あなたの血を飲み干したなら

佐久間 譲司

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あなたの血を飲み干したなら

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 目の前には、廊下が広がっていた。ソフトモダン風の廊下。自分はそこに倒れ込んでいた。

 後頭部がズキズキと痛む。揺りかごに乗っているかのように、景色がぐらついている。

 背後から後頭部を殴られた、ということがわかった。誰に、というのもわかる。

 千夏だ。おそらく階段の陰に隠れ、通りかかる隙を突いて、一撃を見舞ったのだろう。

 気絶していたのは、ほんの一瞬だったようだ。首筋を伝って、生暖かい液体のようなものが流れている感触がする。出血しているらしい。

 僅かに顔を上げる。前に黒いソックスを履いた足が見えた。千夏だ。そして、少し離れた場所に、広希の手から落ちた果物ナイフが転がっている。

 頭上から千夏の声が聞こえた。

 「ここまで逃げてきたっていうことは、達夫君達は今、大怪我して動けないか、死んじゃったっみたいね」

 千夏は落ち着いた声でそう言いながら、床に落ちてある果物ナイフを拾い上げる。

 顔をさらに上げて、千夏を見る。視界はまだ揺れていた。

 千夏は右手に果物ナイフ、そして左手には折り畳んだ木製のイーゼルを持っていた。どうやらそれでこちらの後頭部を殴ったらしい。

 「妙な気配がしたと思って、様子を伺ったら、地下室から出てくるあなたがみえたの。だから、二階にあったこれを持って、待ち伏せしてたわけ」

 広希は、目を瞑った。油断した。自分の行動を呪う。もっと警戒するべきだった。

 「このナイフ、どこで手に入れたの?」

 千夏は血で染まっている果物ナイフをためすがめすしつつ、訊く。

 「……」

 広希が答えないでいると、千夏は形のいい眉根を上げて、肩をすくめた。

 「まあ、いいわ。多分諸井さん辺りがどこかに隠していたみたいね。油断したわ」

 そして千夏は、イーゼルを床へ置く。

 「さて、あなたには今からこれを飲んで貰うね」

 千夏は、制服のポケットから、薬の入ったシートを取り出した。

 「睡眠薬。大人しく飲まないと、本当に殺すから」

 そう言いながら、千夏は、果物ナイフをこちらの首元へ突きつける。本気の表情だ。

 千夏は片手でシートから三錠ほど睡眠薬を取り出すと、こちらの口元へ近付けた。広希は口を結んで、拒否をする。

 首筋に、チクリとした痛みが走った。果物ナイフの先端を刺したのだとわかった。本当に千夏は刺すことを躊躇っていなかった。

 絶句したまま、千夏の顔を見る。千夏は、獲物を前にした虎のように、鋭い表情を投げかけている。このまま抵抗を続ければ、確実に刺し殺される。そのことがはっきりと理解できた。

 「仮にあなたを殺しても、その場合、血液を採れるだけ採って、保存するつもりよ。あなたの血は私のもの。必ずあなたの血を飲み干すから」

 首筋に突きつけているナイフに力を込めつつ、千夏は、強引に睡眠薬を広希の口へ押し込んだ。そして、脇に置いてあったペットボトルの中身を口の中へ流し込む。ミネラルウォーターだ。

 「飲んで。後で確認するから、飲んだふりをしても無駄よ」

 有無を言わせない口調で、千夏はそう宣言する。広希は、仕方なく、目を瞑って睡眠薬を飲み込んだ。胃の中に、水と共に薬が落ちていくのが感じ取れた。

 これで終わりだ。広希は息を飲んだ。おそらくこのまま自分は眠りにつき、呼び出された神谷によって、千夏の言っていた別荘に運ばれるのだ。そして、再び監禁生活が始まる。地獄の再来。

 広希が絶望に打ちひしがれた時だった。

 それはほんの僅かな瞬間だった。

 おそらく、広希に睡眠薬を飲ませたことによる気の緩みがあったのだろう。千夏は、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。その時、広希へ突きつけられている果物ナイフが、少しの間だけ外れた。それがスローモーションのように、ゆっくりと確認できた。

 無意識だった。側に置いていた、広希を殴り倒すために使われたイーゼルを手で掴む。それを引き寄せ、千夏の方へ振った。

 イーゼルは千夏の眼前をかすめる。当たらなかった。と思ったら、その勢いのまま、イーゼルは千夏の右腕に衝突した。

 右腕に持っていた果物ナイフが吹き飛ぶ。硬質な音と共に、床の上を転がっていく。

 反撃する余裕が残っていたとは予想していなかったのだろう。千夏は、一瞬の間、呆気に取られた顔をした。だが、すぐに気を取り直し、取り出したばかりのスマートフォンを放り捨てると、果物ナイフの方へ駆け寄った。

 こちらを襲おうとはせず、まずは果物ナイフの取得を優先させたのだ。

 広希は違った。果物ナイフではなく、千夏を狙った。果物ナイフを取ろうと屈み込んだ千夏へ、手にしていたイーゼルを叩きつける。麻袋を殴ったような鈍い音がして、千夏は呻き声と共に、床へと倒れる。

 それでも千夏は、果物ナイフへ手を伸ばした。広希は何度も千夏へイーゼルを振り下ろす。この変態女め。お前が全ての原因だ。死んでしまえ。

 憎しみを込めた。

 やがて、木製のイーゼルは折れ、ネジも外れてバラバラになる。千夏は動かなくなった。

 息をせっついて、広希は、その場に膝をついた。イーゼルを振り下ろし続けたため、手が痺れ、ジンジンと痛んだ。

 その時である。突如として右肩に、熱した火箸を当てたような激痛が走った。広希は大きく呻く。

 千夏が起き上がり、果物ナイフを広希の肩へ突き刺していた。千夏の顔は血で染まり、可憐な顔がゾンビのように変貌していた。思わず戦慄してしまいそうなほどの恐怖があった。

 広希の右肩から果物ナイフを抜いた千夏は、再び広希を刺そうと腕を後退させる。

 広希は、千夏にタックルした。そしてそのまま体を掴み、相撲の押し出しのような形で、千夏を背後に押し続ける。刺された右肩が痛むはずだが、気にならなかった。

 千夏は、背中から玄関の木製の扉へぶつかった。千夏は痛みよる悲鳴を上げるものの、果物ナイフを離そうとはしなかった。

 千夏は、果物ナイフを振りかざす。鬼女のように、狂気に顔が歪んでいた。

 広希はその顔面へと、頭突きを行った。怯んだところで、右腕を掴み、果物ナイフを奪う。

 そして、千夏の胸部へと深く突き刺した。全体重と力を込めて。

 果物ナイフは、千夏の細身の体を貫き、背後の扉まで達したようだ。ナイフの先端が、固い物に当たったことを伝えてきた。

 千夏は、陸に上がった魚のように、口をパクパクとさせた。内臓を吐き出すような呻き声を発し、しばらくもがく。

 だが、すぐに動かなくなった。

 広希は、果物ナイフから手を離す。千夏はなぜか倒れなかった。その場にうな垂れ『空中に』固定されていた。

 驚いたことに、千夏は、玄関扉へ、果物ナイフにより磔にされていたのだ。胸部を杭で打ち込まれ、十字架に磔にされたカーミラのように。

 事切れた千夏をしばらく見ていた広希は、立ち上がり、千夏が放り捨てた千夏所有のスマートフォンを手に取った。

 中身を確認すると、どうやらまだ神谷を呼び出してはいないようだった。不幸中の幸いだと言える。

 広希はそのスマートフォンを使い、警察へと通報する。説明に四苦八苦したが、すぐにこちらにくると伝えてきた。

 警察への通報を終えた広希は、その場にしゃがみ込んだ。そして頭を抱える。

 頭の中で声がした。一体、これは何なんだろうと。

 ここ一連の出来事を思い出す。監禁され、血を抜かれ、祖父母を失った。女友達も、親友もいなくなり、自身は血塗れになって、人すら殺す羽目になった。

 どうしてこんなことに?

 広希は、自分が泣いていることに気が付いた。これは自己憐憫による涙か、恐怖から脱却できたことによる涙か。

 失ったものばかりで、何も得るものすらなかった。大切な人達が目の前から、次々と消えていったのだ。

 一体何が悪かったのだろうと考える。感染者か? それとも口蹄疫のせいか? あるいは千夏のような特異な人間が悪かっただけなのか?

 違う。広希は、心の中で首を振った。

 自分が非感染者であることだ。感染者ではないせいで、これまで毎日、血を飲むフリをし、非感染者であることが発覚しないか怯えて暮らさなければならなかった。発覚したら発覚したで、この始末である。

 非感染者であるという、たった一つの理由だけで。これは、あまりにも理不尽だった。

 広希は、玄関扉に磔にされている千夏に目を向けた。

 千夏の胸部はバケツで血を被ったように、赤く濡れていた。足元も、血溜まりができている。

 千夏は、先ほど自分にこう言った。

 「あなたの血を飲み干す」と。

 自分もだ。自分も同じ思いにとらわれた。

 立ち上がり、千夏の死体へと近づく。

 感染者の――千夏の、あなたの血を飲み干したなら、自分も感染者になれるだろうか。

 感染者になれば、『そのような人達』の仲間入りになり、になれる。それならば、血を狙われることは決してない。

 感染者になれば――。

 広希は、今もなお、血が流れ出ている千夏の胸部へ顔を寄せた。

 むせ返る血の臭いが鼻腔をつく。

 広希は、躊躇うことなく、その血を啜り始めた。
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