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冬の侵食
しおりを挟む食欲がない。そのことに気づいたのは、八枚切りの食パン一枚を半分食べて、残した時だった。
ブラックコーヒーは、少し前から胃が痛くて飲めなくなっていた。
コーヒーの代わりに飲むようになったホットミルク。今になって思えば、栄養を摂るための無意識だったのかもしれない。
「ん?」
着替えていて、ふと気づいた。スラックスが緩い。いつの間に? ベルトを締めていれば気にならないだろう。
それにしても──
「疲れがとれないな……」
今日は金曜日だ。一日乗り切れば休める。
俺は自分を鼓舞してから、だるい身体で出勤するために、玄関に向かい、扉を開けた。
「──っ! さむっ」
冷たい風が頬を刺す。思わず身を竦めた。
通勤のあいだ、人の気配に敏感になっていた。ざわめきが俺の背中を追ってくる。
逃げるように、足早に会社へと向かった。
イライラする。
パートで来ている中年女性二人の声が、癇に障る。
内容は聞こえないが、どうせ無駄な話だろう。そちらに気を取られて仕事に集中できない。
あと少しで、昼休みだ。気を取り直してパソコンの画面を見ると、ミスを見つけた。
叫びたくなるのを、歯を食いしばってこらえる。
何もかも投げ出したくなりそうになるが、大きく深呼吸して気持ちを落ち着けようとした。
今度こそは間違えないように、ゆっくりと修正する。三度見直して、安堵すると昼休みだ。
「お疲れ様です」
コトンと俺の机に置かれたのは、コーンポタージュの缶だった。
見上げると、若手の社員。心配そうにこちらを見ている。
「……ありがとう」
「いえ、それより体調は大丈夫ですか? ちゃんと病院行ってきましたか? なんか心配です」
コイツは、心の底から心配してくれてるのがわかる。俺は、コイツにだけはイラつかないことに気づいた。
「以前、病院に行ったけど、悪いところはなかったんだ。もう歳かな? 疲れがなかなか抜けなくてな」
「まだまだ若いじゃないですか。そんな歳じゃないですよ。食欲も無いみたいですよね。コンポタ、温かいうちに飲んでください。本当に体調悪かったら午後休んでくださいよ」
「お前はいい奴だな。明日は休みだ。あと少し頑張るよ」
俺は、少し心のささくれが癒された気分になって笑ってみせた。
困ったような顔をしながら、俺の言葉に頷いて彼は昼食を食べに行った。
最近のイラつきがほんの少しだけおさまった。
食べられるかわからなかった、昼食用のサンドイッチを取り出すと、コンポタと一切れのサンドイッチを腹に収めた。
暗くなった帰り道。人通りはないはずなのに、自分の足音の後ろから、軽い足音が聞こえる……多分女性だ。
早足にしても、わざとゆっくりにしても着いてくる。
イライラする。途中のコンビニでやり過ごすか。
いつものコンビニに寄るとき、背後を睨みつけた。
──誰も、いなかった。
おかしい。あの瞬間まで、確かに足音は着いてきていた。混乱しながら、店内に入ると、手っ取り早く栄養のとれるゼリー飲料をいくつかカゴに入れる。胃の調子が悪くてアルコールは飲まなくなっていた。ノンカフェインの飲み物もカゴに入れた。
買い物を終わらせて、コンビニを出ると、用心深く周囲を見回した。
「誰もいない」
ホッとして、足早にアパートに帰った。
手早く鍵をかけて安心すると、ひんやりとした部屋を温めるためにエアコンをつけた。
風呂の準備をしながら、後をつけてくる足音のことを考えた。確かに聞こえた。でも、振り返ったらいなかった。
「隠れて逃げたのか?」
追いかけられる理由がわからない。気味の悪い奴もいたものだ。そう考えて、次があったら注意しようと思った。
「寒い……」
布団に潜り込み、カーテンの閉まった窓を見る。
だいぶ前から、外の気配が気になって閉めっぱなしだ。
部屋は2階なのに、誰かがいるような気がしてならない。
エアコンを消してだいぶ経つ。眠気が、なかなかやってこない。冷えた空気が顔を撫でる。
カチ……カチ……
時計の音が大きく聞こえる。目を閉じて頭まで布団の中に潜り込む。
うるさい──
明日、時計を外してしまおうと決めた。
耳が温まってきてウトウトし始めたときだった。
ゆっくりと奏でられるオルゴールの音。
なんで……
驚いて一ミリも動けずにいると、オルゴールは止んだ。
家にオルゴールなんてあったか? ぐるぐると頭の中が混乱する。心臓がバクバクと鳴る音が聞こえる。呼吸も浅くなる。
「あ!」
あった。
母の形見のオルゴールがあったはずだ。
俺は安堵して、ため息を吐いた。
明日、オルゴールも探そう。そう結論を出すと、ウトウトとし始めたのだった。
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