セーニョまで戻れ

四季山河

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03:カンタービレ:歌うように、感情豊かに

21 パラダイスロスト

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 車が停まる音で目が覚めた。
 暗い。柔らかいクッションにうつ伏せで沈んでいる。
 服は着ていた。ベッドに寝ている。此処はケヴィンが借り受けているコテージの寝室だ。
 顔が乾いていた。喉も渇いている。
 車の音は外から聞こえた。重い体を引きずってベッドを降りる——裸足だ。
 リビングには明かりがついていた。黄色がかった光が廊下へ漏れている。
 小気味よいタイピング音が聞こえた。
「起きたか、弟」
 リビングのソファに寛いでいたヒースが言った。膝に乗せたラップトップの画面から視線を上げ、その目がリビングへ一歩踏み込んだばかりのケヴィンを見る。あの堅苦しいスーツ姿ではなく、とうに着替えを済ませて我が家のような格好だった。
 サングラスを外したその目はケヴィンと同じ薄い青をしている。
「もう少し眠っていてもいいんだぞ、弟。薬も抜けきっていないだろ」
「……コーヒーあるか?」
「あるとも」ヒースはテーブルに置いていたマグカップを持ち上げた。そして取手を持った手の人差し指でキッチンを指す。「ちょうどバリアテ産のインスタントパックを余らせていて幸いだった。これさえあればどんな汚染水もそれなりのものになる」
 ケヴィンは兄の言葉を聞き流してキッチンへ向かった。電気ポットに沸騰された水が保温されている。その傍らに個別放送されたコーヒーパックがある。コテージ二つしかないカップの残り一つでケヴィンは自分の為のコーヒーを淹れた。
 いつもの癖で一気に湯を注ぎ込もうとして、カップに被せた抽出パックが溢れそうになる。仕方なく粉を濡らすように円を描いて注いでいく。
「いい別荘だな」背後からヒースの声がした。タイピング音も。
「嫌味か?」
「本心で言っている。お前が好きそうな家だ」
「俺が好きなものは、大概お前の嫌いなものだろ。お兄ちゃん」
「それは違うな」
 カップに十分なコーヒーが溜まり、ケヴィンはパックをゴミ箱へ捨てた。久しく嗅いでいなかった上等な匂いだ。酸味の無い、微かに甘ささえ感じる匂いが漂う。
 リビングのソファへ座る。そうして兄弟は久しぶりに同じテーブルを囲んだ。
「俺は俺の愛する家族を害するものが嫌いだ。そしてお前は、お前の好きなものの為にいつも無茶をする。現に、お前が好きなパイやチョコレートを俺が嫌ったことがあったか? 俺はお前を傷つけるものが嫌いなだけだ」
「何しに来た?」
「弟がいる場所に兄がいるのは当然じゃないか?」ヒースはラップトップを閉じた。テーブルへ置き、そしてもう一度カップを持ち、乾杯するように動かした。「兄弟が同じテーブルを囲み、同じ産地のコーヒーを味わうことに理由がいるか」
「いるだろ?」
 ケヴィンもコーヒーカップを小さく掲げた。そして熱いままのそれを飲む。痺れている舌にはその温度が丁度いい。
「車に轢かれたんだってな」
 と、ヒースはカップの縁に口をつけたまま言った。「それに、見覚えのないアクセサリーをつけているじゃないか」
「イカしてるだろ」
「擦り傷ぐらいならまだ笑って許してやるさ。だが、家族が卑劣な轢き逃げに遭ったっていうのに、その家族に連絡の一つも無いとはどういう了見だ?」
「俺が止めた。交通事故と言ってもほとんど無傷だ。後遺症もなく、数日で目が覚めた」
「ああ……」
 ヒースがカップの底でテーブルを打った。感極まったように目元を抑え、項垂れる。「弟、お前は本当に友情に厚い男だ。兄として、心の底からお前を誇りに思う……」
 ケヴィンはコーヒーを飲もうとした。
 だが、その前にケヴィンは気づいた。
 ヒースがテーブルへ置いたカップのそばに何かを置いた。
 コトン、と軽い音。
 陶器のような白い何か。緩くカーブした形。
 それは折れたカップの取っ手だった。
「お前はそれほどまでに友を想っているのに……友は常にお前を裏切る」
「ヒース」
「お前のことを真に想うなら、ウィンターの小僧は事故の後すぐに俺に連絡すべきだった。家族に任せるべきだった。だがあの男はそうしなかった、俺よりも自分の方がお前の為になることができると考えた——その結果がこれだ。俺が事故を知った時、既に事故から一ヶ月が経過し、犯人がのさばっているかもしれない国でお前は仕事をしている」
 ヒースはまだ項垂れていた。目元を手が抑えている。
 だがその手は、涙を抑えているのではない。
「俺から弟を奪う輩は、いつも……いつも、俺の代わりが自分に務まると信じている」
「ヒース、落ち着け」
「俺は落ち着いている」
 ヒースが顔を上げる。額とこめかみに浮き上がろうとしていたものは、ヒースが自分の指先で皮膚の奥へ送り返したようだ。
 ただ一つ予想外だったことは、ヒースは怒りを完全に制御したが、悲しみを制御しきれなかったことだ。
「ケヴィン、お前の事故を聞いた時……俺がどんな気持ちだったか、わかるか?」
 ケヴィンを見つめるヒースの瞳は濡れていた。
「俺が怒り狂ったと思ったか? ああ、それも間違いじゃない。だが一番は、何も考えられなかった。お前が無事だと聞いても、後遺症がなく既に復帰していると聞いても、俺は何も考えられなかった。怒りも悲しみも、無力感のずっと後にようやくやってきた。怒りも悲しみも活力の足しにしかならなかった。弟を二度も守れなかった兄に、何の意味がある?」
 ヒースは全身が何千本もの針に刺されているかのように、ひどく辛そうに瞼を伏せた。秀麗な眉間に皺を刻み、唇を噛み締める。
「一度目の時は、お前の意思を尊重した。お前があれでいいと言ったから、俺は他でもないお前の考えに従った。お前の指揮棒を我が物顔で振るう恥知らずが、お前が浴びるはずだった喝采を浴びて一礼するのを、黙って見守った。だが今なら分かる。あれは誤った判断だった」
「間違っちゃいない。あいつの技術は本物だ。観客は本物と偽物が分からないほど間抜けじゃないんだ、ヒース」
「だが、観客は二つの本物の優劣までは判別できない」
 ケヴィンは首を振った。この件についてはいくら議論を重ねても無駄だ。過ぎ去ったことにまで責任を追及されるような政治家も犯罪者も何処にもいない。過ぎ去った嵐の後にするべきことは、倒れた稲穂を立て直し、荒らされた土地を耕すことだけだ。
 それが出来なかったから、ケヴィンはシルヴェストスを去った。
「……本当に何をしに来たんだ、ヒース。俺に溜まった文句を言いに来たのか?」
「それもある」
「本題は?」
「お前を家に連れて帰る」
 ケヴィンが分かりやすく顔色を変えた。訝しみ、不審げに、苛立たしそうに、呆れたように。
 その全ての感情と表情をヒースは受け止め、その上で微笑んだ。
「ハハッ」ケヴィンは乾いた笑みを零した。「本気か?」
「弟、俺が本気じゃないことがあったか?」
「無いな。だが逆に、俺がそう言われてすごすご帰ったことがあったか? 兄」
「六年。もう六年も家族揃っての食事一つ出来ていないんだ。父さんも母さんもお前に会いたがっている、勿論バッカスもな」
「そもそも食事ごときで揃うほど暇じゃないだろ。それに俺は毎年カードを送ってる」
「年に一度だけだ。俺たち家族はその一枚の紙切れでお前の無事を信じるほかない」ヒースは膝に両膝をついて身を乗り出した。「そして今、紙切れは紙切れでしかないことが証明された。お前からのグリーティングカードはお前の無事を保証してはくれない」
「それは誰だってそうだ。お前だってこの後轢き逃げに遭うかもしれないし、特に意味もなく暴漢に襲われるかもしれない」
「わかってないな、弟。お前は俺に感謝こそすれ、俺を諌める立場じゃない」
 ヒースは前屈みになって、取っ手の千切れたカップをもう一度手に取った。
「此処にいるのが俺でよかった。お前の事故を一番に知ったのが俺じゃなくバッカスだったらどうなっていたと思う? 間違いなくウィンターの小僧はあのお綺麗な顔とさよならだ、そしてお前は今日目覚めた時、此処じゃなく屋敷のベッドで目覚めることになっていた」
「……いつまでバッカスをこき使う気だ。さっさと引退させて孫と遊ばせろ」
「その孫も執事希望らしいぞ。今年で十七になった。そのうち住み込みで働き出すんじゃないか?」
「アカデミーには行かせろ。決めるのはその後でいい」
「お前が戻って、直接言え」
 ケヴィンは手に持ったカップの黒い水面を見つめた。幼い頃は、多忙だった両親よりも共に過ごした時間の長い老執事の顔を思い出す。そしてその顔はいつも、最後に会った——というよりも、遠目に見つけた立ち姿だ。シルヴェストスを出たあの日、知り合いなどいるはずもない空港にあの老執事は忽然と現れた。
「一人で戻るのが嫌なら、友達と一緒に戻って来ればいいさ」
 ヒースがそう言った。
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