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淫魔編:1年ぶりの町巡り
【176話】ポル(トロワ)
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ポルは子どもたちにパンを返し、いやいや謝った。それを見届けたイチは何も言わずに食堂を出て行った。残されたポルは唇を噛みながら悔しそうに泣いている。アーサーはポルをそっと抱きしめて頭を撫でた。
「ポル、君の部屋があるんだ。案内するね」
手を引いて部屋へ連れて行っている間も、ポルはぐすぐす泣いていた。
「ぐすっ…くやしい…くやしいっ…なんだってあんな…あんなやつに偉そうに言われなきゃいけないんだ…。あいつにおれの辛さなんてわかりやしない…あんな恵まれたやつなんかに…っ」
「ポル。辛さは人と比べるものじゃないよ。君は知らないけれど、イチは想像を絶する辛い生活を送ってたんだ。イチだけじゃない。ここにいる子たちみんな、本当に辛い思いをしてきた。
でもそれは君にはあまり関係がない。そして君の辛さも、彼らにはあまり関係がない。それぞれがそれぞれの辛さを、自分の中に持ってる。それだけだよ。だから、自分の方がつらかったとか、自分の方がつらくなかったとか、そんな風に考えなくていい。ポルは辛かった。イチも辛かった。それでいいんだよ」
「言ってる意味がわかんねえよ…っ。もうちょっとわかりやすく言えよぉ…」
「あはは。まわりくどすぎたね。私が言いたかったことは…君が知らないだけでイチはとっても辛い過去を持ってるんだ。彼は決して恵まれた子じゃない。それどころか、たぶん誰よりも恵まれなかった子かもしれない。だからイチのことをそんな風に言っちゃだめだよ。
でもね、仮にイチが君より辛い思いをしてきたとしても、それは君の辛さの重みとはなんの関係もないんだ。君は君ですごく辛い思いをしてきたことには変わりないんだから。…って、そう言いたかったんだ」
「…やっぱりわかんねえ」
「うう…。ごめん…」
ポルに彼の部屋を見せてから、シャワーを浴びさせるために双子の部屋へ連れて行った。(基本的に部屋にはシャワーはついておらず、子どもたちは大浴場でお風呂に入る。まだ子どもたちと馴染めていないポルを大浴場に入れるのはかわいそうだと思い、浴室がついている双子の部屋で体を洗ってやることにした)
アヴルでアーサーの姿を見ていたポルは、コットとスカートを脱いだアビーが男の体をしていても驚かなかった。人に体を洗ってもらうのは初めてなのだろう、ポルはがちがちに緊張しながら椅子に座り固まっている。
「どうしたのポル。もっと体の力を抜いて?」
「……」
「わぁ。泡が真っ黒になっちゃった。ずいぶん汚れてるね。しっかり洗って気持ち良くなろうね」
「…おまえ、なんでここまでおれに優しくするんだ」
「え?別にポルに特別優しくしてるつもりはないけれど」
「みんなに優しくしてますってか。はん。金の持ってるやつは心の余裕がちげえな。見ず知らずのおれのために白金貨1枚もぽんと出しちまうようなやつだもんな。おまえみたいに金ももってりゃ顔もきれいなやつ、苦労したことねえだろ」
「…そうだね。あんまり苦労をしたことはないかな」
「やっぱりな。かあちゃんに叩かれたこともないんだろ?」
「…まあね」
「とおちゃんにもかわいがられてたんだろうなあ」
「はは…」
「はら減ったことなんて一度もねえだろなあ。いいよなあ。おれがお前にうまれてたらよかったのに。きっとしあわせだったんだろうな」
「…そうだね、しあわせものだよ僕は。なんたって僕にはモニカがいるから」
「モニカってあのねえちゃんか。きょうだいか?」
「うん。僕の妹」
「あいつもきれいなかおしてんもんな。はあ、いいなあ。おれなんてぶさいくだし、びんぼうだし、ほんと、さいてーだよ。かあちゃんに捨てられるなんて、そんなことあるか?お前にはわからないだろうなあこの辛さが」
「きっとトロワで楽しい日を過ごせるよ」
「…ま、金稼ぐまではここにいてやってもいいかな。メシもただで食えるみたいだしな」
「うん。おなかいっぱい食べてね。…はいポル、すっかりきれいになったよ。すっきりしたでしょ?」
「おう。風呂に入ったのなんてはじめてだ。今まで体を拭いたことしかなかった」
「これからは毎日入れるよ。さ、部屋に戻ろう」
アーサーはポルの体と髪を拭いてやり、真新しい質素な寝衣を着せてやった。彼の部屋へ連れて行きベッドに寝かせ布団をかける。
「ポル、一人で眠れる?」
「あたりまえだろ。なんさいだと思ってんだ」
「あはは。ごめん」
「…でも、おれが寝るまでここにいてくれる?」
「もちろんいいよ」
布団から少し出ている手を握り、ぽんぽんと軽く体を叩いてあげながらお喋りをした。はじめは心を閉ざしていたポルも、気が緩んだのか時たまほんのり笑顔をのぞかせた。
「…なあ、なんでおまえ、女の恰好してるんだ?」
「あ…えーと、まあ、いろいろあって…。僕が男ってこと、施設の外では内緒だよ」
「おれは口がかたいからな。内緒にしといてやる。そのかわり、またこうやってくれる?」
「いいよ。いつでもしてあげる」
「とおちゃんが死ぬまえ、こうやって寝かせてくれたような気がする…」
すぅ…と寝息を立て始めたポルの手を離し、アーサーは自分の部屋に戻った。モニカもすでに戻っており、アーサーに気付いてにっこりと笑顔を向ける。
「あ、アーサーおかえり!遅かったじゃない!どこ行ってたのお?…アーサー?」
アーサーは答えず妹にぎゅっと抱きついた。絞り出した声は小さく、震えていた。
「僕たち、幸せだよね」
「?」
「辛いことなんてなにもないよね」
「アーサー…?」
「僕たちは容姿にもお金にも恵まれてる…。恵まれてるんだ。なにもつらいことなんてない」
まるで自分に言い聞かせるようにそう呟くアーサーに、モニカは首を傾げた。
「何言ってるの?私たちの人生、つらいことばかりだったじゃない。恵まれてるですって?…まあ、なんだか容姿は良いらしいけれど、それ以外で恵まれたところなんてないわ。お金だって、私たちが自分たちで手に入れたお金よ。ポントワーブに来てからは人に恵まれているけれど、それも自分たちで掴んだものだわ」
「……」
「…そんな、苦しそうに自分が恵まれてると思い込もうとするのはやめてアーサー。今がどんなに幸せだったとしても、ひどい過去をなかったことにする必要はないわ」
「…モニカ。僕ってだめな人かもしれない。恵まれてるって言われて…苦労を知らないって言われて、すごく苦しくなったんだ。モヤモヤしたんだ。あの子に悪気はないのに、少し、苛立った」
「あはは。私たちの過去を知らない人は、そりゃあそう思うでしょうね」
アーサーが人に苛立ちを覚えるなんて、珍しいこともあるものだとモニカは思いながら兄の背中をさすった。すぐに落ち着くだろうと考えていたが、妹を抱きしめる力がどんどん強くなる。モニカは(く、くるしっ…背骨…折れる…)と顔を青くしながらもアーサーを突き離さなかった。
「僕たちはお父上に寝るまで手を繋いでもらったことなんて一度もないよ。お母上に叩かれたことはないけど、刺されたことは何度もあるよ。おなかいっぱい食べたことなんて…10年間、一度もなかった…!」
「分かってるわ。分かってるわアーサー。あなたは私の分まで苦しい思いをしてくれた。私の分まで毒を飲んでくれた。私の分まで刺されてくれた。私にいつも大きい方のパンをくれた。他の人が知らなくても、私が知っているわ。今は不自由ない生活をしているけれど、あなたはたくさん辛い思いをした。恵まれてなんかいない。羨まれるような人生ではないわ」
「捨てられるどころか…僕たちは命を狙われ続けていたんだ…!実の両親に…」
「アーサー…」
正直なところ、モニカはもう牢獄時代のことの記憶は薄れ始めていた。両親のことも、もはや赤の他人という認識なので興味を失っていた。そんなどうでもいい人に殺されかけていたことなんて、彼女にとって取るに足らないことだった。拷問や暗殺については、ショックのあまりほとんど覚えていない。ただおなかがすいていたこと、苦しかったこと、アーサーが守ってくれていたこと、それしか覚えていなかった。なのでモニカは、ポントワーブで生活を始めてから前だけを見て歩いてきた。おそらくポルがモニカに同じことを言ったところで、そこまで気にすることはなかっただろう。冗談交じりに「私も結構辛い経験してきたんだからねえ?」と笑って返せたかもしれない。もしくは怒れたかもしれない。
だがアーサーにはそれができなかった。"記憶の目"によって鮮明に焼き付いている幼少時代…アーサーをそこから簡単に抜け出させてくれない。他人に語られるにはあまりに辛すぎる過去は、今でもアーサーに重くのしかかっているのだと、モニカはその時はじめて気づいた。
その夜モニカは兄が寝静まるまで優しい子守唄を歌ってあげた。翌朝目が覚めたアーサーは落ち着きを取り戻しており、バツが悪そうに笑う。
「ごめんねモニカ。昨日の僕、どうかしてた。辛さは人と比べるものじゃないって自分で言ったのに。かっこわるいなあ」
「あら、いいじゃないの。妹の前でくらい少しはかっこわるいところ見せてちょうだい」
「ええ?僕、最近モニカにかっこわるいところばっかり見られてるような気がするけどなあ」
「あはは!たしかに!もう、そんなしょげてないで早くごはん食べましょう?マドレーヌさんのお料理大好きなのよね!」
「僕も大好き!」
「行く前に、はい、笑顔の練習よアビー」
「にー!」
「うん、いい感じ!今日もとってもかわいいわアビー」
「ありがとうモニカ!」
「アーサー、あなたは聖人でもなんでもない、ただのヒトよ。苛立ってもいい。怒ってもいいの。私はいつだってあなたの味方。どんなアーサーだってだいすきよ」
「…ありがとう、モニカ」
二人は手を繋ぎながら食堂へ向かった。子どもたちはアビーとモニカを見て嬉しそうに手を振った。ポルはテーブルの端っこでひとりぽつんとご飯を食べている。双子はパンとスープを持って彼の隣と向かい側に腰かけた。
「おはようポル。よく眠れた?」
「…うん」
「そっか、良かった!」
「…おまえの夢見た」
「夢?」
「泣いてた」
「……」
「昨日、おまえ悲しそうな顔してた。おれ、気付いてた」
「顔に出ちゃってた?ごめんね」
「なんでおまえがあやまるんだ?」
「心配させちゃったから」
「なんかおまえ、変」
「ええ?」
「死ぬ間際のとうちゃんみてぇだ」
「えぇ…?」
「病気で死にかけてるときでも、おれら子どもの心配してた。そんな感じする」
「イイエテミョウね。ふふ」
モニカはクスクスと笑ったが、アーサーは納得できないようで首を傾げている。
「ポル、アビーは意外と繊細なんだから、優しくしてあげてよね?」
「せ、繊細ぃ?」
「わかった。きをつける」
第一印象が最悪で、つっけんどんなポルがトロワに馴染むまでかなりの時間を要した。イチはそんな彼を自分と重ねているのか特に目にかけていた。厳しく仕事を教え込むイチに、歯を食いしばりながらついていくポルは確かにイチによく似ていた。
人を羨んでしまう性格もイチに矯正された。「羨む暇があれば近づく努力したら?何もしないくせにかっこわる」と鼻で笑われ、負けず嫌いのポルはそれから二度とそういうことを口にしなくなった。
父親の面影を感じるためか、ポルはアーサーにはよく甘えた。彼がトロワに来る日はそわそわして仕事に身が入らずイチによく叱られた。アーサーが施設に泊まる日は、必ず一晩はポルの部屋に来てもらい、アビーの姿からアーサーの姿に着替えさせ、一緒にお風呂に入って手を握ってもらいながら寝た。数年経ってもべったりなポルと、いつまで経っても兄離れできないモニカが、アーサーを取り合って取っ組み合いの喧嘩するのが児童養護施設の名物となる。
ポルが大人になった頃には、人を養えるくらいの収入を得られるようになっていた。だが彼はアヴルの家へ戻らず、母親に仕送りをしながらトロワで暮らし続けた。自分がそうしてもらったように、ポルも子どもたちに仕事を教えて立派な稼ぎ手を何人も育てトロワの発展に貢献したという。
「ポル、君の部屋があるんだ。案内するね」
手を引いて部屋へ連れて行っている間も、ポルはぐすぐす泣いていた。
「ぐすっ…くやしい…くやしいっ…なんだってあんな…あんなやつに偉そうに言われなきゃいけないんだ…。あいつにおれの辛さなんてわかりやしない…あんな恵まれたやつなんかに…っ」
「ポル。辛さは人と比べるものじゃないよ。君は知らないけれど、イチは想像を絶する辛い生活を送ってたんだ。イチだけじゃない。ここにいる子たちみんな、本当に辛い思いをしてきた。
でもそれは君にはあまり関係がない。そして君の辛さも、彼らにはあまり関係がない。それぞれがそれぞれの辛さを、自分の中に持ってる。それだけだよ。だから、自分の方がつらかったとか、自分の方がつらくなかったとか、そんな風に考えなくていい。ポルは辛かった。イチも辛かった。それでいいんだよ」
「言ってる意味がわかんねえよ…っ。もうちょっとわかりやすく言えよぉ…」
「あはは。まわりくどすぎたね。私が言いたかったことは…君が知らないだけでイチはとっても辛い過去を持ってるんだ。彼は決して恵まれた子じゃない。それどころか、たぶん誰よりも恵まれなかった子かもしれない。だからイチのことをそんな風に言っちゃだめだよ。
でもね、仮にイチが君より辛い思いをしてきたとしても、それは君の辛さの重みとはなんの関係もないんだ。君は君ですごく辛い思いをしてきたことには変わりないんだから。…って、そう言いたかったんだ」
「…やっぱりわかんねえ」
「うう…。ごめん…」
ポルに彼の部屋を見せてから、シャワーを浴びさせるために双子の部屋へ連れて行った。(基本的に部屋にはシャワーはついておらず、子どもたちは大浴場でお風呂に入る。まだ子どもたちと馴染めていないポルを大浴場に入れるのはかわいそうだと思い、浴室がついている双子の部屋で体を洗ってやることにした)
アヴルでアーサーの姿を見ていたポルは、コットとスカートを脱いだアビーが男の体をしていても驚かなかった。人に体を洗ってもらうのは初めてなのだろう、ポルはがちがちに緊張しながら椅子に座り固まっている。
「どうしたのポル。もっと体の力を抜いて?」
「……」
「わぁ。泡が真っ黒になっちゃった。ずいぶん汚れてるね。しっかり洗って気持ち良くなろうね」
「…おまえ、なんでここまでおれに優しくするんだ」
「え?別にポルに特別優しくしてるつもりはないけれど」
「みんなに優しくしてますってか。はん。金の持ってるやつは心の余裕がちげえな。見ず知らずのおれのために白金貨1枚もぽんと出しちまうようなやつだもんな。おまえみたいに金ももってりゃ顔もきれいなやつ、苦労したことねえだろ」
「…そうだね。あんまり苦労をしたことはないかな」
「やっぱりな。かあちゃんに叩かれたこともないんだろ?」
「…まあね」
「とおちゃんにもかわいがられてたんだろうなあ」
「はは…」
「はら減ったことなんて一度もねえだろなあ。いいよなあ。おれがお前にうまれてたらよかったのに。きっとしあわせだったんだろうな」
「…そうだね、しあわせものだよ僕は。なんたって僕にはモニカがいるから」
「モニカってあのねえちゃんか。きょうだいか?」
「うん。僕の妹」
「あいつもきれいなかおしてんもんな。はあ、いいなあ。おれなんてぶさいくだし、びんぼうだし、ほんと、さいてーだよ。かあちゃんに捨てられるなんて、そんなことあるか?お前にはわからないだろうなあこの辛さが」
「きっとトロワで楽しい日を過ごせるよ」
「…ま、金稼ぐまではここにいてやってもいいかな。メシもただで食えるみたいだしな」
「うん。おなかいっぱい食べてね。…はいポル、すっかりきれいになったよ。すっきりしたでしょ?」
「おう。風呂に入ったのなんてはじめてだ。今まで体を拭いたことしかなかった」
「これからは毎日入れるよ。さ、部屋に戻ろう」
アーサーはポルの体と髪を拭いてやり、真新しい質素な寝衣を着せてやった。彼の部屋へ連れて行きベッドに寝かせ布団をかける。
「ポル、一人で眠れる?」
「あたりまえだろ。なんさいだと思ってんだ」
「あはは。ごめん」
「…でも、おれが寝るまでここにいてくれる?」
「もちろんいいよ」
布団から少し出ている手を握り、ぽんぽんと軽く体を叩いてあげながらお喋りをした。はじめは心を閉ざしていたポルも、気が緩んだのか時たまほんのり笑顔をのぞかせた。
「…なあ、なんでおまえ、女の恰好してるんだ?」
「あ…えーと、まあ、いろいろあって…。僕が男ってこと、施設の外では内緒だよ」
「おれは口がかたいからな。内緒にしといてやる。そのかわり、またこうやってくれる?」
「いいよ。いつでもしてあげる」
「とおちゃんが死ぬまえ、こうやって寝かせてくれたような気がする…」
すぅ…と寝息を立て始めたポルの手を離し、アーサーは自分の部屋に戻った。モニカもすでに戻っており、アーサーに気付いてにっこりと笑顔を向ける。
「あ、アーサーおかえり!遅かったじゃない!どこ行ってたのお?…アーサー?」
アーサーは答えず妹にぎゅっと抱きついた。絞り出した声は小さく、震えていた。
「僕たち、幸せだよね」
「?」
「辛いことなんてなにもないよね」
「アーサー…?」
「僕たちは容姿にもお金にも恵まれてる…。恵まれてるんだ。なにもつらいことなんてない」
まるで自分に言い聞かせるようにそう呟くアーサーに、モニカは首を傾げた。
「何言ってるの?私たちの人生、つらいことばかりだったじゃない。恵まれてるですって?…まあ、なんだか容姿は良いらしいけれど、それ以外で恵まれたところなんてないわ。お金だって、私たちが自分たちで手に入れたお金よ。ポントワーブに来てからは人に恵まれているけれど、それも自分たちで掴んだものだわ」
「……」
「…そんな、苦しそうに自分が恵まれてると思い込もうとするのはやめてアーサー。今がどんなに幸せだったとしても、ひどい過去をなかったことにする必要はないわ」
「…モニカ。僕ってだめな人かもしれない。恵まれてるって言われて…苦労を知らないって言われて、すごく苦しくなったんだ。モヤモヤしたんだ。あの子に悪気はないのに、少し、苛立った」
「あはは。私たちの過去を知らない人は、そりゃあそう思うでしょうね」
アーサーが人に苛立ちを覚えるなんて、珍しいこともあるものだとモニカは思いながら兄の背中をさすった。すぐに落ち着くだろうと考えていたが、妹を抱きしめる力がどんどん強くなる。モニカは(く、くるしっ…背骨…折れる…)と顔を青くしながらもアーサーを突き離さなかった。
「僕たちはお父上に寝るまで手を繋いでもらったことなんて一度もないよ。お母上に叩かれたことはないけど、刺されたことは何度もあるよ。おなかいっぱい食べたことなんて…10年間、一度もなかった…!」
「分かってるわ。分かってるわアーサー。あなたは私の分まで苦しい思いをしてくれた。私の分まで毒を飲んでくれた。私の分まで刺されてくれた。私にいつも大きい方のパンをくれた。他の人が知らなくても、私が知っているわ。今は不自由ない生活をしているけれど、あなたはたくさん辛い思いをした。恵まれてなんかいない。羨まれるような人生ではないわ」
「捨てられるどころか…僕たちは命を狙われ続けていたんだ…!実の両親に…」
「アーサー…」
正直なところ、モニカはもう牢獄時代のことの記憶は薄れ始めていた。両親のことも、もはや赤の他人という認識なので興味を失っていた。そんなどうでもいい人に殺されかけていたことなんて、彼女にとって取るに足らないことだった。拷問や暗殺については、ショックのあまりほとんど覚えていない。ただおなかがすいていたこと、苦しかったこと、アーサーが守ってくれていたこと、それしか覚えていなかった。なのでモニカは、ポントワーブで生活を始めてから前だけを見て歩いてきた。おそらくポルがモニカに同じことを言ったところで、そこまで気にすることはなかっただろう。冗談交じりに「私も結構辛い経験してきたんだからねえ?」と笑って返せたかもしれない。もしくは怒れたかもしれない。
だがアーサーにはそれができなかった。"記憶の目"によって鮮明に焼き付いている幼少時代…アーサーをそこから簡単に抜け出させてくれない。他人に語られるにはあまりに辛すぎる過去は、今でもアーサーに重くのしかかっているのだと、モニカはその時はじめて気づいた。
その夜モニカは兄が寝静まるまで優しい子守唄を歌ってあげた。翌朝目が覚めたアーサーは落ち着きを取り戻しており、バツが悪そうに笑う。
「ごめんねモニカ。昨日の僕、どうかしてた。辛さは人と比べるものじゃないって自分で言ったのに。かっこわるいなあ」
「あら、いいじゃないの。妹の前でくらい少しはかっこわるいところ見せてちょうだい」
「ええ?僕、最近モニカにかっこわるいところばっかり見られてるような気がするけどなあ」
「あはは!たしかに!もう、そんなしょげてないで早くごはん食べましょう?マドレーヌさんのお料理大好きなのよね!」
「僕も大好き!」
「行く前に、はい、笑顔の練習よアビー」
「にー!」
「うん、いい感じ!今日もとってもかわいいわアビー」
「ありがとうモニカ!」
「アーサー、あなたは聖人でもなんでもない、ただのヒトよ。苛立ってもいい。怒ってもいいの。私はいつだってあなたの味方。どんなアーサーだってだいすきよ」
「…ありがとう、モニカ」
二人は手を繋ぎながら食堂へ向かった。子どもたちはアビーとモニカを見て嬉しそうに手を振った。ポルはテーブルの端っこでひとりぽつんとご飯を食べている。双子はパンとスープを持って彼の隣と向かい側に腰かけた。
「おはようポル。よく眠れた?」
「…うん」
「そっか、良かった!」
「…おまえの夢見た」
「夢?」
「泣いてた」
「……」
「昨日、おまえ悲しそうな顔してた。おれ、気付いてた」
「顔に出ちゃってた?ごめんね」
「なんでおまえがあやまるんだ?」
「心配させちゃったから」
「なんかおまえ、変」
「ええ?」
「死ぬ間際のとうちゃんみてぇだ」
「えぇ…?」
「病気で死にかけてるときでも、おれら子どもの心配してた。そんな感じする」
「イイエテミョウね。ふふ」
モニカはクスクスと笑ったが、アーサーは納得できないようで首を傾げている。
「ポル、アビーは意外と繊細なんだから、優しくしてあげてよね?」
「せ、繊細ぃ?」
「わかった。きをつける」
第一印象が最悪で、つっけんどんなポルがトロワに馴染むまでかなりの時間を要した。イチはそんな彼を自分と重ねているのか特に目にかけていた。厳しく仕事を教え込むイチに、歯を食いしばりながらついていくポルは確かにイチによく似ていた。
人を羨んでしまう性格もイチに矯正された。「羨む暇があれば近づく努力したら?何もしないくせにかっこわる」と鼻で笑われ、負けず嫌いのポルはそれから二度とそういうことを口にしなくなった。
父親の面影を感じるためか、ポルはアーサーにはよく甘えた。彼がトロワに来る日はそわそわして仕事に身が入らずイチによく叱られた。アーサーが施設に泊まる日は、必ず一晩はポルの部屋に来てもらい、アビーの姿からアーサーの姿に着替えさせ、一緒にお風呂に入って手を握ってもらいながら寝た。数年経ってもべったりなポルと、いつまで経っても兄離れできないモニカが、アーサーを取り合って取っ組み合いの喧嘩するのが児童養護施設の名物となる。
ポルが大人になった頃には、人を養えるくらいの収入を得られるようになっていた。だが彼はアヴルの家へ戻らず、母親に仕送りをしながらトロワで暮らし続けた。自分がそうしてもらったように、ポルも子どもたちに仕事を教えて立派な稼ぎ手を何人も育てトロワの発展に貢献したという。
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