調香師は今夜も眠れない

水ノ灯(ともしび)

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第六章 結ばれた香り

6-2

湊はたまらず悠の胸に体重を預けた。悠は柔らかく抱き止めてくれる。冬の外気と湊の手首から香る香水に紛れて悠の香りが分からず、ずっと恋しく思っていた。あれから何度も思い返した香りに包まれる。悠の体温と鼓動が合わさって、世界で一番安心できる場所になる。大きな手が髪を撫でてくれるのが嬉しくて、つい甘えてしまう。衣服についた雪の匂いを避けるように、悠の香りが強い場所を探す。熱を持った首筋に鼻先を埋めると、悠がくすぐったそうに声を上擦らせた。
「湊さんっ……」
少し肩をすくめ、困ったように名前を呼ぶ。その声が耳をくすぐり、湊を掻き乱す。胸が締め付けられるように苦しいのは、痛みでも涙のせいでもなく、あまりの愛おしさからだった。
湊は悠の腕に抱かれたまま、伸び上がって唇を触れさせた。うまくいかずに悠の口の端に当たる。悠は不意打ちに目を丸くしていたが、ほどけるように笑って唇を与えてくれた。そっと二人の唇が重なる。湊は離れていくのを惜しむように手を伸ばした。悠の頬に手を当て、耳を包み込む。やはり耳は冷たく、それなのに頬はとても熱かった。
唇がそっと離れ、吐息が触れ合う。湊が引き寄せると悠の唇はもう一度降りてきた。押し当てていた唇がもっと深くまで繋がりたいと緩みだす。微かな水音を響かせて、二人の距離はさらに縮まっていった。ずっと求めていたものがそばにあることを確かめるように、何度も唇を重ねていく。
やっと息継ぎをした時、どちらも呼吸が乱れていた。今にも触れ合いそうな近さで二人の視線が絡み合う。どちらも熱に浮かされたように瞳を潤ませていた。いくら口付けを重ねても、それだけでは満ち足りない。もっと互いを確かめ合いたい。深くまで、触れ合いたい。同じ思いでいることが伝わってくる。
「……悠くん。ベッドに、来てくれる?」
囁いた声には密やかな甘さが含まれていた。悠は何も答えず、視線の熱だけがさらに高まった。湊は言葉と瞳では足りない思いを伝えるように、悠の手に自分の手を潜り込ませる。ぎゅっと手を握り、思いを届ける。言葉に熱がこもるのを恥ずかしがる余裕もなかった。
「お願い、悠くん……今度は、不安だからじゃない。悠くんと、もっと近づきたい」
悠の瞳がさらに燃え上がるのを見つめていた。欲望を滲ませ、それ以上に愛情に溢れたまなざし。悠の体温が上がるのが強くなった香りで伝わった。香りを吸い込んだ途端、湊の吐息が甘くなった。悠は顔や耳どころか首筋まで真っ赤にしている。上着も脱いでいないままだったことに気づき、ダッフルコートのトグルボタンに手をかける。湊がボタンを外し始めると、悠は余計に赤くなってしまった。
「その、シャワー、借りてもいいですか」
悠が二つ目のボタンは自分で外してしまった。少しもつれる指先が焦りを感じさせて、湊はきゅんと胸を打たれる。悠は歳下らしい余裕のなさで視線を外している。脱ぎかけたコートの合わせに手を差し入れ、脱ぐのを手伝う。そのままするりとコートを奪って抱き締めた。冬の空気と、悠の香りが混ざる。
「だめ。悠くんの香りに包まれたい」
柔らかく断ると、悠はソファーに座ったまま困ったように眉を下げた。その顔が今度は子犬のようにかわいくて、つい口元が緩んだ。いたずらが成功した気持ちになって、足取り軽くコートをハンガーにかけにいく。その背中にそっと体重がかけられた。腕を上げて無防備になった体の前に悠の両手が回される。悠は腹の前で自分の両手を握るようにして湊を抱き締めていた。首筋に柔らかな悠の髪が触れる。右肩に重みが乗って振り返ると、悠が肩に額を押し当てていた。
「……一緒に行きませんか。その、ベッド……」
甘えた声が耳元で聞こえた時、骨まで溶ける気持ちだった。跳ね上がった心臓の音が悠に伝わっているかもしれない。悠は本当に照れているらしく、湊に押し当てるように顔を埋めている。いつも穏やかで大人らしいところばかり見ていたから、その反応が新鮮だった。
湊が悠の手に触れると、そっと握り返された。火傷しそうなほど熱い手を引いて寝室に向かう。顔を覗き込むと、恥ずかしさのあまり眉が下がっていた。湊を見ると、まなじりを溶かすように微笑む。湊は自分も顔が真っ赤になっているのが分かっていた。首筋まで熱くてたまらない。でもそれ以上に嬉しくて、繋いだ手に力を込めた。
ベッドに並んで腰掛ける。二人分の重さでマットレスが沈んだ。広さを持て余していたダブルベッドが悠を迎え入れる。悠の手に力がこもった。呼ばれた気がして視線を上げると、悠は真剣な顔をしていた。
「怖かったら、言ってください。湊さんが嫌がることは絶対にしたくありません」
体はこんなにも熱を持っているのに、悠は変わらず誠実だった。悠にされて嫌なことなんてひとつもない。ただ言葉にされて初めて、自分はずっと怖かったのだと気がついた。自分から誘うことも、そうしなければ捨てられると思うことも、仕草の一つ、声の出し方一つでさえ、評価されることも。甘ったるい香水が記憶の片隅で香った気がした。でも今の湊にはお守りがある。記憶を頼りに作ったものより強い、本物の体温を持つ香りが。
湊の手首で香っていた新作は、鼓動の高まりで香りを強めていた。ホワイトムスクとシダーウッドのラストノートがほのかに甘く漂っている。悠が隣にいるから、寝室は優しい匂いでいっぱいになっていた。触れ合うと鼻腔を満たす、湊を安心させるぬくもりの香り。
「悠くんなら怖くない」
腕の中で囁くと、そっと顔を上げさせられた。湊の気持ちを確かめるように見つめる慈愛の瞳。ゆっくりと目を閉じると、欲しかった口付けが与えられた。頭を抱き寄せる手が優しくも強くて、身を委ねたくなる。シャツに指をかけた湊の手を、悠がやんわりと止めた。
「脱がせても、いいですか?」
湊が戸惑ったのは嫌だったからではない。こういう時、衣服は自分で取り去るものだと思っていたからだ。どうしたらいいか分からず見上げると、悠が愛情をたたえて微笑んでいた。湊は心の無防備な部分でそれを受け入れ、子どものように、こくんと頷く。悠は丁寧な手つきでボタンを外していく。大切にされているのが伝わってきて、じんわりと胸が温かくなる。
「寒くないですか?」
悠の手が優しく背中を撫でる。直接伝わる体温の心地よさに力が抜けた。悠に素肌を晒しても不安や恥ずかしさはなかった。悠はまるで秘密を教えてくれたことを喜ぶように目を細めて湊の体を見つめていた。
「悠くんも脱いで」
湊が甘えた仕草でセーターの裾をつまむと、悠はインナーごと脱ぎ去った。衣服の上から想像していたよりも厚みのある体に思わず手が伸びる。湊と違って運動をしているのだろうか。悠なら学生時代は部活に励んでいそうだ。今までどんなことをして、どんな風に生きてきたのだろう。もっとたくさんのことを知りたくなった。
湊から体を寄せて抱き締める。素肌で抱き合うと、互いの体温が溶けて一つになって、もっと心地よかった。体を繋げようというよりは添い寝をする時のように、ただ優しく熱を分かち合う。深く呼吸をすると、悠の香りに満たされていく。安心させてくれるカモミール、青リンゴにすずらん。さらにその奥にある悠自身の香りが湊を蕩けさせていく。
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