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第四章 過ち
4-2
湊は落ち着きなく時計を眺めていた。夜が深まり、部屋の静けさが耳に痛いほどだった。約束の時間ちょうどにインターホンが鳴る。急ぎ足で玄関に向かうと、冬の外気と柔らかい笑みを纏って悠が立っていた。
「こんばんは」
今朝別れたばかりなのに、もう長いこと会っていないような気がした。悠はいつも通り洗面所に寄り、リビングに戻ってくる。悠は連日の予約に違和感を覚えているだろう。口数の少ない湊に、心配そうな目を向けている。
「カモミールティー持ってきたんです。安眠効果があるって。よかったらどうですか?」
悠がバッグからカモミールティーの袋を取り出した。温かい心遣いも今の湊には受け取る余裕がなかった。湊の張り詰めた気持ちが表情に表れ、気配まで強張っている。
「……それより、ベッドに来て」
湊の手が悠の袖を引いた。悠はほんの一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑みを浮かべた。湊から積極的に触れるのは珍しいことだった。
「分かりました。これ、置いときますね」
テーブルの上にカモミールティーを置き、悠は湊の後ろをついてくる。悠が入ってくると、寝室は安心する場所へと変わる。眠れない夜を耐えるしかなかった頃の澱んだ空気を悠が変えてくれた。悠と出会ってからは一人の夜でも苦しくなくなった。
湊がベッドに入ると、もう悠は自然と隣に寝るようになっていた。顔の間で投げ出した手を繋ぐだけの距離感。二人の体温で布団の中が温められ、どちらの熱か分からなくなっていく。手の平の温度が一緒になる。その温かな触れ合いが湊の救いだったはずなのに、今はどうしようもなく不安を掻き立てた。
一年かけて忘れたはずだったのに、このベッドには天城との記憶が根付いている。寝具を洗っても変えても、空間に染みついた香りを消し去ることはできない。天城が体温を与えてくれるのは快楽を伴う時だけだった。湊が従順に言うことを聞いて欲に溺れれば、褒美のように触れてもらえる。何かを得るためには、それ以上に差し出さなければいけない。そうしなければ失望される。理想を叶えられなければ捨てられる。深く沈められていたはずの恐怖が浮き上がってくる。
繋いだ手を引き寄せた。悠は驚いたように目を開いて湊が何をするのか見つめていた。悠の手を両手で取り、胸元へと導く。シャツ越しに手の平を押し付けると二人の肌の間で鼓動が響いた。
「今日、何かあったんですか」
悠はされるがままだった。湊の胸に触れたまま静かに問いかける。問いの形をしていたが悠は確信しているようだった。朝別れたばかりの悠をすぐに呼び、普段しない触れ方をする湊。何か焦りのようなものが早い鼓動から伝わっていた。
「俺に話せることなら、教えてください。話して楽になることもあるから……」
湊の不安すら悠は柔らかく受け止めてくれる。どこまでもこの優しさに沈んでしまいたかった。だが、湊はそれを自分に許してやることができない。これでは悠に与えてもらってばかりで返せているものがない。
湊は伏せていた目をそっと上げた。上目遣いの視線に媚びを含んで微笑を浮かべる。欲しいものがあったらどうしなければいけないか、体はきちんと覚えていた。
「湊さん?」
気配の変わった湊に悠は戸惑いを見せる。揺れた大きな瞳の中に蠱惑的な笑みを浮かべる湊が映り込んでいた。湊の手は悠の腕に絡みつき、体が寄せられる。胸に当てられていた悠の手の平が肌をなぞるように下へと誘導されていく。
「悠くん。僕の体、使ってくれる?」
小首をかしげ、艶やかな笑みで誘う。大人しく動かされていた悠の手が明確な意思を持って止められた。湊に触れていた指先を隠すように握り込まれる。力んで筋張った腕はもう湊の力では動かすことができなかった。
「すみません。そういうことはできません、仕事ですから」
悠は真剣な声でその先を拒んだ。悠の手が逃げて行ってしまう。失われた熱へ追い縋ることができなかった。
「……ごめん、なさい」
自分は間違いを犯した。湊の体が勝手に震え出す。優しさしか見せなかった悠に初めて拒絶の言葉を伝えられた。悠の信頼を裏切ってしまった。期待に応えられなかった。悠の体温が残るシャツの布地を、自分で握り締める。首元が締め付けられて少し息苦しかった。
「それに湊さん、本当はそんなことしたくないって顔してます」
悠の言葉に何も捉えていなかった視線が少しずつ戻ってくる。悠の瞳は誠実な光を湛えており、なぜか悲しそうだった。拒まれた湊と同じくらい傷ついた顔をしている理由が分からない。悠の言葉がどんな意味を持っているのかもよく分からない。湊が望んで触れて欲しがっているのに、行動も言葉も悠に届くように示したのに、悠はそのまま受け取ってくれなかった。
「俺は添い寝屋ですから……朝まで隣にいることならできます」
言葉の外側で、湊が求めたことは添い寝屋のルールに反しているともう一度言われた気分だった。初めに言われた注意事項の中に性的なサービスは行わないとあった。湊は了承していたはずだったのに悠を誘ってしまった。胸の中に後悔が広がっていく。自分は何も変われていなかった。天城に躾けられた通りに動こうとしていた。安心をくれた存在に、体を差し出して報いようとしている。そうすることで繋ぎ止めようとしている。自覚すると自分がとても汚く見えた。悠がただそばにいてくれたことさえ否定する行為だった。
「ごめん、悠くん。今日はもう帰って……」
湊は自分の弱さが恥ずかしくなって、もう顔を見ることができなかった。静かに告げると悠に背中を向ける。悠はしばらく迷っていたようだったが、ベッドから出ていく気配があった。さらに体温が遠ざかっていく。布団の中に部屋の空気が入り込んできた。快適な温度で暖房をつけているはずなのに、とても冷たく思えた。自分で拒んだはずなのに、捨てないでと追い縋りたくなってしまう。もともと自分は悠のものではないのに。悠はただ、仕事で湊のそばにいるだけなのに。
「いつでも、俺は湊さんの味方です」
強い声が背中にぶつかった。反射的に振り返りたくなるのを堪える。寝室の扉が開き、悠の足音が遠ざかっていった。湊は自分の体をきつく抱き締め、毛布に埋もれて浅い呼吸を続けていた。自分が発した言葉も、悠の拒絶も、ずっと脳内を巡っていた。その度に自分への嫌悪が止まらなくなっていた。
その日は久しぶりに朝まで一度も眠りにつけなかった。もう眠れる日なんて来ないのかもしれないと思った。
「こんばんは」
今朝別れたばかりなのに、もう長いこと会っていないような気がした。悠はいつも通り洗面所に寄り、リビングに戻ってくる。悠は連日の予約に違和感を覚えているだろう。口数の少ない湊に、心配そうな目を向けている。
「カモミールティー持ってきたんです。安眠効果があるって。よかったらどうですか?」
悠がバッグからカモミールティーの袋を取り出した。温かい心遣いも今の湊には受け取る余裕がなかった。湊の張り詰めた気持ちが表情に表れ、気配まで強張っている。
「……それより、ベッドに来て」
湊の手が悠の袖を引いた。悠はほんの一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑みを浮かべた。湊から積極的に触れるのは珍しいことだった。
「分かりました。これ、置いときますね」
テーブルの上にカモミールティーを置き、悠は湊の後ろをついてくる。悠が入ってくると、寝室は安心する場所へと変わる。眠れない夜を耐えるしかなかった頃の澱んだ空気を悠が変えてくれた。悠と出会ってからは一人の夜でも苦しくなくなった。
湊がベッドに入ると、もう悠は自然と隣に寝るようになっていた。顔の間で投げ出した手を繋ぐだけの距離感。二人の体温で布団の中が温められ、どちらの熱か分からなくなっていく。手の平の温度が一緒になる。その温かな触れ合いが湊の救いだったはずなのに、今はどうしようもなく不安を掻き立てた。
一年かけて忘れたはずだったのに、このベッドには天城との記憶が根付いている。寝具を洗っても変えても、空間に染みついた香りを消し去ることはできない。天城が体温を与えてくれるのは快楽を伴う時だけだった。湊が従順に言うことを聞いて欲に溺れれば、褒美のように触れてもらえる。何かを得るためには、それ以上に差し出さなければいけない。そうしなければ失望される。理想を叶えられなければ捨てられる。深く沈められていたはずの恐怖が浮き上がってくる。
繋いだ手を引き寄せた。悠は驚いたように目を開いて湊が何をするのか見つめていた。悠の手を両手で取り、胸元へと導く。シャツ越しに手の平を押し付けると二人の肌の間で鼓動が響いた。
「今日、何かあったんですか」
悠はされるがままだった。湊の胸に触れたまま静かに問いかける。問いの形をしていたが悠は確信しているようだった。朝別れたばかりの悠をすぐに呼び、普段しない触れ方をする湊。何か焦りのようなものが早い鼓動から伝わっていた。
「俺に話せることなら、教えてください。話して楽になることもあるから……」
湊の不安すら悠は柔らかく受け止めてくれる。どこまでもこの優しさに沈んでしまいたかった。だが、湊はそれを自分に許してやることができない。これでは悠に与えてもらってばかりで返せているものがない。
湊は伏せていた目をそっと上げた。上目遣いの視線に媚びを含んで微笑を浮かべる。欲しいものがあったらどうしなければいけないか、体はきちんと覚えていた。
「湊さん?」
気配の変わった湊に悠は戸惑いを見せる。揺れた大きな瞳の中に蠱惑的な笑みを浮かべる湊が映り込んでいた。湊の手は悠の腕に絡みつき、体が寄せられる。胸に当てられていた悠の手の平が肌をなぞるように下へと誘導されていく。
「悠くん。僕の体、使ってくれる?」
小首をかしげ、艶やかな笑みで誘う。大人しく動かされていた悠の手が明確な意思を持って止められた。湊に触れていた指先を隠すように握り込まれる。力んで筋張った腕はもう湊の力では動かすことができなかった。
「すみません。そういうことはできません、仕事ですから」
悠は真剣な声でその先を拒んだ。悠の手が逃げて行ってしまう。失われた熱へ追い縋ることができなかった。
「……ごめん、なさい」
自分は間違いを犯した。湊の体が勝手に震え出す。優しさしか見せなかった悠に初めて拒絶の言葉を伝えられた。悠の信頼を裏切ってしまった。期待に応えられなかった。悠の体温が残るシャツの布地を、自分で握り締める。首元が締め付けられて少し息苦しかった。
「それに湊さん、本当はそんなことしたくないって顔してます」
悠の言葉に何も捉えていなかった視線が少しずつ戻ってくる。悠の瞳は誠実な光を湛えており、なぜか悲しそうだった。拒まれた湊と同じくらい傷ついた顔をしている理由が分からない。悠の言葉がどんな意味を持っているのかもよく分からない。湊が望んで触れて欲しがっているのに、行動も言葉も悠に届くように示したのに、悠はそのまま受け取ってくれなかった。
「俺は添い寝屋ですから……朝まで隣にいることならできます」
言葉の外側で、湊が求めたことは添い寝屋のルールに反しているともう一度言われた気分だった。初めに言われた注意事項の中に性的なサービスは行わないとあった。湊は了承していたはずだったのに悠を誘ってしまった。胸の中に後悔が広がっていく。自分は何も変われていなかった。天城に躾けられた通りに動こうとしていた。安心をくれた存在に、体を差し出して報いようとしている。そうすることで繋ぎ止めようとしている。自覚すると自分がとても汚く見えた。悠がただそばにいてくれたことさえ否定する行為だった。
「ごめん、悠くん。今日はもう帰って……」
湊は自分の弱さが恥ずかしくなって、もう顔を見ることができなかった。静かに告げると悠に背中を向ける。悠はしばらく迷っていたようだったが、ベッドから出ていく気配があった。さらに体温が遠ざかっていく。布団の中に部屋の空気が入り込んできた。快適な温度で暖房をつけているはずなのに、とても冷たく思えた。自分で拒んだはずなのに、捨てないでと追い縋りたくなってしまう。もともと自分は悠のものではないのに。悠はただ、仕事で湊のそばにいるだけなのに。
「いつでも、俺は湊さんの味方です」
強い声が背中にぶつかった。反射的に振り返りたくなるのを堪える。寝室の扉が開き、悠の足音が遠ざかっていった。湊は自分の体をきつく抱き締め、毛布に埋もれて浅い呼吸を続けていた。自分が発した言葉も、悠の拒絶も、ずっと脳内を巡っていた。その度に自分への嫌悪が止まらなくなっていた。
その日は久しぶりに朝まで一度も眠りにつけなかった。もう眠れる日なんて来ないのかもしれないと思った。
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