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一章

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 ふと視界に影が落ちる。耳に触れた声は聞き慣れた甘さを含んでいた。


『ヒロ、待たせてごめんね』
「ぁ…ナオ…」


 目を見開いた。ナオが、俺の背後にいるからだ。


『どうしたの?顔色が悪い』


 ぐるりと体の向きを変えられた。そして額同士がくっつく。『具合悪いの?』と上目遣いで眉を垂らすナオ。不意打ちの“美”の接近に心臓が跳ね上がり、「うおっ」と声を上げた。


「ずっ、随分と早かったな」
『うん。一刻も早くヒロに会いたくて順番待ちをしていたアンドロイドにお願いしたんだ』
「………おねがい?」
『僕を先にしてって』
「……う、うん?」


  一瞬だが沈黙が流れた。それって大丈夫なのか。つまりは“割り込み”だろう。他のアンドロイドや所有者に迷惑かけてないかソレ。やや首を傾げながら「へ、へえ?」と頷く。


『何か心配してる?彼らが判断したことだから問題ないよ。ヒロも僕に早く会いたかったでしょう?』
「え、…お、おー…」


 驚いた。アンドロイド同士にも“譲り合いの文化”があるらしい。発達したAIともなると人間みたいなことするんだな。そんな事を考えながら相槌を打つと、両手で頬を包まれる。目前のナオはふわりと微笑んだ。透き通るような青い瞳。それは蕩けそうなほどに甘い。ナオは小首を傾げて言った。
  

『僕と離れて寂しかったよね。ヒロ…ただいま』
「あ、ああ、おかえ―」


 言いかけたときだ。唇に柔らかい感触が重なった。


「んっ!?」
『ヒロ…』
「んんん?!!」
『僕も寂しかった…』


 ちゅ…っ、ちゅ…、と唇が交わる。あっという間に舌が重なり、じゅるりと絡め取られた。ナオは俺より数センチ程度に身長が高い。だから僅かに上を向く体勢になる。逃げようと思っても、両手で顔を固定されているから、唇を受け入れることしかできない。つま先立ちになりながら「んうッ」と声を絞り出し、ナオの胸を叩く。


「ちょっ、…ナオ、」
『片時も離れたくない…大好き』


 ぐぐぐ…と胸を押して、なんとかキスを止めることに成功した。手の甲で唇から垂れた唾液を拭い、ぜぇぜぇ、と肩を上下させる。

 パッと顔を上げた。ナオは『まだ足りない』言わんばかりの表情だ。案の定、直ぐに唇が迫る。慌てて片手で壁を作ってガードした。


「ナオっ…、す、ストップっ…ストップ!」
『ストップ?何を?』
「でぃ…ッ―……キス! こんな所で止めろ…っ」
『どうして?』


 ナオは目をパチクリさせる。

 …どうしても何も、周りから冷ややかな視線がグサグサ刺さっているからに決まってるだろう。よりにもよって“深いほう”のキスをするんだ。注目もされてしまう。あわあわと口を開閉させていると、トドメのように「ちっ…見せびらかすなら他でしろよ」と棘のある言葉が背中に突き刺さった。


「と…っ、とりあえずあっちに…」


 その場から離れようとする。『どこ行くの?』と、片頬をぷくっと膨らませるナオ。か…可愛いな……―ってそうじゃない。「一緒にあっちに行こう」と、ナオの腕を引っ張れば、何故か急激に機嫌が良くなったようで、ぱあっと喜色が浮かぶ。べったりぴったり腕にしがみつかれ、そのまま隅に移動した。


「はぁ…それで点検結果はどうだったんだ?」


 窓際に立つ。柱と柱の間にある影に隠れた。ここなら目立たないだろう。ふぅ、と小さく溜息を吐く。その間も、ちゅっちゅっ、と触れるだけのキスが額や頬、こめかみに降り続ける。鳥につつかれる木にでもなった気分だ。コホンッと咳き込み、身じろぐ。しかし絡みつく腕は俺を解放するつもりがないようだ。抵抗を諦め、密着された状態で問い掛けた。


『問題ないよ。ほら。カードにもそう表示されてる』
「え?…ああ…ほんとだ…」


 服のポケットからカードを取り出す。受付で渡されたものだ。手に取った瞬間、淡く光り、《点検完了:異常ナシ》という映像が浮かび上がった。先程の少年が持っていたカードと同じ現象だ。ただ、映像の端が少し途切れているのは電波が悪いせいか。俺は「感染してなかったんだな」とホッと胸を撫で下ろした。


『ヒロ、安心?』
「ああ。良かった」


 安心といえば安心だ。でもなんだろうか。胸の奥がザワザワする。形容し難い違和感が心を侵食する。

 ふと視線を落とした。そして首を傾げた。


「…ん?…なんでまだ包帯巻いてんだ…?修復してもらってないのか?」


  袖から見える滑らかな白い手首。包帯が巻かれたままだった。ナオは『ううん』と首を振る。


『修復は完了した。でもこの包帯はヒロからのプレゼント。だから巻き直した』
「…なんじゃそりゃ…」


 高い知能を持つアンドロイドでも学習不足な所があるみたいだ。包帯を捨てるものと知らないんだろう。恋人から授かったロマンチックな贈り物を愛でる雰囲気で、ウットリと包帯を見つめるナオ。指輪でも貰ったかのような反応である。こうも喜ばれてしまうと言いにくいが、今後のために正しい知識を教えてあげたほうがいいだろう。

 俺は「あー…」と煮え切らない口調で続けた。


「包帯は使い捨てなんだ。まあ血とかついてないから汚いわけじゃないが……もう巻く意味もないし捨てていいぞ」
『え?』
「そもそもプレゼントじゃないからさ」


 そう言い切ったときだ。


『…そう』


 空気がズドンと落ち、悲壮感が漂う。俺は口を噤んだ。じわじわと美しい瞳に涙のような液体が薄く張り始めたのだ。やがて、きらりとダイヤモンドのような輝きが零れ落ちた。俺は「え ゙」と固まった。


「ど、どうしたっ…!?」


  なっ泣いてる!?

 心の声が裏返った。白晳の頬にぽろぽろと伝うのは間違いなく涙だ。俺はオドオドと両手を上げ下げした。

 俺はデリカシーのない男らしい。飲み会の席で一言も言葉を交わしていない女性社員から『真山さんってデリカシーなさそうですよね!』と言われるくらいだ。滲み出る何かがあるんだろう。そして彼女のその直感は正しかったようだ。ナオは俺の言葉に傷ついている。“傷つく”という表現がアンドロイドに適してるのか分からないが、実際泣いているんだ。ショタナオのときもそうだったが、一定の言葉や動作に涙を流す仕様にでもなっているのか。相当酷いことを言ってしまったんだろう。申し訳なさを感じながら、ハンカチを探していると、ナオは涙とともに言葉を落とす。


『たとえプレゼントじゃなくてもいい。ヒロが僕にモノを与えてくれた。それは事実だ。この包帯はヒロからの愛の証。そう認識する。僕を縛り、ヒロの溢れ出る独占欲を抑えているんだ。そうだよね?…ヒロ…捨てたら証が消えてしまうよ……。それでもいいの…?』


 その声はやがて仄暗く染まった。


『…また皮膚を裂けばこれを与えてくれる?』
「えっ」


 非常に嫌な予感がした。ゆっくりと自身の手首に指を這わせるナオ。やがて爪が人工皮膚に食い込んでいく。「お…おいっ」と声を上げた。“愛の証”とか“独占欲”とか身に覚えがないワードに大きく首を傾げたくなったが、それは一旦置いておいて、目の前の光景に冷や汗を流した。

 まさかまた自己破壊するつもりか。


「ナオっ!ちょっと待っ―」


  急いでその手を掴み上げた。その時だ。


「見て……あの人…。アンドロイド虐めてる…」


 ヒソヒソと、軽蔑したような声が背後から聞こえた。ハッとして振り返る。まず初めに目に入ったのは施設のアンドロイドだ。1体じゃない。5体ほどのアンドロイドが配膳の業務を放棄してこちらを無表情で見つめていた。ちょっと不気味な光景だ。その違和感を感じ取った周囲の人間は引き寄せられるようにこちらに集まってくる。アンドロイドの視線の先。俺とナオに目に留めて、眉を顰め、蔑む。


「やだわ。本当。アンドロイド泣いてるじゃない」
「殴るつもりかしら。怯えてるのよ」
「最低ね」


 顔を歪ませた女性と目が合う。


「え!?」


 ち、違います!どちらかといえば怯えてるのは俺だと思います!

 そう目で訴える。しかし実際に俺はナオの手首を掴んでいる。この状況は誤解をされてもおかしくないだろう。そう考えて、パッと手を放した。すぐさま距離を置こうとするが、ナオの腕が腰にまわり、ぐいっと引き寄せられる。

 そのまま片手で顎を掬われ、ナオの顔が目前に迫った。俺が言葉を発するより前に『ヒロ』とナオは切なげな表情で、言葉を続ける。



『ヒロにとってこれはゴミかもしれない。でも僕にとってこれは大切なモノ。所持し続ける価値がある。ヒロ、これをプレゼントと認識したらいけない?やっぱりゴミ?』


 途端、「何か奪い取ろうとしてるのかしら?」「プレゼントをゴミ扱いしてるって」「まあ酷い!」と周囲のどよめきが空気を揺らした。


「……」


 …ナ、ナオよ。言い方をもう少し変えることはできなかっただろうか。それでは俺がナオの持ち物をゴミだと罵った感じになるじゃないか。厳密に言えば、その通りなんだが、罵ったつもりはない。一般的な常識を教えたつもりだ。しかしこの状況、何も知らない人間からすれば、俺は完全に悪者に見えるだろう。

 俺は取り繕った笑顔で固まった。あの最低な所有者は次にどんな酷い言葉を吐くのか。そんな周囲の冷たい視線がグサグサと刺さり、俺のメンタル面のHPゲージは0に向かって一直線に減少していた。ゴクリと唾を飲んで「え、えーと…」と弱々しく口を開いた。


「…ぷ…プレゼント…と認識していい…かなァ…」


 この場に渦巻く圧力に敗北した俺は、カタコトになりながら呆気なく手のひらを返した。情け無いほどにブレブレの意思。時にはこういう応変もストレス社会を生き抜いていく上で必要である。

 そう自分自身に言い聞かせていると、ナオは花開くようにふわりと微笑む。


『そうだよね。確認して良かった』


 ぎゅうっと更に強い力で抱かれ、密着される。そして、こつり、と額が合わさり、視界が青い瞳に占められた。俺はビクッと肩を揺らす。人間でいうところの瞳孔だろうか。ナオのそこがぐわっと開く瞬間が見えたからだ。


「なんだ…、ただの照れ隠しだったみたいよ」
「良い所有者なのかしら」
「あんなにアンドロイドが懐いてるんだからそうなんじゃない?」


 先程までの冷え切った空気は消え去り、温かい目が俺たちに向けられている。やがて誰かが手を叩きはじめ、それが全体に広がっていった。突如として、公開プロポーズが成功したような雰囲気が一体を包み込む。カフェに居る者の殆どがこちらを見ていた。

 俺は遠い目をした。

 …どうしてこんなに注目されているんだ。


『ヒロ、見て』
「え…?」
『みんな僕たちを“お似合いのラブラブカップル”って言ってるよ』
「お、おー……」


 言ってなくね

 そう心の中で冷静に突っ込んだ。少なくとも“お似合い”なんてワード聞こえないぞ。ナオの聴覚はどこの音声を拾ってるんだ。しかし俺のHPはすっからかんだ。0に近い。余計なことを言えば、また誤解を生み、ダメージを受ける事になりそうだ。


『僕とヒロは深く深く愛し合う情熱的なカップル。だから“お似合い”と言われて当然だ』
「……」
『ヒロもそう思うでしょう?』


 休日までメンタルをオーバーキルされたくない。余計なことを言うまいと口を閉じる。そしてキラッキラッ輝く笑顔を浴びながら、半目になり、薄ら笑いを浮かべた。

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