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◆将を射んと欲せば
天使か悪魔か 7
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そして杏香は――。
坂元にメッセージを送ったあと、緊張を浮かべながらスマートフォンの画面を見つめていた。
夜の十一時。メッセージを送るには遅すぎるとは思う。やはり明日の朝まで待ったほうがよかっただろうか? 既に送ってしまったというのに、せんないことを考えて不安になってしまう。
「あっ」
既読がついた。
緊張は更に高まってくる。息苦しい思いでそのまま凝視していると、数秒の間を置いて返信が表示された。
『あさっての午前中でしたら時間がとれますが、いかがでしょう』
あさっては日曜日。なんの予定もない。明日も実家に泊まるつもりでいたが、一日予定を早めれば大丈夫。すぐに返信した。
『ありがとうございます!大丈夫です』
その後のやり取りで、あさって十時半に颯天のマンション近くにある、昔ながらの喫茶店で会う約束をした。方向音痴の杏香でもその店なら迷わない。
スマートフォンをテーブルの上に戻し、ホッと胸を撫でおろす。
これで事情がわかる。
姉から聞いた話によると、二週間前の土曜日、客として颯天と坂元が旅館に一泊したという。彼らは同じ日に泊まったが予約は一人ずつ別に取ったらしい。先に坂元が。次の日には颯天が、というふうに。彼らがただの旅行で来たのか、用事があったのかはわからない。
その日を自分のスケジュールで確認してみると、思ったとおり、杏香のマンションに沢山の服が入った段ボールが届いた日だった。荷物を確認するように、突然、颯天が訪れたあの日だ。
杏香の部屋を出たその足で旅館に来たのだ。杏香にはそんな様子を見せず、ひとことも言わずに。
宿に来た彼らは夕食のあと、『杏香さんの上司です』と身分を明かしたらしい。そして、姉と両親が資金繰りについて話をしているのを偶然聞いてしまったのだと言い、事情を聞かせてくれないかと言ってきたという。
『とても素敵な旅館なので協力させてほしい』
もしかしたら新手の詐欺かもしれないと不審に思いインターネットで彼が高司颯天本人だと確認をして、彼の申し出を受け入れたという。その後の具体的な話は、坂元が窓口になり、経営コンサルタントを紹介してきて、そのコンサルタントが銀行との交渉には坂元も同席したらしい。
なぜ、杏香には秘密裏に話が進んでいたのか。それは颯天が、旅館『香る月』が気に入ったからそうしただけで、『杏香さんが重荷に感じても困るので、ここだけの話にしてほしい』と言ったというのである。
だが姉としても、やはり黙っているわけにもいかないと考えていたところへ、ちょうど杏香が帰って来たというのだった。
『杏香からも、よくよくお礼を言っておいてね』
そもそも杏香は、実家がそんな状況になっていることすら知らなかった。
姉も両親も杏香に言ったところで心配をかけるだけだし、銀行が渋り出したのもつい最近だというが、颯天は、なんのためにそこまでしてくれたのか。
知ってしまった以上、知らぬ顔はできない。月曜日会社に出勤して彼と顔を合わせる前にできれば解決したいと思った。
会社ではプライベートな話をしたくはない。それでなくても専務取締役として忙しい彼の時間を割くことはできない。そう思い悩んで、坂元にメッセージを送ったのである。
同窓会は楽しかったけれども、姉から聞いた話が気がかりで心からは楽しめなかった。
泉水に恋人役を頼もうと思っていた計画も、話を聞いたあとでは実行する気にもなれず、やむなく見送りにした。
まだ正月休みもある。あきらめたわけじゃないと自分に言い聞かせる気持ちも、今は力なく弱々しい。すべては彼から逃げるため。彼から酷く冷たく突き放してもらい、心の中で燻ぶっているものと一緒にすべてをあきらめて、なんのわだかまりもなく別れられる。そう思ったのに……。
彼は実家を救ってくれた。
偽の恋人を仕立てるどころの話ではない。感謝こそあれ、騙すなんて無理だ。
逃げるから追うと彼は言う。
でも、密かに助けてくれる。――わからない。彼の心はどうなっているのか。
どんなに考えてもわかりはしないのに、気がつくとまた考えてしまう。
「はぁ……」
堂々巡りを繰り返しては漏れるため息が、沈黙する暗闇のなかで凍りつく。
彼はまるで雲や霞のようだと思う。姿は見えるのに掴めない。
その夜、暗闇の中で杏香は布団の中から天井に向かって手を伸ばした。
どんなに手を伸ばしてもなにも掴めない。杏香の手の平で感じるものは暖房を消した古い部屋の、冷たい空気だけだった。
坂元にメッセージを送ったあと、緊張を浮かべながらスマートフォンの画面を見つめていた。
夜の十一時。メッセージを送るには遅すぎるとは思う。やはり明日の朝まで待ったほうがよかっただろうか? 既に送ってしまったというのに、せんないことを考えて不安になってしまう。
「あっ」
既読がついた。
緊張は更に高まってくる。息苦しい思いでそのまま凝視していると、数秒の間を置いて返信が表示された。
『あさっての午前中でしたら時間がとれますが、いかがでしょう』
あさっては日曜日。なんの予定もない。明日も実家に泊まるつもりでいたが、一日予定を早めれば大丈夫。すぐに返信した。
『ありがとうございます!大丈夫です』
その後のやり取りで、あさって十時半に颯天のマンション近くにある、昔ながらの喫茶店で会う約束をした。方向音痴の杏香でもその店なら迷わない。
スマートフォンをテーブルの上に戻し、ホッと胸を撫でおろす。
これで事情がわかる。
姉から聞いた話によると、二週間前の土曜日、客として颯天と坂元が旅館に一泊したという。彼らは同じ日に泊まったが予約は一人ずつ別に取ったらしい。先に坂元が。次の日には颯天が、というふうに。彼らがただの旅行で来たのか、用事があったのかはわからない。
その日を自分のスケジュールで確認してみると、思ったとおり、杏香のマンションに沢山の服が入った段ボールが届いた日だった。荷物を確認するように、突然、颯天が訪れたあの日だ。
杏香の部屋を出たその足で旅館に来たのだ。杏香にはそんな様子を見せず、ひとことも言わずに。
宿に来た彼らは夕食のあと、『杏香さんの上司です』と身分を明かしたらしい。そして、姉と両親が資金繰りについて話をしているのを偶然聞いてしまったのだと言い、事情を聞かせてくれないかと言ってきたという。
『とても素敵な旅館なので協力させてほしい』
もしかしたら新手の詐欺かもしれないと不審に思いインターネットで彼が高司颯天本人だと確認をして、彼の申し出を受け入れたという。その後の具体的な話は、坂元が窓口になり、経営コンサルタントを紹介してきて、そのコンサルタントが銀行との交渉には坂元も同席したらしい。
なぜ、杏香には秘密裏に話が進んでいたのか。それは颯天が、旅館『香る月』が気に入ったからそうしただけで、『杏香さんが重荷に感じても困るので、ここだけの話にしてほしい』と言ったというのである。
だが姉としても、やはり黙っているわけにもいかないと考えていたところへ、ちょうど杏香が帰って来たというのだった。
『杏香からも、よくよくお礼を言っておいてね』
そもそも杏香は、実家がそんな状況になっていることすら知らなかった。
姉も両親も杏香に言ったところで心配をかけるだけだし、銀行が渋り出したのもつい最近だというが、颯天は、なんのためにそこまでしてくれたのか。
知ってしまった以上、知らぬ顔はできない。月曜日会社に出勤して彼と顔を合わせる前にできれば解決したいと思った。
会社ではプライベートな話をしたくはない。それでなくても専務取締役として忙しい彼の時間を割くことはできない。そう思い悩んで、坂元にメッセージを送ったのである。
同窓会は楽しかったけれども、姉から聞いた話が気がかりで心からは楽しめなかった。
泉水に恋人役を頼もうと思っていた計画も、話を聞いたあとでは実行する気にもなれず、やむなく見送りにした。
まだ正月休みもある。あきらめたわけじゃないと自分に言い聞かせる気持ちも、今は力なく弱々しい。すべては彼から逃げるため。彼から酷く冷たく突き放してもらい、心の中で燻ぶっているものと一緒にすべてをあきらめて、なんのわだかまりもなく別れられる。そう思ったのに……。
彼は実家を救ってくれた。
偽の恋人を仕立てるどころの話ではない。感謝こそあれ、騙すなんて無理だ。
逃げるから追うと彼は言う。
でも、密かに助けてくれる。――わからない。彼の心はどうなっているのか。
どんなに考えてもわかりはしないのに、気がつくとまた考えてしまう。
「はぁ……」
堂々巡りを繰り返しては漏れるため息が、沈黙する暗闇のなかで凍りつく。
彼はまるで雲や霞のようだと思う。姿は見えるのに掴めない。
その夜、暗闇の中で杏香は布団の中から天井に向かって手を伸ばした。
どんなに手を伸ばしてもなにも掴めない。杏香の手の平で感じるものは暖房を消した古い部屋の、冷たい空気だけだった。
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