声が聴こえる

金浦桃多

文字の大きさ
3 / 3

冬の侵食

しおりを挟む


 食欲がない。そのことに気づいたのは、八枚切りの食パン一枚を半分食べて、残した時だった。
 ブラックコーヒーは、少し前から胃が痛くて飲めなくなっていた。
 コーヒーの代わりに飲むようになったホットミルク。今になって思えば、栄養を摂るための無意識だったのかもしれない。

「ん?」

 着替えていて、ふと気づいた。スラックスが緩い。いつの間に? ベルトを締めていれば気にならないだろう。
 それにしても──

「疲れがとれないな……」

 今日は金曜日だ。一日乗り切れば休める。
 俺は自分を鼓舞してから、だるい身体で出勤するために、玄関に向かい、扉を開けた。

「──っ! さむっ」

 冷たい風が頬を刺す。思わず身を竦めた。
 通勤のあいだ、人の気配に敏感になっていた。ざわめきが俺の背中を追ってくる。
 逃げるように、足早に会社へと向かった。

 イライラする。
 
 パートで来ている中年女性二人の声が、癇に障る。
 内容は聞こえないが、どうせ無駄な話だろう。そちらに気を取られて仕事に集中できない。
 あと少しで、昼休みだ。気を取り直してパソコンの画面を見ると、ミスを見つけた。
 
 叫びたくなるのを、歯を食いしばってこらえる。
 何もかも投げ出したくなりそうになるが、大きく深呼吸して気持ちを落ち着けようとした。
 今度こそは間違えないように、ゆっくりと修正する。三度見直して、安堵すると昼休みだ。

「お疲れ様です」

 コトンと俺の机に置かれたのは、コーンポタージュの缶だった。
 見上げると、若手の社員。心配そうにこちらを見ている。

「……ありがとう」
「いえ、それより体調は大丈夫ですか? ちゃんと病院行ってきましたか? なんか心配です」

 コイツは、心の底から心配してくれてるのがわかる。俺は、コイツにだけはイラつかないことに気づいた。

「以前、病院に行ったけど、悪いところはなかったんだ。もう歳かな? 疲れがなかなか抜けなくてな」
「まだまだ若いじゃないですか。そんな歳じゃないですよ。食欲も無いみたいですよね。コンポタ、温かいうちに飲んでください。本当に体調悪かったら午後休んでくださいよ」
「お前はいい奴だな。明日は休みだ。あと少し頑張るよ」
 
 俺は、少し心のささくれが癒された気分になって笑ってみせた。
 困ったような顔をしながら、俺の言葉に頷いて彼は昼食を食べに行った。

 最近のイラつきがほんの少しだけおさまった。
 食べられるかわからなかった、昼食用のサンドイッチを取り出すと、コンポタと一切れのサンドイッチを腹に収めた。

 暗くなった帰り道。人通りはないはずなのに、自分の足音の後ろから、軽い足音が聞こえる……多分女性だ。
 早足にしても、わざとゆっくりにしても着いてくる。
 イライラする。途中のコンビニでやり過ごすか。
 いつものコンビニに寄るとき、背後を睨みつけた。
 
 ──誰も、いなかった。

 おかしい。あの瞬間まで、確かに足音は着いてきていた。混乱しながら、店内に入ると、手っ取り早く栄養のとれるゼリー飲料をいくつかカゴに入れる。胃の調子が悪くてアルコールは飲まなくなっていた。ノンカフェインの飲み物もカゴに入れた。

 買い物を終わらせて、コンビニを出ると、用心深く周囲を見回した。

「誰もいない」

 ホッとして、足早にアパートに帰った。
 手早く鍵をかけて安心すると、ひんやりとした部屋を温めるためにエアコンをつけた。
 風呂の準備をしながら、後をつけてくる足音のことを考えた。確かに聞こえた。でも、振り返ったらいなかった。

「隠れて逃げたのか?」

 追いかけられる理由がわからない。気味の悪い奴もいたものだ。そう考えて、次があったら注意しようと思った。

「寒い……」

 布団に潜り込み、カーテンの閉まった窓を見る。
 だいぶ前から、外の気配が気になって閉めっぱなしだ。
 部屋は2階なのに、誰かがいるような気がしてならない。
 エアコンを消してだいぶ経つ。眠気が、なかなかやってこない。冷えた空気が顔を撫でる。

 カチ……カチ……

 時計の音が大きく聞こえる。目を閉じて頭まで布団の中に潜り込む。

 うるさい──

 明日、時計を外してしまおうと決めた。
 耳が温まってきてウトウトし始めたときだった。

 ゆっくりと奏でられるオルゴールの音。

 なんで……

 驚いて一ミリも動けずにいると、オルゴールは止んだ。
 
 家にオルゴールなんてあったか? ぐるぐると頭の中が混乱する。心臓がバクバクと鳴る音が聞こえる。呼吸も浅くなる。

「あ!」

 あった。
 母の形見のオルゴールがあったはずだ。
 俺は安堵して、ため息を吐いた。
 明日、オルゴールも探そう。そう結論を出すと、ウトウトとし始めたのだった。

 
 
 
 
 
しおりを挟む
感想 6

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(6件)

一ノ瀬麻紀
2026.03.02 一ノ瀬麻紀
ネタバレ含む
2026.03.02 金浦桃多

感想ありがとうございます。

そう、日常。
でも何となく、あれ?っていうのは主人公も同じ。

まきたんには届いてるー( *˙ω˙*)و グッ!
静かに静かにじわじわです。

あと2話です。何が起こるのか……?

読んでいただきありがとうございました。

解除
蒸しケーキ
2026.03.01 蒸しケーキ
ネタバレ含む
2026.03.02 金浦桃多

感想ありがとうございます!

主人公の日常が少しずつ侵されていきます。

それが一体何なのか……。

四季を感じながら追っていただけると嬉しいです。

お読みいただきありがとうございました。

解除
小池 月
2026.03.01 小池 月
ネタバレ含む
2026.03.01 金浦桃多

感想ありがとうございます!

さてどうでしょう?( *´艸`)✨

主人公の四季を書きました。感じていただければ嬉しいです。

読んでいただきありがとうございました✨

解除

あなたにおすすめの小説

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

意味がわかると怖い話

井見虎和
ホラー
意味がわかると怖い話 答えは下の方にあります。 あくまで私が考えた答えで、別の考え方があれば感想でどうぞ。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

不倫妻への鎮魂歌 ―サレ夫が選んだ、最も残酷で静かな復讐―

MisakiNonagase
大衆娯楽
「サレ夫、再生。不倫妻、転落。──その代償は、あまりに重い。」 「嘘で塗り固めた20年より、真実で歩む明日がいい。」 失って初めて気づく、守られていた日々の輝き。 46歳の美香にとって、誠実な夫と二人の息子に囲まれた生活は、退屈で窮屈な「檻」だった。若い男からの甘い誘惑に、彼女は20年の歳月を投げ打って飛び込んだ。 しかし、彼女が捨てたのは「檻」ではなく「聖域」だったのだ。 不倫、発覚、離婚、そして孤独。 かつての「美しい奥様」が、厚化粧で場末のスナックのカウンターに立つまでの足取りと、傷つきながらも真実の幸福を掴み取っていく夫・徹の再生を描く。 家族とは何か、誠実さとは何か。一通の離婚届が、二人の人生を光と影に分かつ。

洒落にならない怖い話【短編集】

鍵谷端哉
ホラー
その「ゾワッ」は、あなたのすぐ隣にある。 意味が分かると凍りつく話から、理不尽に追い詰められる怪異まで。 隙間時間に読める短編ながら、読後の静寂が怖くなる。 洒落にならない実話風・創作ホラー短編集。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。