夜の彼は…私に優しい場所

銀条リン

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雨の夜、甘い毒

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「――ふざけるなッ! この数字は何だ!」

怒号と共に、分厚いファイルが会議机に叩きつけられた。
ビクリ、と周囲の社員たちが肩を震わせる。
私、桐沢 詩織(きりさわ しおり)は、ただ無表情にそれを見つめていた。

(…あぁ、まただ…)

心の中で、乾いたため息をつく。
目の前で顔を真っ赤にして怒鳴り散らしているのは、支社の営業部長。
そして、彼が指差しているミスの原因は、私の部下が作った資料の不備だ。

「申し訳ございません。私の確認不足です」
私は深く頭を下げた。
言い訳はしない。部下のミスは上司の責任。それが、係長である私の仕事だから。

「君なぁ、顔がいいからって許されると思ったら大間違いだぞ!?」

そんなことは微塵にも思っていない。

「大体、少し気が緩んでるんじゃないか?」
浴びせられる罵声。
周囲の視線が突き刺さる。

『あの桐沢係長、また怒られてる』

『美人だけど、仕事はできないんじゃない?』

『どうせ枕営業で上がってきたんでしょ』
そんな、根拠のないヒソヒソ話が聞こえてくるようだ。

誰も、私が連日徹夜して部下のフォローをしていたことは知らない。
誰も、私が化粧の下に隠したくまに気づきはしない。

容姿端麗、クールビューティー。
勝手に貼られたレッテルが、私を孤独にしていく。

(…疲れた。もう、何もかも…)

夜の23時。
ようやく解放された私は、逃げるように会社を出た。
外は冷たい雨が降っていた。

「…あぁ…傘、持ってないや」

コンビニで買う気力さえ起きない。
タクシーを拾う贅沢をする気にもなれない。
私は濡れるのも構わず、夜の街を彷徨った。

家に帰りたくない。冷たくて暗い部屋に一人でいたら、自分が壊れてしまいそうだったから。
雨足が強くなる。

ハイヒールの中まで冷たい水が染み込み、足の感覚がなくなっていく。
世界中から色が消えたような、灰色の視界。
ふと、路地裏に小さな看板が灯っているのが目に入った。

『Bar Amber(アンバー)』

温かみのある琥珀色の光。
吸い寄せられるように、私はその重厚な木の扉に手をかけた。
カラン、コロン…。

「…いらっしゃいませ」

扉を開けると、そこは別世界だった。
静かなジャズが流れ、磨き上げられたグラスが照明を反射して輝いている。

カウンターの中にいたバーテンダーの男性が、ゆっくりと顔を上げた。
照明に照らされたその人は、息を呑むほど整った顔立ちをしていた。
長い睫毛、通った鼻筋、そして色素の薄い瞳。
彼は手元のグラスを置くと、驚いたように目を見開き、すぐにカウンターから出てきた。

「…お客様、ずぶ濡れですね?これをお使いください。」

「え…?」
バーテンダーがカウンターの中から出てきて…
ふわり、と温かいタオルが私の肩にかけられた。
その所作は流れるように美しく、そして驚くほど優しい。
タオル越しに伝わる彼の手の温もりに、凍えていた身体がビクリと震えた。

「…ひどい顔をしてる。泣くのを我慢している、なにか辛いことでも?」

「…っ」
図星を突かれ、喉の奥が熱くなる。
ずっと張り詰めていた糸が、プツンと音を立てて切れそうになる。

見ず知らずの他人に、一番触れてほしくない場所を、一番優しい手つきで触れられた気がした。
彼は困ったように眉を下げて微笑むと、私の冷え切った手を取り、カウンター席へエスコートをした。

「どうぞこらに座ってください。…なにか、その冷えた身体も心も…温めるものを作りましょうか?」
彼の声は、砂糖菓子のように甘く、そして耳の奥が痺れるほど艶やかだった。

胸元の名札には〝穂積(ほづみ)〟とある。

「…何にしますか? …それとも、メニューにはない…甘くて、心を満たすものをご希望ですか?」

悪戯っぽく目を細める彼。
私はその瞳に射抜かれ、頷くことしかできなかった。
それが、私の人生を変える、甘い毒との出会いだった。
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