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第五章 二人の安らぎ
5-1
カーテンの隙間から朝の陽射しが入り込む。瞼の裏を鬱陶しい光が照らした。ただ閉じていただけの目を開ける。久しぶりに一度も眠れないまま迎えた朝だった。
重たい頭を起こすと、ベッドがやけに広く感じた。一人で慣れたはずのダブルベッドが空白を主張する。寝室に自分の気配しかないことがこんなにも寂しい。この一年で当たり前になったことなのに、隣に誰かがいて欲しいと思ってしまった。そのせいで、離れてしまう恐怖から悠にあんな言葉を言ってしまった。後悔が喉を締めて息苦しい。
明るい寝室は少しも湊を救ってくれなかった。陽に透けて光る悠の茶髪が隣で寝ていたら、どれだけ幸福な景色だっただろう。陽光はシーツの上に一筋の光を残し、辺りの闇を濃くしていた。影の中で、湊は力なく俯く。求めた温かさを手放したのは自分だ。願って、縋って、台無しにした。せっかく安らぎをくれた悠を困らせ、軽蔑されるようなことをしてしまった。
充電の切れかけたスマートフォンがアラームを鳴らす。湊は緩慢に画面に触れ、騒音を止めた。昨日助けを求めた『添い寝屋ぬくもり』のページが開かれている。湊のまつ毛が震え、深いため息が吐き出された。こんな気持ちのまま、悠には会えない。悠以外を呼ぶつもりもない。しばらく画面の上で迷っていた指先が、予約ページを削除した。昨夜の出来事を一緒に消せたようで、少しだけ呼吸がしやすくなった。本当は無くなるわけがない。忘れようとしている自分がずるくて、どうしようもなく嫌いだった。
ベッドから出ることができず、起き上がれないまま時間が経っていった。眠れない日が続いても意地でも普段通りに出勤していたのに体が言うことを聞かない。店はスタッフに任せている。湊が行かなくとも問題はないが、心配させてしまうだろう。なんとかスタッフに短いメッセージを送った。それが精一杯だった。
こんなときにどうやって力を入れていたのか思い出せない。昔なら、天城の理想に沿って早く起きていた。別れてからしばらくは癖が抜けなかった。眠れなくなるとアラームを頼りに這い起きた。悠と出会ってからは、自然と体が起き上がるようになった。
湊はぼんやりと閉まった扉を見つめた。悠のことを思い出さずにはいられない。昨夜背を向けた湊を、悠はどんな顔で見ていたのだろう。困惑、呆れ、失望。いろんな悠の顔を想像しては胸を痛める。遠ざかる温もりを背中が覚えていた。
閉じた目の奥に粉雪がちらつく。これは、一年前の初雪。体の一部が失われるような喪失を、湊は覚えていた。震える唇で告げた別れ。間違っていたとは思わない。それでも湊に染み付いた天城の気配は剥がれ落ちるたびに痛みを伴った。あの日はとても寒かった。白い息が吐き出されて形になった時、もう戻れないと分かった。湊の手は寒さに赤くなり、震えていた。思い出すと今も、その冷たさは蘇ってくる。毛布を巻きつけて体を丸めた。焼きついた光景を頭の中から追い出そうとする。あの時、天城はなんと言ったのだったか。表情ばかりが浮かんで消えない。困惑、呆れ、失望。失敗作を見るような目。
強く強く目を閉じた時、感覚のなくなった手に熱が宿った。それは弱く、不確かなものだったが、確かにそこにあった。そのぬくもりの名前をもう知っている。
──いつでも、俺は湊さんの味方です。
悠の言葉が蘇る。お腹の中から温かくなるような悠の声が、力強く言葉にしてくれた。彼が纏う春のひだまりのような柔らかな気配が、冷たい雪を溶かしていった。嫌な記憶の中に自分を閉じ込めていた湊へ、悠は手を差し伸べてくれる。
湊は潤んだ瞳を開いた。いつの間にか、ほんの少しだけ眠っていたようだった。まだ手の中に温度が残っている。あんなことがあった後でも悠は湊を眠りに連れて行ってくれた。ぼうっと辺りを見回す。そこには雪も悠もない。変わらぬ寝室だったが、湊に優しくなった気がした。夢の残り香が気持ちを楽にしてくれた。
ひとときだけでも休まり、起き上がる力が湧いていた。守るように巻きつけていた毛布を取り去り、湊はゆっくりとベッドを降りる。
暖房がついたままのリビング。微かに残った誰かがいた気配が、静寂を浮き彫りにした。カーテンが引かれていても昼間の光が透けてくる。布地の橙色に染まった部屋の中、湊はテーブルの上に袋を見つけた。悠が持ってきたカモミールティーだ。湊はそっと手に取ると、湯を沸かし始めた。薄暗いキッチンで待つ間、なんとはなしに袋を眺める。白と黄のカモミールの花。少しアトリエの写真に似ていた。袋を持つ手が揺れる。最後にアトリエの写真を見た時、思い出したのは悠のことだった。
ポットの音で顔を上げた。とぽとぽと注ぐと、柔らかい湯気が立ち上る。カップから柔らかい花の香りが広がった。冷えた手を温めるように両手で包み込む。陶器からじんわりと感じられる熱が湊の強張りをほぐしていった。ゆっくりと口を付けると、香りはますます強くなる。乾いた唇を潤し、喉から胃を滑り落ちる温かさ。心がほっとするような優しさに包まれる。青ざめていた頬に赤みがさした。まなじりが下がり、頬が緩む。カモミールの香りが漂っている。まるで、初めて悠と出会った日のようだった。悠は冷え切った湊の元へ、春の陽射しを連れてきた。
とくん、と胸の奥が音を立てた。春風と共に生命の息吹が吹き込まれる。その響きは波紋のように体へ広がっていく。やってきた次の季節が湊を踏み出させてくれた。もうここには湊を過去に縛る香りはない。目を閉じれば、ひだまりの中に悠がいた。心の一番深く柔らかいところに、あの安らぎの時間がある。悠の優しい瞳を思い出す。ただそばにいることがこんなに力になるんだと、悠が教えてくれた。
湊はリビングのカーテンに手をかける。一度呼吸を整えると、一気に引いた。昼間の光が招かれる。塗り替えられるように部屋の中が明るくなる。そうして初めてこんなに暗かったのだと気が付いた。眩しさに目を細めるが、照らされた湊の顔には微笑みが浮かんでいた。
重たい頭を起こすと、ベッドがやけに広く感じた。一人で慣れたはずのダブルベッドが空白を主張する。寝室に自分の気配しかないことがこんなにも寂しい。この一年で当たり前になったことなのに、隣に誰かがいて欲しいと思ってしまった。そのせいで、離れてしまう恐怖から悠にあんな言葉を言ってしまった。後悔が喉を締めて息苦しい。
明るい寝室は少しも湊を救ってくれなかった。陽に透けて光る悠の茶髪が隣で寝ていたら、どれだけ幸福な景色だっただろう。陽光はシーツの上に一筋の光を残し、辺りの闇を濃くしていた。影の中で、湊は力なく俯く。求めた温かさを手放したのは自分だ。願って、縋って、台無しにした。せっかく安らぎをくれた悠を困らせ、軽蔑されるようなことをしてしまった。
充電の切れかけたスマートフォンがアラームを鳴らす。湊は緩慢に画面に触れ、騒音を止めた。昨日助けを求めた『添い寝屋ぬくもり』のページが開かれている。湊のまつ毛が震え、深いため息が吐き出された。こんな気持ちのまま、悠には会えない。悠以外を呼ぶつもりもない。しばらく画面の上で迷っていた指先が、予約ページを削除した。昨夜の出来事を一緒に消せたようで、少しだけ呼吸がしやすくなった。本当は無くなるわけがない。忘れようとしている自分がずるくて、どうしようもなく嫌いだった。
ベッドから出ることができず、起き上がれないまま時間が経っていった。眠れない日が続いても意地でも普段通りに出勤していたのに体が言うことを聞かない。店はスタッフに任せている。湊が行かなくとも問題はないが、心配させてしまうだろう。なんとかスタッフに短いメッセージを送った。それが精一杯だった。
こんなときにどうやって力を入れていたのか思い出せない。昔なら、天城の理想に沿って早く起きていた。別れてからしばらくは癖が抜けなかった。眠れなくなるとアラームを頼りに這い起きた。悠と出会ってからは、自然と体が起き上がるようになった。
湊はぼんやりと閉まった扉を見つめた。悠のことを思い出さずにはいられない。昨夜背を向けた湊を、悠はどんな顔で見ていたのだろう。困惑、呆れ、失望。いろんな悠の顔を想像しては胸を痛める。遠ざかる温もりを背中が覚えていた。
閉じた目の奥に粉雪がちらつく。これは、一年前の初雪。体の一部が失われるような喪失を、湊は覚えていた。震える唇で告げた別れ。間違っていたとは思わない。それでも湊に染み付いた天城の気配は剥がれ落ちるたびに痛みを伴った。あの日はとても寒かった。白い息が吐き出されて形になった時、もう戻れないと分かった。湊の手は寒さに赤くなり、震えていた。思い出すと今も、その冷たさは蘇ってくる。毛布を巻きつけて体を丸めた。焼きついた光景を頭の中から追い出そうとする。あの時、天城はなんと言ったのだったか。表情ばかりが浮かんで消えない。困惑、呆れ、失望。失敗作を見るような目。
強く強く目を閉じた時、感覚のなくなった手に熱が宿った。それは弱く、不確かなものだったが、確かにそこにあった。そのぬくもりの名前をもう知っている。
──いつでも、俺は湊さんの味方です。
悠の言葉が蘇る。お腹の中から温かくなるような悠の声が、力強く言葉にしてくれた。彼が纏う春のひだまりのような柔らかな気配が、冷たい雪を溶かしていった。嫌な記憶の中に自分を閉じ込めていた湊へ、悠は手を差し伸べてくれる。
湊は潤んだ瞳を開いた。いつの間にか、ほんの少しだけ眠っていたようだった。まだ手の中に温度が残っている。あんなことがあった後でも悠は湊を眠りに連れて行ってくれた。ぼうっと辺りを見回す。そこには雪も悠もない。変わらぬ寝室だったが、湊に優しくなった気がした。夢の残り香が気持ちを楽にしてくれた。
ひとときだけでも休まり、起き上がる力が湧いていた。守るように巻きつけていた毛布を取り去り、湊はゆっくりとベッドを降りる。
暖房がついたままのリビング。微かに残った誰かがいた気配が、静寂を浮き彫りにした。カーテンが引かれていても昼間の光が透けてくる。布地の橙色に染まった部屋の中、湊はテーブルの上に袋を見つけた。悠が持ってきたカモミールティーだ。湊はそっと手に取ると、湯を沸かし始めた。薄暗いキッチンで待つ間、なんとはなしに袋を眺める。白と黄のカモミールの花。少しアトリエの写真に似ていた。袋を持つ手が揺れる。最後にアトリエの写真を見た時、思い出したのは悠のことだった。
ポットの音で顔を上げた。とぽとぽと注ぐと、柔らかい湯気が立ち上る。カップから柔らかい花の香りが広がった。冷えた手を温めるように両手で包み込む。陶器からじんわりと感じられる熱が湊の強張りをほぐしていった。ゆっくりと口を付けると、香りはますます強くなる。乾いた唇を潤し、喉から胃を滑り落ちる温かさ。心がほっとするような優しさに包まれる。青ざめていた頬に赤みがさした。まなじりが下がり、頬が緩む。カモミールの香りが漂っている。まるで、初めて悠と出会った日のようだった。悠は冷え切った湊の元へ、春の陽射しを連れてきた。
とくん、と胸の奥が音を立てた。春風と共に生命の息吹が吹き込まれる。その響きは波紋のように体へ広がっていく。やってきた次の季節が湊を踏み出させてくれた。もうここには湊を過去に縛る香りはない。目を閉じれば、ひだまりの中に悠がいた。心の一番深く柔らかいところに、あの安らぎの時間がある。悠の優しい瞳を思い出す。ただそばにいることがこんなに力になるんだと、悠が教えてくれた。
湊はリビングのカーテンに手をかける。一度呼吸を整えると、一気に引いた。昼間の光が招かれる。塗り替えられるように部屋の中が明るくなる。そうして初めてこんなに暗かったのだと気が付いた。眩しさに目を細めるが、照らされた湊の顔には微笑みが浮かんでいた。
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