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第五章 二人の安らぎ
5-2
柔らかい冬の陽射しの中でも、寒さは厳しくなっていた。湊は向かい風に目を細めながら口元のマフラーを直す。いつの間にか街路樹にはイルミネーションが巻き付いている。もう年の瀬が近づいていた。
昼過ぎに店へ来た湊に、スタッフは安心したように挨拶をした。店舗を任せ、湊はアトリエへと向かう。湊しか立ち入れない空間なのに、ノブを回す時に一瞬躊躇した。鍵がかかっており誰もいないことは分かっている。それなのに天城の来訪は突然すぎてまだ湊に癒えない傷を与えていた。
開かれた扉の中は、静寂しかいない。いつものアトリエに肩の力が抜けた。湊は暖房をつけてマフラーを外す。コートを脱ぎかけた時、作業台に出しっぱなしだったノートが目に入った。
── また会いに来るよ。
ぶるっと体が震える。それを寒さのせいだと言い訳した。天城の声が蘇り体温が下がる。またこの場所に天城はやってくる。消えない過去の亡霊が湊に取り憑いている。首を振って追い払うが、あの低い声は消えてくれない。
──今度は『正しい』答えを用意しておいて。
湊の瞳が彩度を失う。冷えた指がそろりそろりとノートに伸ばされた。開こうとすれば癖のついたページが勝手に顔を覗かせた。天城の痕跡が強く残った『Veil』のレシピ。文字を見るだけでもう香りが立ち上ってくる。湊はこのページを開くたびに、幻の中でその匂いを嗅いでいた。天城の香りと混ざって肌の熱を含み、夜を孕んだ記憶の匂い。思い起こすたびに湊を過去へと連れていき、閉じ込めようとする。
でも、今日は違った。湊の手や頬は外気で冷やされていたが、体の中にはまだカモミールティーの熱が残っている。微かな花の香りが湊を繋ぎ止めていた。湊の両足はしっかりと地に付けられている。もう引き戻されるものかと踏ん張っていた。前へ進もうとする意思を、優しい香りが守っている。
湊の手がレシピノートに触れた。『理想の自分を纏う』。天城の書いた文字を、冷えて感覚のない指先でなぞる。ここには天城の言う『正しさ』が詰まっている。確かにこの香水は魅力的で、湊を違う人間にしてくれた。背筋が伸び、瞳に力が入った。だけど、いつも潰れてしまいそうだった。
ここに詰まっていたのは理想へ向かおうとする強さではなく、本来の自分を隠して装う弱さだった。自分から一歩踏み出そうとした時、ようやくそのことに気が付いた。湊が動けずにいた時、背中を押してくれたのは悠の香りだった。そして今も湊に力を貸してくれている。
指先に力を込める。震えていた。寒さのせいだけではなかった。呼吸も細かく震えている。それでも視線は真っ直ぐ、天城の文字を見つめていた。
ビリ、と高い音が静寂を破る。罫線を斜めに割くようにしてページが破られた。走った亀裂は徐々に大きくなり、やがて紙の破片となった。未練がましくしがみついていたもう半分も同じように破り捨てる。心臓が弾けそうなほど脈打っていた。
「はあっ、はっ……」
ページがなくなると、湊は崩れるように作業台へ手をついた。足に力が入らなかった。とんでもないことをしてしまった、と思った。天城の示す正解を破ったのだから、許されるはずがない。強く目を瞑り、揺らぐ感覚に耐える。湊が理想通りに振る舞えなかった時の天城の冷たい目が体の内を冷たくした。
湊は震えながらも目を開く。ノートには破れたページの跡が不恰好に残っていた。丁寧に紙片を取り除いても、痕跡は消えないだろう。それでも自分の字だけが残ったノートはあるべき形に戻ったようで、誇らしかった。
手の中に残った紙切れを丁寧に丸めた。小さく、小さく、なるべく中身の見えないように潰していく。その顔には憎しみも恨みもない。不思議と穏やかな気持ちで小さくなった塊をゴミ箱へ落とした。湊はふっと息を吐き出す。やっと見えない鎖が解けたように思えた。
顔を上げると、見慣れたアトリエも少し違って見えた。新作ができずに苦しみ続けた日々の重さがなくなっている。ずっと過去にばかり目を向けていた。何を作ろうとしても天城の指定した香料に目が行き、逃れようとしては失敗していた。今の湊は違う。アトリエが光を取り戻したように見える。並んだ香料瓶は数多の可能性に。空のビーカーやフラスコは無地のキャンバスに。胸が躍っている。新しい香水作りが楽しみだった。初めて香水に出会った時、作りたいと思った時、そして自分の香水が形になった時。そのときめきが抑えられなかった。
もう湊には自分の作りたいものが分かっている。新作のコンセプトは『安らぎ』。悠との時間をイメージして作ろうと思っていた。それだけではない。『心のお守りになる香水』。湊がブランドに込めた願いを、悠が再確認させてくれた。ただの香りと言われるかもしれない。しかしその香りが湊を過去に縛り付け苦しめた。そして救ってもくれた。悠のくれたカモミールの香りで湊は再び歩き出せた。
湊は右手を握り締める。もう冷たくも震えてもいなかった。そこには悠の熱が残っている。そばにいてくれた悠のように、今度は湊が誰かに力を貸す香水を作りたい。
自分が悠に最低なことをしてしまったのは分かっていた。思い返せば情けなくて、恥ずかしい。困らせたどころか、顔も見ずに追い返してしまった。きちんと会って謝りたい。だが、今のままの自分ではまた悠に縋ってしまいそうだった。きっと悠のくれる優しさに甘え、繋ぎ止めなくてはと必死になる。もうあんな悲しい顔をする悠を見たくなかった。醜い自分も見せたくなかった。
いつかした約束が胸の灯になっている。悠のおかげで新作を作り始めることができた。新しい香水が出来上がった時、湊は変われるような気がしている。ずっと迷っていた霧の海に灯台の光が差す。自分が作りたいのはただの『安らぎ』ではない。『悠がいる夜の安らぎ』だった。眠れない夜に寄り添う優しさや温かさを、香水に込めたい。自分と同じような思いをしている誰かに、力を貸したい。
思い浮かぶ顔は知らない誰かではなく、いつも悠だった。この香水は、悠につけて欲しい。悠が初めてつける香水は、自分のものがいい。調香師になって初めて抱いた感情だった。
迷いなくカモミールの瓶を手にしていた。初めて会った時から、悠にぴったりの香りだ。湊はノートの新しいページを開く。まっさらなページに『安らぎ』の文字が記された。『カモミール』と柔らかい字が踊る。湊は満足そうに、そして愛おしそうに瞳を細めた。ようやく新しい香りが誕生する兆しを掴めた。次の香料瓶へと伸びた手に迷いはない。湊は初めて香水を作り始めた時のように、時間を忘れて調香に夢中になっていった。
昼過ぎに店へ来た湊に、スタッフは安心したように挨拶をした。店舗を任せ、湊はアトリエへと向かう。湊しか立ち入れない空間なのに、ノブを回す時に一瞬躊躇した。鍵がかかっており誰もいないことは分かっている。それなのに天城の来訪は突然すぎてまだ湊に癒えない傷を与えていた。
開かれた扉の中は、静寂しかいない。いつものアトリエに肩の力が抜けた。湊は暖房をつけてマフラーを外す。コートを脱ぎかけた時、作業台に出しっぱなしだったノートが目に入った。
── また会いに来るよ。
ぶるっと体が震える。それを寒さのせいだと言い訳した。天城の声が蘇り体温が下がる。またこの場所に天城はやってくる。消えない過去の亡霊が湊に取り憑いている。首を振って追い払うが、あの低い声は消えてくれない。
──今度は『正しい』答えを用意しておいて。
湊の瞳が彩度を失う。冷えた指がそろりそろりとノートに伸ばされた。開こうとすれば癖のついたページが勝手に顔を覗かせた。天城の痕跡が強く残った『Veil』のレシピ。文字を見るだけでもう香りが立ち上ってくる。湊はこのページを開くたびに、幻の中でその匂いを嗅いでいた。天城の香りと混ざって肌の熱を含み、夜を孕んだ記憶の匂い。思い起こすたびに湊を過去へと連れていき、閉じ込めようとする。
でも、今日は違った。湊の手や頬は外気で冷やされていたが、体の中にはまだカモミールティーの熱が残っている。微かな花の香りが湊を繋ぎ止めていた。湊の両足はしっかりと地に付けられている。もう引き戻されるものかと踏ん張っていた。前へ進もうとする意思を、優しい香りが守っている。
湊の手がレシピノートに触れた。『理想の自分を纏う』。天城の書いた文字を、冷えて感覚のない指先でなぞる。ここには天城の言う『正しさ』が詰まっている。確かにこの香水は魅力的で、湊を違う人間にしてくれた。背筋が伸び、瞳に力が入った。だけど、いつも潰れてしまいそうだった。
ここに詰まっていたのは理想へ向かおうとする強さではなく、本来の自分を隠して装う弱さだった。自分から一歩踏み出そうとした時、ようやくそのことに気が付いた。湊が動けずにいた時、背中を押してくれたのは悠の香りだった。そして今も湊に力を貸してくれている。
指先に力を込める。震えていた。寒さのせいだけではなかった。呼吸も細かく震えている。それでも視線は真っ直ぐ、天城の文字を見つめていた。
ビリ、と高い音が静寂を破る。罫線を斜めに割くようにしてページが破られた。走った亀裂は徐々に大きくなり、やがて紙の破片となった。未練がましくしがみついていたもう半分も同じように破り捨てる。心臓が弾けそうなほど脈打っていた。
「はあっ、はっ……」
ページがなくなると、湊は崩れるように作業台へ手をついた。足に力が入らなかった。とんでもないことをしてしまった、と思った。天城の示す正解を破ったのだから、許されるはずがない。強く目を瞑り、揺らぐ感覚に耐える。湊が理想通りに振る舞えなかった時の天城の冷たい目が体の内を冷たくした。
湊は震えながらも目を開く。ノートには破れたページの跡が不恰好に残っていた。丁寧に紙片を取り除いても、痕跡は消えないだろう。それでも自分の字だけが残ったノートはあるべき形に戻ったようで、誇らしかった。
手の中に残った紙切れを丁寧に丸めた。小さく、小さく、なるべく中身の見えないように潰していく。その顔には憎しみも恨みもない。不思議と穏やかな気持ちで小さくなった塊をゴミ箱へ落とした。湊はふっと息を吐き出す。やっと見えない鎖が解けたように思えた。
顔を上げると、見慣れたアトリエも少し違って見えた。新作ができずに苦しみ続けた日々の重さがなくなっている。ずっと過去にばかり目を向けていた。何を作ろうとしても天城の指定した香料に目が行き、逃れようとしては失敗していた。今の湊は違う。アトリエが光を取り戻したように見える。並んだ香料瓶は数多の可能性に。空のビーカーやフラスコは無地のキャンバスに。胸が躍っている。新しい香水作りが楽しみだった。初めて香水に出会った時、作りたいと思った時、そして自分の香水が形になった時。そのときめきが抑えられなかった。
もう湊には自分の作りたいものが分かっている。新作のコンセプトは『安らぎ』。悠との時間をイメージして作ろうと思っていた。それだけではない。『心のお守りになる香水』。湊がブランドに込めた願いを、悠が再確認させてくれた。ただの香りと言われるかもしれない。しかしその香りが湊を過去に縛り付け苦しめた。そして救ってもくれた。悠のくれたカモミールの香りで湊は再び歩き出せた。
湊は右手を握り締める。もう冷たくも震えてもいなかった。そこには悠の熱が残っている。そばにいてくれた悠のように、今度は湊が誰かに力を貸す香水を作りたい。
自分が悠に最低なことをしてしまったのは分かっていた。思い返せば情けなくて、恥ずかしい。困らせたどころか、顔も見ずに追い返してしまった。きちんと会って謝りたい。だが、今のままの自分ではまた悠に縋ってしまいそうだった。きっと悠のくれる優しさに甘え、繋ぎ止めなくてはと必死になる。もうあんな悲しい顔をする悠を見たくなかった。醜い自分も見せたくなかった。
いつかした約束が胸の灯になっている。悠のおかげで新作を作り始めることができた。新しい香水が出来上がった時、湊は変われるような気がしている。ずっと迷っていた霧の海に灯台の光が差す。自分が作りたいのはただの『安らぎ』ではない。『悠がいる夜の安らぎ』だった。眠れない夜に寄り添う優しさや温かさを、香水に込めたい。自分と同じような思いをしている誰かに、力を貸したい。
思い浮かぶ顔は知らない誰かではなく、いつも悠だった。この香水は、悠につけて欲しい。悠が初めてつける香水は、自分のものがいい。調香師になって初めて抱いた感情だった。
迷いなくカモミールの瓶を手にしていた。初めて会った時から、悠にぴったりの香りだ。湊はノートの新しいページを開く。まっさらなページに『安らぎ』の文字が記された。『カモミール』と柔らかい字が踊る。湊は満足そうに、そして愛おしそうに瞳を細めた。ようやく新しい香りが誕生する兆しを掴めた。次の香料瓶へと伸びた手に迷いはない。湊は初めて香水を作り始めた時のように、時間を忘れて調香に夢中になっていった。
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