17 / 23
中里修二の回想①
しおりを挟む
「亜里沙、小腹が減ってないかい? お茶にしようか」
「……うん。ありがとう、お父さん」
「じゃあ、用意してくるね。ちょっと待ってて」
部屋の外の廊下からドア越しに声を掛けた修二。
部屋の中から聞こえてきた亜里沙……由依香と呼ばれていた娘の声は元気がなさそうに思えた。
それはそうかと、ため息をつく。
もう1週間以上、部屋に閉じこもっている状態だ。
誰だって気は滅入るだろう。
正直、修二自身も、まるで夢の中にいるかのように、フワフワした現実味のない感覚の中にいる。
なんでこんなことになってしまったのか。
少し前までは17年ぶりに本当の娘と過ごせることの幸福感に包まれていたのに。
考えてみれば、阿比留に依頼した時点で運命の歯車は狂っていたのかもしれない。
いや、運命の歯車はすでに17年前の入れ替えのときから狂ってしまっていたのだろう。
修二はキッチンでお湯を沸かしながら、お茶菓子を用意していく。
手を動かしながらの方が、考えがまとまるタイプの修二は頭を振って、思考を切り替える。
考えるべきは過去のことではなく、これからのことだ。
ずっとここにいるわけにもいかない。
じきに警察にもここを見つけられるだろう。
いや、もしかすると桐ケ谷沙都希がここを嗅ぎつけているかもしれない。
おそらく、あの死体は本当の自分の娘だと気づいているはずだ。
お湯が沸いたので、コーヒーが入ったカップに注いでいく。
亜里沙のにはミルクと砂糖を入れる。
17年間、自分の娘だと思い込んでいた女の子が、実は血の繋がらない人間だと気づいたとき、警察に相談していれば、結果は違ったのだろうか。
いや、そうとは思えない。
そんな小さな事件など、警察は本気で取り合ってはくれない。
実際、相談に行った際に、適当にあしらわれている。
じゃあ、どうすればよかったのだろうか。
亜里沙を……いや、あの子を自分の娘だと言い聞かせ、育て続けるべきだったのか。
いや、それはあり得ない。
修二はため息をついて、無意識にコーヒーを口に運ぶ。
亜里沙は亜衣加の忘れ形見だ。
諦めるなんてあり得ない、と修二は強く思う。
どんなに時間と金がかかっても見つけると誓った。
現にそれで亜里沙を見つけ出すことに成功したのだ。
だが、その代償は大きかった。
一人の人間を殺し、一人の女の子を死に追いやってしまったのだ。
父親が娘と一緒に暮らしたいと思うことが、そんなにも悪いことなのだろうか。
最愛の人を亡くし、その人が残してくれた娘と一緒に過ごしたい、ただそれだけだったのに。
修二には自分の破滅がわかっていた。
もう、会社は手放さないとならないどころか、そもそも警察に捕まり服役することになるだろう。
それまで、ほんの少しの時間を亜里沙と過ごしたい。
ただ、それだけだった。
本当にこの17年間は地獄そのものだったと思う。
だが、亜里沙と過ごした2ヶ月は、その17年間分の幸せを貰ったような気がしていた。
亜里沙には亜衣加の面影がある。
亜里沙を亜衣加に会わせてあげたかった。
お墓に連れて行ってあげたかったが、今、外に出るわけにはいかない。
亜衣加、俺はどうすればいいんだ?
修二はすでに空になっているカップをさらに傾けた。
「亜衣加。何も言わず、俺と別れてくれ」
「ヤダ!」
23歳の頃、修二は亜衣加に別れを告げようとした。
だが、亜衣加は頑なに別れてくれない。
「あのさあ、何回言わせるわけ? 苦しいときこそ支えるのが妻の役目でしょ!」
「あー、いや、まだ結婚するとまでは言ってないぞ?」
「はあ? この期に及んで、ヤリ捨てする気?」
「いや、ヤリ捨てって……」
「でも、そうなるじゃん」
「まあ、そうだけどさ」
亜衣加は修二の頬をぎゅっとつねる。
「いててて!」
「どうせ、起業したいとかそんなとこでしょ?」
「え? なんで知ってるんだ?」
「やっぱり……。あれでしょ? もし、失敗したら多額の借金を背負うことになるから、別れてくれ、なんて言ってるんでしょ?」
「うっ……」
「あんたと何年、付き合ってると思ってるのよ。バレバレだっての!」
「すげー、苦労させることになるぞ?」
「その分、すごーーーく、幸せにしてよ」
亜衣加のこの言葉で修二は吹っ切れた。
そう。失敗しなければいいだけだ。
絶対に亜衣加を幸せにする。
その決意を胸に、1ヶ月後、修二は亜衣加にプロポーズした。
結婚して3年が過ぎた頃、亜衣加が身ごもった。
最初は正直、戸惑った。
この状況で子供を育てることができるだろうか、と。
「最近さー、この貧乏生活にも慣れてきたと思うんだよね」
亜衣加が得意げに笑って言う。
確かに、亜衣加のやりくりは驚くほど上手かった。
どうやっているのかわからないが、食費を始め、生活費がかなり節約されている。
会社はまだまだ安定していなく、給料が少なくても苦にならないくらいだった。
「だから、難易度をちょっと上げたいんだよね」
思わず修二は笑ってしまった。
子供を産んで育てることを、ちょっとの難易度と言ってのけたのだ。
「……亜衣加。ありがとう」
「この子も、ちゃんと幸せにしてね」
「任せろ!」
それからの日々はすぐに過ぎ去っていった。
身重でありながらも、今までと変わらない家事をする亜衣加に、修二は驚きっぱなしだった。
「まあ、手を抜くところはちゃんと抜いてるんだけどね」
そう言って笑う亜衣加はすっかり母親の顔になっていた。
修二は、出産の予定日が1ヶ月を切った頃、亜衣加を山城病院に入院させることにした。
亜衣加はギリギリまで家にいると言ったが、そうなると頑張り過ぎるので、無理やり入院させたのだ。
「同室にね、沙都希ちゃんって言って、可愛い子がいるんだよ。高校生みたいな顔しててさ、私、なんだかお姉さんになった気分」
亜衣加は一人っ子で、ずっと妹に憧れていた。
なので、同室の沙都希のことを妹がいたらこんな感じかと言って、可愛がっているようだった。
修二が見舞いに行くと、亜衣加は妙に大人っぽく振舞っていたのが、なんだか可愛くて笑ってしまった。
逆に沙都希の方が雰囲気的に大人のように見えたほどだ。
出産の予定日が近づくにつれて、会社の業績も上がっていっていた。
まるで生まれてくる子供に対して、準備が出来ていくように。
修二は何としても出産には立ち会うつもりだった。
そのために、毎日夜遅くまで仕事をして、出産予定日の前後は休めるようにスケジュールを立てていた。
そんなある日のこと。
大口の契約が決まる会議の前に、突然、病院から電話がかかってきた。
亜衣加が産気づいたのだという。
予定日はまだ先だったはずなのに。
さらに、会議の後は接待があるため、今日中には病院に行けそうにもない。
修二はすぐに思考を切り替える。
出産に立ち会えないのは残念だが、生まれてからあの子を幸せにするため、今は仕事に集中しよう、と。
車に乗り、相手の会社へ向かう。
その途中、ラジオではオージーモールの火災事故のニュースが流れていた。
「……どういうことですか?」
「それが……我々も手を尽くしたのですが」
次の日の朝。
修二は亜衣加と子供に会えると心を躍らせて山城病院にやってきた。
大口の受注のため、打ち合わせが終わった後は接待で深夜まで飲んでいた修二。
家に着いたときには深夜の2時近くだった。
この時間から病院に行くわけにはいけない。
なので、朝まで待ってから病院を訪れたというわけだ。
出産に立ち会えなかった代わりに、大口の仕事の受注でかなりの利益を上げられるというのを土産に2人に会いに来た。
しかし、受付で中里だと名乗ると、別室に通された。
修二は早く2人に会いたいと思っていたので、少しイライラして医師を待つ。
そして、医師がやってきて、言ったことが「亜衣加が死んだ」ということだった。
最初、修二は医師が何を言っているのかわからなかった。
――死んだ?
俺は生まれた子供を見に来たはずだ。
つい数日前、亜衣加は元気に笑っていた。
生まれてくる子供について、どうやって育てるかを嬉しそうに語っていたのだ。
亜衣加には持病なんてない。
お腹の中の子供も順調に育っていると言っていた。
それがどうして?
「亜衣加さんの死因としては……」
医師が長々と話していたが、まったく頭に入ってこなかった。
頭の中は真っ白で、思考が全くできない。
まるで夢の中にいるような、そんな不思議な感覚だった。
悪い夢。
そう言われた方が、よっぽど納得できた。
「お子さんに会われますか?」
不意に説明に立ち会っていた看護師が言った。
その言葉で修二の意識はかろうじて、現実に戻ってくる。
「あ、はい……。会わせてください……」
修二の口から出た言葉は途切れそうなほどかすれていた。
修二は何度も看護師に確認した。
本当にこの子が自分と亜衣加の子供なのか、と。
「ええ。そうです」
修二は我が子を見下ろす。
その子は上唇がパックリと割れていた。
医師の言うには口唇口蓋裂《こうしんこうがいれつ》というものなのだという。
手術をすれば治ると言っていた。
子供には悪いが、修二には生まれてきてくれたことに全く感動しなかった。
それどころか、この子のせいで亜衣加が死んだと考えると、憎しみさえ芽生える。
修二にとって、子供よりも亜衣加の存在の方が大きかった。
大き過ぎた。
心がマヒするほどに。
いや、心をマヒさせなければ壊れていたかもしれない。
その後のことは修二自身、ほとんど覚えていない。
亜衣加の葬式を上げ、お墓に入れた。
あっという間に49日を迎え、1周忌が過ぎ去っていった。
その間、亜里沙をどうやって育てていたのかが思い出せない。
覚えていることといえば、仕事に夢中になっていたことだけだ。
おそらく、社員の人間が気を利かせて面倒を見てくれたのだろう。
大げさではなく、そうでなければ亜里沙は死んでいたはずだ。
そのくらい、修二は亜里沙に向き合おうとしなかった。
亜衣加の1周忌、つまりは亜里沙の誕生日に社員の1人に家政婦を付けたらどうかと提案された。
その頃には会社は軌道に乗り、金銭的にかなり余裕が出来ていた。
家も新しく、広いところに引っ越している。
修二はその社員の言う通り、家政婦を雇った。
そして、その家政婦にすべてを任せ、仕事に没頭した。
だから、亜里沙が初めて立ち上がったことも、しゃべったことも全く覚えていない。
家政婦から何か必要な物があると言われれば、お金を渡していた。
幸い、家政婦は亜里沙を可愛がってくれ、仕事の時間以上にも面倒を見てくれた。
本当にその家政婦には感謝しかないと思っていた。
そして、亜里沙が3歳になったときだ。
「手術は受けさせてあげないんですか?」
その家政婦の言葉に、最初はなんのことかわからなかった。
「……早めに受けさせた方がいいと聞いたんですけど」
そのとき、口唇口蓋裂のことを思い出した。
修二は家政婦に病院探しと手続きをお願いできないかと頼み込んだ。
それから数ヶ月後、亜里沙の手術は行われ、避けていた唇は塞がれた。
だが、時間が経っていたことと、縫合が上手くいかなかったのか、うっすらと傷口が見えてしまっている。
そして、亜里沙が小学校に入学する年。
長年、仕えてくれた家政婦は仕事を辞めて隠居するということで、家に来なくなった。
家政婦が家に来る最後の日。
亜里沙が家政婦にすがりつき、ずっと泣いていた。
さらに亜里沙はその家政婦の家の子供になる、なんてことも言い出す。
そのときは、そんなことできるわけないだろうと苦笑いをした。
だが、修二の本心ではそれもいいかもな、と無意識に考えていた。
そして、家政婦が家に来なくなって1ヶ月後。
家事の全てを家政婦に任せていたせいで、修二は家のことが全くわからなかった。
何がどこに置いてあるのか、全然わからない。
そして、なにより……。
亜里沙が生まれてから、亜里沙とほとんど話したことがないことに気づいたのだった。
「……うん。ありがとう、お父さん」
「じゃあ、用意してくるね。ちょっと待ってて」
部屋の外の廊下からドア越しに声を掛けた修二。
部屋の中から聞こえてきた亜里沙……由依香と呼ばれていた娘の声は元気がなさそうに思えた。
それはそうかと、ため息をつく。
もう1週間以上、部屋に閉じこもっている状態だ。
誰だって気は滅入るだろう。
正直、修二自身も、まるで夢の中にいるかのように、フワフワした現実味のない感覚の中にいる。
なんでこんなことになってしまったのか。
少し前までは17年ぶりに本当の娘と過ごせることの幸福感に包まれていたのに。
考えてみれば、阿比留に依頼した時点で運命の歯車は狂っていたのかもしれない。
いや、運命の歯車はすでに17年前の入れ替えのときから狂ってしまっていたのだろう。
修二はキッチンでお湯を沸かしながら、お茶菓子を用意していく。
手を動かしながらの方が、考えがまとまるタイプの修二は頭を振って、思考を切り替える。
考えるべきは過去のことではなく、これからのことだ。
ずっとここにいるわけにもいかない。
じきに警察にもここを見つけられるだろう。
いや、もしかすると桐ケ谷沙都希がここを嗅ぎつけているかもしれない。
おそらく、あの死体は本当の自分の娘だと気づいているはずだ。
お湯が沸いたので、コーヒーが入ったカップに注いでいく。
亜里沙のにはミルクと砂糖を入れる。
17年間、自分の娘だと思い込んでいた女の子が、実は血の繋がらない人間だと気づいたとき、警察に相談していれば、結果は違ったのだろうか。
いや、そうとは思えない。
そんな小さな事件など、警察は本気で取り合ってはくれない。
実際、相談に行った際に、適当にあしらわれている。
じゃあ、どうすればよかったのだろうか。
亜里沙を……いや、あの子を自分の娘だと言い聞かせ、育て続けるべきだったのか。
いや、それはあり得ない。
修二はため息をついて、無意識にコーヒーを口に運ぶ。
亜里沙は亜衣加の忘れ形見だ。
諦めるなんてあり得ない、と修二は強く思う。
どんなに時間と金がかかっても見つけると誓った。
現にそれで亜里沙を見つけ出すことに成功したのだ。
だが、その代償は大きかった。
一人の人間を殺し、一人の女の子を死に追いやってしまったのだ。
父親が娘と一緒に暮らしたいと思うことが、そんなにも悪いことなのだろうか。
最愛の人を亡くし、その人が残してくれた娘と一緒に過ごしたい、ただそれだけだったのに。
修二には自分の破滅がわかっていた。
もう、会社は手放さないとならないどころか、そもそも警察に捕まり服役することになるだろう。
それまで、ほんの少しの時間を亜里沙と過ごしたい。
ただ、それだけだった。
本当にこの17年間は地獄そのものだったと思う。
だが、亜里沙と過ごした2ヶ月は、その17年間分の幸せを貰ったような気がしていた。
亜里沙には亜衣加の面影がある。
亜里沙を亜衣加に会わせてあげたかった。
お墓に連れて行ってあげたかったが、今、外に出るわけにはいかない。
亜衣加、俺はどうすればいいんだ?
修二はすでに空になっているカップをさらに傾けた。
「亜衣加。何も言わず、俺と別れてくれ」
「ヤダ!」
23歳の頃、修二は亜衣加に別れを告げようとした。
だが、亜衣加は頑なに別れてくれない。
「あのさあ、何回言わせるわけ? 苦しいときこそ支えるのが妻の役目でしょ!」
「あー、いや、まだ結婚するとまでは言ってないぞ?」
「はあ? この期に及んで、ヤリ捨てする気?」
「いや、ヤリ捨てって……」
「でも、そうなるじゃん」
「まあ、そうだけどさ」
亜衣加は修二の頬をぎゅっとつねる。
「いててて!」
「どうせ、起業したいとかそんなとこでしょ?」
「え? なんで知ってるんだ?」
「やっぱり……。あれでしょ? もし、失敗したら多額の借金を背負うことになるから、別れてくれ、なんて言ってるんでしょ?」
「うっ……」
「あんたと何年、付き合ってると思ってるのよ。バレバレだっての!」
「すげー、苦労させることになるぞ?」
「その分、すごーーーく、幸せにしてよ」
亜衣加のこの言葉で修二は吹っ切れた。
そう。失敗しなければいいだけだ。
絶対に亜衣加を幸せにする。
その決意を胸に、1ヶ月後、修二は亜衣加にプロポーズした。
結婚して3年が過ぎた頃、亜衣加が身ごもった。
最初は正直、戸惑った。
この状況で子供を育てることができるだろうか、と。
「最近さー、この貧乏生活にも慣れてきたと思うんだよね」
亜衣加が得意げに笑って言う。
確かに、亜衣加のやりくりは驚くほど上手かった。
どうやっているのかわからないが、食費を始め、生活費がかなり節約されている。
会社はまだまだ安定していなく、給料が少なくても苦にならないくらいだった。
「だから、難易度をちょっと上げたいんだよね」
思わず修二は笑ってしまった。
子供を産んで育てることを、ちょっとの難易度と言ってのけたのだ。
「……亜衣加。ありがとう」
「この子も、ちゃんと幸せにしてね」
「任せろ!」
それからの日々はすぐに過ぎ去っていった。
身重でありながらも、今までと変わらない家事をする亜衣加に、修二は驚きっぱなしだった。
「まあ、手を抜くところはちゃんと抜いてるんだけどね」
そう言って笑う亜衣加はすっかり母親の顔になっていた。
修二は、出産の予定日が1ヶ月を切った頃、亜衣加を山城病院に入院させることにした。
亜衣加はギリギリまで家にいると言ったが、そうなると頑張り過ぎるので、無理やり入院させたのだ。
「同室にね、沙都希ちゃんって言って、可愛い子がいるんだよ。高校生みたいな顔しててさ、私、なんだかお姉さんになった気分」
亜衣加は一人っ子で、ずっと妹に憧れていた。
なので、同室の沙都希のことを妹がいたらこんな感じかと言って、可愛がっているようだった。
修二が見舞いに行くと、亜衣加は妙に大人っぽく振舞っていたのが、なんだか可愛くて笑ってしまった。
逆に沙都希の方が雰囲気的に大人のように見えたほどだ。
出産の予定日が近づくにつれて、会社の業績も上がっていっていた。
まるで生まれてくる子供に対して、準備が出来ていくように。
修二は何としても出産には立ち会うつもりだった。
そのために、毎日夜遅くまで仕事をして、出産予定日の前後は休めるようにスケジュールを立てていた。
そんなある日のこと。
大口の契約が決まる会議の前に、突然、病院から電話がかかってきた。
亜衣加が産気づいたのだという。
予定日はまだ先だったはずなのに。
さらに、会議の後は接待があるため、今日中には病院に行けそうにもない。
修二はすぐに思考を切り替える。
出産に立ち会えないのは残念だが、生まれてからあの子を幸せにするため、今は仕事に集中しよう、と。
車に乗り、相手の会社へ向かう。
その途中、ラジオではオージーモールの火災事故のニュースが流れていた。
「……どういうことですか?」
「それが……我々も手を尽くしたのですが」
次の日の朝。
修二は亜衣加と子供に会えると心を躍らせて山城病院にやってきた。
大口の受注のため、打ち合わせが終わった後は接待で深夜まで飲んでいた修二。
家に着いたときには深夜の2時近くだった。
この時間から病院に行くわけにはいけない。
なので、朝まで待ってから病院を訪れたというわけだ。
出産に立ち会えなかった代わりに、大口の仕事の受注でかなりの利益を上げられるというのを土産に2人に会いに来た。
しかし、受付で中里だと名乗ると、別室に通された。
修二は早く2人に会いたいと思っていたので、少しイライラして医師を待つ。
そして、医師がやってきて、言ったことが「亜衣加が死んだ」ということだった。
最初、修二は医師が何を言っているのかわからなかった。
――死んだ?
俺は生まれた子供を見に来たはずだ。
つい数日前、亜衣加は元気に笑っていた。
生まれてくる子供について、どうやって育てるかを嬉しそうに語っていたのだ。
亜衣加には持病なんてない。
お腹の中の子供も順調に育っていると言っていた。
それがどうして?
「亜衣加さんの死因としては……」
医師が長々と話していたが、まったく頭に入ってこなかった。
頭の中は真っ白で、思考が全くできない。
まるで夢の中にいるような、そんな不思議な感覚だった。
悪い夢。
そう言われた方が、よっぽど納得できた。
「お子さんに会われますか?」
不意に説明に立ち会っていた看護師が言った。
その言葉で修二の意識はかろうじて、現実に戻ってくる。
「あ、はい……。会わせてください……」
修二の口から出た言葉は途切れそうなほどかすれていた。
修二は何度も看護師に確認した。
本当にこの子が自分と亜衣加の子供なのか、と。
「ええ。そうです」
修二は我が子を見下ろす。
その子は上唇がパックリと割れていた。
医師の言うには口唇口蓋裂《こうしんこうがいれつ》というものなのだという。
手術をすれば治ると言っていた。
子供には悪いが、修二には生まれてきてくれたことに全く感動しなかった。
それどころか、この子のせいで亜衣加が死んだと考えると、憎しみさえ芽生える。
修二にとって、子供よりも亜衣加の存在の方が大きかった。
大き過ぎた。
心がマヒするほどに。
いや、心をマヒさせなければ壊れていたかもしれない。
その後のことは修二自身、ほとんど覚えていない。
亜衣加の葬式を上げ、お墓に入れた。
あっという間に49日を迎え、1周忌が過ぎ去っていった。
その間、亜里沙をどうやって育てていたのかが思い出せない。
覚えていることといえば、仕事に夢中になっていたことだけだ。
おそらく、社員の人間が気を利かせて面倒を見てくれたのだろう。
大げさではなく、そうでなければ亜里沙は死んでいたはずだ。
そのくらい、修二は亜里沙に向き合おうとしなかった。
亜衣加の1周忌、つまりは亜里沙の誕生日に社員の1人に家政婦を付けたらどうかと提案された。
その頃には会社は軌道に乗り、金銭的にかなり余裕が出来ていた。
家も新しく、広いところに引っ越している。
修二はその社員の言う通り、家政婦を雇った。
そして、その家政婦にすべてを任せ、仕事に没頭した。
だから、亜里沙が初めて立ち上がったことも、しゃべったことも全く覚えていない。
家政婦から何か必要な物があると言われれば、お金を渡していた。
幸い、家政婦は亜里沙を可愛がってくれ、仕事の時間以上にも面倒を見てくれた。
本当にその家政婦には感謝しかないと思っていた。
そして、亜里沙が3歳になったときだ。
「手術は受けさせてあげないんですか?」
その家政婦の言葉に、最初はなんのことかわからなかった。
「……早めに受けさせた方がいいと聞いたんですけど」
そのとき、口唇口蓋裂のことを思い出した。
修二は家政婦に病院探しと手続きをお願いできないかと頼み込んだ。
それから数ヶ月後、亜里沙の手術は行われ、避けていた唇は塞がれた。
だが、時間が経っていたことと、縫合が上手くいかなかったのか、うっすらと傷口が見えてしまっている。
そして、亜里沙が小学校に入学する年。
長年、仕えてくれた家政婦は仕事を辞めて隠居するということで、家に来なくなった。
家政婦が家に来る最後の日。
亜里沙が家政婦にすがりつき、ずっと泣いていた。
さらに亜里沙はその家政婦の家の子供になる、なんてことも言い出す。
そのときは、そんなことできるわけないだろうと苦笑いをした。
だが、修二の本心ではそれもいいかもな、と無意識に考えていた。
そして、家政婦が家に来なくなって1ヶ月後。
家事の全てを家政婦に任せていたせいで、修二は家のことが全くわからなかった。
何がどこに置いてあるのか、全然わからない。
そして、なにより……。
亜里沙が生まれてから、亜里沙とほとんど話したことがないことに気づいたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
神典日月神示 真実の物語
蔵屋
歴史・時代
私は二人の方々の神憑りについて、今から25年前にその真実を知りました。
この方たちのお名前は
大本開祖•出口なお(でぐちなお)、
神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)です。
この日月神示(ひつきしんじ)または日尽神示(ひつくしんじ)は、神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)に「国常立尊(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物のことです。
昭和19年から27年(昭和23・26年も無し)に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に8巻の神示が降りたとされています。
その神示を纏めた書類です。
私はこの日月神示(ひつきしんじ)に出会い、研究し始めてもう25年になります。
日月神示が降ろされた場所は麻賀多神社(まかたじんじゃ)です。日月神示の最初の第一帖と第二帖は第二次世界大戦中の昭和19年6月10日に、この神社の社務所で岡本天明が神憑りに合い自動書記さされたのです。
殆どが漢数字、独特の記号、若干のかな文字が混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」もあります。
本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻あり、天明はこの未発表のものについて昭和36年に「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります」と語っています。
日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初は、ほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者達の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917年〈大正6年〉11月9日 ~2009年〈平成21年〉6月23日)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われているます。しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的です。
そのために、仮訳という副題を添えての発表もありました。
なお、原文を解読して漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれています。
縄文人の祝詞に「ひふみ祝詞(のりと)」という祝詞の歌があります。
日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになってきたと言われています。
この小説は真実の物語です。
「神典日月神示(しんてんひつきしんじ)真実の物語」
どうぞ、お楽しみ下さい。
『神知りて 人の幸せ 願うのみ
神のつたへし 愛善の道』
歌人 蔵屋日唱
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる