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第一章 初めてのぬくもり
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カーテンの隙間から朝の陽射しが入り込んでくる。スマートフォンのアラームが鳴る前に湊は目を開いた。頭が重く、ディスプレイの光が眼球に突き刺さる。体を横たえて目を閉じてはいたが、眠った実感がないまま朝を迎えてしまった。
暖房の効いた寝室を出て、湊は今日を始める。抜けない疲労を表すように胃がシクシクと痛んだ。どうしても食事をする気力が湧かない。多少なりとも栄養を摂ろうと野菜ジュースを少しだけ飲んだ。のそのそと身支度を整え、ふらつく体で家を出る。肺を冷やす空気は、晩秋の早朝らしく澄み切っていた。
最寄駅から十五分ほど歩き、喧騒の消えた路地に入ると、湊の職場が見えてくる。淡い水色と白を基調とした二階建ての小さな建物が佇んでいた。洗練されていながらも迎え入れるような温かさが残るように頼んだデザインだ。大きなウィンドウが道路に面しており、陳列された香水瓶が朝の光に輝いている。ガラスには波を思わせる曲線がデザインされ、その向こうには穏やかな店内の気配があった。看板に刻まれた『Port(ポート)』の文字。このブランドを立ち上げた時、名に思いを込めた。二階のアトリエには後で向かうとして、今は一階店舗の鍵を開けた。
扉をくぐると、店中の香水が混じってふわりと香ってきた。冷えた店内を満たす透明感のある香りは、澄んだ水辺を思わせる。初めて足を踏み入れた者は『Port』というブランド名を体感するだろう。そう願って湊は店内の装飾を作り上げた。ガラスの棚板には丸みを帯びた香水瓶がゆったりとした間隔で並べられている。天井から吊るされたガラスモービルが光を反射して揺れる。光の粒が踊るたび、香水瓶は新たな表情を見せた。背面には淡いブルーグリーンのグラデーションが描かれている。まるで香水瓶が水面に浮かんでいるかのように見えた。
ひときわ異質な空気を放つ棚に湊の視線が吸い寄せられる。店内の奥にただひとつ置かれた香水瓶は、他のものとは違い、それだけが直線的なシルエットをしていた。ステージのような棚でスポットライトを浴びている。その香水はピンクゴールドに煌めいていた。「人気ナンバーワン」と書かれた金札が全てを物語っている。
湊はその棚をしばらく無言で見つめていた。意識を引き戻したのは、扉が開く音だった。自分が暖房もつけず立ち尽くしていたことにようやく気が付く。振り向くと、スタッフが顔を覗かせていた。湊が調香に集中する日には時々店番を任せている若いスタッフだ。今日は手伝いを頼んでいた日だった、と遅れて思い出す。
「お早いですね。また眠れなかったんですか?」
「少しね」
心配する言葉に湊は曖昧に笑って返した。店に入る前からぼんやりしていたのを見られていたのだろう。
開店準備を任せて、湊は階段を上がる。二階のアトリエは湊だけの空間だ。来客はもちろん、スタッフさえ立ち入らせない。昨夜作りかけた香水がそのままになっている。揮発性の高いトップノートは既に飛び、一晩のうちに丸みを帯びた香りだけが漂っている。片付けようとビーカーを持ち上げると、柔らかなローズが香った。
開いたままのノートに少し香りが移ったかもしれない。湊は確かめるように構想やレシピの記されたノートをパラパラと捲る。新しく作りたい香水のイメージは何も浮かんでいなかった。ノートが勝手に開き癖の付いたページで止まる。記された香水の名は『Veil(ベール)』。ミドルノートにはジャスミンが使われていた。昨夜の香りが思い出される。湊はそのページを沈んだ目で見つめていたが、やがてノートを閉じた。
調香をする気分になれず、湊は店舗に顔を出すことにした。話し声が聞こえたので客を意識して背筋を伸ばす。来店していたのは若い女性だった。彼女は「人気ナンバーワン」と書かれた香水の前でスタッフと話していた。
「いらっしゃいませ」
彼女は湊の声にはっとして顔を上げる。柔らかく微笑みかければ、彼女は珍しいものでも見るように湊を数秒間眺めた。
「どうかされましたか?」
問いかけはしたが、初めてのことではなかった。思い当たる節があるので落ち着いて待っていると、彼女も視線の動きが収まった。
「いえ、なんでもないです。こちらの香水が欲しくて」
彼女はピンクゴールドの香水を指差した。その香水の名は『Veil』。『Veil』は『覆う』という意味を持つ。コンセプトは『理想の自分を纏う』。とある人気俳優が身に付けたことで一躍有名となり、湊のブランドは注目を浴びた。発表されてから一年以上が経っても、今もなお買い求めるファンが足を運んでいる。
「いい香りですね」
彼女はスタッフが渡したテスターを手にしていた。嗅ぎ慣れたトップノートが香り立つ。
「爽やかなベルガモットとほのかにスパイシーなピンクペッパーを使っています。親しみやすいけれど、どこか色っぽく感じる香りなんです」
湊の説明は彼女の好きな俳優のイメージとも合っていたらしい。
「ありがとうございます」
レジに向かうスタッフの横で湊が商品を梱包する。礼を言うと、彼女はやはり不思議そうに湊を見ていた。見返す湊に気付いて彼女はやっと視線の理由を告げる。
「写真とイメージが違うんですね」
そう言って彼女が見せたのは、『Veil』の宣材写真だった。香水瓶を手にした湊が写っている。海外高級ブランドのスーツを着用し、黒髪を隙なく上げた冷たい表情の湊だった。店舗に立っている湊は静かに笑っている。衣服も肌馴染みの良い素材で、柔らかく髪を下ろしていた。
「よく言われます」
湊は視線を落とし、苦笑した。宣材写真の片隅に意識が向く。
──プロデュース、天城一馬(あまぎ・かずま)
商品を手渡して彼女を送ると、香水はミドルノートに変わっていた。華やかなオレンジブロッサム、エキゾチックなイランイラン、そして甘く濃厚なジャスミン。
「先程いらっしゃったお客様が言ってましたよ。そろそろ次の新作が出るんじゃないか、楽しみだって」
スタッフがにこやかに教えてくれる。『Port』の新作を心待ちにしてくれることは湊にとってありがたく、喜ばしい。しかし新たな香水を作れず焦っている今、その期待が重いプレッシャーになった。つい返事がそっけなくなる。
客がいなくなっても『Veil』の残り香がまだ漂っていた。この香りがラストノートにどう変化するか、湊は嗅ぎ取らなくとも思い出すことができる。それほどに深く刻み込まれていた。甘く包み込むアンバー、媚薬のように余韻を残すムスク、深みに嵌るサンダルウッド。記憶はいつも体温と肌の香りを連れてきた。
「この後は任せてもいいかな」
顔色の悪さに気付いたのだろう。スタッフは気遣わしげに頷いた。
「ゆっくり休んでください」
漂う香りが変化する前に湊は逃げるように店を出た。心臓が嫌な速さで脈打っていた。久しぶりに『Veil』発売当時の宣材写真を見せられて動揺していた。こんな風にすぐ心が乱れてしまうのは眠れていないせいだ。体の不調が余裕を奪っているからだ。眠れさえすれば調子が戻り、些細なことで揺れ動くこともなくなる。自分に言い聞かせながら足早に家まで帰ってきた。
暖房の効いた寝室を出て、湊は今日を始める。抜けない疲労を表すように胃がシクシクと痛んだ。どうしても食事をする気力が湧かない。多少なりとも栄養を摂ろうと野菜ジュースを少しだけ飲んだ。のそのそと身支度を整え、ふらつく体で家を出る。肺を冷やす空気は、晩秋の早朝らしく澄み切っていた。
最寄駅から十五分ほど歩き、喧騒の消えた路地に入ると、湊の職場が見えてくる。淡い水色と白を基調とした二階建ての小さな建物が佇んでいた。洗練されていながらも迎え入れるような温かさが残るように頼んだデザインだ。大きなウィンドウが道路に面しており、陳列された香水瓶が朝の光に輝いている。ガラスには波を思わせる曲線がデザインされ、その向こうには穏やかな店内の気配があった。看板に刻まれた『Port(ポート)』の文字。このブランドを立ち上げた時、名に思いを込めた。二階のアトリエには後で向かうとして、今は一階店舗の鍵を開けた。
扉をくぐると、店中の香水が混じってふわりと香ってきた。冷えた店内を満たす透明感のある香りは、澄んだ水辺を思わせる。初めて足を踏み入れた者は『Port』というブランド名を体感するだろう。そう願って湊は店内の装飾を作り上げた。ガラスの棚板には丸みを帯びた香水瓶がゆったりとした間隔で並べられている。天井から吊るされたガラスモービルが光を反射して揺れる。光の粒が踊るたび、香水瓶は新たな表情を見せた。背面には淡いブルーグリーンのグラデーションが描かれている。まるで香水瓶が水面に浮かんでいるかのように見えた。
ひときわ異質な空気を放つ棚に湊の視線が吸い寄せられる。店内の奥にただひとつ置かれた香水瓶は、他のものとは違い、それだけが直線的なシルエットをしていた。ステージのような棚でスポットライトを浴びている。その香水はピンクゴールドに煌めいていた。「人気ナンバーワン」と書かれた金札が全てを物語っている。
湊はその棚をしばらく無言で見つめていた。意識を引き戻したのは、扉が開く音だった。自分が暖房もつけず立ち尽くしていたことにようやく気が付く。振り向くと、スタッフが顔を覗かせていた。湊が調香に集中する日には時々店番を任せている若いスタッフだ。今日は手伝いを頼んでいた日だった、と遅れて思い出す。
「お早いですね。また眠れなかったんですか?」
「少しね」
心配する言葉に湊は曖昧に笑って返した。店に入る前からぼんやりしていたのを見られていたのだろう。
開店準備を任せて、湊は階段を上がる。二階のアトリエは湊だけの空間だ。来客はもちろん、スタッフさえ立ち入らせない。昨夜作りかけた香水がそのままになっている。揮発性の高いトップノートは既に飛び、一晩のうちに丸みを帯びた香りだけが漂っている。片付けようとビーカーを持ち上げると、柔らかなローズが香った。
開いたままのノートに少し香りが移ったかもしれない。湊は確かめるように構想やレシピの記されたノートをパラパラと捲る。新しく作りたい香水のイメージは何も浮かんでいなかった。ノートが勝手に開き癖の付いたページで止まる。記された香水の名は『Veil(ベール)』。ミドルノートにはジャスミンが使われていた。昨夜の香りが思い出される。湊はそのページを沈んだ目で見つめていたが、やがてノートを閉じた。
調香をする気分になれず、湊は店舗に顔を出すことにした。話し声が聞こえたので客を意識して背筋を伸ばす。来店していたのは若い女性だった。彼女は「人気ナンバーワン」と書かれた香水の前でスタッフと話していた。
「いらっしゃいませ」
彼女は湊の声にはっとして顔を上げる。柔らかく微笑みかければ、彼女は珍しいものでも見るように湊を数秒間眺めた。
「どうかされましたか?」
問いかけはしたが、初めてのことではなかった。思い当たる節があるので落ち着いて待っていると、彼女も視線の動きが収まった。
「いえ、なんでもないです。こちらの香水が欲しくて」
彼女はピンクゴールドの香水を指差した。その香水の名は『Veil』。『Veil』は『覆う』という意味を持つ。コンセプトは『理想の自分を纏う』。とある人気俳優が身に付けたことで一躍有名となり、湊のブランドは注目を浴びた。発表されてから一年以上が経っても、今もなお買い求めるファンが足を運んでいる。
「いい香りですね」
彼女はスタッフが渡したテスターを手にしていた。嗅ぎ慣れたトップノートが香り立つ。
「爽やかなベルガモットとほのかにスパイシーなピンクペッパーを使っています。親しみやすいけれど、どこか色っぽく感じる香りなんです」
湊の説明は彼女の好きな俳優のイメージとも合っていたらしい。
「ありがとうございます」
レジに向かうスタッフの横で湊が商品を梱包する。礼を言うと、彼女はやはり不思議そうに湊を見ていた。見返す湊に気付いて彼女はやっと視線の理由を告げる。
「写真とイメージが違うんですね」
そう言って彼女が見せたのは、『Veil』の宣材写真だった。香水瓶を手にした湊が写っている。海外高級ブランドのスーツを着用し、黒髪を隙なく上げた冷たい表情の湊だった。店舗に立っている湊は静かに笑っている。衣服も肌馴染みの良い素材で、柔らかく髪を下ろしていた。
「よく言われます」
湊は視線を落とし、苦笑した。宣材写真の片隅に意識が向く。
──プロデュース、天城一馬(あまぎ・かずま)
商品を手渡して彼女を送ると、香水はミドルノートに変わっていた。華やかなオレンジブロッサム、エキゾチックなイランイラン、そして甘く濃厚なジャスミン。
「先程いらっしゃったお客様が言ってましたよ。そろそろ次の新作が出るんじゃないか、楽しみだって」
スタッフがにこやかに教えてくれる。『Port』の新作を心待ちにしてくれることは湊にとってありがたく、喜ばしい。しかし新たな香水を作れず焦っている今、その期待が重いプレッシャーになった。つい返事がそっけなくなる。
客がいなくなっても『Veil』の残り香がまだ漂っていた。この香りがラストノートにどう変化するか、湊は嗅ぎ取らなくとも思い出すことができる。それほどに深く刻み込まれていた。甘く包み込むアンバー、媚薬のように余韻を残すムスク、深みに嵌るサンダルウッド。記憶はいつも体温と肌の香りを連れてきた。
「この後は任せてもいいかな」
顔色の悪さに気付いたのだろう。スタッフは気遣わしげに頷いた。
「ゆっくり休んでください」
漂う香りが変化する前に湊は逃げるように店を出た。心臓が嫌な速さで脈打っていた。久しぶりに『Veil』発売当時の宣材写真を見せられて動揺していた。こんな風にすぐ心が乱れてしまうのは眠れていないせいだ。体の不調が余裕を奪っているからだ。眠れさえすれば調子が戻り、些細なことで揺れ動くこともなくなる。自分に言い聞かせながら足早に家まで帰ってきた。
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