恋の始め方間違えました。

森野きの子

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番外編

*1

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 日和見菌は、悪玉菌にも善玉菌にも、優勢な方に変化して加担する。ってテレビでいっていたっけ。
 成子美也は職場全体がなにかに似ていると感じて、数分後に答えを見つけた。
「だから、外回りの前に朝イチで書類に目を通してサインしておいて下さいって言ってましたよね?! なんでたったそれだけのことに二日かかるんすか! どうせ忘れてたんでしょ? なんであんたそんなに使えねーんだよ!」
 バンッとデスクに掌を叩きつけ怒号を浴びせるのは、営業部一の鼻つまみ者、益子佑典。
 彼に怒鳴られたのは営業部長の須藤。彼の上司のはず。室内はびりびりに張り詰めた空気に、重い沈黙で非常に息苦しい。
「クソッ!」
 社会人にあるまじき言葉を吐き捨てた益子は次の商談があるらしく、サインさせた書類をひったくると、再び出ていった。
「ふ~っ。怖っ。あのひといっつも一人でイライラしてるよね」
「だって一人でうちの売上底上げしてくださってますもん。逆らえませーん」
「今もうトータルで十五億はとってるんだって。次は東区の総合病院みたいよ。百億狙ってるんじゃない?」
「ひゃー。凡人のおれには無理っすよ。おれなんてこないだ六千万の契約取ってきたのに怒鳴られたんだぜ、そんなんで安心してる場合じゃないとかさー。マジ勘弁」
 美也の右隣の席の男性社員が大振りな動作で手を振り、美也のマグカップにぶつかって、中身を撒き散らしながらデスクから落ちた。
「あちゃ。ごめん」
「いえ。大丈夫です」
 と冷静に対応したけれど、冗談じゃない。心中は烈火のごとく怒りを感じていた。
 あなたがこぼしたのはただのコンソメスープじゃない。一流ホテルの試行錯誤と経験と伝統とプライドが詰まった歴史の産物なのだ。と熱い説教を喰らわせたいが、堪えている。
 そして、さらに冷静になり、つけ加えた。
 どうせお取り寄せの缶詰めだけれど。

 美也は給湯室にいき、マグカップを洗い、床を拭くために二枚雑巾を用意した。濡れたものと乾いたもの。彼女が後始末をしている間も原因の彼は他の女性社員とペチャクチャ喋っている。
 美也がこの会社に入社したのは今年の四月。以前保険会社の営業所に勤めていたのだが、セクハラに悩まされ辞職。二十六歳になってからの中途採用でようやく二ヶ月が経つ。
 だから時々話題に上る、『営業部のBIG3黄金期』を知らない。真壁、益子、織部。パッと聞けば焼き物の話かと思うけれど、そうではないらしい。耳にするところによると、この三人だけで今の目標金額くらいは三ヶ月でクリアできていたという。
 しかし、五年前に真壁氏はヘッドハンティングで大手へ、織部氏は不祥事で退職してしまった。益子氏だけが残っている。彼らの喪失で会社の売上は激減。三本柱が一本になればそれは仕方ないことだろう。
 それにしても、噂話と愚痴ばかり。美也は思う。益子氏ほどはなくとも他の人たちももう少し、やる気を出せばいいのに。
 今日は先輩の秋元よし子と十一時に得意先へ訪問することになっているが、肝心の彼女の姿が見えない。予定が記入してあるホワイトボードを確認すると外回り午後帰社とある。
 まさか、置いていかれたのだろうか。ひやりとして席を立ち、廊下で支給された携帯電話で秋元に電話した。コール後、留守電に切り替わり、美也は用件を吹き込んだ。
「成子です。本日宮原さんのお宅にお伺いする予定ですが、現地集合でしたでしょうか。確認不足で申し訳ありません。また電話します」
 電話を切ってすぐに秋元から折り返しかかってきた。
「もしもし、成子です」
「あ、ごめーん。ナリコちゃん。宮原さんちわかるよね?」
「え? 宮原さんのお宅……。はい。一度お伺いしましたけど」
「じゃあさ、一人で行けるよね。アタシ用事入っちゃってー。ナリコちゃんもともと営業やってたみたいだし、宮原さんは昔からのお客様だから大丈夫だと思うんだぁー。お願いできるかなぁー?」
「そ、そんな。私一人で大丈夫なんですか?」
「だぁいじょぶよ。リフォームのカタログ渡してくるだけだし。あ、行きにどこかで菓子折り買うの忘れないでね。じゃ、よろしくね」
 ほとんど一方的に電話を切られた。
「おい。成子」
 途方にくれていた美也の背後から、怒ったような益子の声がした。
「男子便所の入口塞いでんなよ」
 顔でも洗っていたのか、ハンカチで口元を拭っている。
「申し訳ありません。気づきませんでした」
 美也は頭を下げたが益子は足早に行ってしまった。
 たしかに怖い。けれど、彼には時間が足りないのだろう。ゆっくり歩いたり、誰かと談笑しているところを見たことがない。つねに早足か小走りだ。
 悠長に見送っている場合じゃない。美也は慌てて荷物を取りにオフィスに戻った。
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