7 / 121
1章 憧れのゲームの世界へ
7話
しおりを挟む
話を聞きながら焔が疑問に思ったのが、そんな大事なものの管理者にゲームのキャラクターに過ぎなかったAIを採用したっていうところだ。
人を採用しないのは理解できないことはない。
でもこんな感情豊かなAIに務まるのか。
むずかしいことはわからないが、これだけのことをやってのける企業が採用するのだから、それだけの理由はあるのだろうが。
「どう、大体わかった?」
「そうですね、社会の闇を知ってしまって恐怖してます。まさかこんな話に巻き込まれるなんて思ってなかったです。やっぱり現実はいらないです」
「あはは、やっぱり焔君は面白いね。私もね初めてここに来た時はドン引きしたよ。で、ゲームの世界に戻りたいなって思ったんだよ」
「あ……」
「こんなところに閉じ込められてさ、つまんないんだよね。だから焔君を使ってゲームに参加しようかなって」
「どうやってですか? そりゃ俺も何かしてあげたいですけど……」
「はい、これあげる」
「何ですかこれ」
汐音はいきなり焔に一枚のカードを手渡す。
「私のゲームデータが入ったカードだよ。それを君のギフトの一つである『アバターチェンジ』で使えば、私の能力で戦うことができちゃう!」
「わお! お姉さんのレベルって150でしたよね!」
「しかも私の能力は『上限突破』というギフトのものだから他の人はそこまでレベルを上げられない。つまり私最強!」
「わおわお!」
「そしてアバターの外見は私が焔君と同じ年齢くらいの時の姿だよ」
「わおわおわお! で、これを俺がもらったところで汐音さんがゲームに参加できるわけではないんじゃ……」
「ふふふ、実はそのアバター使用時は私にも感覚がリンクするんだよ。自分でプレイするわけじゃないけど、こんなところにいるよりはね」
話をしている間にインストールが完了し、焔はあらためてそのステータスを確認する。
そこにはもはや強さの想像がつかないような数値が並んでいた。
レベルは150。
他のパラメーターも、焔の数値を五倍したところで到底追いつかないようなものだ。
「感覚がリンクするんだから、私のアバターでエッチなことしちゃダメだからね」
「毎日させていただきます!」
「よし、焔君デリートっと」
「うわあああ、ごめんなさ~い」
「あはは、冗談だよ」
その冗談というのはできないって意味なのか、できるけどやらないって意味なのか、焔は確認したかったが怖くて聞けなかった。
きっとできないに違いない、そう願った。
「でもなんで見ず知らずの俺なんですか? 他にもたくさん人はいるのに」
「それはね、君のことが好きだから……だったりして」
「え、うそ……」
「うそだよ」
「え~……」
焔は人生初の恋人ゲットかと期待したが、すぐに打ち砕かれることとなった。
「本当は……、ねえ焔君、覚えてない? 私のこと」
「え? どういう意味ですか」
まるで前からの知り合いのような言い方をする汐音だが、焔にはあの夢以前に出会った記憶はない。
こんなきれいなお姉さんなら焔は覚えている自信があった。
「俺たちが初めて会ったのって、夢の中ですよね?」
焔の答えに汐音は少し残念そうな笑顔を返す。
「まあ覚えてないというより気付かないのかもしれないね。焔君、昔入院してたことあったでしょ?」
「え、なんでそれを……。もしかしてその時に出会ってた?」
そこまで言って気付いた。
焔は子どもの頃に入院していたころがあり、その時に中庭で出会った少し年上のお姉さんがいた。
それは7年前、焔が8歳の時で、幼い焔にとってそのお姉さんは特別な存在だった。
きれいで優しくて、妹や母とは違う、年の近いお姉さん。
入院中で心が不安定だった焔は、いつも笑顔で遊んでくれるお姉さんに自然と惹かれていった。
「もしかして……、中庭のお姉さん?」
「あはは、そういえばそんな風に呼ばれてたね、懐かしい」
汐音と出会ったとき、焔は初恋の人に似ていると思っていた。
実際には似ているのではなく、本人だったということだ。
こんな偶然があるものだろうか。
「あの病院って海沿いにあったから、中庭から海が見えたんだよね」
「そ、そうでしたね」
「あれ、どうしたの? 急に緊張しちゃった?」
「そそそ、そんなことないですよ?」
そう言いながら思いっきり緊張している焔。
その様子を見て、汐音は「フフフッ」と笑いながら、焔の頭をポンポンとなでる。
すると焔は不思議と気持ちが落ち着いていくのを感じていた。
あの頃も焔が不安に襲われ中庭に逃げ出すと、そこで汐音によくこうして頭をなでてもらったりしていた。
ただの初恋で終わらない、特別な感情を焔は汐音に対して抱いていた。
当時8歳の焔に対して、汐音は10歳だったのだが、実際の歳の差以上に焔は汐音を年上に思っていたということもある。
「俺、あの時汐音さんにはすごく助けられました。汐音さんがいなかったら今の俺はなかったと思ってます」
はっきりとそう言えるくらい、汐音の存在は大きかった。
焔の両親は子どもの入院中すら、まれにしか顔を出さないほどのお仕事人間。
そのためふたりきりになることが多かったことから、妹の舞依の前では『頼れる兄』を演じる必要があった。
そんな状況で汐音は焔が唯一頼れる『大人のお姉さん』だったのだ。
「本当にありがとうございました」
やっと言えた、そんな思いだった。
というのも、汐音はある日突然病院から姿を消してしまったからだ。
ちょうど「お互いに退院できたら、次の夏休みにこの海で泳ごうね」と約束をした次の日だった。
汐音の水着姿を期待し、最高に舞い上がっていたところだったので、まるで天国から地獄へ落とされた気分になっていた。
焔は必死になって看護師さんなどに汐音のことを聞いて回った。
しかしずっと「中庭のお姉さん」と呼んでいたせいで名前を覚えておらず、なかなかうまく聞き出すことができない。
返ってくる答えは「そんな子いたかな?」「別の病院に移された子がいたような……」などとはっきりしないものばかり。
結局手掛かりは一切見つからずに終わった。
しかし焔は最後の約束をいつか必ず叶えてみせると、強く生きることを決意し頑張ってきた。
至らないところが多々あるのは事実だが、焔はあの状況から本人が幸せを感じられるくらいには人生を好転させている。
それもすべて汐音のおかげだと焔はずっとずっと感謝していた。
だが汐音から帰ってきた言葉は、そんな焔にとって意外なものだった。
「お礼を言うのは私の方だよ」
「え?」
「私、実はあの時、けっこうひどい状態だったんだよ。いつ死んでもおかしくなかったらしいよ」
「そんな……、俺全然気づかずに、自分のことばっかり」
「ううん、焔君がね、私のことを頼ってくれたから、だから私も頑張らなきゃって思えたんだよ」
その気持ちは焔にもなんとなくわかった。
焔が舞依に対して同じように思うことがあるからだ。
「でもね、頑張ったところで体はよくなったりしないんだよね」
「……」
「私もほとんどひとりぼっちだったけど頑張ったんだよ。でもね聞いちゃったんだ、もう無理だって」
「無理って、そんな……」
焔は話を聞きながら、少しずつ不安が高まっていった。
無理ということは、つまりはそういうことなのだろう。
じゃあ目の前にいるこの女性は何なのかと。
元気になったあの子がプレイヤーとして参加していたんじゃなかったのかと。
そして気付く。
汐音はゲーム内でNPCと表示されていたことに。
しかしさっきまでの話が作り話なはずがない。
「汐音さんはいったい……」
「……絶望的だった私の前に突然現れたんだよ、夏川先生が」
「夏川先生?」
「君のお母さんだよ」
「え?」
なぜここで焔の母親が出てくるのか。
しかも先生と呼ばれている。
まさか病院の関係者だとでもいうのだろうか。
焔は母親のことをほとんど知らなかった。
「夏川先生が言ったんだ、『この病院は君を助けられない、でも私なら助けられるかもしれない』って」
「俺たちの母親が……?」
焔の母親とはいったい何者なのか。
大規模な病院ですら助けられない命を、なぜ自分なら救えるなどと言えるのか。
「夏川先生の提案はね、私が死ぬ前に人格や記憶をデータとして保存するってことだった」
「は?」
汐音の話では、焔の母親は医師ではなくAIの技術者だった。
彼女が行ういくつかの実験の中に、人の記憶を移植するAIの開発があったらしい。
人格を作るのは記憶、という考えをベースにして、記憶をデータとして移植すればその人物はデジタルな人間となれるというもの。
昔のことも、昨日のことも、一秒前のことも、同じく記憶でしかない。
真実は刻々と過ぎる『今』だけだということだ。
例えば、ある時にふたりの記憶を入れ替えたとしたら、きっと本人たちは体ではなく記憶の方で自分を認識するだろう。
そう『体が入れ替わった』と判断するわけだ。
つまり人が自分だと思っているものは肉体ではなく、精神や記憶の部分にある。
これは焔の母親がその点に注目して始めた実験だった。
たまたまなのか、その対象に汐音が選ばれたということだ。
「今の私は、正確に言えば神ノ木汐音のコピーってことなのかもしれないね」
そう言って、少し悲しそうな表情で笑う汐音。
その表情を見て焔は思わず汐音を抱きしめてしまった。
「そんなこと言わないでください。俺にとって汐音さんは汐音さんです。あの頃俺を助けてくれた汐音さんも、今目の前にいる汐音さんも同じ汐音さんです」
「……うん、ありがとう」
焔からは今の汐音の表情は見えなかったが、声は少し震えていた。
今まで汐音はあまり考えないようにしていたが、やはり怖かったのだ。
自分という存在が、本当に神ノ木汐音でいいのかということ。
そんなこと気にしない者もいるだろう。
しかし、汐音は当時、たった10歳の女の子だった。
そして本当なら亡くなっていたはずの存在。
そんな自分がデジタルな世界で生き続けているのだから。
焔に抱きしめられて、閉じ込めていた気持ちが一気にあふれ出してしまったのだ。
しばらくの間ふたりは、言葉を交わすこともなく抱き合っていた。
そして汐音の心が大分落ち着いたころ、「もう大丈夫だよ、ありがとう」と言って離れようとする。
焔は、抱きしめている初恋相手の体温や柔らかな感触を名残惜しく感じ、再び抱き寄せた。
「ほ、焔君?」
「もう少しだけこのままでいいですか」
「う、うん」
焔は自分にとって大切な存在である汐音を抱きしめながら、ふたりがひとつになるような感覚に心が安らいでいくのを感じていた。
これが本当にデータで再現されているというのか。
だとしたらこの世界で生きていくことも悪いことではないと感じていた。
ただそれは現実世界という帰るべき場所があるからそう思えるのかもしれない。
いくら実感もなく、そして素晴らしい世界だとしても、自分の肉体を手放し、精神データのみともいえる存在になることに、焔は何とも言えない怖さを感じる。
たとえデータであっても自分は自分。
さっき焔が汐音に言ったことではあるが、自分がその立場になった時、それを受け止めることはできるものだろうか。
「汐音さん、怖かったですよね。ずっと不安を抱えたままこの世界にいたんですね」
「うん、怖かった。でもどうせ助からないんだったらやってみようって決めたのは私だから」
「汐音さんは強いですね。素敵です」
「そんな……、焔君のおかげだから。一緒に海で泳ぐって約束を叶えるために頑張れたんだ」
見つめ合うふたり。
お互いの顔が近く、少しずつ熱を帯びていく。
焔の手が汐音の頬に添えられ、汐音は少しびくっとした後、ゆっくり目を閉じた。
少しずつ近づいていくふたりの唇。
心臓の鼓動が最高潮に達したその時だった。
「まさかこんなところがあったなんてね」
「!?」
人を採用しないのは理解できないことはない。
でもこんな感情豊かなAIに務まるのか。
むずかしいことはわからないが、これだけのことをやってのける企業が採用するのだから、それだけの理由はあるのだろうが。
「どう、大体わかった?」
「そうですね、社会の闇を知ってしまって恐怖してます。まさかこんな話に巻き込まれるなんて思ってなかったです。やっぱり現実はいらないです」
「あはは、やっぱり焔君は面白いね。私もね初めてここに来た時はドン引きしたよ。で、ゲームの世界に戻りたいなって思ったんだよ」
「あ……」
「こんなところに閉じ込められてさ、つまんないんだよね。だから焔君を使ってゲームに参加しようかなって」
「どうやってですか? そりゃ俺も何かしてあげたいですけど……」
「はい、これあげる」
「何ですかこれ」
汐音はいきなり焔に一枚のカードを手渡す。
「私のゲームデータが入ったカードだよ。それを君のギフトの一つである『アバターチェンジ』で使えば、私の能力で戦うことができちゃう!」
「わお! お姉さんのレベルって150でしたよね!」
「しかも私の能力は『上限突破』というギフトのものだから他の人はそこまでレベルを上げられない。つまり私最強!」
「わおわお!」
「そしてアバターの外見は私が焔君と同じ年齢くらいの時の姿だよ」
「わおわおわお! で、これを俺がもらったところで汐音さんがゲームに参加できるわけではないんじゃ……」
「ふふふ、実はそのアバター使用時は私にも感覚がリンクするんだよ。自分でプレイするわけじゃないけど、こんなところにいるよりはね」
話をしている間にインストールが完了し、焔はあらためてそのステータスを確認する。
そこにはもはや強さの想像がつかないような数値が並んでいた。
レベルは150。
他のパラメーターも、焔の数値を五倍したところで到底追いつかないようなものだ。
「感覚がリンクするんだから、私のアバターでエッチなことしちゃダメだからね」
「毎日させていただきます!」
「よし、焔君デリートっと」
「うわあああ、ごめんなさ~い」
「あはは、冗談だよ」
その冗談というのはできないって意味なのか、できるけどやらないって意味なのか、焔は確認したかったが怖くて聞けなかった。
きっとできないに違いない、そう願った。
「でもなんで見ず知らずの俺なんですか? 他にもたくさん人はいるのに」
「それはね、君のことが好きだから……だったりして」
「え、うそ……」
「うそだよ」
「え~……」
焔は人生初の恋人ゲットかと期待したが、すぐに打ち砕かれることとなった。
「本当は……、ねえ焔君、覚えてない? 私のこと」
「え? どういう意味ですか」
まるで前からの知り合いのような言い方をする汐音だが、焔にはあの夢以前に出会った記憶はない。
こんなきれいなお姉さんなら焔は覚えている自信があった。
「俺たちが初めて会ったのって、夢の中ですよね?」
焔の答えに汐音は少し残念そうな笑顔を返す。
「まあ覚えてないというより気付かないのかもしれないね。焔君、昔入院してたことあったでしょ?」
「え、なんでそれを……。もしかしてその時に出会ってた?」
そこまで言って気付いた。
焔は子どもの頃に入院していたころがあり、その時に中庭で出会った少し年上のお姉さんがいた。
それは7年前、焔が8歳の時で、幼い焔にとってそのお姉さんは特別な存在だった。
きれいで優しくて、妹や母とは違う、年の近いお姉さん。
入院中で心が不安定だった焔は、いつも笑顔で遊んでくれるお姉さんに自然と惹かれていった。
「もしかして……、中庭のお姉さん?」
「あはは、そういえばそんな風に呼ばれてたね、懐かしい」
汐音と出会ったとき、焔は初恋の人に似ていると思っていた。
実際には似ているのではなく、本人だったということだ。
こんな偶然があるものだろうか。
「あの病院って海沿いにあったから、中庭から海が見えたんだよね」
「そ、そうでしたね」
「あれ、どうしたの? 急に緊張しちゃった?」
「そそそ、そんなことないですよ?」
そう言いながら思いっきり緊張している焔。
その様子を見て、汐音は「フフフッ」と笑いながら、焔の頭をポンポンとなでる。
すると焔は不思議と気持ちが落ち着いていくのを感じていた。
あの頃も焔が不安に襲われ中庭に逃げ出すと、そこで汐音によくこうして頭をなでてもらったりしていた。
ただの初恋で終わらない、特別な感情を焔は汐音に対して抱いていた。
当時8歳の焔に対して、汐音は10歳だったのだが、実際の歳の差以上に焔は汐音を年上に思っていたということもある。
「俺、あの時汐音さんにはすごく助けられました。汐音さんがいなかったら今の俺はなかったと思ってます」
はっきりとそう言えるくらい、汐音の存在は大きかった。
焔の両親は子どもの入院中すら、まれにしか顔を出さないほどのお仕事人間。
そのためふたりきりになることが多かったことから、妹の舞依の前では『頼れる兄』を演じる必要があった。
そんな状況で汐音は焔が唯一頼れる『大人のお姉さん』だったのだ。
「本当にありがとうございました」
やっと言えた、そんな思いだった。
というのも、汐音はある日突然病院から姿を消してしまったからだ。
ちょうど「お互いに退院できたら、次の夏休みにこの海で泳ごうね」と約束をした次の日だった。
汐音の水着姿を期待し、最高に舞い上がっていたところだったので、まるで天国から地獄へ落とされた気分になっていた。
焔は必死になって看護師さんなどに汐音のことを聞いて回った。
しかしずっと「中庭のお姉さん」と呼んでいたせいで名前を覚えておらず、なかなかうまく聞き出すことができない。
返ってくる答えは「そんな子いたかな?」「別の病院に移された子がいたような……」などとはっきりしないものばかり。
結局手掛かりは一切見つからずに終わった。
しかし焔は最後の約束をいつか必ず叶えてみせると、強く生きることを決意し頑張ってきた。
至らないところが多々あるのは事実だが、焔はあの状況から本人が幸せを感じられるくらいには人生を好転させている。
それもすべて汐音のおかげだと焔はずっとずっと感謝していた。
だが汐音から帰ってきた言葉は、そんな焔にとって意外なものだった。
「お礼を言うのは私の方だよ」
「え?」
「私、実はあの時、けっこうひどい状態だったんだよ。いつ死んでもおかしくなかったらしいよ」
「そんな……、俺全然気づかずに、自分のことばっかり」
「ううん、焔君がね、私のことを頼ってくれたから、だから私も頑張らなきゃって思えたんだよ」
その気持ちは焔にもなんとなくわかった。
焔が舞依に対して同じように思うことがあるからだ。
「でもね、頑張ったところで体はよくなったりしないんだよね」
「……」
「私もほとんどひとりぼっちだったけど頑張ったんだよ。でもね聞いちゃったんだ、もう無理だって」
「無理って、そんな……」
焔は話を聞きながら、少しずつ不安が高まっていった。
無理ということは、つまりはそういうことなのだろう。
じゃあ目の前にいるこの女性は何なのかと。
元気になったあの子がプレイヤーとして参加していたんじゃなかったのかと。
そして気付く。
汐音はゲーム内でNPCと表示されていたことに。
しかしさっきまでの話が作り話なはずがない。
「汐音さんはいったい……」
「……絶望的だった私の前に突然現れたんだよ、夏川先生が」
「夏川先生?」
「君のお母さんだよ」
「え?」
なぜここで焔の母親が出てくるのか。
しかも先生と呼ばれている。
まさか病院の関係者だとでもいうのだろうか。
焔は母親のことをほとんど知らなかった。
「夏川先生が言ったんだ、『この病院は君を助けられない、でも私なら助けられるかもしれない』って」
「俺たちの母親が……?」
焔の母親とはいったい何者なのか。
大規模な病院ですら助けられない命を、なぜ自分なら救えるなどと言えるのか。
「夏川先生の提案はね、私が死ぬ前に人格や記憶をデータとして保存するってことだった」
「は?」
汐音の話では、焔の母親は医師ではなくAIの技術者だった。
彼女が行ういくつかの実験の中に、人の記憶を移植するAIの開発があったらしい。
人格を作るのは記憶、という考えをベースにして、記憶をデータとして移植すればその人物はデジタルな人間となれるというもの。
昔のことも、昨日のことも、一秒前のことも、同じく記憶でしかない。
真実は刻々と過ぎる『今』だけだということだ。
例えば、ある時にふたりの記憶を入れ替えたとしたら、きっと本人たちは体ではなく記憶の方で自分を認識するだろう。
そう『体が入れ替わった』と判断するわけだ。
つまり人が自分だと思っているものは肉体ではなく、精神や記憶の部分にある。
これは焔の母親がその点に注目して始めた実験だった。
たまたまなのか、その対象に汐音が選ばれたということだ。
「今の私は、正確に言えば神ノ木汐音のコピーってことなのかもしれないね」
そう言って、少し悲しそうな表情で笑う汐音。
その表情を見て焔は思わず汐音を抱きしめてしまった。
「そんなこと言わないでください。俺にとって汐音さんは汐音さんです。あの頃俺を助けてくれた汐音さんも、今目の前にいる汐音さんも同じ汐音さんです」
「……うん、ありがとう」
焔からは今の汐音の表情は見えなかったが、声は少し震えていた。
今まで汐音はあまり考えないようにしていたが、やはり怖かったのだ。
自分という存在が、本当に神ノ木汐音でいいのかということ。
そんなこと気にしない者もいるだろう。
しかし、汐音は当時、たった10歳の女の子だった。
そして本当なら亡くなっていたはずの存在。
そんな自分がデジタルな世界で生き続けているのだから。
焔に抱きしめられて、閉じ込めていた気持ちが一気にあふれ出してしまったのだ。
しばらくの間ふたりは、言葉を交わすこともなく抱き合っていた。
そして汐音の心が大分落ち着いたころ、「もう大丈夫だよ、ありがとう」と言って離れようとする。
焔は、抱きしめている初恋相手の体温や柔らかな感触を名残惜しく感じ、再び抱き寄せた。
「ほ、焔君?」
「もう少しだけこのままでいいですか」
「う、うん」
焔は自分にとって大切な存在である汐音を抱きしめながら、ふたりがひとつになるような感覚に心が安らいでいくのを感じていた。
これが本当にデータで再現されているというのか。
だとしたらこの世界で生きていくことも悪いことではないと感じていた。
ただそれは現実世界という帰るべき場所があるからそう思えるのかもしれない。
いくら実感もなく、そして素晴らしい世界だとしても、自分の肉体を手放し、精神データのみともいえる存在になることに、焔は何とも言えない怖さを感じる。
たとえデータであっても自分は自分。
さっき焔が汐音に言ったことではあるが、自分がその立場になった時、それを受け止めることはできるものだろうか。
「汐音さん、怖かったですよね。ずっと不安を抱えたままこの世界にいたんですね」
「うん、怖かった。でもどうせ助からないんだったらやってみようって決めたのは私だから」
「汐音さんは強いですね。素敵です」
「そんな……、焔君のおかげだから。一緒に海で泳ぐって約束を叶えるために頑張れたんだ」
見つめ合うふたり。
お互いの顔が近く、少しずつ熱を帯びていく。
焔の手が汐音の頬に添えられ、汐音は少しびくっとした後、ゆっくり目を閉じた。
少しずつ近づいていくふたりの唇。
心臓の鼓動が最高潮に達したその時だった。
「まさかこんなところがあったなんてね」
「!?」
0
あなたにおすすめの小説
『異世界庭付き一戸建て』を相続した仲良し兄妹は今までの不幸にサヨナラしてスローライフを満喫できる、はず?
釈 余白(しやく)
ファンタジー
毒親の父が不慮の事故で死亡したことで最後の肉親を失い、残された高校生の小村雷人(こむら らいと)と小学生の真琴(まこと)の兄妹が聞かされたのは、父が家を担保に金を借りていたという絶望の事実だった。慣れ親しんだ自宅から早々の退去が必要となった二人は家の中で金目の物を探す。
その結果見つかったのは、僅かな現金に空の預金通帳といくつかの宝飾品、そして家の権利書と見知らぬ文字で書かれた書類くらいだった。謎の書類には祖父のサインが記されていたが内容は読めず、頼みの綱は挟まれていた弁護士の名刺だけだ。
最後の希望とも言える名刺の電話番号へ連絡した二人は、やってきた弁護士から契約書の内容を聞かされ唖然とする。それは祖父が遺産として残した『異世界トラス』にある土地と建物を孫へ渡すというものだった。もちろん現地へ行かなければ遺産は受け取れないが。兄妹には他に頼れるものがなく、思い切って異世界へと赴き新生活をスタートさせるのだった。
連載時、HOT 1位ありがとうございました!
その他、多数投稿しています。
こちらもよろしくお願いします!
https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/398438394
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ギャルい女神と超絶チート同盟〜女神に贔屓されまくった結果、主人公クラスなチート持ち達の同盟リーダーとなってしまったんだが〜
平明神
ファンタジー
ユーゴ・タカトー。
それは、女神の「推し」になった男。
見た目ギャルな女神ユーラウリアの色仕掛けに負け、何度も異世界を救ってきた彼に新たに下った女神のお願いは、転生や転移した者達を探すこと。
彼が出会っていく者たちは、アニメやラノベの主人公を張れるほど強くて魅力的。だけど、みんなチート的な能力や武器を持つ濃いキャラで、なかなか一筋縄ではいかない者ばかり。
彼らと仲間になって同盟を組んだユーゴは、やがて彼らと共に様々な異世界を巻き込む大きな事件に関わっていく。
その過程で、彼はリーダーシップを発揮し、新たな力を開花させていくのだった!
女神から貰ったバラエティー豊かなチート能力とチートアイテムを駆使するユーゴは、どこへ行ってもみんなの度肝を抜きまくる!
さらに、彼にはもともと特殊な能力があるようで……?
英雄、聖女、魔王、人魚、侍、巫女、お嬢様、変身ヒーロー、巨大ロボット、歌姫、メイド、追放、ざまあ───
なんでもありの異世界アベンジャーズ!
女神の使徒と異世界チートな英雄たちとの絆が紡ぐ、運命の物語、ここに開幕!
※不定期更新。最低週1回は投稿出来るように頑張ります。
※感想やお気に入り登録をして頂けますと、作者のモチベーションがあがり、エタることなくもっと面白い話が作れます。
おっさん武闘家、幼女の教え子達と十年後に再会、実はそれぞれ炎・氷・雷の精霊の王女だった彼女達に言い寄られつつ世界を救い英雄になってしまう
お餅ミトコンドリア
ファンタジー
パーチ、三十五歳。五歳の時から三十年間修行してきた武闘家。
だが、全くの無名。
彼は、とある村で武闘家の道場を経営しており、〝拳を使った戦い方〟を弟子たちに教えている。
若い時には「冒険者になって、有名になるんだ!」などと大きな夢を持っていたものだが、自分の道場に来る若者たちが全員〝天才〟で、自分との才能の差を感じて、もう諦めてしまった。
弟子たちとの、のんびりとした穏やかな日々。
独身の彼は、そんな彼ら彼女らのことを〝家族〟のように感じており、「こんな毎日も悪くない」と思っていた。
が、ある日。
「お久しぶりです、師匠!」
絶世の美少女が家を訪れた。
彼女は、十年前に、他の二人の幼い少女と一緒に山の中で獣(とパーチは思い込んでいるが、実はモンスター)に襲われていたところをパーチが助けて、その場で数時間ほど稽古をつけて、自分たちだけで戦える力をつけさせた、という女の子だった。
「私は今、アイスブラット王国の〝守護精霊〟をやっていまして」
精霊を自称する彼女は、「ちょ、ちょっと待ってくれ」と混乱するパーチに構わず、ニッコリ笑いながら畳み掛ける。
「そこで師匠には、私たちと一緒に〝魔王〟を倒して欲しいんです!」
これは、〝弟子たちがあっと言う間に強くなるのは、師匠である自分の特殊な力ゆえ〟であることに気付かず、〝実は最強の実力を持っている〟ことにも全く気付いていない男が、〝実は精霊だった美少女たち〟と再会し、言い寄られ、弟子たちに愛され、弟子以外の者たちからも尊敬され、世界を救って英雄になってしまう物語。
(※第18回ファンタジー小説大賞に参加しています。
もし宜しければ【お気に入り登録】で応援して頂けましたら嬉しいです!
何卒宜しくお願いいたします!)
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
唯一無二のマスタースキルで攻略する異世界譚~17歳に若返った俺が辿るもう一つの人生~
専攻有理
ファンタジー
31歳の事務員、椿井翼はある日信号無視の車に轢かれ、目が覚めると17歳の頃の肉体に戻った状態で異世界にいた。
ただ、導いてくれる女神などは現れず、なぜ自分が異世界にいるのかその理由もわからぬまま椿井はツヴァイという名前で異世界で出会った少女達と共にモンスター退治を始めることになった。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる