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第5章 本当の気持ち
第20話
しおりを挟むじっと見ていれば、「あらいけない、また早合点」とおでこを一つぱちんと叩いて、女将さんは眉を下げて笑う。
「そうかい、そうかい、私ゃてっきり、菱屋さんを追い出されでもしたのかと……」
その言葉に、思わず息を呑んだ。この女将さんは、まだお梅さんが芹沢さんに貰われることを知らないのだ。今を時めく(?)芹沢さんの妾になるだなんて言ったら、この女将さんは泡を吹いて倒れてしまうのではないだろうか。
そんな事を心配する私をよそに、お梅さんはころころと鈴が鳴る様に声を上げて笑う。
そして、その長い睫毛で縁どられた瞳を、三日月型にゆるめて悪戯っ子の様に笑う。
「実はね、もっともっと素敵な人のところに嫁ぐことになったのよ」
「えっ、……そうなのかい」
女将さんは幸せそうに笑うお梅さんを見て、同じようにその瞳を糸の様に細める。
「誰とは聞かないけども……お梅は、その人の事を慕っているのかい」
「ええ……とても」
そっと頬を染めてそう答えたお梅さんに、女将さんはほっとしたように胸に手をやって笑う。その様子を見て、お梅さんにとってこの人はきっと、お母さんみたいな人なんだろうな、と思った。
そして、女将さんにとっても、お梅さんは我が子の様に大事なのだなという事も。
「で、こちらが……あら、璃桜さん?」
「は、はいっ」
そんな事をぼーっと考えていたら、お梅さんに名前を呼ばれてハッと意識を戻した。呆けていたのが恥ずかしい。慌てて自己紹介をする。
「あ、えと……杉野璃桜です」
ここへ来てからは沖田璃桜と名乗っているのだけれど、何となく、壬生浪士組関係者以外の人には沖田、という名字は伝え辛い。沖田と言えば、沖田総司というのは京中に知れ渡っている。ましてや芹沢さんが焼き討ちをしてしまったばかりに、壬生浪士組の評判は順調に下降中だ。
そんな中でわざわざ沖田と馬鹿正直に伝える事もないだろうな、と思って杉野と言った。別に嘘ついてるわけじゃないしね。
「この娘、椿の間にいるお客様に用事があるらしいの。だから一緒に来たのよ」
「っ」
お梅さんの口から零れ出た言葉に、思わず目を見張る。何も話していないのに、私が新見さんを探している事が、如何して分かるのだろう。
「最近よく椿の間にいるでしょ、あのお客様たち。いつも裏口から入ってるわよね」
女将さんに向かってそう言い、にこっと笑ったお梅さんのいつも通りのその笑みに、少しだけ鳥肌が立つ。この人、実はすごく頭が良いんじゃ……。
「そうでしたか、それではご案内致しましょうか?」
「あ、あの……、」
こっそり追いかけて来ただなんて、口が裂けても言えない状況に、背中に汗が伝う。暑さ故のものなのか、それとも冷や汗かは分からない。焦る私に、お梅さんは首を傾げる。
「あら、璃桜さんは新見さんにご用事があったのじゃないの?」
「あ、えっと、……実は」
お梅さんー!気づいてー!
と心の中で念じながら言葉を濁す。けれど、お梅さんはくすりと笑うばかりで気が付いてくれなかった。はっきりしない私に、ついに女将さんが私の腕を掴む。
「杉野様? でしたっけ、さぁ、椿の間はこちらです」
そう言ってぐいぐいと強い力で私の事を引っ張る。目線でお梅さんに助けを求めたけれど、くすくすと笑うばかりで全く助け舟を出す様子もない。
結局、私の足が止まったのは、「椿の間」と木札に丁寧な文字で書かれた板張りの廊下の上だった。
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