私という人間がいたことを知る者は家族以外にはほとんどいません。それは、とても悲しくて寂しいことです。

 あの夜の舞踏のご縁に縋って、貴方様にお願いしたく存じます。
 私という者、真上宵子という娘がいたということを、どうかお心の片隅に留めておいてくださいますように。
 美しく装って楽しく踊ったあの夜の私を覚えていただけたなら。貴方様の心の中には幸せながいると思えたなら。

 そうすれば、何が起きても構わないと思えるでしょう。



 手紙の文章を考えているうちに、宵子は眠ってしまったらしかった。

 気が付くと、彼女はドレスを着てシャンデリア煌めく大舞踏室で踊っていた。
 相手は──銀の髪に青い目の、美しい貴公子。宝石のような目が微笑んで、整った唇が彼女に何かを囁く。
 異国の言葉の意味は分からなくても、優しく気遣ってくれているのは伝わって、宵子の心は喜びに満たされる。足の運びは軽やかで、あのお方と手を取り合って、飛ぶように、波に乗るようにくるくると回る。

 それは、とても綺麗で幸せな夢。目が覚めてしまえば恥ずかしくて堪らなくなるとしても、眠っている間は気付かないでいられる。

 朝日が目蓋に刺さる眩しさに覚醒した時、宵子は広げた帳面に顔を突っ伏していた。蝋燭の灯は、とうに燃え尽きていた。

(……お腹が、空いたわ)

 墨が顔についているかもしれない、と頬をこすりながら、宵子はお腹がきゅう、となるのを聞いた。思えば、昨日からろくにものを食べていない。

 夜遅くまで根を詰めたからだろう、頭は重いし、不自然な体制で眠りに落ちてしまったから身体の節々がきしんで痛い。

 でも──夢の名残のお陰か、不思議と心は軽やかだった。
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