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◆悪魔の嫌がらせ
逃げる羊、追いかける狼 5
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「ちょ、ちょっと待ってください! どうしてですか?」
身を乗り出した杏香は、食い下がるように部長に訴えた。
はいそうですかと聞ける話ではない。つい最近の志水のように時期外れの異動もあるにはあるが、はっきりとした理由があるはずだ。
「どうして、この時期に、どうして私が異動なんですか? おかしいじゃないですか。普通は年明けとか年度の切り替え時ですよね?」
興奮ぎみの杏香をたしなめるように、右手を上下に揺らした倉井課長が、「まぁまぁ落ち着いて」と、困った顔をする。
だからと言って落ち着いてはいられなかった。
「わ、私、会社を辞めようと思っているんですっ! 退職届も今日持ってきていて」
思い切り宣言した。今こそ提出しなければ。
「えっ」
総務部長と倉井課長がギョッとしたように目を剥く。
「すみません、でも、そう考えていたのもあってお休みをもらったんです。秘書がイヤだとか、咄嗟に思いついて言ってるとかではないんです。異動してすぐに辞めるわけにもいかないですし、すぐに辞表を提出しますので」
退職届を持ってこようとして席を立とうととすると、二人が焦ったように腰を浮かせた。
「待て待て、樋口さん。辞めたい理由はなんだ?」
続けて倉井課長も聞いてくる。
「なにかあったの?」
揃って心配そうに杏香を見る。その声は責めるわけではなく、どちらかといえば優しさを帯びていた。彼らを責めたところでお門違いだとわかっている。
目の前の二人が言い出した人事ではないことくらい、杏香にもわかる。年末の総務は忙しい。
今自分が退職を強行すれば人事異動が不満だと受け取られるだろう。どうせ辞めるのだからなにを言われても構わないが、お世話になった上司を困らせる形で辞めたくはない。
昨夜考えた退職の言い訳はなんだったか? ちゃんと説明しようとしたが、秘書課への異動を知らされたショックで頭の中が真っ白になってしまった。
「それは……」とは言ったものの先が続かない。
杏香はうつむいて、開きかけていた口を閉じた。
秘書課に行きたくない理由も辞めたい理由も同じ。ひとつしかない。でもそれだけは、どうしても言うわけにはいかない。言えるはずがないのだ。
はぁ、っと咥内で密かにため息をつき、杏香はあきらめたように答えた。
「ネガティブな理由ではないんです。すみません。他の世界も見たいと思ったり……。そもそも私が秘書だなんて、無理ですよ」
「自信がないのか? なにを言ってるんだ、君らしくもない。もともと君にはいずれ秘書課に行ってもらう予定だった。少し早まっただけなんだよ?」
「えっ? いずれ……ですか?」
部長はうなずく。
「自信を持ちなさい。それに、新しい世界なら秘書課でも見れるだろう? キャリアアップになるし、決して悪い話じゃないと思うぞ?」
倉井課長も「樋口さん」と呼びかける。
「辞めるにしても秘書はいい経験になるんじゃないのかな」
抵抗したところで辞令は変わらない。それは人事を取り扱う総務部にいて杏香も十分にわかっている。
課長が言う通り、辞めるにしてもいったんは秘書課に行くしかないのか……。
顔をあげた杏香は、やけくそな気分のままぺこりと頭を下げた。
「わかりました。秘書課でがんばってみます」
「おお、そうかそうか。なーに君なら秘書課でも上手くやっていける。大丈夫、大丈夫」
ホッとしたように部長が相好を崩す。
人の気も知らないでと心の中で悪態をつきながら、杏香は作り笑顔でまた頭を下げた。
それにしても――。颯天がこの人事異動を知らないはずはない。仮に関係していなかったとしても、ここまで話が進む前に彼に稟議が回り、了解をとっているはずなのである。どうしてそこで反対しないのか。
一度は引いた椅子を戻しながら、杏香は部長に聞いた。
「あの、部長。この異動はいつ決まったんですか?」
部長は、「あぁ……」と言葉を濁した。
「うん、実は先週なんだ。秘書課でどうしても人が足りなくてね」
「そうですか……。本当に急なんですね」
「ああ、そのようだ。じゃあ、よろしく」
「はい」
部長と課長が先に会議室を出たところで、杏香は立ち止まった。
「――先週?」
もしかして私が泊まったりしたから彼は勘違いしている? 別れは、なかったってことになっているの?
そこまで考えて、でも待てよと首を傾げた。
仮にそうだとしよう。でも普通に考えれば、付き合っているとは誰にも知られたくないはずだ。それをわざわざ近くに置くとなると。まさか、まさか。
個室を持つ専務と秘書が、人目がないのをいいことに、あんなことやこんなこと……。
――愛人への道まっしぐら?
(いやああああああ!)
脳裏に浮かんだくぅ颯天が、悪魔ようにニヤリと口角を歪める。
「ひ、樋口さん? 大丈夫かい?」
突然立ち止まって頭を抱え込んだ杏香に、倉井課長が慌てた。
「だめです。課長、異動阻止してくれないと、私暴れます」
「えええ? そ、そんなぁ」
落ち着いて考えれば、ありえない。第二倉庫の事件は別として、悪魔ではあっても彼はプライベートと職場をごっちゃにはしないだろう。
せいぜい冷ややかな目でしごかれるのが関の山だ。
「じょーだんですよ」
がっくりと肩を落とした杏香は、トボトボと歩き始めた。
結局また逃げそびれたと、ため息をつく。
身を乗り出した杏香は、食い下がるように部長に訴えた。
はいそうですかと聞ける話ではない。つい最近の志水のように時期外れの異動もあるにはあるが、はっきりとした理由があるはずだ。
「どうして、この時期に、どうして私が異動なんですか? おかしいじゃないですか。普通は年明けとか年度の切り替え時ですよね?」
興奮ぎみの杏香をたしなめるように、右手を上下に揺らした倉井課長が、「まぁまぁ落ち着いて」と、困った顔をする。
だからと言って落ち着いてはいられなかった。
「わ、私、会社を辞めようと思っているんですっ! 退職届も今日持ってきていて」
思い切り宣言した。今こそ提出しなければ。
「えっ」
総務部長と倉井課長がギョッとしたように目を剥く。
「すみません、でも、そう考えていたのもあってお休みをもらったんです。秘書がイヤだとか、咄嗟に思いついて言ってるとかではないんです。異動してすぐに辞めるわけにもいかないですし、すぐに辞表を提出しますので」
退職届を持ってこようとして席を立とうととすると、二人が焦ったように腰を浮かせた。
「待て待て、樋口さん。辞めたい理由はなんだ?」
続けて倉井課長も聞いてくる。
「なにかあったの?」
揃って心配そうに杏香を見る。その声は責めるわけではなく、どちらかといえば優しさを帯びていた。彼らを責めたところでお門違いだとわかっている。
目の前の二人が言い出した人事ではないことくらい、杏香にもわかる。年末の総務は忙しい。
今自分が退職を強行すれば人事異動が不満だと受け取られるだろう。どうせ辞めるのだからなにを言われても構わないが、お世話になった上司を困らせる形で辞めたくはない。
昨夜考えた退職の言い訳はなんだったか? ちゃんと説明しようとしたが、秘書課への異動を知らされたショックで頭の中が真っ白になってしまった。
「それは……」とは言ったものの先が続かない。
杏香はうつむいて、開きかけていた口を閉じた。
秘書課に行きたくない理由も辞めたい理由も同じ。ひとつしかない。でもそれだけは、どうしても言うわけにはいかない。言えるはずがないのだ。
はぁ、っと咥内で密かにため息をつき、杏香はあきらめたように答えた。
「ネガティブな理由ではないんです。すみません。他の世界も見たいと思ったり……。そもそも私が秘書だなんて、無理ですよ」
「自信がないのか? なにを言ってるんだ、君らしくもない。もともと君にはいずれ秘書課に行ってもらう予定だった。少し早まっただけなんだよ?」
「えっ? いずれ……ですか?」
部長はうなずく。
「自信を持ちなさい。それに、新しい世界なら秘書課でも見れるだろう? キャリアアップになるし、決して悪い話じゃないと思うぞ?」
倉井課長も「樋口さん」と呼びかける。
「辞めるにしても秘書はいい経験になるんじゃないのかな」
抵抗したところで辞令は変わらない。それは人事を取り扱う総務部にいて杏香も十分にわかっている。
課長が言う通り、辞めるにしてもいったんは秘書課に行くしかないのか……。
顔をあげた杏香は、やけくそな気分のままぺこりと頭を下げた。
「わかりました。秘書課でがんばってみます」
「おお、そうかそうか。なーに君なら秘書課でも上手くやっていける。大丈夫、大丈夫」
ホッとしたように部長が相好を崩す。
人の気も知らないでと心の中で悪態をつきながら、杏香は作り笑顔でまた頭を下げた。
それにしても――。颯天がこの人事異動を知らないはずはない。仮に関係していなかったとしても、ここまで話が進む前に彼に稟議が回り、了解をとっているはずなのである。どうしてそこで反対しないのか。
一度は引いた椅子を戻しながら、杏香は部長に聞いた。
「あの、部長。この異動はいつ決まったんですか?」
部長は、「あぁ……」と言葉を濁した。
「うん、実は先週なんだ。秘書課でどうしても人が足りなくてね」
「そうですか……。本当に急なんですね」
「ああ、そのようだ。じゃあ、よろしく」
「はい」
部長と課長が先に会議室を出たところで、杏香は立ち止まった。
「――先週?」
もしかして私が泊まったりしたから彼は勘違いしている? 別れは、なかったってことになっているの?
そこまで考えて、でも待てよと首を傾げた。
仮にそうだとしよう。でも普通に考えれば、付き合っているとは誰にも知られたくないはずだ。それをわざわざ近くに置くとなると。まさか、まさか。
個室を持つ専務と秘書が、人目がないのをいいことに、あんなことやこんなこと……。
――愛人への道まっしぐら?
(いやああああああ!)
脳裏に浮かんだくぅ颯天が、悪魔ようにニヤリと口角を歪める。
「ひ、樋口さん? 大丈夫かい?」
突然立ち止まって頭を抱え込んだ杏香に、倉井課長が慌てた。
「だめです。課長、異動阻止してくれないと、私暴れます」
「えええ? そ、そんなぁ」
落ち着いて考えれば、ありえない。第二倉庫の事件は別として、悪魔ではあっても彼はプライベートと職場をごっちゃにはしないだろう。
せいぜい冷ややかな目でしごかれるのが関の山だ。
「じょーだんですよ」
がっくりと肩を落とした杏香は、トボトボと歩き始めた。
結局また逃げそびれたと、ため息をつく。
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