調香師は今夜も眠れない

水ノ灯(ともしび)

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第二章 優しいまどろみ

2-1

湊は週に一度、『添い寝屋ぬくもり』から悠を指名するようになっていた。久しぶりに眠れた日から、体が睡眠を思い出したかのように微睡むことができるようになった。多少改善されたとはいえまだ休息は足りておらず、顔色は戻っていない。季節が深まり、寒さが厳しくなると一人で過ごす夜は余計に長く感じられる。冬の静けさは湊の心を暗くした。そんな時に悠がいてくれると明かりが灯ったように安心を感じられた。
並んでベッドに横たわり、ぽつぽつと言葉を交わす。悠の頬は淡い暖色の光に照らされている。
「ちょうこうし、さん?」
繰り返した悠の言い方で漢字に変換されていないのが分かった。思わずくすりと笑ってしまう。湊は今まで自分のことを話していなかったが、伝えてもいいと思ったのだ。それは悠という名前が本名であると知ったからかもしれない。朝倉悠(あさくら・ゆう)というのだと、三度目に来た時に改めて自己紹介をされた。
「うん、調香師。僕は香水を作ってる」
説明されて悠は理解ができたらしい。正直に困惑を表していた顔がぱっと明るくなる。
「すごい、かっこいい。そっか、だから香りに敏感なんですね」
湊が添い寝屋に求める条件として香水をつけないで欲しいと言った理由に納得したようだ。職業柄どうしても香りを気にしてしまう。本当は香水を付けることは構わないのだが、人によっては誤った付け方をして強すぎる香りを振りまくことがある。それを嫌って香水自体を避けてもらった。それだけでなく、記憶を呼び覚ます苦手な香りがあるということは口にしないでおいた。悠は香水自体をつけないようだったので、安心していた。
「自分じゃ分からないけど、俺の匂いってするんですか? シャワー浴びてから来てるし汗臭くはない、と思うんですけど……」
悠はセーターの襟ぐりを気にするように伸ばして匂いを嗅いだ。最後は少し不安げに声が小さくなる。下を向いて鼻先を埋める仕草に湊は吐息を漏らして笑う。悠から不快な匂いなんてしたことがない。シャワーを浴びて来ているからしっかりとシャンプーやボディーソープが香ってくるのか。
「悠くんはいい匂いだよ」
ふわふわと柔らかい茶髪に少しだけ鼻先を近付けた。湊は目を閉じて香りを辿る。シャンプーやボディソープ、柔軟剤の香りが混ざって調和し、悠の香りとしか言えない仕上がりとなっている。湊の家で使ったハンドソープのホワイトムスクを除いて悠という人物の調香を知ろうとする。
「……カモミール」
複雑に絡み合った香りの中で、湊は一輪の花を捉えた。他にもたくさんの要素があったがその印象が悠に似合っていると思った。悠は自分では使い慣れた香りが分からず、不思議そうに湊を見返す。
「爽やかさと優しい甘さがあって、ぬくもりを感じさせる香りだよ」
言葉にしながらまるで悠自身のようだと思った。目を開けて視線を合わせると、悠は目を丸くし、照れたように口元をもごもごと動かした。暖色の光で見えづらかったが、頬が赤らんでいるように思えた。
「なんか、恥ずかしい」
体を縮める悠を見て、踏み込みすぎたかと慌てる。香りの話題はデリケートで、人によっては不快になると知っていたのに。
「ご、ごめん。失礼だったよね」
距離感を間違えてしまった。安らいでいた体が緊張して血の気が引いていく。悠から離れようすると、優しく手が重ねられた。
「ううん、照れただけ。嫌じゃないです」
悠は頬を上気させて気恥ずかしさそうに笑っていた。言葉の通り、気分を損ねた様子はなくて安心する。動揺して冷えてしまった手を撫でられる。悠の熱で温められてまた力が抜けていった。
「それに湊さん、プロって感じでかっこいいです。お仕事好きなんですね」
眩しい笑顔を向けられて湊は思わず表情を曇らせた。他意のない素直な言葉だっただろうに、湊の胸には今日も調香が進まなかったという苦い思いがあった。湊の反応を見て悠の笑顔が小さくなっていく。ためらう間を置いて、悠は柔らかい視線を向けてきた。
「話したくなかったらいいんですけど、眠れない理由って、何かあるんですか?」
熱く包まれた手に悠の緊張が伝わってきた。湊は仕事に不安を抱えているのではないかと見抜いたのだろう。悠の眼差しを見ると無遠慮さではなく、誠実さしか感じられなかった。相手が悠でなければ打ち明けられなかっただろう。悠になら弱みを見せても大丈夫だと思えた。
「ずっと新作ができなくて……多分、それが原因だと思う」
口に出すのは思ったよりも苦ではなかった。悠はまるで自分の悩みであるかのように真面目な顔で頷いた。
「教えてくれてありがとうございます」
ただ受け入れてくれた温かさに少し気持ちが楽になる。どうして新作ができないのかと、問い詰められなくて安堵した。
「できるといいですね」
悠は胃のあたりがじんわり温かくなるような声で言った。ただのありきたりな返しではなく、心のこもった祈りだった。どうしてこんなに優しい響きが出せるのだろう。危うく目が潤むところだった。
「悠くんはどうしてこの仕事を? 保育士さんだったんでしょう」
目元に熱が集まるのを誤魔化すように問い返す。プロフィールに元保育士と書いてあった。悠は保育士に向いているとしか思えないのに、なぜ転職したのだろう。
「実は俺も、眠れなかったことがあるんです」
声の穏やかさと裏腹に、意外な言葉が返ってきた。悠はいつかの夜に思いを馳せているのか、どこか遠い目になる。
「保育士の仕事は大好きでした。子供が好きで、大変なことも多かったけど、毎日楽しくて」
悠が思い返しているだろう光景を湊も見ようとしてみる。エプロンを着て子供達と笑っている悠の姿を思い浮かべると、保育士の理想のようだった。きっと子供達に好かれていたのだろう。
「でも子供が好きなだけじゃ……だめでした。保育士にできることは限りがあって、仕事の範囲内でしか関われない」
伏せられた睫毛が悠の頬に影を落とす。静かな声が普段よりも低く聞こえた。
「守れなかった子がいるんです。家庭に何か事情があるって分かってたのに、俺じゃ力になれなかった」
繋いだ手から悠の痛みが伝わってきた。無力感と後悔が声音に滲む。
「その子は親戚に引き取られていきました。なんで何もしてあげられなかったんだろうって悔しくて……うまく、眠れなくなりました」
思わず湊の手に力が入る。眠れない夜の辛さは痛いほど知っていた。悠が同じように自分を責めて眠れず過ごした日々を思うと胸が苦しい。悠の傷と自分の痛みが共鳴する。
「だから、今度は眠れない誰かの力になりたいって思ったんです。添い寝屋の仕事はただそばにいるだけって最初から決まってるから、何もできないってもどかしい思いをしなくていいし」
こちらを見た悠と目が合った。湊が余程悲しい顔をしていたのか、安心させるように微笑む。
「今はこの仕事にやりがいを感じてます。そばにいるって、それだけで力をもらえませんか?」
悠の柔らかい笑顔にも辛かった過去を越えた強さがあると知った。まだ飲み込みきれずに何も返せないでいると、悠の眉が困ったように下がる。
「ごめんなさい、重たい話をしてしまって。仕事中にこんな話、したことなかったんだけど……」
戸惑った声に、悠が自分に対してだけ過去の扉を開いてくれたのだと分かる。悠の傷を知ることは痛みを感じさせたが、それ以上に嬉しかった。
「悠くんのこと、知れてよかった」
会う回数を重ねて少しずつ心の壁は薄くなっていた。今夜初めて、添い寝屋としてではなく悠という個人が見えた気がした。癒しを与えるためだけの存在ではなく、等身大の青年が隣に横たわっていると感じる。悠にも傷があり、眠れない過去があった。添い寝屋のスタッフが、自分と変わらない一人の人間だと知った。触れ合った素肌がさらに温かみを帯びたように思える。手のひらで感じる拍動が同じように血を通わせている。
「二時間経っちゃいましたね」
小さな電子音が契約の終わりを知らせた。今夜は話しているうちに時間が過ぎてしまった。悠の手が離れていく。空になった手が急に冷たくなった。今夜はまだ、帰ってほしくなかった。
「……朝まで、いてくれる?」
ベッドから降りかけた悠の裾を捕まえる。断られたらどうしようと不安がよぎった。縋るように見上げると、悠はまるで彼も共にいることを望んでくれているかのように嬉しそうに笑った。
「はい、もちろん」
いつも二時間のコースを頼む湊が、初めて長時間の延長を申し出た。悠が隣に戻ってくる。寂しかった手が繋がれてほっと気持ちが緩む。頭を撫でられると心が凪いで、そっと目を閉じた。
「悠くんに出会ってから、少し眠れるようになったんだよ」
力の抜け始めた声で囁く。顔は見えなかったが、一瞬だけ悠の手が止まった。小さな吐息が聞こえて悠の微笑む気配がする。
「よかった。俺、湊さんの力になれてるんだ」
同じくらいの囁きで悠の返事があった。喜びを隠しきれない悠の声に湊も胸が温かくなった。自然と口角が上がり、ふわふわとした淡い幸福が胸を満たす。体の外側も内側も温かさに包まれて、輪郭が溶け出していく。
「おやすみなさい。そばにいますからね」
瞼の裏に優しい闇が広がっていく。悠の声が染み込んでまどろみに落ちる。その夜は、なんだか優しい夢を見たような気がした。
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