夜の彼は…私に優しい場所

銀条リン

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貴方を求める、一夜の契約

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「…メニューにはない〝心を満たす〟ものをご希望ですか?」

穂積さんのその問いに、私は何も答えられなかった。
ただ、大きく頷くことしかできなかった。

「はい。じゃあ、僕に任せてください」

彼は静かにシェイカーを手に取った。カラン、カラン、と氷がグラスを打つ透明な音が、激しい雨音と静かなジャズに溶けていく。
彼が差し出してくれたのは、琥珀色をした小さなグラス。
レモンの香りとともに、微かに甘く、アルコール度数が高そうなカクテルだった。

「…よかったら、飲んでください。少し、強めです」

私は一気にそれを呷った。喉が焼けるような熱さ。
二杯、三杯とグラスが空くにつれて、会議室での罵声も、部下への苛立ちも、ハイヒールの痛さも、全てが遠のいていく。

「…誰も、私のことなんて見てくれないんです。見ているのは〝数字〟だけで、誰も私が頑張っている〝姿〟をみようとしない」

気づけば、私は自分の愚痴を彼に聞かせていた。

〝顔がいい〟というレッテルで、誰からも心の中まで見てもらえない孤独。
彼は黙ってグラスを磨きながら、頷くだけだった。

「だったら…今、僕が見てますよ」

カクテルを作り終えた彼は、そっと私の手の甲に触れた。
その手のひらは、冷たくて、でも驚くほど温かい。

「…僕が、貴女の心を見ています。こんなに疲れて、頑張っていること、知っていますよ」

「えっ…」

彼の甘い声が、耳の奥で痺れる。
もう、駄目だった。私はボロボロと涙を流し始めた。

「…もう泣かないで。僕の目の前で、そんな綺麗な顔を台無しにしないでください」

静流さんはカウンターを回り込み、私を強く、しかし壊れ物を扱うように抱きしめた。
彼の身体から漂う、アロマとアルコールの混ざった大人の匂い。
私にとって、それが何よりも安らぎだった。

「…ねぇ、穂積さん」

どれくらいそうしていただろうか?カウンター越しの彼は、私の隣に居てくれて、私の話を聞いてくれていた。
私はそんな彼の首に腕を回し、顔を上げた。
お酒の酔いも手伝ったせいか…私は…彼が、欲しくなった。

「…一晩だけでも、いいですか?…僕が貴女のそばに、いましょうか?」

彼から誘いに…私は頷いた。彼は察してくれていた。
カクテルと、絶望と、彼の優しさが混ざり合い、私の理性を完全に狂わせていた。
彼もまた、私の熱に当てられたように、目を閉じて深く息を吐いた。

「…貴女は、とても美しい人だ」

そういうと彼の唇が、私の唇を塞いだ。
誰も居ない店内に甘く切ない口づけを交わしていた。

「…じゃあ、お店を閉めます。待っててもらえますか?」

「…はい」

彼は手早く店の片付けを終え、着替えの為に奥へと消えていった。しばらく待っていると、バーテンダーの格好とは違う…カチッとしたスーツ姿で現れた。

「お待たせしました。行きましょうか?」

私は少し微笑み頷くと、彼の腕に自分の腕を絡ませていた。
雨音の中、静かにホテルへと向かった私たち。
部屋に入ると、彼は夜のとばりの中で、優しさと情熱を混ぜた愛し方で、私を包み込んでくれた。

身体の相性が、嘘のように良かった。
傷ついた私の心と身体が、彼の体温と腕の中に完璧に馴染んでいく。

一夜の過ちだと分かっているのに、彼の腕の中が、私にとって何よりも安全な〝帰る場所〟になっていた。

彼の愛し方は、あのバーの照明のように、温かくて甘かった。

焦らず、急がず、優しく、丁寧に。まるで、壊れた人形を修復するように。

「…あっ、静流さん…」

「…詩織」

ついさっき彼の下の名前を知った。激しく求め合い、夢中になって彼の名前を呼ぶと、彼もまた私の下の名前を…呼んでくれた。私の意識はもう、完全に溶けていく。

翌朝。

私は目覚めると、隣でシャワーを浴びている静流さんの気配を感じた。

(…そっか…もう、二度と会えないのかな…)

シーツにくるまりながら、名残惜しさに胸が張り裂けそうになる。
この温もりを失いたくない。

意を決して、彼の姿を探した。
彼はバスルームから出て、身支度を整えているところだった。
その整った顔立ちには、昨夜の情熱とは違う、冷めたような表情が浮かんでいる。

私は彼が部屋を出ていこうとする寸前、勇気を振り絞って声をかけた。

「…あの。…また、逢えますか?」

彼の動きが止まる。
そして、彼は少し困ったように、けれど明確に言った。

「…あぁ、申し訳ありませんが…僕は今、特定の彼女は作らないと決めてるんです。」

(やっぱり……)

絶望と惨めさで、顔が熱くなる。

「…あの…だったら、たまにだけでも…」

私は最後の望みを託し、全てを捨てて彼に縋った。

「…その、都合のいい時だけで、いいですから。…貴方に、逢いたいんです」

一方的な〝わがまま〟だと分かっていた。でも、私には…彼の〝温もり〟が欲しかったから。
彼は、ベッド脇のナイトテーブルから備え付けのペンとメモ帳を取ると、何かを走り書きした。
それを私の手のひらに、そっと乗せる。

「…えっ…静流、さん…?」

「…僕の携帯番号と、ラインのIDです。」
彼は静かに言った。

「…仕事が早く終わった金曜の夜だけですけど、それでも良ければ。あ、余り期待はしないで欲しいんです。」
そう言った彼の耳が、ほんの少しだけ赤くなっていることに、私は気づいていなかった。

彼は私の頭をポン、と撫でると、逃げるように部屋を出ていった。

残されたメモを、私は宝物のように胸に抱きしめる。
これが、私と彼――のちに私の上司となる穂積部長との、切なくて甘い契約の始まりだった。
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