調香師は今夜も眠れない

水ノ灯(ともしび)

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第六章 結ばれた香り

6-1

湊は珍しく早く帰宅し、自宅で時間を過ごしていた。スタッフがアトリエに篭り続けている湊を心配し、休息を取った方がいいと帰らせたのだ。あと一歩で香水が完成するはずなのに、最後の欠片が見つからない。煮詰まっていた自覚があったので、湊は素直に助言を受け入れた。
帰り際に手首につけた試作品が柔らかく香っている。自宅がこの香りで満ちるたび、悠の不在を実感してしまう。寂しさを紛らわすようにカモミールティーを淹れると、最後の一つだった。悠が選び、残してくれたものがなくなってしまう。飲み干すことが悠のいない明日を受け入れるようで、最後の一口をためらった。
「悠くん……」
呟いても返ってくる声はない。記憶を辿っては悠の香りを探し続ける日々に、ますます悠が恋しくなる。早く香水を完成させたい気持ちは早く悠に会いたい気持ちと同じだった。やはり調香していないと落ち着かない。最後の一口を飲み干すと、湯気が消えてしまった。その時、まるで香りが誰かを呼び寄せたようにインターホンが鳴った。モニターに映った姿を見て、思わず息を飲んだ。そこには悠が立っていた。
『添い寝屋ぬくもり』にはあれから予約を入れていない。確かめるが、やはり履歴は残っていなかった。湊が呼んだわけではないのに悠が来ている。最後の夜を思うと気まずさがある。混乱しているのに、全ての感情を通り越して嬉しさが勝った。心臓が早鐘を打っている。はやる気持ちを抑えて玄関を開けると、本当に悠がそこにいた。
「急に来てしまってすみません」
悠は息を弾ませていた。白い呼気が冷えた空気に溶けていく。頬が赤く染まっていた。悠の髪や肩には、雪が溶けたような水滴が残っていた。後ろでは粉雪が舞っている。初雪。湊の胸が疼くように締め付けられる。天城に別れを告げた日と同じ光景の中、今は悠がいる。気づけば目元がじんわりと熱を帯びていた。
「『ぬくもり』は辞めてきました。ただの朝倉悠として、湊さんに会いにきました」
悠は真っ直ぐに湊を見つめる。視線の熱さに当てられて湊の体も熱を持ち始めた。心臓がますますうるさくなっていく。勝手に頬が熱くなる。覚悟を決めた悠の顔。その表情だけで、告げられる言葉が分かってしまった。期待が膨らんで胸の痛みなんてどこかに行ってしまう。
悠は呼吸を整え、一度目を伏せた。空気が変わるのが肌で感じられる。溶けそうな程の熱を孕んだ悠の視線が湊を捉える。
「湊さん。俺……」
切実な声を、湊が遮った。
「待って。僕から、言わないといけないことがある」
悠は静かに口を閉ざした。大人しく待つ姿が大型犬に見えて、そんな場ではないのに少し笑ってしまった。ふと気が緩むと玄関先で向かい合っている自分たちがおかしくて、悠を招き入れる。
「外寒かったよね。入って」
悠も玄関前で話していたことを思い出したようで、照れ笑う。久しぶりに見た悠は変わらないどころか、さらに魅力的になっていた。靴を脱ぐために屈むと、真っ赤になった耳が見えた。今日は特別寒い日だった。感覚がなくなるほど冷たくなっているだろう。包んで温めてあげたかった。思わず手を伸ばしかけたが、ぐっと堪えた。
悠がソファーに座ると、今まで何かが足りなかった部屋の空白がぴたりと埋まるようだった。湊が真剣な顔で悠を見ると、悠はほんの少し緊張した表情を見せた。それでもどんな言葉も受け入れるというように、静かに待っていた。
「ずっと謝りたかった。この前は悠くんに失礼なことを言ってごめんなさい」
湊は丁寧に頭を下げる。膝に置かれた自分の手を見つめる。悠がどんな顔でこの謝罪を受けているのか分からない。それでも湊の足も手も震えてはいなかった。
「あの時、悠くんが離れていくのが怖くて、僕はあんなことをしてしまいました。僕の弱さのせいで、悠くんを傷つけた」
自分勝手に悠を求め、突き放した。悠の悲しげな顔も、遠ざかっていく気配も覚えている。あれから謝ることもできずに時が過ぎてしまった。
「もうそんなに謝らないで」
悠の優しい声が降ってきて、背中に熱が触れた。ずっと恋しかった温かい手のひら。外にいたはずなのに悠の手はいつものように温かい。湊が思わず顔を上げると、優しい瞳に絡め取られた。悠の手が離れていってしまう。離れていく熱を追うように肩が揺れた。
「湊さんが本当は助けを求めてたって分かってました。でも俺は、仕事を理由にしてしまった。だから店員でなく、ただの自分として来たんです」
悠の言葉に息が詰まる。自分が苦しんでいたことが伝わっていたのだと、目の奥がじわりと熱をもつ。涙の重さに、喉がきゅっと締め付けられて何も言うことができなかった。悠は悪くないと伝えたくて緩く首を振る。悠はそれさえ分かっているというように一度強く頷いた。
悠がじっと湊を見つめている。遮った言葉を今度こそ口にしていいか、問うような沈黙だった。普段は優しい垂れ目がちな瞳が熱を帯び、眼差しが思いを注いでくる。湊はそっと微笑んで頷いた。悠の言葉を受け止めたかった。
「湊さん。俺は湊さんのことが好きです」
誠実な声がはっきりと告げる。射抜かれそうな視線の強さと、少し震えた息継ぎが悠の誠実さを表していた。
「ずっと隣にいさせてください」
真っ直ぐな言葉が心に届いた時、視界が潤んでいた。熱を感じるより早く、混じり気のない涙が溢れていく。頬を伝った涙を、悠の指が優しく拭った。悠の手にぶつかった呼吸が震えている。泣きながらでも湊は思いを返したかった。堪えきれず、嗚咽交じりに言葉をこぼす。
「僕も……悠くんが、好き」
しゃくりあげながら紡いだ思いが悠の笑顔を咲かせた。濡れた瞳で見上げた悠はやはり春のひだまりのように温かく、愛情に満ちていた。
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