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消えた正義
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洗濯物はシャワーを浴びる際に洗濯機に放り込んだが、スーツは床に放置したままだった。ネクタイと共に拾い上げ、さっきまで寝ていたベッドに放り投げる。テーブルは書類と缶ビールで埋め尽くされていたが、なんとかかきわけてスペースを作った。
この家に客が来ることはない。来ても後輩の刑事だから、少なくとも桜井は客という認識はない。冷蔵庫には缶ビールと水ぐらいしか置いていないが、最近は本当に帰って寝るだけで冷蔵庫を開けることもしなかったので、残っているのかも疑わしい。
「どうぞおかまいなく。最初に聞いておきたいんですけど、今日俺がここに来た理由、わかりますかね」
柳は座ることをせず、立ったままだった。桜井が知っていた頃と違い、やけに凛とした空気を纏っている。
「昨日上から違法捜査をやれと命令された。警察とは別に、こういった事件を得意とする組織があるから、そいつらと一緒にって」
「話は伝わってるんですね、よかった」
桜井の言葉に、柳は安堵したようだった。
「警察辞めて、私立探偵でもやってんのか」
「まさか。そんなこと出来るわけありませんよ」
「だったら、何をやってんだよ」
「俺は、ある人物の専属ボディーガードをしていますので」
「けど、おまえもその組織の人間なんだろ」
「たまたま桜井さんを知っていたから、迎えに行けと頼まれただけです。管轄が違いますから、捜査には加わりませんよ」
刑事を辞めた柳を受け入れる組織とはどういうものなのか。しかも警視総監の草薙を動かせるのだから、大きな権力を持っているのだろう。
少し、鎌をかけてみるか。
「捜査はやらねえ」
案の定、柳は顔色を変えた。
「何を言い出すんですか、桜井さん」
「昨日で警察をクビになったようなもんだし、誰かに命令されるのはうんざりなんだよ」
装備一式を奪われたとはいえ、桜井の所属はまだ警視庁捜査一課である。このまま使い捨ての駒にされるのは、刑事としてのプライドが許さない。
「わけのわからない連中と違法捜査をやるくらいなら、このまま警察を辞めてやる」
俺を動かしたいのなら、そっちの持ってるカードを切りやがれ。
「レイの言った通りだな、やっぱすげえわ、あいつ」
柳はそう呟いた後、とても嬉しそうに笑った。その後、スーツの内ポケットから拳銃を取り出し、桜井に歩み寄る。銃器はシグザウエルP229。アメリカのシークレットサービスが装備しているものだった。
「銃刀法違反だぞ、柳」
「さっき、警察はクビになったと伺いましたけど」
柳は桜井の心臓に銃口を向けた。
「あなたが捜査に参加しないのなら、今ここで俺が処分することになっています」
「処分って、殺すってことかよ」
「正確にはバラすと言います。殺して終わりじゃないんです。生きていた痕跡すら消し去るんですよ」
背中がぞくりと震えた。淡々と語る柳が死神のようだった。刑事時代の柳とは全くの別人に見えた。
「おまえら、そんなことやってんのかよ」
「なぜあなたがこの捜査に駆り出されたのか。それはある事件の捜査中に容疑者を死なせたから。その容疑者とは同じ大学で親しい間柄にあった。あなたの恋人だったんですよね」
柳は桜井の問いかけには応えることなく、傷口をえぐる真似をしてきた。
「なぜそれを知ってる!?」
容疑者を死なせた話はともかく、その人物が桜井の恋人であったことは、ごくごく一部の人間しか知らない話だった。
「鎌をかけても無駄ですよ。レイはあなたのことを全て知っています。あいつは天才なんですから」
レイという男は、桜井が柳を揺さぶってくることを予期していたらしい。
「あいつはこうも言っていました。俺が銃口を向ければ、あなたは必ず従うだろうと。俺に引き金を弾かせる真似は絶対にしないと」
悔しいが、柳の言う通りだった。
人を殺すために武器を持つのではない。武器は人を助けるために持つものだ。少なくとも、桜井はそう思っている。
「桜井さん、あなたの知っている柳広哲は死にました。今の俺はハナムラコーポレーションの社員で、コウという名の亡霊です。ハナムラの標的になった人間は死ぬことが決まっているんですよ」
柳の表情からして、拳銃を持つことへの迷いも、引き金を弾くことへの恐れも一切感じられなかった。
「俺と一緒に来てくれますよね?」
たたみかけるように柳が言った。
「好きにしろ。どこへでも連れて行けよ!?」
桜井の過去を知った上で柳を寄越し、内側から感情を揺さぶってきた。柳が天才だと言ったそのレイという男は、相当の切れ者らしい。
『よし、合格だ、コウ』
先程の電話の男の声がした。それに応えるように柳が笑い、ポケットの中から携帯を取り出した。スピーカーで通話中になっていた。
「ちょいちょい試してくるの、やめてくれねえかな」
『今回は古巣だからな、さすがに心配だったんだよ。でもまあ、これでおまえが警察に何の未練もないことがよくわかった。後でボスにも報告しておく。そいつを連れて戻ってこい』
ここでも電話は一方的に切れたが、柳はそれを気にすることはなく、携帯をポケットにしまい込んだ。
「通信が切れたので、ここからは俺個人として話しますね。さっきも言いましたが、ハナムラの標的になった人間は必ず死にます。でも、それがどんな形になるかは、その人次第なんです」
柳は拳銃をしまい込み、桜井を見つめた。先程までの冷酷な彼とは違って、とても辛そうな顔をしていた。
「俺はあなたを助けられない。だから万に一つの奇跡が起きる可能性に賭けるしかない。どうか最後まで諦めないでください。俺がどん底にいたとき、連絡をくれたのはあなただけでしたから」
「なぜ道を踏み外したんだ、柳。おまえはいい刑事になると思っていたのに」
「正義なんてものは、どこにもないと知ったからです」
柳の家族を殺したのは未成年者で心神喪失状態にあった。容疑者の居場所を突き止めて踏み込んだときには自害した後だったが、もし彼が生きていたら、刑法第三十九条が適用され、罪には問われなかっただろう。
「おまえ、まさか!?」
柳は警察が見つける前に容疑者にたどり着いていた。そして真実を知った。
「無駄話はここまでです。さっきも言いましたが、俺は柳ではなくコウです。彼らの前で、その名を口にするのは絶対にやめてください」
柳はまた冷酷な仮面を被った。桜井が何を言おうが、揺らぐことはなさそうだった。
「着替えるなら早くしてください。あまり待たせると、レイの機嫌が悪くなりますから」
全ては桜井の想像に過ぎないけれど、正義がないと言い切る柳の気持ちだけは理解出来た。
この家に客が来ることはない。来ても後輩の刑事だから、少なくとも桜井は客という認識はない。冷蔵庫には缶ビールと水ぐらいしか置いていないが、最近は本当に帰って寝るだけで冷蔵庫を開けることもしなかったので、残っているのかも疑わしい。
「どうぞおかまいなく。最初に聞いておきたいんですけど、今日俺がここに来た理由、わかりますかね」
柳は座ることをせず、立ったままだった。桜井が知っていた頃と違い、やけに凛とした空気を纏っている。
「昨日上から違法捜査をやれと命令された。警察とは別に、こういった事件を得意とする組織があるから、そいつらと一緒にって」
「話は伝わってるんですね、よかった」
桜井の言葉に、柳は安堵したようだった。
「警察辞めて、私立探偵でもやってんのか」
「まさか。そんなこと出来るわけありませんよ」
「だったら、何をやってんだよ」
「俺は、ある人物の専属ボディーガードをしていますので」
「けど、おまえもその組織の人間なんだろ」
「たまたま桜井さんを知っていたから、迎えに行けと頼まれただけです。管轄が違いますから、捜査には加わりませんよ」
刑事を辞めた柳を受け入れる組織とはどういうものなのか。しかも警視総監の草薙を動かせるのだから、大きな権力を持っているのだろう。
少し、鎌をかけてみるか。
「捜査はやらねえ」
案の定、柳は顔色を変えた。
「何を言い出すんですか、桜井さん」
「昨日で警察をクビになったようなもんだし、誰かに命令されるのはうんざりなんだよ」
装備一式を奪われたとはいえ、桜井の所属はまだ警視庁捜査一課である。このまま使い捨ての駒にされるのは、刑事としてのプライドが許さない。
「わけのわからない連中と違法捜査をやるくらいなら、このまま警察を辞めてやる」
俺を動かしたいのなら、そっちの持ってるカードを切りやがれ。
「レイの言った通りだな、やっぱすげえわ、あいつ」
柳はそう呟いた後、とても嬉しそうに笑った。その後、スーツの内ポケットから拳銃を取り出し、桜井に歩み寄る。銃器はシグザウエルP229。アメリカのシークレットサービスが装備しているものだった。
「銃刀法違反だぞ、柳」
「さっき、警察はクビになったと伺いましたけど」
柳は桜井の心臓に銃口を向けた。
「あなたが捜査に参加しないのなら、今ここで俺が処分することになっています」
「処分って、殺すってことかよ」
「正確にはバラすと言います。殺して終わりじゃないんです。生きていた痕跡すら消し去るんですよ」
背中がぞくりと震えた。淡々と語る柳が死神のようだった。刑事時代の柳とは全くの別人に見えた。
「おまえら、そんなことやってんのかよ」
「なぜあなたがこの捜査に駆り出されたのか。それはある事件の捜査中に容疑者を死なせたから。その容疑者とは同じ大学で親しい間柄にあった。あなたの恋人だったんですよね」
柳は桜井の問いかけには応えることなく、傷口をえぐる真似をしてきた。
「なぜそれを知ってる!?」
容疑者を死なせた話はともかく、その人物が桜井の恋人であったことは、ごくごく一部の人間しか知らない話だった。
「鎌をかけても無駄ですよ。レイはあなたのことを全て知っています。あいつは天才なんですから」
レイという男は、桜井が柳を揺さぶってくることを予期していたらしい。
「あいつはこうも言っていました。俺が銃口を向ければ、あなたは必ず従うだろうと。俺に引き金を弾かせる真似は絶対にしないと」
悔しいが、柳の言う通りだった。
人を殺すために武器を持つのではない。武器は人を助けるために持つものだ。少なくとも、桜井はそう思っている。
「桜井さん、あなたの知っている柳広哲は死にました。今の俺はハナムラコーポレーションの社員で、コウという名の亡霊です。ハナムラの標的になった人間は死ぬことが決まっているんですよ」
柳の表情からして、拳銃を持つことへの迷いも、引き金を弾くことへの恐れも一切感じられなかった。
「俺と一緒に来てくれますよね?」
たたみかけるように柳が言った。
「好きにしろ。どこへでも連れて行けよ!?」
桜井の過去を知った上で柳を寄越し、内側から感情を揺さぶってきた。柳が天才だと言ったそのレイという男は、相当の切れ者らしい。
『よし、合格だ、コウ』
先程の電話の男の声がした。それに応えるように柳が笑い、ポケットの中から携帯を取り出した。スピーカーで通話中になっていた。
「ちょいちょい試してくるの、やめてくれねえかな」
『今回は古巣だからな、さすがに心配だったんだよ。でもまあ、これでおまえが警察に何の未練もないことがよくわかった。後でボスにも報告しておく。そいつを連れて戻ってこい』
ここでも電話は一方的に切れたが、柳はそれを気にすることはなく、携帯をポケットにしまい込んだ。
「通信が切れたので、ここからは俺個人として話しますね。さっきも言いましたが、ハナムラの標的になった人間は必ず死にます。でも、それがどんな形になるかは、その人次第なんです」
柳は拳銃をしまい込み、桜井を見つめた。先程までの冷酷な彼とは違って、とても辛そうな顔をしていた。
「俺はあなたを助けられない。だから万に一つの奇跡が起きる可能性に賭けるしかない。どうか最後まで諦めないでください。俺がどん底にいたとき、連絡をくれたのはあなただけでしたから」
「なぜ道を踏み外したんだ、柳。おまえはいい刑事になると思っていたのに」
「正義なんてものは、どこにもないと知ったからです」
柳の家族を殺したのは未成年者で心神喪失状態にあった。容疑者の居場所を突き止めて踏み込んだときには自害した後だったが、もし彼が生きていたら、刑法第三十九条が適用され、罪には問われなかっただろう。
「おまえ、まさか!?」
柳は警察が見つける前に容疑者にたどり着いていた。そして真実を知った。
「無駄話はここまでです。さっきも言いましたが、俺は柳ではなくコウです。彼らの前で、その名を口にするのは絶対にやめてください」
柳はまた冷酷な仮面を被った。桜井が何を言おうが、揺らぐことはなさそうだった。
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