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第14話『因果の元凶と巻き戻しの呪文』
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昨日は散々な目に遭ってしまったレンリエッタ。今日は大人しく家に籠りつつ、いい加減エラフィンから魔法の教えの一つでも受けたいと考えていた。
なので早速レンリエッタは朝食の席からエラフィンへ魔法を教えてくれと頼み込み始めた。
「ねぇ先生、今日は!今日こそは魔法を教えてくれるよね?」
「まったく……朝っぱらから元気だねぇ…ふぁぁ~…寝起きは弱いんだ、勘弁しておくれ…」
「お嬢様、そんなに慌てる必要はありませんよ。それより朝食はゆっくりお召し上がりください。」
「うん……でも約束は守ってよね?昨日は教えてくれるって言ったもん。」
「分かってるよ、良い子にしてたら簡単な呪文を教えてやるさ……それにしてもなんだい?朝からこんなお菓子を出すなんて…」
今日こそは約束を守ってくれるらしい物言いにレンリエッタは安心して朝食を食べ始めたが…エラフィンは食卓を見てあまり良い顔はしなかった。
朝食のホットケーキが気に喰わないらしい。満月のように綺麗な円を描き、本のように分厚いのが三段重なっていれば子供は大喜びするだろうが、エラフィンのような年増にとって朝から甘味は少々厳しいのである。
エラフィンはレンリエッタがケーキにシロップを注ぐ様子を見てウッと顔をしかめた。
「お菓子ではありませんよ、ホットケーキです。そんなに甘くないですよ」
「そりゃレンがシロップ漬けにしてるのを見りゃ分かるさ。私が言いたいのはもっと食事らしい食事を出せって事さ、せめてトーストの一枚でも出してくれりゃぁハッピーよ」
「生憎、パンは品切れでございます。」
「ならしょうがないね……ちょいと組み換えてみるかい…それっ」
パンが無ければケーキを食べれば良いという言葉があるも、エラフィンは何が何でも朝はパンが食べたい気分のようだ。立て掛けていた杖を手元に呼び寄せると、皿に向かって「それっ」と何かしらの魔法を唱えた。
すると皿に盛られた三段のホットケーキはガタガタと震えて変形したかと思えば…あっという間に2枚のトーストに変わってしまった。
レンリエッタはポカーンとした表情でそれを眺めていたが、グリスは少し不服な様子。
「よしよし、これで良いね。やっぱり朝はトーストさ。」
「どうやったの?なんでホットケーキをトーストなんかにしちゃうの…?」
「これかい?これは元素再構築魔法、所謂錬金術みたいなもんさ。」
「そんな……ひど過ぎます…わざわざトーストにしてしまうなんて…」
エラフィンが使用したのは元素再構築魔法、またの名を錬成魔術と呼ぶ。超高速で物体を一度元素までバラバラに分解してしまい、それを魔法で再度組み立てる事で新たな物に変えてしまうのだ。
錬金術から派生した魔法であり、大昔から現在に至るまで調剤から貴重物質の作成など多岐にわたって使用されている。今回はホットケーキ単体をトーストに変えたが、本来は数種類の物質を用いて行う。
「いずれ教えてやるさ、本当に便利な魔法なんだから。」
「へぇ~…よく分かんないけど凄そうだなぁ…」
エラフィンは組み替えたトーストにバターを塗りたくり、サクッと噛り付いたが……顔をしかめると一口分だけ飲み込んで皿に置いてしまった。
「こいつは酷い…色々混ざって気持ち悪い味になっちまった…」
「あーあー、もったいない…美味しいホットケーキなのに…」
「もちろん残さず食べていただけるんでしょうね…エラフィン様?」
「あぁー……やっぱりホットケーキのままが一番だね………ムーキス!」
どうやら見た目が良くとも味は最悪らしい。
またしてもエラフィンは杖を手に取り、ムーキスの呪文を唱えればシュバッと音を立ててトーストはホットケーキに戻ってしまった。…しかし先ほどとは少し違い、一番上の段だけ一回り小さくなっていた…おそらく一口分小さくなったのだろう。
エラフィンは渋々とホットケーキを切り分け始めた。
「さっきの呪文、知ってるよ。ムーキスっていうやつ…この前役所の人がバラバラになった紙を戻すのに使ってた。それって戻す魔法なの?」
「ご名答だね。ムーキスは回天の呪文…つまり、物を前の状態に戻す魔法さ。」
「戻す…なら染みとかも出来たりするの?服についた汚れとか…」
「もちろん可能さ、なんならいつでも綺麗な状態に戻せるから洗濯いらずだよ?」
そう聞いてレンリエッタは例のイチゴ染み事件を思い出し、「あの時に使えればなぁ」と考えた。しかしそんな事不可能だろう、あちらの世界に居続ければ魔法のマの字も知らないまま一生を終えていたのだから。
レンリエッタはふと仕立て屋の事を思い出し、大丈夫だろうかと考えていると……またある事を思い出した。パレードの日に出会った老婆ヘルドだ。
あの老婆が話していた言葉が頭の中に思い浮かんで来た。
『これは素晴らしい祝福の光さ……ファンクスモントの祝福さ…』
「祝福…」
「うん?どうしたんだいレンリエッタ?」
「どうかされましたかお嬢様?もっと焼きましょうか?」
「ううん、違うの……ちょっと聞きたい事があって…」
思えばレンリエッタは老婆の言葉、ファンクスモントの祝福について未だ分からずにいた。パレードの後に会いに行こうとしたが彼女の姿が見当たらず、結局今に至るまで会えなかったからだ。
しかしどうだろうか、今レンリエッタの目の前に居るのは自分が知る限りもっとも偉大な魔術師である。聞くに損する事は無いだろう。
「エラフィン先生、ファンクスモントってなあに?」
「……は?あんた、今なんて…?」
レンリエッタはきっと直ぐに答えてくれるだろうと信じていたが、その期待が叶う事は無かった。「ファンクスモント」と口にした途端、エラフィンは硬直してしまい、フォークをガチャンと落としてしまった。
妙な反応に戸惑ったレンリエッタはグリスへ顔を向けたが、彼も同じようにギョッとしたような表情で固まっている…
「だから、ファンクスモント…」
「そ、そんな言葉!一体どこで聞いて来たんだい!?どこの誰が言ったんだ!?」
「え?え?なんで…そんなに怒るの…い、痛いよ!肩を掴まないで…」
「お嬢様!なんて言葉を…でも一体どこで……」
「答えるんだ!なんでその名前を知っているの!?誰に吹き込まれたんだ!?」
「ちょっと待ってよ!そんなに怒らないでよ!話すから…」
すぐにエラフィンは鬼気迫った表情を浮かべながらレンリエッタの肩を強く掴み、何処で聞いたのか怒声で聞き出した。
レンリエッタはあまりの変わりように困惑したが、ただ事では無いと直ぐに事情を話し始めた。
パレードの日に老婆のヘルドと出会い、彼女からファンクスモントの祝福を聞いたと……もちろんその後グリスに助けられたことも添えて。
エラフィンが肩から手を離したのは一連の話を聞いた後だった…
「まったく……見ず知らずの子供にそんな事を話すヤツが居たなんて…しかもよりにもよってレンリエッタに話しちまうなんて…」
「とにかく…誰かの入れ知恵でないなら安心しました…寿命が減る感覚を味わうのは久しぶりですよ…」
「ねぇなんでそんなにその……その言葉を嫌うの?それって何なの?」
「レンリエッタ……アンタには知る義務があるが…辛い話になるよ?それでも聞きたいってんなら教えてやるが…」
「エラフィン様!お嬢様にはまだ…」
「いいや!この子には知る権利がある!遅かれ早かれなんて無いんだ……どうだいレンリエッタ?」
なんとはなしに口にした言葉がこんな展開になろうとは誰が想像出来ただろうか?もはや朝のゆっくりとした空気は消え去り、妙にピリピリとした雰囲気が漂っていた。
そしてレンリエッタは辛い話になると言われても、知る権利があるなら是非とも知っておくべきだと考え、エラフィンの言葉に無言で頷いた。
するとエラフィンは少し唸ってから話し始めた…
「レンリエッタ、アンタ…自分の両親がどうなった…ってのは知ってるね?」
「う、うん……王様の手下に襲われたって…」
「そう…王の刺客…厳密に言えば霧籠の魔法使いに属する奴等さ…」
「霧籠ってアレのこと?ミストマンサーってやつ?」
「ああ。奴等の仕事は治安維持だけじゃない、王直属の命令によって暗殺を行う事もあるのさ。」
レンリエッタの両親…つまりヘイルホーン家を襲撃したのは霧籠の魔法使い達らしい。彼らは魔法が絡む事件を追うエリート魔術師たちであるが、その裏の顔は残忍な殺人集団である。
表の面もそりゃあロクなもんでも無いが、裏はもっと酷いらしく、エラフィンは「想像するだけで虫唾の走る屑共の溜まり場」だと吐き捨て、それと同時にどこか悲しそうな顔で「本当にバカ共だ…」とも呟いた。
「でも、その人達とファンクスモントは何の関係があるの?」
「ファンクスモントってのは貴族一家さ、魔術師家系のね。まぁ一族殆どロクでもない連中だけど……そして霧籠は奴等が創り出した組織なんだ。」
ファンクスモントの正体とは王に仕える魔術師家系であり、それと同時に霧籠の魔法使いを創設した一族なのだ。代々王の暗殺者として働き、近年では魔法開発にも勤しんでいる。
だがその過程で同じ魔法開発に長けたヘイルホーン家とぶつかり合い…
「奴らはヘイルホーン家が反逆を企んでいるとありもしない事を王にでっち上げたんだ…そのせいで皆…」
「そんな力があったの…?」
「不運にも…当時の王国総議会にはファンクスモント家の者が多く在籍していました。彼らは参謀としても機能する故、王を刺激するのは造作も無い事だったのです…」
つまり、ファンクスモントとはレンリエッタの両親の仇であり、全ての因果を生み出した元凶である。彼らは今でも王国に権力を持ち、魔法貴族の中でも屈指の名門として君臨しているのだ。
レンリエッタはそれを聞き、悲しむどころか、大いに怒った。
「なんて酷い!嘘でお父さんとお母さんたちを殺したのに…ゆ、許せない!」
「そう思うのが普通だろうね。そしてレンリエッタ、その気持ちはアタシ達も同じさ。」
「私めも同じでございます…奴らは決して許しておけるような存在ではありません…」
両親達を殺し、未だ権力にふんぞり返っていると知ればムカムカと怒りが湧いて来る…レンリエッタはいつか必ず復讐を果たしてやろうと意気込んだが……今で斬る事と言えば、精々ビチャビチャになったホットケーキを平らげる事くらいだろう…とにかく魔法を学ばなくてはならない。
「さっさと食事を済ませるよ、その後は…約束通り呪文を教えようじゃないか。」
「うん!」
レンリエッタは確かな怒りを感じながらも、それと同時にいよいよ魔法を学べるという状況にワクワクとした感情を浮かべていた。
さて、朝食を済ませた二人はギラギラと魔除けの輝く広間へやって来た。
エラフィンが座るように合図すると、レンリエッタはポフンッと床に置かれたクッションの上に座り込んだ。
「さてと…約束通り今日は魔法の呪文を教えてあげようじゃないか。」
「ねぇどんな呪文を教えてくれるの?火球?わたし火球が良いな!」
「だめだめだめ!攻撃魔法はアンタにゃまだ早い!今日教えるのはムーキスさ、さっきも言った通りに戻す呪文だ。」
「そっかぁ…でもムーキスも便利そうかも。」
「便利なんてもんじゃないよ?応用が利くし、何より覚えやすいと来た。……だが、魔法を教える前に触媒を用意しないと…」
そう言うエラフィンにレンリエッタは満面の笑みでポケットから杖を取り出した。昨日見つけた魔法の杖だ、エラフィンの魔力はもう残っていないが、魔法触媒としての機能は備わっている。
ちなみにレンリエッタは昨晩少しばかり徹夜して服に杖用のポケットを縫い付けた。中々良い出来である。
「じゃじゃーん!もう用意できてるよ!」
「お?感心するねぇ…新しいのを用意しても良いがそれを使いたいってんならそうすると良いよ。」
「これで魔法を使う準備は整ったよ、早く…早く教えて!」
「まぁそんなに慌てない慌てない…まずは私の手本を見ておくれ、呪文の仕組みを覚えるには直接見る方が早いんだ。」
早まる気持ちを抑え、レンリエッタは言われた通りにまずは手本とやらを見ることにした。
エラフィンは何か手頃な物が無いか部屋を見渡すと、「あれだ」と言わんばかりに棚に飾られていたティーカップを手に取った。葡萄の絵が描かれた高そうな逸品だ、同じ棚にはペアのカップとポットも置かれている。
「ムーキスは戻す魔法、だけど最も使われる場面は壊れた物を直す時だ。」
そう言ってエラフィンはティーカップから手を離した。カップは重力に逆らわずに床へ落ちて見事にガッシャーンと割れてしまった。
高級品が壊れて行く様を見てレンリエッタはドギマギした感覚を覚えた…
「あーらら!やっちゃった!私ってばうっかり…なーんて時も安心、魔法さえあればね。」
「バラバラになった物も直せるの?」
「もちろん!小さければ数個の破片でも簡単に修復可能さ。もちろん大きさと数が増せばその分難しくなるさ、でもこのくらいならチャチャッと…」
「なんの音でしょうか?何か割れたような音が聞こえましたが……あぁー!!なんて事を!!」
エラフィンが魔法で直すところを実演しようとした途端、音を聞きつけたグリスが現れるなり砕けたティーカップの遺体を見て悲鳴を上げた。様子を見た感じ、かなりの貴重品だったらしい。
「あぁ!そんな!ひど過ぎます!テトラウッドのグレープファームを割ってしまうなんて!これは廃版の貴重品なんですよ!?」
「あ、あのグリス…落ち着いて…」
「鬱陶しいね!お黙り!こんなもん直ぐに直してやるさ!…ムーキス!!」
怒気交じりのムーキスが唱えられると、砕けた破片たちが勝手に動き出し、エラフィンの手の上で元のティーカップへと元通りに修復された。まるでパズルが組み合わさるようにピッタリとくっ付いている。
壊れた物が元通りに直るというのは魅力的であるが、見慣れないので少し気持ちが悪いようにも思えた。
「はぁ……まったく…実演するにしてもわざわざこんな高価な物を選びますかね…」
「だったらアンタの帽子に穴を開けても良いんだよ?そっちの方がレンリエッタも気分が乗るかもね?」
「なんですって!?これだけはおやめください!命に並んで大事な物なんです!」
「先生、かわいそうだよ…グリスをあんまりいじめないであげて…」
「あぁもう!話がズレてるじゃないか!本題に戻るよ!グリス、アンタは紅茶でも淹れて来な!」
話がズレたので戻すとして、いよいよ今度はレンリエッタが呪文を唱える番だ。しかし初回からティーカップの復元は難しいのでシンプルに二枚に破られた紙を戻す事となった。
「いいかい、戻す時はピッタリくっ付く様子を頭の中で思い浮かべるんだ。そして何より杖に意識を集中させ、はっきりと発音する事が大事だ。ムーキス…やってみて。」
「ムーキス…!」
レンリエッタは言われた通りに頭の中で紙が直るイメージを思い浮かべながら杖を握り、呪文を唱えた。
だが……何も起きない、紙は床の上で破れたままだ。
「なにも起きないよ…」
「そりゃそうさ、初めっから出来るのは私みたいな天才だけさ。とりあえず何回か唱えてみな、けれど意識を集中させると同時に頭の中のイメージを崩さないようにね?」
「一度に二つの事が出来るような頭になってみたいよ……ムーキス……うーん、ムーキス!それ!ムーキス!!」
「自棄になっちゃダメだよ、一回ずつ丁寧にするんだ。」
頭の中でイメージを保ちながら、それと同時に杖へ意識を集中させるというのは非常に難しい事だった。レンリエッタは今まで一つの事しか集中しないで生きて来たのだ。
なので何度も何度も、決して自棄にならずレンリエッタは一回ずつムーキスと唱えたが…変わらない光景に少しだけ気が遠くなるような気持ちになった。
レンリエッタが猛練習している間、エラフィンはいつものようにソファへだらしなく座り込み、『究極薬調合新書』という退屈そうな分厚い本に目を配らせていた。
「ムーキス!……ムーキス……ム~キスゥ…」
「こらこら、発音はちゃんとしないと。スペルを間違えたら大変な事になるよ?」
「大変な事ってたとえばどんなこと?紙が怖いモンスターになったり?」
「そうなる可能性はゼロじゃないね、けれど大抵は…ロクでも無い目に遭う……前にミューキルと発音した奴が居たけど…」
「い、居たけど…?」
「呪文じゃ直せないくらいにバラバラになっちまったよ…もちろん唱えた方がね。」
それを聞いたレンリエッタはぞ―ッとしてしまい、二度とふざけた発音をするものかと意気込んだ。その様子を横目で見たエラフィンは上手くいったようにくすくすと笑い、本と弟子へ交互に注意を向けてしばらくの時間を過ごした。
それから少しして…早くもレンリエッタの練習は実を結び始めた。
「…ムーキス!……あぁ!い、いま動いた!ちょっとだけ!」
「え?ごめんごめん、よく見て無かったよ…」
練習のせいか、それともただの偶然か呪文を唱えられた紙の片方がピクリと動いたのだ。
レンリエッタは直ぐに知らせたが、運悪くエラフィンは本に見惚れていたが為に歴史的瞬間を見逃してしまった。
「そんな!じゃあもう一回やるから見てて…ムーキス!…ほら!!」
「本当に呪文で動いたのかい?鼻息じゃなかろうね?」
「違うよ、絶対に呪文で動いたもん!」
「ふーん……なら次はもう少し動くように頑張れば良いだけさ。それと動いた時の感覚を忘れるんじゃないよ。」
たったほんの数ミリ動いただけだと言うのにレンリエッタは心の中で「もしかしたら自分って凄いかも…」と調子に乗り始めた……が、昨日の事を思い出し、少しばかり慢心を抑えることに。
この数ミリは魔術師全般から見れば鼻で笑うようなものでも、レンリエッタからすれば人間の世界では成し遂げる事の出来なかった偉大なる一歩である。何より自分の力で魔法を使えたという事実が大事だ。
「でも魔法って難しいんだね、私ってば杖を振るだけで良いのかと思ってたよ…」
「たしかに簡易呪文は杖を振るだけで使えるね、けどそれ以上となれば必要な物も増えて来るさ。」
「杖以外にも必要なものがあるの?」
「もちろん!複雑な魔法を唱える時は魔術書とそれに書き込む魔法式が必要さ。それだけじゃない、強力な魔法に対応できる精神力、魔術元素および念磁波の知識、精霊や異界獣との契約…軽く魔法を齧るならこの程度は網羅しないとね。」
「ひぇ~……必修科目は…どのくらいなの?」
「必修だって?全部に決まってるじゃないか。普通なら何百年と掛かるが…まぁ私の教えがあれば数十年で済むだろうね。楽しみにしとくと良いさ。」
それを聞いたレンリエッタは少しばかり気が遠くなるような感覚に襲われたが、自分が知る限り最高の魔術師に教えてもらえるならそんな人生も良い物だと考えた。少なくともくたびれた仕立て屋で死ぬまで扱き使われるよりかはマシだろう……針も好きだが強制されるのは嫌なのだ。
だが、気張るレンリエッタへグリスが紅茶を淹れながらトドメを刺した。
「それと…お嬢様には座学も必要ですね。歴史、異国語、数学…それから礼儀作法など。」
「や、やる事が多いよ…」
「異国語なんて言語魔法で充分さ、数学と歴史はともかく…作法なんてクソ喰らえだよ」
「エラフィン様!お嬢様は貴族なんですよ、外部での交流を含めて全て必要な事です。」
「なら仮にするとしても私の修業が第一だ。それとレンリエッタ、もうちょっとばかり練習をしたら調合に付き合いな、ついでに薬の知識も叩き込んでやるよ。」
とにかくレンリエッタのこれからはやるべき事に満ち過ぎている。
恐ろしい事にグリスもエラフィンも学ばせる意欲だけは充分にあるので、逃げる事はできない。レンリエッタはグッと固唾を飲み込み、真っ向から学習へ突っ込まなければならないのだ。
修業はまだ始まったばかりである…
つづく…
なので早速レンリエッタは朝食の席からエラフィンへ魔法を教えてくれと頼み込み始めた。
「ねぇ先生、今日は!今日こそは魔法を教えてくれるよね?」
「まったく……朝っぱらから元気だねぇ…ふぁぁ~…寝起きは弱いんだ、勘弁しておくれ…」
「お嬢様、そんなに慌てる必要はありませんよ。それより朝食はゆっくりお召し上がりください。」
「うん……でも約束は守ってよね?昨日は教えてくれるって言ったもん。」
「分かってるよ、良い子にしてたら簡単な呪文を教えてやるさ……それにしてもなんだい?朝からこんなお菓子を出すなんて…」
今日こそは約束を守ってくれるらしい物言いにレンリエッタは安心して朝食を食べ始めたが…エラフィンは食卓を見てあまり良い顔はしなかった。
朝食のホットケーキが気に喰わないらしい。満月のように綺麗な円を描き、本のように分厚いのが三段重なっていれば子供は大喜びするだろうが、エラフィンのような年増にとって朝から甘味は少々厳しいのである。
エラフィンはレンリエッタがケーキにシロップを注ぐ様子を見てウッと顔をしかめた。
「お菓子ではありませんよ、ホットケーキです。そんなに甘くないですよ」
「そりゃレンがシロップ漬けにしてるのを見りゃ分かるさ。私が言いたいのはもっと食事らしい食事を出せって事さ、せめてトーストの一枚でも出してくれりゃぁハッピーよ」
「生憎、パンは品切れでございます。」
「ならしょうがないね……ちょいと組み換えてみるかい…それっ」
パンが無ければケーキを食べれば良いという言葉があるも、エラフィンは何が何でも朝はパンが食べたい気分のようだ。立て掛けていた杖を手元に呼び寄せると、皿に向かって「それっ」と何かしらの魔法を唱えた。
すると皿に盛られた三段のホットケーキはガタガタと震えて変形したかと思えば…あっという間に2枚のトーストに変わってしまった。
レンリエッタはポカーンとした表情でそれを眺めていたが、グリスは少し不服な様子。
「よしよし、これで良いね。やっぱり朝はトーストさ。」
「どうやったの?なんでホットケーキをトーストなんかにしちゃうの…?」
「これかい?これは元素再構築魔法、所謂錬金術みたいなもんさ。」
「そんな……ひど過ぎます…わざわざトーストにしてしまうなんて…」
エラフィンが使用したのは元素再構築魔法、またの名を錬成魔術と呼ぶ。超高速で物体を一度元素までバラバラに分解してしまい、それを魔法で再度組み立てる事で新たな物に変えてしまうのだ。
錬金術から派生した魔法であり、大昔から現在に至るまで調剤から貴重物質の作成など多岐にわたって使用されている。今回はホットケーキ単体をトーストに変えたが、本来は数種類の物質を用いて行う。
「いずれ教えてやるさ、本当に便利な魔法なんだから。」
「へぇ~…よく分かんないけど凄そうだなぁ…」
エラフィンは組み替えたトーストにバターを塗りたくり、サクッと噛り付いたが……顔をしかめると一口分だけ飲み込んで皿に置いてしまった。
「こいつは酷い…色々混ざって気持ち悪い味になっちまった…」
「あーあー、もったいない…美味しいホットケーキなのに…」
「もちろん残さず食べていただけるんでしょうね…エラフィン様?」
「あぁー……やっぱりホットケーキのままが一番だね………ムーキス!」
どうやら見た目が良くとも味は最悪らしい。
またしてもエラフィンは杖を手に取り、ムーキスの呪文を唱えればシュバッと音を立ててトーストはホットケーキに戻ってしまった。…しかし先ほどとは少し違い、一番上の段だけ一回り小さくなっていた…おそらく一口分小さくなったのだろう。
エラフィンは渋々とホットケーキを切り分け始めた。
「さっきの呪文、知ってるよ。ムーキスっていうやつ…この前役所の人がバラバラになった紙を戻すのに使ってた。それって戻す魔法なの?」
「ご名答だね。ムーキスは回天の呪文…つまり、物を前の状態に戻す魔法さ。」
「戻す…なら染みとかも出来たりするの?服についた汚れとか…」
「もちろん可能さ、なんならいつでも綺麗な状態に戻せるから洗濯いらずだよ?」
そう聞いてレンリエッタは例のイチゴ染み事件を思い出し、「あの時に使えればなぁ」と考えた。しかしそんな事不可能だろう、あちらの世界に居続ければ魔法のマの字も知らないまま一生を終えていたのだから。
レンリエッタはふと仕立て屋の事を思い出し、大丈夫だろうかと考えていると……またある事を思い出した。パレードの日に出会った老婆ヘルドだ。
あの老婆が話していた言葉が頭の中に思い浮かんで来た。
『これは素晴らしい祝福の光さ……ファンクスモントの祝福さ…』
「祝福…」
「うん?どうしたんだいレンリエッタ?」
「どうかされましたかお嬢様?もっと焼きましょうか?」
「ううん、違うの……ちょっと聞きたい事があって…」
思えばレンリエッタは老婆の言葉、ファンクスモントの祝福について未だ分からずにいた。パレードの後に会いに行こうとしたが彼女の姿が見当たらず、結局今に至るまで会えなかったからだ。
しかしどうだろうか、今レンリエッタの目の前に居るのは自分が知る限りもっとも偉大な魔術師である。聞くに損する事は無いだろう。
「エラフィン先生、ファンクスモントってなあに?」
「……は?あんた、今なんて…?」
レンリエッタはきっと直ぐに答えてくれるだろうと信じていたが、その期待が叶う事は無かった。「ファンクスモント」と口にした途端、エラフィンは硬直してしまい、フォークをガチャンと落としてしまった。
妙な反応に戸惑ったレンリエッタはグリスへ顔を向けたが、彼も同じようにギョッとしたような表情で固まっている…
「だから、ファンクスモント…」
「そ、そんな言葉!一体どこで聞いて来たんだい!?どこの誰が言ったんだ!?」
「え?え?なんで…そんなに怒るの…い、痛いよ!肩を掴まないで…」
「お嬢様!なんて言葉を…でも一体どこで……」
「答えるんだ!なんでその名前を知っているの!?誰に吹き込まれたんだ!?」
「ちょっと待ってよ!そんなに怒らないでよ!話すから…」
すぐにエラフィンは鬼気迫った表情を浮かべながらレンリエッタの肩を強く掴み、何処で聞いたのか怒声で聞き出した。
レンリエッタはあまりの変わりように困惑したが、ただ事では無いと直ぐに事情を話し始めた。
パレードの日に老婆のヘルドと出会い、彼女からファンクスモントの祝福を聞いたと……もちろんその後グリスに助けられたことも添えて。
エラフィンが肩から手を離したのは一連の話を聞いた後だった…
「まったく……見ず知らずの子供にそんな事を話すヤツが居たなんて…しかもよりにもよってレンリエッタに話しちまうなんて…」
「とにかく…誰かの入れ知恵でないなら安心しました…寿命が減る感覚を味わうのは久しぶりですよ…」
「ねぇなんでそんなにその……その言葉を嫌うの?それって何なの?」
「レンリエッタ……アンタには知る義務があるが…辛い話になるよ?それでも聞きたいってんなら教えてやるが…」
「エラフィン様!お嬢様にはまだ…」
「いいや!この子には知る権利がある!遅かれ早かれなんて無いんだ……どうだいレンリエッタ?」
なんとはなしに口にした言葉がこんな展開になろうとは誰が想像出来ただろうか?もはや朝のゆっくりとした空気は消え去り、妙にピリピリとした雰囲気が漂っていた。
そしてレンリエッタは辛い話になると言われても、知る権利があるなら是非とも知っておくべきだと考え、エラフィンの言葉に無言で頷いた。
するとエラフィンは少し唸ってから話し始めた…
「レンリエッタ、アンタ…自分の両親がどうなった…ってのは知ってるね?」
「う、うん……王様の手下に襲われたって…」
「そう…王の刺客…厳密に言えば霧籠の魔法使いに属する奴等さ…」
「霧籠ってアレのこと?ミストマンサーってやつ?」
「ああ。奴等の仕事は治安維持だけじゃない、王直属の命令によって暗殺を行う事もあるのさ。」
レンリエッタの両親…つまりヘイルホーン家を襲撃したのは霧籠の魔法使い達らしい。彼らは魔法が絡む事件を追うエリート魔術師たちであるが、その裏の顔は残忍な殺人集団である。
表の面もそりゃあロクなもんでも無いが、裏はもっと酷いらしく、エラフィンは「想像するだけで虫唾の走る屑共の溜まり場」だと吐き捨て、それと同時にどこか悲しそうな顔で「本当にバカ共だ…」とも呟いた。
「でも、その人達とファンクスモントは何の関係があるの?」
「ファンクスモントってのは貴族一家さ、魔術師家系のね。まぁ一族殆どロクでもない連中だけど……そして霧籠は奴等が創り出した組織なんだ。」
ファンクスモントの正体とは王に仕える魔術師家系であり、それと同時に霧籠の魔法使いを創設した一族なのだ。代々王の暗殺者として働き、近年では魔法開発にも勤しんでいる。
だがその過程で同じ魔法開発に長けたヘイルホーン家とぶつかり合い…
「奴らはヘイルホーン家が反逆を企んでいるとありもしない事を王にでっち上げたんだ…そのせいで皆…」
「そんな力があったの…?」
「不運にも…当時の王国総議会にはファンクスモント家の者が多く在籍していました。彼らは参謀としても機能する故、王を刺激するのは造作も無い事だったのです…」
つまり、ファンクスモントとはレンリエッタの両親の仇であり、全ての因果を生み出した元凶である。彼らは今でも王国に権力を持ち、魔法貴族の中でも屈指の名門として君臨しているのだ。
レンリエッタはそれを聞き、悲しむどころか、大いに怒った。
「なんて酷い!嘘でお父さんとお母さんたちを殺したのに…ゆ、許せない!」
「そう思うのが普通だろうね。そしてレンリエッタ、その気持ちはアタシ達も同じさ。」
「私めも同じでございます…奴らは決して許しておけるような存在ではありません…」
両親達を殺し、未だ権力にふんぞり返っていると知ればムカムカと怒りが湧いて来る…レンリエッタはいつか必ず復讐を果たしてやろうと意気込んだが……今で斬る事と言えば、精々ビチャビチャになったホットケーキを平らげる事くらいだろう…とにかく魔法を学ばなくてはならない。
「さっさと食事を済ませるよ、その後は…約束通り呪文を教えようじゃないか。」
「うん!」
レンリエッタは確かな怒りを感じながらも、それと同時にいよいよ魔法を学べるという状況にワクワクとした感情を浮かべていた。
さて、朝食を済ませた二人はギラギラと魔除けの輝く広間へやって来た。
エラフィンが座るように合図すると、レンリエッタはポフンッと床に置かれたクッションの上に座り込んだ。
「さてと…約束通り今日は魔法の呪文を教えてあげようじゃないか。」
「ねぇどんな呪文を教えてくれるの?火球?わたし火球が良いな!」
「だめだめだめ!攻撃魔法はアンタにゃまだ早い!今日教えるのはムーキスさ、さっきも言った通りに戻す呪文だ。」
「そっかぁ…でもムーキスも便利そうかも。」
「便利なんてもんじゃないよ?応用が利くし、何より覚えやすいと来た。……だが、魔法を教える前に触媒を用意しないと…」
そう言うエラフィンにレンリエッタは満面の笑みでポケットから杖を取り出した。昨日見つけた魔法の杖だ、エラフィンの魔力はもう残っていないが、魔法触媒としての機能は備わっている。
ちなみにレンリエッタは昨晩少しばかり徹夜して服に杖用のポケットを縫い付けた。中々良い出来である。
「じゃじゃーん!もう用意できてるよ!」
「お?感心するねぇ…新しいのを用意しても良いがそれを使いたいってんならそうすると良いよ。」
「これで魔法を使う準備は整ったよ、早く…早く教えて!」
「まぁそんなに慌てない慌てない…まずは私の手本を見ておくれ、呪文の仕組みを覚えるには直接見る方が早いんだ。」
早まる気持ちを抑え、レンリエッタは言われた通りにまずは手本とやらを見ることにした。
エラフィンは何か手頃な物が無いか部屋を見渡すと、「あれだ」と言わんばかりに棚に飾られていたティーカップを手に取った。葡萄の絵が描かれた高そうな逸品だ、同じ棚にはペアのカップとポットも置かれている。
「ムーキスは戻す魔法、だけど最も使われる場面は壊れた物を直す時だ。」
そう言ってエラフィンはティーカップから手を離した。カップは重力に逆らわずに床へ落ちて見事にガッシャーンと割れてしまった。
高級品が壊れて行く様を見てレンリエッタはドギマギした感覚を覚えた…
「あーらら!やっちゃった!私ってばうっかり…なーんて時も安心、魔法さえあればね。」
「バラバラになった物も直せるの?」
「もちろん!小さければ数個の破片でも簡単に修復可能さ。もちろん大きさと数が増せばその分難しくなるさ、でもこのくらいならチャチャッと…」
「なんの音でしょうか?何か割れたような音が聞こえましたが……あぁー!!なんて事を!!」
エラフィンが魔法で直すところを実演しようとした途端、音を聞きつけたグリスが現れるなり砕けたティーカップの遺体を見て悲鳴を上げた。様子を見た感じ、かなりの貴重品だったらしい。
「あぁ!そんな!ひど過ぎます!テトラウッドのグレープファームを割ってしまうなんて!これは廃版の貴重品なんですよ!?」
「あ、あのグリス…落ち着いて…」
「鬱陶しいね!お黙り!こんなもん直ぐに直してやるさ!…ムーキス!!」
怒気交じりのムーキスが唱えられると、砕けた破片たちが勝手に動き出し、エラフィンの手の上で元のティーカップへと元通りに修復された。まるでパズルが組み合わさるようにピッタリとくっ付いている。
壊れた物が元通りに直るというのは魅力的であるが、見慣れないので少し気持ちが悪いようにも思えた。
「はぁ……まったく…実演するにしてもわざわざこんな高価な物を選びますかね…」
「だったらアンタの帽子に穴を開けても良いんだよ?そっちの方がレンリエッタも気分が乗るかもね?」
「なんですって!?これだけはおやめください!命に並んで大事な物なんです!」
「先生、かわいそうだよ…グリスをあんまりいじめないであげて…」
「あぁもう!話がズレてるじゃないか!本題に戻るよ!グリス、アンタは紅茶でも淹れて来な!」
話がズレたので戻すとして、いよいよ今度はレンリエッタが呪文を唱える番だ。しかし初回からティーカップの復元は難しいのでシンプルに二枚に破られた紙を戻す事となった。
「いいかい、戻す時はピッタリくっ付く様子を頭の中で思い浮かべるんだ。そして何より杖に意識を集中させ、はっきりと発音する事が大事だ。ムーキス…やってみて。」
「ムーキス…!」
レンリエッタは言われた通りに頭の中で紙が直るイメージを思い浮かべながら杖を握り、呪文を唱えた。
だが……何も起きない、紙は床の上で破れたままだ。
「なにも起きないよ…」
「そりゃそうさ、初めっから出来るのは私みたいな天才だけさ。とりあえず何回か唱えてみな、けれど意識を集中させると同時に頭の中のイメージを崩さないようにね?」
「一度に二つの事が出来るような頭になってみたいよ……ムーキス……うーん、ムーキス!それ!ムーキス!!」
「自棄になっちゃダメだよ、一回ずつ丁寧にするんだ。」
頭の中でイメージを保ちながら、それと同時に杖へ意識を集中させるというのは非常に難しい事だった。レンリエッタは今まで一つの事しか集中しないで生きて来たのだ。
なので何度も何度も、決して自棄にならずレンリエッタは一回ずつムーキスと唱えたが…変わらない光景に少しだけ気が遠くなるような気持ちになった。
レンリエッタが猛練習している間、エラフィンはいつものようにソファへだらしなく座り込み、『究極薬調合新書』という退屈そうな分厚い本に目を配らせていた。
「ムーキス!……ムーキス……ム~キスゥ…」
「こらこら、発音はちゃんとしないと。スペルを間違えたら大変な事になるよ?」
「大変な事ってたとえばどんなこと?紙が怖いモンスターになったり?」
「そうなる可能性はゼロじゃないね、けれど大抵は…ロクでも無い目に遭う……前にミューキルと発音した奴が居たけど…」
「い、居たけど…?」
「呪文じゃ直せないくらいにバラバラになっちまったよ…もちろん唱えた方がね。」
それを聞いたレンリエッタはぞ―ッとしてしまい、二度とふざけた発音をするものかと意気込んだ。その様子を横目で見たエラフィンは上手くいったようにくすくすと笑い、本と弟子へ交互に注意を向けてしばらくの時間を過ごした。
それから少しして…早くもレンリエッタの練習は実を結び始めた。
「…ムーキス!……あぁ!い、いま動いた!ちょっとだけ!」
「え?ごめんごめん、よく見て無かったよ…」
練習のせいか、それともただの偶然か呪文を唱えられた紙の片方がピクリと動いたのだ。
レンリエッタは直ぐに知らせたが、運悪くエラフィンは本に見惚れていたが為に歴史的瞬間を見逃してしまった。
「そんな!じゃあもう一回やるから見てて…ムーキス!…ほら!!」
「本当に呪文で動いたのかい?鼻息じゃなかろうね?」
「違うよ、絶対に呪文で動いたもん!」
「ふーん……なら次はもう少し動くように頑張れば良いだけさ。それと動いた時の感覚を忘れるんじゃないよ。」
たったほんの数ミリ動いただけだと言うのにレンリエッタは心の中で「もしかしたら自分って凄いかも…」と調子に乗り始めた……が、昨日の事を思い出し、少しばかり慢心を抑えることに。
この数ミリは魔術師全般から見れば鼻で笑うようなものでも、レンリエッタからすれば人間の世界では成し遂げる事の出来なかった偉大なる一歩である。何より自分の力で魔法を使えたという事実が大事だ。
「でも魔法って難しいんだね、私ってば杖を振るだけで良いのかと思ってたよ…」
「たしかに簡易呪文は杖を振るだけで使えるね、けどそれ以上となれば必要な物も増えて来るさ。」
「杖以外にも必要なものがあるの?」
「もちろん!複雑な魔法を唱える時は魔術書とそれに書き込む魔法式が必要さ。それだけじゃない、強力な魔法に対応できる精神力、魔術元素および念磁波の知識、精霊や異界獣との契約…軽く魔法を齧るならこの程度は網羅しないとね。」
「ひぇ~……必修科目は…どのくらいなの?」
「必修だって?全部に決まってるじゃないか。普通なら何百年と掛かるが…まぁ私の教えがあれば数十年で済むだろうね。楽しみにしとくと良いさ。」
それを聞いたレンリエッタは少しばかり気が遠くなるような感覚に襲われたが、自分が知る限り最高の魔術師に教えてもらえるならそんな人生も良い物だと考えた。少なくともくたびれた仕立て屋で死ぬまで扱き使われるよりかはマシだろう……針も好きだが強制されるのは嫌なのだ。
だが、気張るレンリエッタへグリスが紅茶を淹れながらトドメを刺した。
「それと…お嬢様には座学も必要ですね。歴史、異国語、数学…それから礼儀作法など。」
「や、やる事が多いよ…」
「異国語なんて言語魔法で充分さ、数学と歴史はともかく…作法なんてクソ喰らえだよ」
「エラフィン様!お嬢様は貴族なんですよ、外部での交流を含めて全て必要な事です。」
「なら仮にするとしても私の修業が第一だ。それとレンリエッタ、もうちょっとばかり練習をしたら調合に付き合いな、ついでに薬の知識も叩き込んでやるよ。」
とにかくレンリエッタのこれからはやるべき事に満ち過ぎている。
恐ろしい事にグリスもエラフィンも学ばせる意欲だけは充分にあるので、逃げる事はできない。レンリエッタはグッと固唾を飲み込み、真っ向から学習へ突っ込まなければならないのだ。
修業はまだ始まったばかりである…
つづく…
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