恋の始め方間違えました。

森野きの子

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#25

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 やっぱりというか、去るものになるべく与えたくないらしい。別にいてもいなくても構わない扱いの私はすっかり自由の身になった。最後に私にしては珍しく分厚い封筒をもらい、衣装から着替えて裏口から出た。
 悪臭を放つ青いポリバケツや、謎のヘドロ。小さな飲み屋から漏れてくる悦に入った誰かのカラオケや酔っ払いの小競り合いやら、ホステスたちのかしましい笑い声、野良猫の喧嘩。掃き溜め特有の生命力みたいな熱気が湿気た空気となってまとわりついてくる。そうか。雨が降りそうなんだ。夜空はどんよりと雲が低くたれこめている。
 店の前に見映えのいいスーツ姿の男が二人。
「あ。来た」
 私に気づいて益子が手を振る。私も振り返す。
「さて。この後どうする?」
 真壁さんが言う。
「この後って。なんすか3Pのお誘いですか」
「ついに益子と兄弟の契りを交わす日が来るとは」
「やったな、織部。宮本武蔵じゃん」
「……えっと。どこからどこまでが冗談?」
 両サイドが壁みたい。真壁さんと益子を交互に見る。
「織部次第かな」
「人前でやんの初めてだから勃たなかったらごめんね?」
「俺も」
「これ、ボケ倒していくスタイルですか? そんなにしたいならお二人でどうぞ」
「久しぶりに三人揃ったの、嬉しくないか?」
 真壁さんが笑いながら言った。
「織部はそんなことより早く真壁さんと二人になりたいんだよな」
「ちょっとやめて! 人を薄情者扱いしないで」
「気持ちはわかるよ」
 真壁さんが慰めるような声で言った。
「真壁さんまで!」
「でも、織部は益子になら本音で話すだろ?」
「ほら、猫被ってんのバレてんぞ」
「うっさいなー」
「いずれ俺に飽きてフラッと浮気されるならいっそ共有しとくべきかな」
 なんかとんでもないこと言い出した。
「真壁さん。お気を確かに。俺今さら再就職先探すのなんか真っ平です。むしろ働きたくないんで嫁にしてもらっていいっすか」
「バツが増えたら考える」
「考えるのかよ!! 考えなくていいよ!!」
 と、益子ですらボケ倒すのを諦めた。
「冗談はこれくらいにして。飯でも行くか?」
「いや、さすがに俺、ムラムラしてるカップルのダシにされたくないんで帰ります」
「もうがっつくほどそんなに若くないんだが」
「飯食って満腹になると性欲薄れるらしいですよ。な? 織部」
「いきなり振らないでよ。でも、なんか焼肉食べたくなってきたんですが」
 と真壁さんにお伺いする。
「焼肉か。いいな」
「せっかくだし三人で行こうよ」
「いや、だから、俺は……」
 と、渋る益子の腕を取る。もちろん真壁さんの腕も。
「スーツの色男両手に侍らせて贅沢の極みだわ」
「成金マダムか、お前は」
 益子が呆れていう。
「まあ、いいじゃないか。金なら出すぞ」
「あざーっす。ごちになりまーす。織部、どこにする? やっぱ紅蘭? 俺の最近のオススメは大燦園」
「えー。どこそれ、知らない」
「大きな声じゃ言えないけど。幻のレバ刺しが」
「真壁さん!」
「いいよ。織部が行きたいならどこでも」
「レバ刺しー!」
「声がでかい。つーか、焼くていで出てくるからな。自己責任だぞ」
「うん。大丈夫。承諾した」
「食い意地で死ぬタイプ」
「益子は? 過労死?」
「腹上死という名のな」
「俺もそれがいい」
「真壁さんの場合、遺された織部が大変じゃないっすか。事情聴取とかプレイ内容語らせられたり」
「そんなのやだー!」
「確かにそれは死ねないな」
「俺が刑事ならニヤニヤしながら聴くわー」
 表通りに出て、タクシーを拾う。真壁さんと私が後部座席に乗り、益子が助手席のドアを開けて、運転手に私のアパートがある地名を告げた。
「じゃ、末永くお幸せに。」
 そう言うとドアを閉めた。
「さすがだ」
 真壁さんはそういって笑いながら、益子に手を挙げて見せた。タクシーが発進する。
「ずるいヤツ
「いい男だ。よく惚れなかったな、織部」
「私と話すとき、いい男感ゼロですよ」
「え。じゃあ、俺だけあいつがいい男に見えるのか?」
「もしかして、ここにきて私に恋のライバル出現ですか?」
「だったら戦ってくれるか?」
「真壁さんが心変わりしたなら私が戦っても無意味じゃないですか?」
「馬鹿。変わるわけないだろ」
「よかった。あ、真壁さん。着替えなら明日のスーツまで心配いりませんからね」
「明日は俺も休みなんだよ」
「真壁さんにも休みという概念がおありでしたのね!」
「日曜日はゴルフで、月曜日から三日間出張で台湾なんだ。一緒に行くか?」
「パスポートの期限が切れているのでいけません。それに、新しく見つけた仕事の勉強もあるので」
「そうか。どんな仕事を見つけたんだ?」
「アロマオイルを使ったリンパドレナージュです。女性専用のサロンで勉強させてもらってるんです。平たくいうと、オイルマッサージです」
「そうか。ホステスより向いてそうだな。将来的には独立したいのか?」
「そうですね。一人でも生きていけるように手に職をつけようと思ったので」
「中央区と駅前と城西区に三つマンションを持ってる。織部が店を出せるようになる頃にはどこか空室がでるかもしれない。あるいはサロン併設の家を建ててもいい。そしたら子供がいても続けられるだろう?」
 提案が想像を突き抜けて斜め上空だから返答に詰まる。
「もし、子供ができなかったらどうします?」
「その時はその時で養子を貰ったり、二人で好きに暮らすのもいいんじゃないか?」
「そして倦怠期には益子を巻き込むんですね」
「まさか本気に?」
「どうしてそこでボケ倒してくれないんですか!」
「織部が云うと洒落にならん」
「ひどい!」
「それはそうと飯はどうする」
 真壁さんは苦笑しながら話を変えた。
「三人だったら焼肉ですけど、二人なら食い気より色気ですね」
「言うじゃないか」
「まっすぐ帰りましょう。寂しくお茶漬けでもいかがです?」
「正直なところ焼肉よりそっちがいい」
 悪巧みするように微笑み交わし、手を重ねる。もちろキスはしない。
 しばらくしてアパートに着き、タクシーから降りた。鍵を開けていると、真壁さんは少し離れた距離に立っていた。
「どうしたんですか?」
「なんでもない」
「本当ですか?」
 部屋の中に入って、何も仕掛けてこない手に不安を覚えて、指を握ると、ゆっくりと手繰り寄せるように抱きしめられた。
「真壁さん……」
 逞しい腕と胸板に抱き留められ、なんだかようやく人心地着いた。
「……もう、離れなくていいんだよな」
「ええ。私という女がどれほど良いものかわかりませんけど」
「それなら俺という男がどれほど良いかだってわからない」
「私はこの世で一番だと思ってます」
「俺だって」
 唇に触れるだけのキスを交わして、靴を脱いだ。お風呂の準備をして、上着やネクタイを預かって衣紋掛けにかけて、とりあえず寛いでもらうために、お茶でも淹れることにした。
 緑茶のはいった湯呑みをテーブルに置くと、ありがとうと云って、一口飲んだ。彼の落ち着いた雰囲気が好ましい。
「あの。」
「うん?」
「愛してるって、言ってもらえませんか?」
「そんな詐欺師やペテン師でも吐ける言葉、言いたくない」
「ひどい」
「しっくりこないんだよ」
「まだ言ってもないのに、先入観だけで決めつけるなんて愚かしいと思いませんか?」
「薄っぺらい響きだ。“愛してる”なんか」
 と、吐き捨てるように云って、私を見た。
「そんなに睨むなよ」
「どうしてそんな言葉一つくらいくれないんですか?」
「だから、言ってるだろ。薄っぺらくて胡散臭いからだ」
「私は真壁さんを愛してます。これも薄っぺらくて胡散臭いですか?」
「いいや、可愛い」
 真顔でいうからこっちが恥ずかしくなる。
「だったらどうして」
「織部が云うと可愛い。俺が云うと胡散臭い」
「それは言われた私が決めることです」
 真壁さんは再び湯呑みを口に運び、喉を潤すと、テーブルに置いて、なにか思案するように視線を動かし、額に手を当てた。
 そんなに嫌なの?
 ふと、手を取られて、視線が合う。
「涼子。愛してる」
 今まで感じたことのない気恥ずかしさが一気に全身を駆け巡り、歓喜で体が震えた。
「詐欺師でもペテン師でもいいです」
「馬鹿言うな」
「薄っぺらくも胡散臭くもないです。ただただ嬉しいです」
「そうか」
「恭一さん」
「んんっ……。うん?」
 咳払いをしながら、右手で顔を撫でるような仕草をする。
「名前を呼ばれるのって結構くるな」
「そうですね」
 横座りで肩にもたれかかると、肩や背中を優しく撫でられた。私は、恭一さんの空いているほうの手を両手で握り、長い指や形のいい爪を慈しみを込めて揉んだり撫でたりした。指の一本、爪のひとつまできれい。私の手遊びを眺めて黙っている。だんだん、ただの手のひらマッサージみたいになってしまうけれど、なんなら気持ちよくさせたい。つるつるした爪や骨張った指を夢中になって弄っていると、肩を抱いていた手が親指による指圧に変わった。
「あ……。気持ちいいです」
「だいぶこってるな」
 なんだか流れで恭一さんの胡座の上に座らされ、肩の指圧を受けることになってしまったのだけれど、こんなことをしてもらっていいのか困ってしまう。
「あの……、いいんでしょうか?」
「痛い?」
「いいえ。気持ちいいです」
「ならよかった」
 ぐーっと指の腹の圧が、こりの中枢を押し当てる度に、ズーンと響く。強さも長さも絶妙で、ぞくぞくと肌が粟立つ気持ちよさだ。じんわりと肩周りが温かくなってきた。
「マッサージお上手ですね」
「よくやらされたからな」
「お母様に?」
「そう。あとは着付け。着物着たいならいつでも着せてやれるぞ」
「すごいですね。私はできません。着物も持ってないですし」
「そうか。なら明日とくに予定もないし、着物でも見に行くか」
「ええ? 恭一さんは着物持ってらっしゃるんですか?」
「お客さんに誘われて相撲や歌舞伎を観に行くときにな。着ていくと、存外ウケが良いんだ。特に年配の女性から」
 でしょうね。気づいていらっしゃらないようだけど、絵面はそれこそ若いツバメと老いらくの恋でしょうし。相当絵になるに違いない。想像して思わず胸が熱くなる。
「そうなんですか。いいですね。着物で一緒にお出かけしてみたいです」
「これからいくらでもできる。楽しみだな。きれいだろうな。涼子は色が白いから」
 この人、糖度も高い。肩にキスが落とされ、ウエストの辺りに腕が巻きついた。
 大事に、柔らかく、宝物を撫でるように扱われて、なんだか緊張してしまう。
「嫌か?」
 耳朶を声で擽られ、すっかり好い気持ちにさせられる。
「嫌なことなんて、一つもありませんよ」
「そうか。なら、よかった。」
「ただ、なんだか、少し、恥ずかしいといいますか。くすぐったいといいますか」
「そのうち馴染むさ。馴染んで離れられなくなればいい」
 これは果たして、熱情の口説か、はたまた悪魔の囁きか。
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