3 / 4
Isis
しおりを挟む
無機質な施設内に、規則的に響く足音。
戌狛の革靴の音である。
「三浦、お前本当に大丈夫か?青っちょろい顔してんのはいつもの事だけど…。」
後ろをついて歩く三浦を振り返り、心配そうに尋ねる。
「ええ…。気にしないでください。」
白い額を微かな汗で湿らせて、三浦は歩いていた。その足取りは重い。
「…ううっ」
「おい!」
呻き、その場に屈み込んだ三浦を見て、戌狛は慌てて駆け寄った。
「大丈夫かよ、少し休んだ方が…。」
「はい…。それでは私はここで休んでいますから、戌狛さんは先に…。」
「馬鹿か貴様!」
三浦は身体をびくっとさせた。
「こんなところで一人になるだと?死にてぇのか!」
「いや…。」
戌狛の怒りようは予想外だったようで、三浦は戸惑っていた。
「普通の廃墟じゃねぇんだぞ、ここは!あんな化け物みたいな輩が動き回ってんだ、見つかれば即オダブツだ!」
「…。」
その時、廊下の奥から鎖の音と聞き覚えのある奇妙な唸り声が響いた。
「…この声は」
「さっきの犬コロか!」
戌狛は舌打ちをして、ボウガンで矢を構えた。
曲がり角から、長い鼻先が見えた。
次いで、あの濁った醜悪な目、首の骨に掛かった首輪。
こちらに顔を向け、吼えた。
「…くそっ」
戌狛は矢を放った。
矢はアヌビスの鼻先に命中したが、アヌビスはびくともしない。
それどころか怒りの色を目に浮かべ、二人に襲い掛かってきた。
「畜生、逃げるぞ三浦!」
「だ…駄目です!」
「は!?」
三浦は地面にへたった体勢のまま、首を振った。
「駄目なんです…。動かないんです、身体が!」
「何だと!?」
戌狛は三浦に駆け寄り、その体を支えて必死に逃げようとした。
しかし、先程のように上手く担げずもたつく。
「何でだよっ、何でだよっ!」
その間にも、アヌビスの牙は迫ってきていた。
「戌狛さん!もういいから早く逃げてください!」
「そんな事出来るかよ、してたまるかよっ!」
アヌビスの牙が、三浦の右ほおに傷を作った。
その時、戌狛を除くその場の全てが動きを止めた。
三浦も、三浦の傷から滴る血も、アヌビスも全て。
「…?何だこれは。」
「空間を切り取ったのです」
女の声が響いた。優しく、不思議な響きをもって。
「な、何者だ!?誰なんだ?」
戌狛は周囲を見回した。水色のベールを身につけた女の姿を見つけるのに、そう時間はかからなかった。
「あんたは…?」
「私の名は…。」
女は口を噤んだ。そして、寂しそうな顔をして言った。
「…イシスとお呼びください。」
そして、体を覆っていたベールを取り払った。
「それは…!」
戌狛が目にしたのは、女の側頭部から生えた角と蹄のついた白い下半身だった。
「時間がないので端的に申し上げます。この施設で行われていたのは、ある宗教団体によるエジプト神話の再現です。それぞれの神に代わるものが恐ろしい方法で作り出され、その役目を強制されていたのです。私も神に代わるものとして、このような姿となりました…、女神イシスとして。」
イシスは恥ずかしそうに、再びベールで体を覆った。
「あの化け物とか、包帯の人間達は?」
戌狛が尋ねると、イシスは悲しそうに答えた。
「包帯の人々はかつての信者達です。化け物とは…。アヌビスの事ですね。」
「ああ。」
「アヌビスは哀れです。あれでもまだ10才の子供でした。」
戌狛は絶句した。
「あの子は飼い犬を不慮の事故で亡くし、悲しみに暮れていたところをここに連れて来られたのです。犬を生き返らせてやると言われて。」
「…それで?」
「彼はその為なら何でもすると言いました。それを聞いた幹部信者はアヌビスを作るのに丁度いいと思ったのでしょう、あろう事かあの子の体と犬の死体を使って、あんな姿にしてしまったのです。」
「…悪い事しちまったなぁ」
アヌビスの鼻先に当てた矢を思い出し、戌狛は俯いた。
「アヌビスはそれから異常成長して、現在ではあんな狂犬と化してしまいました。神の代理はまだ揃っていません。彼らは死してなお、代理人を探しているのです。だから生きたあなた方のような方を捕らえて贄にしようとしているのです。…このような悲惨な事を引き起こしたのは、この宗教団体の教祖…。通称『Seth』です。」
「セト?」
イシスは頷いた。
「破壊、暴虐の神の名です。彼の素性は一切不明でした。」
イシスがそこまで話した時、ゆっくりと周囲が動き始めた。
「…時間が来てしまったようです。アヌビスは私が何とかしておきます。また来ます。」
「…え、おい!」
「それと」
イシスは振り返り、悲しげな瞳で言った。
「お連れの方に、注意してください。」
「え?」
彼女は姿を消した。共に、アヌビスの姿も消えていた。
「戌狛さん?」
「…あ、三浦。大丈夫か?」
三浦は?茲に出来た傷をさすりながら頷いた。
「ええ…。それより、アヌビスは?」
「ああ。それがだな…。」
戌狛はイシスと彼女の話した事を三浦に話した。彼女の最後の言葉以外、全てを。
「イシス…。生命の女神ですか。」
三浦は呟き、首を撫でた。
「冥界の神オシリスの妻です。そして教祖がセトと名乗る男…。セトはあらゆる悪の化身と言われます。この宗教団体で崇められていたのは、セト神かもしれません。キリスト教における悪魔崇拝のようなものでしょう。」
「事の大筋が見えてきたな…。そのセトとかいう奴が黒幕なのは分かったよ。」
戌狛は煙草を咥えた。なかなか点かなくなったライターに苛立ちながら、彼はふとイシスの最後の言葉の意味を考えた。
お連れの方って、三浦の事か?
気をつけるって、何に?
彼はイシスの話をもう一度思い出した。
ーそれぞれの神に代わるものが恐ろしい方法で作り出され、その役目を強制されていたのですー
ー神の代理はまだ揃っていませんー
再び首を押さえてうずくまる三浦を見て、戌狛の脳裏に最悪の想像が浮かんだ。
その推測を、やっと点いた煙草の煙と共に飲み込む。
「…三浦。」
振り返った三浦の白い顔を見て、戌狛はふっと煙草の煙を吐き出した。
「一度だけでいいから、本気の仕事をしてみないか?」
「え?」
三浦が首から手を離した。
はらり、と、小さな羽のようなものが落ちる。
それを見て戌狛は唇を噛んだ。ー時間がない。
「その方がお前のためにもなるんだ。生きて帰って、給料欲しいだろ?」
「そ、それはまあ…。」
戌狛は三浦の手を引いた。
「そうと決まれば即実行だ。施設内を隈なく調べて、セトの悪行を世間に公表してやろうぜ!たとえ…。」
「信じる者がいなくとも、ですか?」
三浦は戌狛を見上げて、微笑した。
「分かってんじゃねぇか。」
戌狛はにっと笑って、三浦の頭をこつんと叩いた。
戌狛の革靴の音である。
「三浦、お前本当に大丈夫か?青っちょろい顔してんのはいつもの事だけど…。」
後ろをついて歩く三浦を振り返り、心配そうに尋ねる。
「ええ…。気にしないでください。」
白い額を微かな汗で湿らせて、三浦は歩いていた。その足取りは重い。
「…ううっ」
「おい!」
呻き、その場に屈み込んだ三浦を見て、戌狛は慌てて駆け寄った。
「大丈夫かよ、少し休んだ方が…。」
「はい…。それでは私はここで休んでいますから、戌狛さんは先に…。」
「馬鹿か貴様!」
三浦は身体をびくっとさせた。
「こんなところで一人になるだと?死にてぇのか!」
「いや…。」
戌狛の怒りようは予想外だったようで、三浦は戸惑っていた。
「普通の廃墟じゃねぇんだぞ、ここは!あんな化け物みたいな輩が動き回ってんだ、見つかれば即オダブツだ!」
「…。」
その時、廊下の奥から鎖の音と聞き覚えのある奇妙な唸り声が響いた。
「…この声は」
「さっきの犬コロか!」
戌狛は舌打ちをして、ボウガンで矢を構えた。
曲がり角から、長い鼻先が見えた。
次いで、あの濁った醜悪な目、首の骨に掛かった首輪。
こちらに顔を向け、吼えた。
「…くそっ」
戌狛は矢を放った。
矢はアヌビスの鼻先に命中したが、アヌビスはびくともしない。
それどころか怒りの色を目に浮かべ、二人に襲い掛かってきた。
「畜生、逃げるぞ三浦!」
「だ…駄目です!」
「は!?」
三浦は地面にへたった体勢のまま、首を振った。
「駄目なんです…。動かないんです、身体が!」
「何だと!?」
戌狛は三浦に駆け寄り、その体を支えて必死に逃げようとした。
しかし、先程のように上手く担げずもたつく。
「何でだよっ、何でだよっ!」
その間にも、アヌビスの牙は迫ってきていた。
「戌狛さん!もういいから早く逃げてください!」
「そんな事出来るかよ、してたまるかよっ!」
アヌビスの牙が、三浦の右ほおに傷を作った。
その時、戌狛を除くその場の全てが動きを止めた。
三浦も、三浦の傷から滴る血も、アヌビスも全て。
「…?何だこれは。」
「空間を切り取ったのです」
女の声が響いた。優しく、不思議な響きをもって。
「な、何者だ!?誰なんだ?」
戌狛は周囲を見回した。水色のベールを身につけた女の姿を見つけるのに、そう時間はかからなかった。
「あんたは…?」
「私の名は…。」
女は口を噤んだ。そして、寂しそうな顔をして言った。
「…イシスとお呼びください。」
そして、体を覆っていたベールを取り払った。
「それは…!」
戌狛が目にしたのは、女の側頭部から生えた角と蹄のついた白い下半身だった。
「時間がないので端的に申し上げます。この施設で行われていたのは、ある宗教団体によるエジプト神話の再現です。それぞれの神に代わるものが恐ろしい方法で作り出され、その役目を強制されていたのです。私も神に代わるものとして、このような姿となりました…、女神イシスとして。」
イシスは恥ずかしそうに、再びベールで体を覆った。
「あの化け物とか、包帯の人間達は?」
戌狛が尋ねると、イシスは悲しそうに答えた。
「包帯の人々はかつての信者達です。化け物とは…。アヌビスの事ですね。」
「ああ。」
「アヌビスは哀れです。あれでもまだ10才の子供でした。」
戌狛は絶句した。
「あの子は飼い犬を不慮の事故で亡くし、悲しみに暮れていたところをここに連れて来られたのです。犬を生き返らせてやると言われて。」
「…それで?」
「彼はその為なら何でもすると言いました。それを聞いた幹部信者はアヌビスを作るのに丁度いいと思ったのでしょう、あろう事かあの子の体と犬の死体を使って、あんな姿にしてしまったのです。」
「…悪い事しちまったなぁ」
アヌビスの鼻先に当てた矢を思い出し、戌狛は俯いた。
「アヌビスはそれから異常成長して、現在ではあんな狂犬と化してしまいました。神の代理はまだ揃っていません。彼らは死してなお、代理人を探しているのです。だから生きたあなた方のような方を捕らえて贄にしようとしているのです。…このような悲惨な事を引き起こしたのは、この宗教団体の教祖…。通称『Seth』です。」
「セト?」
イシスは頷いた。
「破壊、暴虐の神の名です。彼の素性は一切不明でした。」
イシスがそこまで話した時、ゆっくりと周囲が動き始めた。
「…時間が来てしまったようです。アヌビスは私が何とかしておきます。また来ます。」
「…え、おい!」
「それと」
イシスは振り返り、悲しげな瞳で言った。
「お連れの方に、注意してください。」
「え?」
彼女は姿を消した。共に、アヌビスの姿も消えていた。
「戌狛さん?」
「…あ、三浦。大丈夫か?」
三浦は?茲に出来た傷をさすりながら頷いた。
「ええ…。それより、アヌビスは?」
「ああ。それがだな…。」
戌狛はイシスと彼女の話した事を三浦に話した。彼女の最後の言葉以外、全てを。
「イシス…。生命の女神ですか。」
三浦は呟き、首を撫でた。
「冥界の神オシリスの妻です。そして教祖がセトと名乗る男…。セトはあらゆる悪の化身と言われます。この宗教団体で崇められていたのは、セト神かもしれません。キリスト教における悪魔崇拝のようなものでしょう。」
「事の大筋が見えてきたな…。そのセトとかいう奴が黒幕なのは分かったよ。」
戌狛は煙草を咥えた。なかなか点かなくなったライターに苛立ちながら、彼はふとイシスの最後の言葉の意味を考えた。
お連れの方って、三浦の事か?
気をつけるって、何に?
彼はイシスの話をもう一度思い出した。
ーそれぞれの神に代わるものが恐ろしい方法で作り出され、その役目を強制されていたのですー
ー神の代理はまだ揃っていませんー
再び首を押さえてうずくまる三浦を見て、戌狛の脳裏に最悪の想像が浮かんだ。
その推測を、やっと点いた煙草の煙と共に飲み込む。
「…三浦。」
振り返った三浦の白い顔を見て、戌狛はふっと煙草の煙を吐き出した。
「一度だけでいいから、本気の仕事をしてみないか?」
「え?」
三浦が首から手を離した。
はらり、と、小さな羽のようなものが落ちる。
それを見て戌狛は唇を噛んだ。ー時間がない。
「その方がお前のためにもなるんだ。生きて帰って、給料欲しいだろ?」
「そ、それはまあ…。」
戌狛は三浦の手を引いた。
「そうと決まれば即実行だ。施設内を隈なく調べて、セトの悪行を世間に公表してやろうぜ!たとえ…。」
「信じる者がいなくとも、ですか?」
三浦は戌狛を見上げて、微笑した。
「分かってんじゃねぇか。」
戌狛はにっと笑って、三浦の頭をこつんと叩いた。
0
あなたにおすすめの小説
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
10秒で読めるちょっと怖い話。
絢郷水沙
ホラー
ほんのりと不条理な『ギャグ』が香るホラーテイスト・ショートショートです。意味怖的要素も含んでおりますので、意味怖好きならぜひ読んでみてください。(毎日昼頃1話更新中!)
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
妻を蔑ろにしていた結果。
下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。
主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。
小説家になろう様でも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる