調香師は今夜も眠れない

水ノ灯(ともしび)

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第一章 初めてのぬくもり

1-3

「そうだ湊さん。俺の匂いは大丈夫ですか? 香水は使ったことがないんですけど、柔軟剤とか」
悠は自然に近づいて来ると、ソファーに座る湊の横でフローリングに膝をついた。カウンセリングの内容を聞いているのだろう。思いやりの目で見上げられてどうしたらいいか分からなかった。確かめるためにおずおずと顔を寄せる。
冬の外気を連れてきた服の冷たさが、ほのかに香る。だがその奥から、柔らかく人肌の温度が立ち上ってきた。すずらんの澄んだ清潔感。カモミールの穏やかさ。ささやかな甘みは、青リンゴか。寒さの中でふと湯気のように立ち上がる温かさに包まれて、息が止まりそうになる。香水とは違う、生活に馴染んだ匂い。
「平気です。悠さんからは、嫌な匂いはしません」
肩の力が抜けていくのを感じていた。人柄は意識しているかしていないか関係なく、香りに現れてくる。調香師という仕事をしていくうちに湊が知ったことだった。悠の香りは湊の心を波立たせない。気持ちを過去に連れて行くこともない。
「コートを預かります。床は冷たいでしょう。どうぞソファーに座ってください」
「じゃあ、お願いします」
湊が勧めると、悠はダッフルコートを脱いで差し出した。好意に甘える口調が頑なな遠慮よりも心地いい。
「ソファーで横になりますか? 湊さんがリラックスできるようにしてくださいね」
悠に促されても、添い寝屋が初めてなのでどう振る舞ったらいいのか分からない。戸惑いが伝わったのか、悠は一から教えてくれた。
「眠れるまで頭を撫でたり、添い寝したり、こうやってただ座ってお話しすることもあります。湊さんが少しでも癒される時間になるように、どんな風に過ごしたいか教えてください」
ゆっくりとした話し方に呼吸が落ち着いてくる。誰かに何かをしてほしいと求めるのは湊にとって簡単なことではなかった。それでも悠なら叱ることも嫌がることもなく聞いてくれそうだ。
「ずっと眠れなくて……ベッドで、寝てみてもいいですか」
「はい。もちろん」
ふわりと微笑む悠に安心する。寝室に悠を招き入れ、ダブルベッドに腰を下ろす。寝具は落ち着いた色合いを好んでいた。替えたばかりのシーツに横たわると、ベッドサイドの明かりが弱められた。
「添い寝……するんですよね?」
なかなかベッドに入ってこない悠を窺う。
「湊さんがそうして欲しいなら」
悠は湊の望みを聞いて、叶えようとしてくれる。自分はどうして欲しいんだろう。なかなか希望を言えずに湊の瞳が揺れる。ここが店舗なら、湊はブランドを背負う調香師として何か答えられただろう。しかしここは自宅のベッドで、無防備な湊自身になっていた。うまく言葉が出てこない。
「触れても、いいですか?」
落ち着く声に問いかけられた。見上げると、暖色の柔らかい光が悠の髪をキラキラと透かしていた。やっぱり、陽だまりみたいだ。焦っていた気持ちがふっと楽になる。
湊が頷くと、悠は嬉しそうに笑った。柔らかな話し方は落ち着いて見えるのに、笑顔は無垢な幼さがあって懐っこい犬を思わせた。悠の手が湊の手に近づいて来る。一瞬身構えたが、そっと重ねられた。大きくて温かい。先程まで外にいたことを感じさせない熱が伝わってきた。思わず息が漏れる。誰かの体温に安心したのは一体いつぶりだろう。じんわりと湊の手にぬくもりが移っていく。悠の触れた場所から力が抜けるようだった。掛け布団が直され、温かさに包まれる。
「頭を撫でますね。俺のすることが嫌だったら言ってください」
いつの間にか目を閉じていた。悠の声を聞いて頷くと、頭の上にそっと手が置かれた。頭を撫で付けるように丁寧に頭の丸みをなぞっていく。慈しむような手つきはまるで大切にされているみたいだった。手は繋いだまま、何度もゆっくりと頭が撫でられる。
「悠くん……悠さん」
呼びかけようとし、自分の口から出てきた言葉に驚いて目を開けた。つい心が緩んでしまった。湊は自分で信じられないと思う。慌てて言い直したが、悠は瞳を細めるだけだった。
「悠くんでいいですよ。湊さんにそう呼んでもらえたら嬉しいな」
悠の口調も自然と親しげなものに変わる。少し近くなった距離を嬉しく感じられた。丁寧な敬語よりも柔らかな話し方の方が悠に合っている。
「悠くん、隣に来る? 来て、欲しい」
繋いだ手に少し力を込める。言葉にするのに勇気を出した。ここ一年、これほど他人に接近を許したことはない。どうしてか、悠なら構わないと思えた。
「はい」
悠は嬉しさの滲んだ声で返事をして、そっと掛け布団をめくった。マットレスが沈み、悠の体が横たわる。体温は伝わるが触れ合わない距離感で悠は隣にいた。
「やっぱり嫌だな、って思ったらいつでも言ってくださいね」
近くなった距離の分、悠の声は小さくなっていた。囁くように言われる。湊も自分の反応を探っていたが嫌だとは思わなかった。二人分の体温で温まった布団が心地いい。悠の香りが鼻腔をくすぐる。体の奥まで力が抜けるような安心する匂いだった。
横になっていてこんなに穏やかな気持ちになるのはいつぶりだろう。寝なければと焦るほどうまく眠れず、なかなか明けない夜に閉じ込められていた。頭の後ろがじわっと溶けるようだった。寝息の深さで胸が上下する。頭は起きていたが、全身から力が抜けてこのままマットレスに沈んでいきそうだった。瞼の裏に広がる闇を見るともなく眺めていた。
どこかで電子音が聞こえた。悠がベッドから抜け出ていく気配に湊は目を開けた。呼吸が変わったことに気がついたのだろう。悠が振り返り、申し訳なさそうに少し眉を下げた。
「起こしちゃいました? 二時間、経ちましたよ」
湊は目を瞬かせる。あっという間に依頼した時間が終わってしまった。眠っていたわけではなかったが、多少は休息が取れたらしい。起き上がると体がシーツへ吸い付くように重かった。すっかり脱力していたようだ。
「ゆっくりできました?」
長い瞬きを繰り返していると、悠がふわりと微笑んだ。悠はどうしていたのだろうか。眠るために呼んだのに、結局うまく睡眠が取れなかった。
「ごめんなさい、眠れなくて……せっかく来てもらったのに」
添い寝屋を使って眠る方法は失敗だった。時間を延長することはできる。だけどその気にはならなかった。悠は湊が眠るために力を貸してくれたのに、うまくできなかった。
湊が落ち込んで項垂れていると、投げ出した手を優しい体温が覆った。
「いいんですよ、眠れなくたって」
予想しなかった言葉に思わず顔を上げる。悠の瞳が橙色の照明を吸って煌めいている。そこにあるのは慈愛に満ちた温かな光だった。
「この時間が少しでも湊さんの癒しになったら嬉しいです」
眠れなくていい、なんて思ったことがなかった。寝なければと思うほど眠れず、焦燥は増すばかりだった。そしてますます眠れなくなっていた。そんな自分は理想的ではない。ちゃんとしなければと思っていたのに、悠はそんな湊の自責を優しく包み込んだ。胸の内側にあった重たい鉛が取り除かれ、息をするたびに呼吸がしやすくなっているのを感じた。
「また、悠くんを指名してもいいかな」
ダッフルコートを着こんだ悠を湊は呼び止める。悠は顔いっぱいに嬉しさを乗せて眩しく笑った。
「いつでもお待ちしてます」
温かさのある香りを残して悠は帰っていった。ベッドにはまだ彼のぬくもりが残っていた。
今なら、眠れるかもしれない。どきりと胸が高鳴った。随分前に褪せてしまった希望が再び訪れる。しかし睡眠を意識すると呼吸が浅くなり、体が強張った。目を閉じて先程の時間を思い出そうとする。
悠の大きな手のひら、優しく頭を撫でる温度、眠れなくていいと言ってくれた柔らかい声。ふわっと悠の残り香が鼻先をくすぐる。ざわついた心が落ち着く匂い。閉じた瞼の裏にキラキラした悠の茶髪が見えたような気がした。その光は淡く湊を吸い込んでいく。体中の感覚が遠のき、すうっと意識が落ちていく。
気付けば湊は眠りに落ちていた。その日は朝まで、夢も見ないほど深く眠ることができた。
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