調香師は今夜も眠れない

水ノ灯(ともしび)

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第五章 二人の安らぎ

5-4

「湊。返事を聞きにきた」
低い声が体の芯まで響く。恐る恐る振り返ると、天城が立っていた。安らぎのイメージを求めて集めた写真と不釣り合いな、隙のない姿。湊の想像と創造が詰まったアトリエに入り込んできた異質な存在。もうレシピノートは破り捨てた。ここに天城の居場所はもうない。分かっているのに、勝手に体が逃げようとする。
逃げ腰になった湊に、天城は勝者の笑みを浮かべた。自信に満ちた足取りで距離が詰められる。まだ湊が自分に囚われていると確信している。強くなる、天城の香り。染み込んだ夜の記憶が引き摺り出される。天城の選んだ衣服を着せられるも脱がされるも、天城次第だった。かけられる声はどれも湊が理想通りか否かを評価していた。溺れるような、快楽の渦。一人きりで目を覚ますと体に残る強い香水の香り。
「湊。さあ、『正しい』答えを聞かせて」
柔らかく聞いているようでいながら湊に選択を許さない。逆らえば、理想と違うと矯正される。天城の思う『正しい』湊に。
いつか掴まれた手首の痛みが甦る。快楽に朦朧とする中、シーツに押し付けられた手の強さが焼き付いていた。あの頃はその痛みや残った痕さえも愛情だと思っていた。無意識に手首を庇うように胸の前に抱える。その瞬間、ふわっと優しい香りが広がった。
過去の記憶から湊を連れ出す、安心する香り。冷たくなっていた手先に温かさが思い出される。傷つけも押さえつけもせず、そっと包み込んだ悠の手。そうだ、一人じゃない。湊はやっと視線を上げることができた。湊の中には悠と過ごした時間がある。悠を思って作った香りが味方をしてくれる。天城と対峙する。膝が震えている。それでも、もう、退かない。
意思のこもった湊の目に、天城は眉を顰めた。湊は浅くなる呼吸を落ち着けながら悠の香りを追いかける。悠の温かい声。湊を否定せず、評価せず、湊のままでそばにいてくれた。天城は支配の鎖で縛り付けたが、無理に捕まえたわけではない。天城に従い、理想通りになろうとしていたのは湊が決めたことだ。目の前にいるのはただ恐怖を与えるだけの存在ではない。言いなりになってしまった湊の弱さの象徴だった。湊は真っ直ぐに天城を見返す。その目はもう怯えてはいなかった。
「天城さん。確かにあなたのおかげで、僕のブランドは評価されました。感謝しています」
芯の通った声に、天城は驚いたように目を見張った。天城の中で湊の姿は過去のまま止まっていたのだろう。湊が変わっていることに、ようやく気が付いたようだった。
「でも、もう僕はあなたのために香水を作ることはありません」
湊の表情に迷いはなかった。姿を見ることさえ恐れ、夢に見ては囚われていた天城を見つめ、目を逸らさずにいられる。甘い香りはもう届かない。湊の心には悠がいる。言われるがままに香水を作るのではなく、自分からこの人に似合う香水を作りたいと思えるような存在が湊を強くしてくれた。湊を弱くする天城は、もう必要ない。
天城は黙って眼鏡を押し上げた。湊が導き出したのは『正しくない』答えだった。天城の理想から外れ、刻みつけた支配の香りさえもう届かない。いつか帰って来ると思って湊を手放したが、本当に手が届かなくなったと分かったのだろう。天城は失望した目を湊に向ける。昔は何より恐ろしかったはずの視線だが、今の湊には誇らしささえ感じられた。自分の足でやっと檻から出ていくことができる。
「残念だよ。君は俺の最高傑作だった」
天城は静かに言うと興味を失ったように背中を向けた。去っていく後ろ姿を見て、湊は少しだけ胸の痛みを覚える。やはり天城には湊が作品にしか思えていなかったのだろう。湊は正しく調香し好みの瓶に入れた香水と同じだった。天城の言う『最高傑作』は、本当の湊ではなかった。湊が感じていた愛情はどこにもなかったと知り、寂しさがちくりと刺さった。
しかしそれも既に過去のことだった。それ以上に安堵の方が大きかった。信じた愛さえ幻であったなら、もう天城を思って苦しむことはない。思いさえ覆い隠して本来と違う形にしてしまう『Veil』なんていらない。天城の残り香も開け放たれた扉から冬の風に攫われて薄れていった。残ったのは、湊の手首に宿った新たな香りだった。
「ありがとう、悠くん」
湊は深く息を吐き、手首に触れた。ラストノートが柔らかく抱き寄せてくれる。香りのおかげで湊は勇気をもらえた。悠と過ごした日々が力をくれた。本当にお守りみたいだ。湊がずっと作りたいと思っていた香水は、こんな風に誰かを支えてくれるものだった。じんわりと胸が温かくなる。香水作り自体が、やっと湊の元へ帰ってきてくれた気がした。ようやく自分の作りたいものに正面から取り組める。
新作はもう完成に近かった。それでもまだ、何かが足りない気がしている。もう少し悠に近づきたい。湊の中で悠は特別な存在だ。決して妥協できない挑戦だった。同時に、まだ先に進めるはずだという自分自身への信頼でもあった。納得のいく香水が完成したら、一番に悠へ伝えたい。湊は調香師の顔で記憶の中の悠と向き合っていた。
ついに悪夢から目が覚めた。湊を覆い隠していた霧が晴れると輝きに満ちた世界が広がっていた。ビーカー、フラスコ、香料瓶。全てが光り出す。手首に残った香りすら、キラキラと瞬いているように感じるのだった。
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