セーニョまで戻れ

寒星

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02:アッチェレランド:だんだん速く

12−3 ミスター・パーフェクト

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 ケヴィンは水を飲んでから、溶け始めたバニラアイスが滴るアップルパイを見た。どこからどう食べるべきかを。
「なら、そんな俺に寄り付いてくるのはどういう人間なんだろうな」
 取り急ぎ、アップルパイと接触しているバニラアイスを切り離すようにフォークを入れ、白く霜を纏った表面を掬って口へ運ぶ。
「そりゃ、下心がある人じゃないですか」
 すっきりとしたヨーグルトに近い味わいだ。口の中に甘さが残らない。舌触りは確かにあるのに、どこか懐かしい、子供の頃食べたジェラートに近い。
「お前にもあるのか、下心」
「ありますよ」
「どんな?」
 ケヴィンはフォークを置いた。悩んだ末、手で掴んで食べた方がいいと判断したからだ。バターとシナモンの匂いを立ち上らせるパイ生地で刺繍された表面、薔薇の花びらのように並べられた皮付きの林檎。
 右手で外側の硬いパイ部分を持ち、そのまま鋭くカットされた先端部分に歯を立てる。想像通り、何層にも重ねられた林檎とカスタード、そしてカスタードの中にも混ぜ込まれたキューブ状のリンゴが左右の側面から口の中へ溢れた。まだ焼き上がりの温度を残すパイと冷えたクリーム、林檎をまとめて咀嚼する。
 ドミトリからの返事がなかった。ケヴィンが伏せていた目を開くと、ドミトリは頬杖をついてただ正面を見ていた。ケヴィンの顔か、あるいはさらにその奥の壁、もしくは壁際の天井に吊り下げられたテレビか。
 ケヴィンがさらにもう一口食べ、十分に咀嚼し、飲み下す。その後にようやくドミトリが口を開いた。
「俺は俺の好きなものに囲まれていたいんです」
「ふん」ケヴィンは半分まで減ったアップルパイを皿に戻した。「それで?」
「ミラン、666、そしてあなたが、今のところ俺の好きなものです。ミランと666については、俺自身が関わっているのでいいとして、問題はあなたです」
「俺か?」
「あなたの考えていることが理解できない」
「教えてやる」ケヴィンはフォークでパイの硬い部分を叩いた。「このアップルパイはとても美味しい」
 残りのパイにバニラアイスを乗せ、フォークで丁重に半分に割る。なおもこぼれてきたカスタードとブロック状の林檎も丁寧にパイへ乗せ直し、ケヴィンはそれを口に迎え入れた。
「美味い食事、勤労に相当する対価、それから健康的な肉体。お前の理屈に則って言えば、俺はこいつらに囲まれていれば文句は無い」
「あなたがそんなに簡単な理屈で生きていてくれたら、俺たちはきっと今でも恋人同士だったでしょうね」
 事故から目覚めた翌日、ケヴィンの病室を訪れたドミトリは言った。「私たちは恋人同士だった」と。
「俺たちはどれぐらい清い交際をしていたんだ?」
「一ヶ月と少しですね。あなたがその素敵なチャームポイントを増やしたことで、私が告白しました」
「短いな」
「そうですね」
「振ったのか、振られたのか?」
「振られました」ドミトリは一貫してやはり笑顔だった。「人を殺す予定だから別れておきたいと言われて」
 突然、湧き上がるような拍手の音が聞こえてきた。ケヴィンはハッとして、分かりきっている音源へと、極めてゆっくり振り向いた。
 そこには一台のテレビがあった。あからさまにレトロな色合いの、赤いペンキで塗られた小型テレビはまるでテーマパークの飾り物のようだ。しかしそれはれっきとしたテレビであって、画面にはオーケストラが立ち並ぶステージが映っている。世界的にも著名なこの国最高峰の楽団、ケーニッヒ交響楽団の定期演奏会の映像だった。
 ワックスで綺麗に撫でつけられた黒髪。長身に燕尾服を纏った貫禄のある指揮者が指揮台へ立つ。凛とした後ろ姿はまさしく枝を掴む鳥のように、鷲鼻をぐるりとステージ上へ巡らせる。
 指揮棒が振り上げられる寸前、ケヴィンは顔の向きを戻した。
 背後で高らかに演奏が始まる。テレビの音量自体は小さく絞られているにもかかわらず、その演奏や人々の体の動き、仕草が頭の中に思い浮かぶ。
「悪い、よく聞こえなかった。お前の黒子が気に食わないから別れてくれ、だったか?」
「人を殺す予定ができたから別れてくれ、です」
 アップルパイがまだ残っていた。溶けたバニラアイスがカスタードや生地に染み込み、絡み合っている。白い液体が流れていく。
 これはとても美味しいアップルパイだ。私はこれが好きだ。
 小学校の教科書にありそうな簡単すぎる文章がケヴィンの頭に浮かんだ。
 最後の一口を手に取る。フォークを右手に持ったまま、左手で取った。
 しかしその一口がケヴィンの口に届くよりずっと前に、テーブルの向こうから別の手が現れ、ケヴィンの左手首を掴んだ。
 指を引っ掛けた、という方が正しいかもしれなかった。ドミトリの手にはほとんど力がこもっていなかった。そのために、ドミトリはほとんど自分の顔を近づけるようにして最後の一口を自分の口に収めた。
「ああ、やっぱりこのお店のケーキは美味しいですね」
 花が散るような笑顔でドミトリが言った。責められるところの全くない子供のような表情で。
「少し歩きませんか」続けてドミトリが言った。「私に聞きたいこともあるでしょうし、私も私で、ずっと聞きたかったことがあるんです」
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