とりあえず天使な義弟に癒されることにした。

３５

「隣国？」

　書斎で父に、隣国に留学したいのだと告げると、父は困ったように首を傾げた。

「ミストラル伯爵家の隣の領地、と言う意味かな？」

　奇妙な返答に、私とティエリは顔を見合わせた。

「義父上、隣国は……このロンデックス国の隣にある国で……」

　もごもごと濁したティエリに、私は続ける。

「……隣にある……あれ……何て国だったかしら？　度忘れしたわ」

　隣国の名前を思い出そうとして、その名前が思い出せなかった。

「ティエリ、サシャ、二人とも何を言っているのだ？　この世界にある国は、ロンデックスだけだ」

　もどかしい気持ちでいる私たちに、父が淡々と告げる。
　一体、どういうことだろう？

「義父上、建国記をお借りします」

　ティエリが慌てたように、書斎にあった建国記を手に取る。
　勉強していた時に、この国の成り立ちと他の国との違いを知るのに役立った本だ。
　そうだ。あれには地図が載っていた。

「義父上、この……」

　本を開いて父に見せたティエリが絶句する。

「どうしたのティエリ」

　本を覗き込んで、私も固まる。

「この世界には、ロンデックスしか国はないよ」

　父の言葉の通り、本にある地図には、ロンデックスしか描かれていなかった。
　存在したはずの隣国は、どこにも見当たらなかった。
　私は慌ててティエリを見る。

「ティエリ、これも設定を変えられたんだわ」

　ティエリが唇を噛む。
　まさか、国の設定すら消すなんて……。

「サシャ、ティエリ、一体何の話なんだ？」

　父の疑問に、私は正しく返す言葉を見つけられなかった。

「……いえ、何でもないのです」
「サシャ、お前はこれから王妃教育が待っているんだ。国のこともきちんと覚えておきなさい」

　今の状況が受け入れられなくて、私は頷けなかった。

「……義父上、国の端っこは、どうなっているんでしょうか？」

　ティエリの問いかけに、父が眉をあげる。

「おかしなことを聞くな。世界の果てなだけだ」
「……そうですか」

　ティエリの揺れる視線に、私は小さく頷いた。



「世界の作り自体も変わったみたいですね」

　向かいに座るティエリが。首を振った。
　私は自分の体を抱きしめる。
　住み慣れたはずの自分の部屋なのに、居心地が悪かった。

「隣国までなかったことにするなんて……。確かに、ゲームでは、他の国など関係なかったけど……。私たちが動こうとすると、私たちが動けないように設定が変わっていくなんて……」

　声が震える。

「……留学できないのであれば……学園に行かないようにする以外にはないかな」

　ティエリが眉を寄せて自分の手を強く組んだ。

「このままいくと……私の存在もなかったことにされたりして」

　嫌な予感に、ぶるりと体が震える。
　私は抱え込んだ自分の体を、更に小さく丸くした。

「まさか。我々自身には設定が干渉できていないから、それはないんじゃ」

　否定するティエリの言葉は、弱い。

「お父様が、隣国のことを忘れてしまったように、私のことも忘れてしまうかもしれないもの」

　設定が私たち以外の記憶を操作してしまえば、私の存在など簡単に消してしまえそうだった。

「そんな」
「……私はモブだから、いなくてもきっとゲームは成立するんだと思う」

　気が付くと、瞳から涙が零れ落ちていた。

「そんなこと、許せない」

　断言してくれるティエリに、更に涙が溢れる。

「……沙耶、ごめん。今だけ抱きしめさせて」

　ティエリは蹲る私の体を覆うように、体を寄せてきた。
　体を包む温もりが、じんわりと私の心を温めた。