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沙都希の回想②
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亜衣加が産気づき、沙都希はすぐにナースコールを押した。
すぐに看護師が駆け付け、亜衣加はストレッチャーに乗せられ、連れて行かれる。
正直、沙都希にとってはうるさい人間から解放されてホッとした。
幸せな家庭に生まれ、旦那もいて、望んだ子供を身籠った亜衣加なんかに上から目線で何を言われても、煩わしいとしか思わなかった。
そんな亜衣加よりも、沙都希は自分の赤ちゃんのことで頭がいっぱいだった。
どうしても、あの顔が脳裏に焼き付いて離れない。
それはまるで、自分は幸せになれないと言われているような気分だった。
私はただ、普通の子供が欲しかっただけなのに。
このまま黙って病院を出て、姿をくらますなんてことも考えた。
だが、それでは母親と同じになってしまうということだけが、沙都希の行動を思い留めた。
しかし、沙都希にはどうしていいかわからない。
改めて、自分には相談できる人間がいないことを痛感する。
それに比べ、亜衣加は……と考える。
幼馴染と恋愛結婚をし、普通に身ごもった。
唯一、不安を言っていたのは、旦那がIT会社を立ち上げたばかりで金銭的に厳しくなるかもしれないということだけだった。
会社が忙しいため、あまり旦那が見舞いに来ないと愚痴っていたことを思い出す。
ただ、それも沙都希から見れば、問題とは言えないほどの不安要素だ。
なにもかも恵まれている。
なんで、自分だけがこんな目に合うのか。
そんなことを考えていると、亜衣加が病室に戻ってきた。
その胸には生まれた赤ちゃんを抱いている。
「ふふふ。最初は死ぬほど痛くて、もう嫌って思ったけど、この子の顔を見たらそんなの吹っ飛んじゃったわね」
満面の笑みを浮かべて赤ちゃんを見ている亜衣加。
もし、沙都希の赤ちゃんの唇が普通だったら、出産のときの話で盛り上がっていただろう。
今、沙都希の目には幸せそうな亜衣加の姿が恨めしく見える。
「はあ……。でも、予定外だったから、修二に立ち会って貰えなかったなぁ」
旦那の修二はあまり見舞いには来れなかったが、出産は絶対に立ち会うと張り切っていた。
予定日の前後は休みを取れるように調整していると豪語していた。
「あーちゃん、今日はお父さんに会えないってー」
赤ちゃんをあやしながら残念そうな表情をする亜衣加。
なんでも、修二はちょうど仕事が忙しく、今日は病院に来られないらしい。
「はあ……。ついてないなぁ」
そんな程度でついてないなんて言う亜衣加に沙都希は怒りを通り越して、呆れさえ覚える。
「ねえ、沙都希ちゃん。沙都希ちゃんは子供の名前って考えてあるの?」
「え? ああ、はい。一応は」
「ふーん、どんな名前? ちなみにこの子は亜里沙って名前なの」
「私は……由依香って名前にしようと思ってるんです」
そう。生む前の希望を抱いていた時に、色々と名前を考えていたのだ。
「へえ、いい名前じゃない。きっと可愛い子に育つよ」
「あはは……」
乾いた笑いしか出なかった。
今思い出しても、あの顔に由依香はどうしても合わないように感じていた。
名前、考え直そうかなと思い始める沙都希。
そんなときだった。
不意に、病院内が慌ただしくなり始めた。
「あれ? なんだろ?」
「なにかあったんですかね?」
すると救急車のサイレンが近づいてくることに気づいた。
しかも、一台ではなく次々に病院に向ってきている。
「事故かな?」
「……さあ?」
沙都希はなんとなく、病室にあるテレビの電源を入れた。
すると、番組内で速報が入り、映像が切り替わる。
それは巨大ショッピングモールである、オージーモールから大量の黒煙が噴出している映像だった。
病院内が修羅場になっていることは、一般人である沙都希にも感じ取れた。
廊下からは怒号や悲鳴、叫び声や泣き声が聞こえてくる。
沙都希や亜衣加はもちろん、他の患者も病室に籠って静かにしていた。
いつまでたっても静まらない病院内の雰囲気に、亜衣加の方も出産した喜びも完全に薄れたようだった。
「……修二に会いたいな。早く来てって電話しようかな」
「いや、さすがにこんな中で来るのは迷惑になると思いますよ」
「あ、そっか。そうだよね。うん……」
「逆に、来ないでって連絡した方がいいんじゃないんですか?」
「……」
頭では沙都希の言うことの方が正しいということはわかっているのだろう。
だが、本音ではすぐにでも会いたいという思いが強いのか、沙都希の言葉には沈黙で返す。
今は横で眠っている亜里沙の頭を撫でている亜衣加。
本来なら、もう保育室の方へ戻されている頃だろうが、看護師たちはそれどころではなく、赤ちゃんを預かりに来ていない。
なので、ずっと亜衣加の元にいるわけだ。
逆に沙都希の方は早々に看護師に預けているので、今は部屋で泣いているか、寝ていることだろう。
ただ、泣いていたとしてもあやしに行こうとは思わなかった。
「……お腹、空いちゃったわね」
「さすがにご飯を運んでる場合じゃなさそうですよね」
「ああ、うん。だから、何か買いに行った方がいいのかなって」
「……今は部屋から出るのも迷惑になると思いますけど」
「冗談よ、冗談。沙都希のために何か買ってこようかなって思っただけだから」
この人、子供だな。
沙都希はなんとなくそう思った。
普段はお姉さんのように自分の面倒を見ようとしていたのが、嘘のようだ。
こういう緊急事態のときには何をしていいのかわからなく、アタフタしている。
沙都希の方と言えば、いつもよりも落ち着いていて、逆になんで自分には関係ないことに慌てる必要があるんだろうと不思議に思うくらいだ。
「そうだ、この前さー」
亜衣加はまるで不安を紛らわせるように、どうでもいいことを話し続けた。
沙都希が適当に相槌を打っていると、不意に、亜衣加のおしゃべりがピタリと止まる。
「……亜衣加さん?」
亜衣加のベッドの方を見ると、亜衣加は青い顔をしてお腹を押さえている。
「大丈夫ですか!?」
ベッドに駆け寄る沙都希。
亜衣加の額には脂汗がにじんでいる。
「お腹、痛いんですか?」
亜衣加が無言で頷く。
沙都希は慌てて、ナースコールを押した。
病室に医者がやってきたのは、ナースコールを押してから30分以上後だった。
その頃には既に亜衣加の意識は無く、その横で赤ちゃんが泣き続けていた。
最初は亜衣加を励ましながら、ナースコールを何度も押していたが、亜衣加の意識がなくなってからは赤ちゃんをあやす方に集中した。
周りからは冷たいと言われるだろうが、亜衣加に対して沙都希は何もできないが、赤ちゃんをあやすことはできる。
亜衣加を心配してアタフタするだけよりも、ずっと合理的だと沙都希は思っていた。
被災者の処置をしている中、看護師の一人がナースコールに気づき、医者を連れてやってきた。
沙都希は医者に状況を説明する。
医者はすぐに手術室へと運ばれていく。
その際、亜衣加の赤ちゃんも看護師が連れて行ってしまった。
そして、深夜になっても亜衣加は病室に帰ってこなかった。
沙都希は帰ってこない亜衣加のことよりも、胸に抱いてあやしていた赤ちゃんのことばかりが脳裏に浮かぶ。
――可愛かった。
まさに沙都希の理想の赤ちゃんだった。
抱いてあげるとキャッキャと笑い、すぐにスヤスヤと寝てしまった。
何時間見ていても飽きることのない、可愛い寝顔だった。
だが、そのとき、自分の赤ちゃんの顔が浮かび上がる。
思わず、小さく悲鳴を上げてしまう沙都希。
頭を抱えて嗚咽をあげる。
どうして、私の赤ちゃんは可愛くないのだろう。
私だけがどうしてこんなに不幸なのだろうか。
それだけが頭の中をグルグルと巡る。
沙都希は気分を変えるために、洗面所に行って顔を洗おうと病室を出た。
その際、ナースステーションを通る。
看護師が一人いるが、疲れているのか、座りながらウトウトとしていた。
「すみません……」
「へ? あ、はい! どうかしましたか?」
「あの……中里亜衣加さんなんですが、どうして病室に戻って来ないのでしょうか?」
「え? えーっと……」
声を掛けた時は驚いて目を開いていたが、すぐに眠気が襲ってきたのか、ふらふらと日誌のようなものを開き始めた。
「中里さん、中里さん……。あー、亡くなってますね」
「え?」
「出血多量だったみたいですよ」
普段なら、同室ってだけでそんなことは言うことはないはずだ。
おそらく、疲れと眠気で頭が回っていなかったのか、ポロリとしゃべってしまったのだろう。
沙都希は礼を言って、ナースステーションを出る。
振り返ると、その看護師は再び座って、ウトウトとし始めていた。
薄暗い廊下を歩く沙都希。
沙都希の足音だけが響いている。
――亜衣加さんが死んだ。
そのこと自体、沙都希はあまり驚いていなかった。
意識を失った時点で、なんとなくそんな気がしていたのかもしれない。
それよりも、気になったのが――。
あの子はこれからお母さんがいない状況で育てられるのか。
亜衣加の赤ちゃんのことの方が心配だった。
子供は父親よりも母親の方を必要とすると聞いたことがある。
だから、離婚した際は母親の方に親権が決まることが多いのだとか。
あんな可愛い子が不幸になるなんて……。
そして、沙都希は考える。
私ならしっかり育てられる、と。
ピタリと立ち止まると、病院の廊下は驚くほど静かになる。
私が育てた方があの子のためになるはずだ。
沙都希は赤ちゃんが眠る部屋へと向かった。
沙都希は部屋の前で立ち止まり、扉を開けた。
そこには数多くの赤ん坊が眠りについている。
桐ケ谷と名前がついているベッドに向う。
沙都希は自分の赤ちゃんを抱き上げる。
そして、中里と書かれているベッドへ向かった。
亜衣加の赤ちゃんも眠っている。
沙都希は抱いていた赤ん坊をベッドに寝かせた。
そして、上唇が縦に避けた自分の赤ん坊をジッと見つめる。
その目に次第に涙が浮かび始める。
沙都希自身、なぜ、涙が浮かんだのかわからなかった。
我が子と離れることが悲しいのか、と改めて自分に問いかけるが、すぐに否定される。
この子になんの愛情も湧いてこない。
こんな私に育てられるよりも、中里家で育てられた方が幸せになれるだろう。
「幸せになってね。――由衣香」
そう呟いた。
沙都希は隣で寝ている亜衣加の赤ちゃんを抱き上げる。
そして、そのまま部屋を出た。
廊下に出ると赤ちゃんが泣き始めた。
沙都希はドキリとしたが、看護師や患者がやってくることはなかった。
「由依香。大丈夫よ」
そう言うと、赤ちゃんは泣き止み、ニコリとほほ笑んだ。
この子は私の子供だ。
そう言い聞かせながら、沙都希はそのまま病院を出て行ったのだった。
すぐに看護師が駆け付け、亜衣加はストレッチャーに乗せられ、連れて行かれる。
正直、沙都希にとってはうるさい人間から解放されてホッとした。
幸せな家庭に生まれ、旦那もいて、望んだ子供を身籠った亜衣加なんかに上から目線で何を言われても、煩わしいとしか思わなかった。
そんな亜衣加よりも、沙都希は自分の赤ちゃんのことで頭がいっぱいだった。
どうしても、あの顔が脳裏に焼き付いて離れない。
それはまるで、自分は幸せになれないと言われているような気分だった。
私はただ、普通の子供が欲しかっただけなのに。
このまま黙って病院を出て、姿をくらますなんてことも考えた。
だが、それでは母親と同じになってしまうということだけが、沙都希の行動を思い留めた。
しかし、沙都希にはどうしていいかわからない。
改めて、自分には相談できる人間がいないことを痛感する。
それに比べ、亜衣加は……と考える。
幼馴染と恋愛結婚をし、普通に身ごもった。
唯一、不安を言っていたのは、旦那がIT会社を立ち上げたばかりで金銭的に厳しくなるかもしれないということだけだった。
会社が忙しいため、あまり旦那が見舞いに来ないと愚痴っていたことを思い出す。
ただ、それも沙都希から見れば、問題とは言えないほどの不安要素だ。
なにもかも恵まれている。
なんで、自分だけがこんな目に合うのか。
そんなことを考えていると、亜衣加が病室に戻ってきた。
その胸には生まれた赤ちゃんを抱いている。
「ふふふ。最初は死ぬほど痛くて、もう嫌って思ったけど、この子の顔を見たらそんなの吹っ飛んじゃったわね」
満面の笑みを浮かべて赤ちゃんを見ている亜衣加。
もし、沙都希の赤ちゃんの唇が普通だったら、出産のときの話で盛り上がっていただろう。
今、沙都希の目には幸せそうな亜衣加の姿が恨めしく見える。
「はあ……。でも、予定外だったから、修二に立ち会って貰えなかったなぁ」
旦那の修二はあまり見舞いには来れなかったが、出産は絶対に立ち会うと張り切っていた。
予定日の前後は休みを取れるように調整していると豪語していた。
「あーちゃん、今日はお父さんに会えないってー」
赤ちゃんをあやしながら残念そうな表情をする亜衣加。
なんでも、修二はちょうど仕事が忙しく、今日は病院に来られないらしい。
「はあ……。ついてないなぁ」
そんな程度でついてないなんて言う亜衣加に沙都希は怒りを通り越して、呆れさえ覚える。
「ねえ、沙都希ちゃん。沙都希ちゃんは子供の名前って考えてあるの?」
「え? ああ、はい。一応は」
「ふーん、どんな名前? ちなみにこの子は亜里沙って名前なの」
「私は……由依香って名前にしようと思ってるんです」
そう。生む前の希望を抱いていた時に、色々と名前を考えていたのだ。
「へえ、いい名前じゃない。きっと可愛い子に育つよ」
「あはは……」
乾いた笑いしか出なかった。
今思い出しても、あの顔に由依香はどうしても合わないように感じていた。
名前、考え直そうかなと思い始める沙都希。
そんなときだった。
不意に、病院内が慌ただしくなり始めた。
「あれ? なんだろ?」
「なにかあったんですかね?」
すると救急車のサイレンが近づいてくることに気づいた。
しかも、一台ではなく次々に病院に向ってきている。
「事故かな?」
「……さあ?」
沙都希はなんとなく、病室にあるテレビの電源を入れた。
すると、番組内で速報が入り、映像が切り替わる。
それは巨大ショッピングモールである、オージーモールから大量の黒煙が噴出している映像だった。
病院内が修羅場になっていることは、一般人である沙都希にも感じ取れた。
廊下からは怒号や悲鳴、叫び声や泣き声が聞こえてくる。
沙都希や亜衣加はもちろん、他の患者も病室に籠って静かにしていた。
いつまでたっても静まらない病院内の雰囲気に、亜衣加の方も出産した喜びも完全に薄れたようだった。
「……修二に会いたいな。早く来てって電話しようかな」
「いや、さすがにこんな中で来るのは迷惑になると思いますよ」
「あ、そっか。そうだよね。うん……」
「逆に、来ないでって連絡した方がいいんじゃないんですか?」
「……」
頭では沙都希の言うことの方が正しいということはわかっているのだろう。
だが、本音ではすぐにでも会いたいという思いが強いのか、沙都希の言葉には沈黙で返す。
今は横で眠っている亜里沙の頭を撫でている亜衣加。
本来なら、もう保育室の方へ戻されている頃だろうが、看護師たちはそれどころではなく、赤ちゃんを預かりに来ていない。
なので、ずっと亜衣加の元にいるわけだ。
逆に沙都希の方は早々に看護師に預けているので、今は部屋で泣いているか、寝ていることだろう。
ただ、泣いていたとしてもあやしに行こうとは思わなかった。
「……お腹、空いちゃったわね」
「さすがにご飯を運んでる場合じゃなさそうですよね」
「ああ、うん。だから、何か買いに行った方がいいのかなって」
「……今は部屋から出るのも迷惑になると思いますけど」
「冗談よ、冗談。沙都希のために何か買ってこようかなって思っただけだから」
この人、子供だな。
沙都希はなんとなくそう思った。
普段はお姉さんのように自分の面倒を見ようとしていたのが、嘘のようだ。
こういう緊急事態のときには何をしていいのかわからなく、アタフタしている。
沙都希の方と言えば、いつもよりも落ち着いていて、逆になんで自分には関係ないことに慌てる必要があるんだろうと不思議に思うくらいだ。
「そうだ、この前さー」
亜衣加はまるで不安を紛らわせるように、どうでもいいことを話し続けた。
沙都希が適当に相槌を打っていると、不意に、亜衣加のおしゃべりがピタリと止まる。
「……亜衣加さん?」
亜衣加のベッドの方を見ると、亜衣加は青い顔をしてお腹を押さえている。
「大丈夫ですか!?」
ベッドに駆け寄る沙都希。
亜衣加の額には脂汗がにじんでいる。
「お腹、痛いんですか?」
亜衣加が無言で頷く。
沙都希は慌てて、ナースコールを押した。
病室に医者がやってきたのは、ナースコールを押してから30分以上後だった。
その頃には既に亜衣加の意識は無く、その横で赤ちゃんが泣き続けていた。
最初は亜衣加を励ましながら、ナースコールを何度も押していたが、亜衣加の意識がなくなってからは赤ちゃんをあやす方に集中した。
周りからは冷たいと言われるだろうが、亜衣加に対して沙都希は何もできないが、赤ちゃんをあやすことはできる。
亜衣加を心配してアタフタするだけよりも、ずっと合理的だと沙都希は思っていた。
被災者の処置をしている中、看護師の一人がナースコールに気づき、医者を連れてやってきた。
沙都希は医者に状況を説明する。
医者はすぐに手術室へと運ばれていく。
その際、亜衣加の赤ちゃんも看護師が連れて行ってしまった。
そして、深夜になっても亜衣加は病室に帰ってこなかった。
沙都希は帰ってこない亜衣加のことよりも、胸に抱いてあやしていた赤ちゃんのことばかりが脳裏に浮かぶ。
――可愛かった。
まさに沙都希の理想の赤ちゃんだった。
抱いてあげるとキャッキャと笑い、すぐにスヤスヤと寝てしまった。
何時間見ていても飽きることのない、可愛い寝顔だった。
だが、そのとき、自分の赤ちゃんの顔が浮かび上がる。
思わず、小さく悲鳴を上げてしまう沙都希。
頭を抱えて嗚咽をあげる。
どうして、私の赤ちゃんは可愛くないのだろう。
私だけがどうしてこんなに不幸なのだろうか。
それだけが頭の中をグルグルと巡る。
沙都希は気分を変えるために、洗面所に行って顔を洗おうと病室を出た。
その際、ナースステーションを通る。
看護師が一人いるが、疲れているのか、座りながらウトウトとしていた。
「すみません……」
「へ? あ、はい! どうかしましたか?」
「あの……中里亜衣加さんなんですが、どうして病室に戻って来ないのでしょうか?」
「え? えーっと……」
声を掛けた時は驚いて目を開いていたが、すぐに眠気が襲ってきたのか、ふらふらと日誌のようなものを開き始めた。
「中里さん、中里さん……。あー、亡くなってますね」
「え?」
「出血多量だったみたいですよ」
普段なら、同室ってだけでそんなことは言うことはないはずだ。
おそらく、疲れと眠気で頭が回っていなかったのか、ポロリとしゃべってしまったのだろう。
沙都希は礼を言って、ナースステーションを出る。
振り返ると、その看護師は再び座って、ウトウトとし始めていた。
薄暗い廊下を歩く沙都希。
沙都希の足音だけが響いている。
――亜衣加さんが死んだ。
そのこと自体、沙都希はあまり驚いていなかった。
意識を失った時点で、なんとなくそんな気がしていたのかもしれない。
それよりも、気になったのが――。
あの子はこれからお母さんがいない状況で育てられるのか。
亜衣加の赤ちゃんのことの方が心配だった。
子供は父親よりも母親の方を必要とすると聞いたことがある。
だから、離婚した際は母親の方に親権が決まることが多いのだとか。
あんな可愛い子が不幸になるなんて……。
そして、沙都希は考える。
私ならしっかり育てられる、と。
ピタリと立ち止まると、病院の廊下は驚くほど静かになる。
私が育てた方があの子のためになるはずだ。
沙都希は赤ちゃんが眠る部屋へと向かった。
沙都希は部屋の前で立ち止まり、扉を開けた。
そこには数多くの赤ん坊が眠りについている。
桐ケ谷と名前がついているベッドに向う。
沙都希は自分の赤ちゃんを抱き上げる。
そして、中里と書かれているベッドへ向かった。
亜衣加の赤ちゃんも眠っている。
沙都希は抱いていた赤ん坊をベッドに寝かせた。
そして、上唇が縦に避けた自分の赤ん坊をジッと見つめる。
その目に次第に涙が浮かび始める。
沙都希自身、なぜ、涙が浮かんだのかわからなかった。
我が子と離れることが悲しいのか、と改めて自分に問いかけるが、すぐに否定される。
この子になんの愛情も湧いてこない。
こんな私に育てられるよりも、中里家で育てられた方が幸せになれるだろう。
「幸せになってね。――由衣香」
そう呟いた。
沙都希は隣で寝ている亜衣加の赤ちゃんを抱き上げる。
そして、そのまま部屋を出た。
廊下に出ると赤ちゃんが泣き始めた。
沙都希はドキリとしたが、看護師や患者がやってくることはなかった。
「由依香。大丈夫よ」
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