恋の始め方間違えました。

森野きの子

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#23

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 シャワーを浴びたあと、ベッドの上で携帯電話を握りしめ、頭の中で自問と言い訳で忙しい。仕方ない。卑怯だとわかっているけれどーーー。

 三回目のコールで繋がる。

「はあぁ? かける相手間違ってんじゃねーの?」
 電話口というより、さっきの延長。不思議なくらい益子は私に緊張させない。
「うるさい。益子のせいだからね」
「なにが」
 ちょっとトーンを落とした声色に優しさを感じる。
「私、真壁さんにヤリ捨て女って思われてるの?」
「いや、知らんけど、エロいことして付き合ってないならそーなるんじゃねーの? そんなに気になるなら本人に聞けよ。今ならまだ余裕で起きてるだろ」
「かけられない」
「甘えんな」
「違う。本気で」
「知るか。お前、脈なしだろうが飛び込みしてた現役時代思い出せ。根性見せろ。」
 部活の先輩でも言わない台詞。顧問かこいつ。でも、この素っ気なさが心地いい。
「もーやだ。スパルタ」
「日和ってんじゃねーよ」
「もーやだ。ほんと、やだ。」
「やだやだぐだぐだ言ってる暇あったら行動しろ。当たって砕けろ。玉砕したら焼肉くらい奢ってやるよ。紅蘭の」
 ほどよく飲んでしっかり食べたら一人二万五千円は固い焼肉屋の名前が出て、ちょっと気持ちが変わる。食べ物に釣られてる自分が情けない。
「上ミノと厚切りタン塩は絶対だからね!」
「はいはい。わかったわかった。つーか、甘える相手間違ってんぞ」
 ブツッ、と一方的に終了。でも、心の準備がまだ。深呼吸。電話するのにもこんなに勇気がいるのに、直接会いに来た真壁さんってすごすぎない? 私、電話だけでも震えてるのに。無理。無理だって。ヤリ捨てなんかじゃないですって電話で弁解してなんになるの。
 それで、声を聞いたら、絶対、欲情する。後腐れなくいきたい。割り切りたいのに。終わらせたいのに。

 全部、嘘。

 声を聞かなくても、思い出すだけで欲情する。後腐れありまくる。割り切れない。終わらせたくない。往生際が悪いのは重々承知。
 とっくに呆れられて、見限られたというのに、スーツ一式も捨てられないまま、クリーニング済みのビニールを被って押入れの中で吊るされている。
 電話なんて、かけられるわけがない。いや。かけたところで、もう出てくれるはずがない。電話を置いて、布団を被る。さあ寝よう。からだの奥に仄かな欲情が揺らいだけれど、目を閉じてやり過ごすことにした。文字通り、自らじゃ手に負えない。

 翌日の目覚めは、思いの外、スッキリしていた。なんだか飲んで帰った翌日とは思えないくらい、体が軽い。昨夜、幻想に負けなくて良かった。
 シャワーを浴びて、着替えと化粧を済ませて、コーヒーを飲んで、いつもより少し時間をかけて歯を磨いた。今日から、夜の仕事を辞めて、先日お世話になったリンパドレナージュのお店でレッスンを受ける予定だ。あのあとネットで調べて、SNSで研修生を募集しているのを見つけた。レッスン五回十五万円で、基本的な手技を教えてくれる。やる気があれば、お店で実践を兼ねてお客様を充ててくれる。最初の一ヶ月はお給料はでないけれど、それ以降は歩合制で、お給料を貰いながら経験を積ませてもらえる。
 とにかく一歩を踏み出さなきゃ、前を向くことも、周りを見渡すこともできない。
 十時の予約に合わせて部屋を出た。午前中のうちに目的を持って出かけるのは久しぶりかもしれない。なんだか緊張する。こんなのは入社試験以来かもしれない。
 ふと、あの人の言いつけ通り行動している自分が可笑しくなる。本当に私ときたら、あの人次第。もう、どうしようもない。下手な考えは休むに似たり。このままでいよう。いつか、本当に思い出になるまで、恋心を忘れようとすることを忘れよう。諦めることを忘れよう。

 あの日、私に手技を施してくれたのは、リンパドレナージュサロン、ラベンダームーンのオーナーである望月紫さん。私より七つ歳上なのに、私より肌が綺麗でみずみずしい。まずは、服を着たまま、120分、オーナーの手技を受ける。その間に手技の手順と注意点を説明されて自分の肌で感覚を知り、実技が終わると、十五分の休憩をして、オーナーお手製のテキストを貰い、別室で先輩従業員の中里美幸さんから、一時間、アロマオイルの症状別の効能や効果、禁忌などの説明を受けた。半年に一度アロマテラピストの資格試験があるらしい。将来的に一応持っていてもいいんじゃないかと勧められ、オーナーお手製のテキストの他に、そこの認定アロマオイル辞典もついていた。学ぶことがたくさんある。新しい始まりがあるのだと再確認して、胸が弾んだ。ゆっくりと見えないはずの目の前が拓けていくのを感じた。
 昼過ぎにラベンダームーンをあとにして、駅ナカのコーヒースタンドでサンドイッチとコーヒーで昼食をとることにした。勉強と癒しの空間のおかげで、少し頭がぼんやりしているけれど、心地よい疲労感だった。来月にテラピストの試験が開催されるのを思い出して、テキストと辞書を開いた。けれど、頭が働かない。ほんの一杯アルコールを摂取した時のような、薄い膜一枚の感覚の鈍さ。
 着信音に急かされ、バッグから携帯電話を出して、耳に当てる。
「はい。もしもし」
「どこにいる?」
「えっ。真壁さん!?」
 心臓爆発したかと思った。声もうらがえっちゃったし、恥ずかしい。それにちょっと混乱してる。どうして、真壁さんから電話が?
「そうだよ。なんだお前。俺の番号登録すらしてくれていないのか」
「違います。番号確認せずに出ちゃったんです。というより、かかってくるなんて思いもしなかったので」
「なんでだ?」
「なんでって、ごっこ遊びはたくさんだっておっしゃってたじゃないですか」
「俺は遊びじゃないし、一度断られたくらいで折れるような精神でもない」
「それは、五年前に見習うべきでした」
「いや、あの時ならこうはいかなかった。すぐに海外に飛ばされたしな。」
 あれ? 益子が言ってたメンタルくそやばって、そっち? 
「そんなことより、益子から聞いた。今夜で辞めるんだってな。思っていた以上に行動が早い。さすがだな」
「どうせ私はあなたの忠犬ですから」
「口だけだとわかっていても嬉しいよ。」
 自ら言っといて恥ずかしいけど、たぶん、これ喜んでないし、笑ってすらいない。
「同伴するって約束してただろ? どこか行こう」
「今、駅ナカのコーヒースタンドでサンドイッチとコーヒーのお昼御飯中なんです」
「断られているのか?」
「私が断るとお思いですか? できればすぐにでもお会いしたいです」
 受話器越しの静寂に不安が過る。
「私が……勝手なことを申し上げているのは、重々承知の上です」
「……すぐ行くよ。」
 きゅんと、全身が反応する。
「でも、駄目なんです。」
「なんでだよ」
「食事制限のダイエットなどされたことありますか?」
「我慢するくらいなら動けばいいだろ」
 あの肉体カラダにプロテインとスムージーじゃ、割に合わないんじゃないかしら。接待で美味しいものを食べているとしても。
「お話になりません」
「なんだそれ」
「ストイックな真壁さんと違って私は意思が弱いので、今、お会いしたくないんです」
「俺のどこがストイックだ? 弱くていいじゃないか。部屋なら用意ーー」
「わああ。全然よくないです」
「知らない仲でもないのに。もうやることやっといて今更なにをごちゃごちゃ云うんだって思ってるけど、まあ。織部は俺に誠意を見せてるつもりなんだろうし、好きにさせておこうとも思っている。けど、もう離れる気はない。どうせお前は困っても連絡してこないだろうし、通報されるまでは俺から粘るよ」
「通報されるまでって……。水商売上がりの女にうつつを抜かしていてよろしいんですか、常務」
「それを云うなら、水商売上がりくらい、俺にはおあつらえ向きだろ。割れ鍋に綴じ蓋だ。むしろお前は俺のことより自分とご両親の心配をしたほうがいい。」
「私と両親の?」
「俺みたいな男にたぶらかされてていいのか?」
「私はいいです。それに少なくとも両親は、あの頃の私が如何に真壁さんを尊敬していたか知ってますし、離婚の原因はその日に電話で話しました。ホッとした半面、悔しくて母に愚痴ったんです。もちろん、栄転のことも」
「筒抜けなのか……。それはそれで、なんだかなあ……」
「すみません。あ。でも、異性として見ていたことは伏せてますよ?」
「伏せて、ねぇ。」
「まあ。正直、駄々漏れだったと思いますけども」
 真壁さんが笑う。
「五年前ならまだしも、私なんかより若くて可愛い子はたくさんいますよ」
「若いつばめなら季節かぜが変われば飛び去るだろうが、古い犬はそうはいかない」
「古い犬? 私のことですか?」
「違う。俺のことだ。若くもないが老犬とまでは老いぼれてないつもりなんでね」
「確かに」
「実を言えば、いますぐ俺のものになれとは思っていないんだ。もしかしたら長いかもしれないこれから先を一緒にいられるように、織部自身が納得した上で、俺に応えてほしい。」
 感極まって涙が出た。私はこんなにも思ってもらえる人間なのか。
「……私で……いいんでしょうか?」
「訊かなきゃわからないことか?」
「……聴かせてください」
「織部じゃないとだめなんだ」
「今死んでもいいです」
 人目も憚らず、涙が止まらない。こんな幸せなことがあるんだろうか。
「いや、死なれたら俺が困る。」
「死にませんけど。それくらい嬉しいんです」
「わかってるよ。じゃあ、またな」
「はい。」
 電話が終わって、急いで涙を拭った。
 不埒なくせに、私はなんて幸せなんだろう。同時に申し訳なくて、苦しくなった。浮かれてる場合じゃない。幸せの分、胸の中の鉛が重い。
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