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「おい!」

 呼ばれた声に、意識が浮上する。
 目を開けると、目の前にはマシュー様がいて、今の状況が飲み込めなくて焦る。

「大丈夫か?」

 大丈夫か?

「ええ、大丈夫、ですけど」

 ぐるりと部屋を見回してここが自分に与えられた部屋で、どうやら朝になっているらしいと気付いて、マシュー様の質問に少し疑問を持ちつつ答える。

「お前、うなされていたぞ」

 ほっとした様子のマシュー様がベッドから離れる。
 ……それでマシュー様が部屋に?
 ……いや、それはおかしい。ドアの外には音は漏れないんじゃなかったっけ?

「えーっと、ご心配していただきありがとうございます。それでどうしてマシュー様が朝の私の部屋に入ってきているんでしょうか」

 流石に着替えがあるから、朝はドアの外で待っていてほしいと取り決めたはずなんだけど?

「いつもの時間になっても出てこないから入ってきただけだ。そしたらうなされていた」

 いつもの時間? 
 ハッとなって私は飛び起きる。

「今何時ですか」
「もうすぐ7時10分になる。」

 まずい! ……まあ、着替えて顔洗うぐらいだしまあ何とかなるんだけど。

「申し訳ございません。すぐに支度をしますので、外でお待ちいただけますでしょうか」
「今日は休んだらどうだ」
「いえ、行きます」

 まっすぐにマシュー様を見るとマシュー様の瞳が揺れた。

「家族の名を呼んでうなされていた。……お前にも元の世界に生活があったのだということを忘れていたが、おまけとはいえ突然こちらの世界に召喚されて色んなものから引き離されなければいけなかったことは、心に負担だっただろう。今日は休め。八重様には私から伝えておく」

 ……そうか。家族の名を。
 私にはもう頼るべき家族はいない。だから、元の世界に未練があってうなされたわけではないのだ。

「大丈夫です。八重様だって同じ状況ですから。だから、二人で顔をあわせておきたいのです」
「……行けるのか」

 どうやら私のうなされ方が尋常じゃないように見えたらしい。マシュー様はとても心配してくれている。

「行きます」

 皇太子と高野さんの結婚式まであと1か月半。
 それなのに、元の世界に戻るための糸口が何も見つからないのだ。少しでも高野さんと顔をあわせて、何か糸口になりそうな情報がないか知りたいのだ。

「そうか」

 マシュー様はそれだけ言うと、部屋から出ていく。と、扉がまた開いてマシュー様が顔を出した。

「午後、母上と会ってくれ」

 今の今まで得られなかったマシュー様のお母様との面会が突然許可されたのは、私の置かれた状況にマシュー様が同情してくれたからなんだろうか。
 今まで間接的にリハビリをしてきていたけど、実際どのようになっているのかは、断片的な話ではやっぱり分かりづらくて。
 久しぶりにきちんと言語聴覚士の仕事ができるのだということに、少し心が浮上して、ハッと今の時間を思い出して慌てて身支度を始めた。

 *

「初めまして。リッカと申します」

 私の挨拶に、 私の向かいに座るマシュー様のお母様はほほ笑んで頷いてくれた。黙っていると顔の左側が下がっているのは何となくわかるかな、って感じだけど、笑うと左口角が上がってこなくて、左右差が顕著になる。
 そしてその目が少し楽しそうに、横に座るマシュー様を見る。
 ……ああなるほど。きっと、彼女かなんかだと勘違いしたんだろう。
 ……まあ、あながち間違ってはいない。私は名目上の妻だ。だけど、それは形ばかりで、事実とは違う。
 私はお母様の隣にいるマシュー様を見て、視線で最終確認を取る。
 マシュー様は静かに頷いて、私が誰であるのか伝えてよいと許可をくれた。

「私は言葉と飲み込みに問題がある方の治療を生業にしていました」

 正確なことを言えば、治療と言ってはいけないって話もあるけど、この世界でわかりやすく説明する言葉が他に見つからなかった。
 マシュー様のお母様が小さく目を見開く。どういうことか理解してはいただけたようだ。私がマシュー様の彼女だという誤解も解けて良かった。
 ……マシュー様は私たちが結婚した話をお母様に知らせる気はないとのことだったので、私もそれでいいと思っている。私は元の世界に帰る気満々だから、マシュー様のお母様にぬか喜びはさせたくないと思った。……この世界から“平和と幸福”を奪おうとしているのに、おかしな話なのだけど。
 実は、マシュー様のお母様のリハビリについては、私が関係していることを伝えないでほしいとマシュー様に伝えてあった。それは、“災い”であるかもしれない私の存在を信頼できる人がどれほどいるかという問題があったからだ。信頼関係がないとリハビリは進みにくい。途中でそれを思い出して、今更ながらそれをマシュー様に伝えたら、“言っていない”と言われて、さすがマシュー様と思った。若干気まずそうな様子だったから、私の意図するところとは違った意味で言わなかったところもあるみたいだったけど、まあ些末なことだ。
 それで、マシュー様に確認したところでは、マシュー様のお母様は“王妃のおまけ”の存在は知らないんだという。だから、そのことについては触れなくていいと言われている。

「あいあおう」

 お母様がマシュー様に言ったのは……たぶん、“ありがとう”かな。きっとマシュー様が自分のためにそんな仕事をしている人を探し出してくれたのだと思ったのだろう。
 マシュー様のお母様の声は、前に聞いた時の粗造性や気息性の嗄声は改善しているけど、開鼻声が強いのと舌音がうまく出ないせいでほぼ母音のみになっている。声量も小さい。

「コミュニケーションはどのようにしてるんですか」

 お母様の横に座るマシュー様を見る。

「文字盤よりは書いている方が多いかな。文字を探し出すのが大変らしい」

 その言葉にマシュー様のお母様が頷く。確かに今テーブルには紙と羽ペンが置いてあるだけで、文字盤の姿はない。

「とは言っても、長いこと書くことはできないが、前よりは疲れにくくなった。……お前のアドバイスのおかげだ」

 もう一度マシュー様のお母様が目を見開く。
 私だって驚いている。マシュー様はこれまでのリハビリのことについても口にしないだろうと思っていたからだ。

「いいえ。マシュー様のお母様自身の治る力と、周りの方の協力があってこそのことです」

 私はリハビリの担当患者さんがリハビリで良くなったと話すとき、“ご本人の力ですから”と言っている。それは全く謙遜とかではなくて、本気でそう思っているからだ。結局我々はこれが最適だと思ってリハビリをしていても、患者さん本人がやる気がなければリハビリは進んでいかないことがままある。自然回復以外の要因は、本人のやる気という根本的なところに拠ると思っている。……もちろん、不適切なリハビリではよくなるものもよくならないから、適切なリハビリを提供することも大事だけれど。
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