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地獄、極まれり

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「しばらくはこのあたりのホテルで立て篭もることになるからよ、お前も食いもんできるだけ確保しとけよ。ほれ、これに入れな」

 大きめの空のリュックを放り投げられ、私は動揺と恐怖でまだ何も言えずに立ち尽くしていた。棚の前にしゃがんでカップ麺やらレトルト食品やらを鞄に詰めていた兄は、視線だけ動かして私を一瞥すると、ため息をついて言う。

「さっさと動けよ、ここ出てぼーっとしてたら噛みつかれて即お陀仏だぞ。まぁ俺がついてるからよっぽど大丈夫だが、お前も用心するに越したことはねぇ。あー……お前何が好きだ?味噌……よりシーフードだったよな。まぁ味覚も変わるか、5年も経ってるしな」
「あ、あの……何でここがわかったの?」

 何もかも意味のわからないことが多すぎて、私はそんなことを兄に聞いた。陳腐な質問この上ないといった顔で、兄は心底面倒くさそうに目を細める。

「……それ、今聞くことか?」
「いや……あ、不思議に思っただけ」

 兄を見るだけでも心臓が嫌な音を立てる上に、何年も話していないからどんな風に話しかければいいか分からない。挙動不審な私をじっと見つめながら、兄はバッグを背負って立ち上がった。

「今朝、近所のじいさんばあさんにお前の行き先聞いて回ったんだよ。あとはお前のこと知ってる友達にも聞いた。お袋も親父も教えてくれるとは思えねぇからな。大学名とバイト先聞いて、こっちのが近いもんで先にこっち来た。お前のバイト先コンビニでよかったわ、非常食を仕入れる手間が省けた」
「えっ……今朝って、まだ」

 兄の言うことに納得しかけたが、少しおかしい。ニュースを見るに最初の感染者が出たのは昼前くらいみたいだし、なぜ朝一番にあのメッセージを送って、私を探そうとしていたのか。まるでウイルスが蔓延するのを、もっと前から知ってたみたいな。
 私の疑問を言わずとも察したらしい、兄は何でもないことのように言った。

「あぁ……所属を明かすのは規律違反だが……まぁいいか、上もじきに機能しなくなんだろ。俺な、対テロの特殊部隊なんだよ。今朝早くにバイオテロの情報が入ってきて、この感染力から見るにもう手遅れだ、感染者は人口の8割超え、国の中枢ももう機能してない。」

 兄の口から飛び出したのは映画か何かで見たような展開とスケールの大きさの話で、私はしばらく鈍い反応しか返せなかった。バイオテロ?特殊部隊?
 混乱しつつも、確かによく見ると、兄が着ている服も装備も特殊だった、警察官になったとは聞いていたが、普通の警官の装備ではない。厚手のスーツの上に防弾ベストらしきものを纏い、腰には弾薬なのか閃光弾なのか、何かが入ったポーチと救急セットをさげている。そして一番目を引いたのがアサルトライフルだ。映画でしか見たことのないずっしりとした重みのあるそれをベルトで固定して胸の辺りに提げていた。

「じゃあ行くか。お前は前を歩け、絶対俺から離れんなよ。道は教える、俺が言った通りに歩け、いいな」

 訳のわからないままとりあえずの食べ物を言われるがままに詰め、私がリュックを背負うと兄はそう言って、ドアを押し開けた。宵闇に染まった外は、いつの間にか遠くに煙が上がっているのが見え、サイレンに悲鳴と怒号が混ざり合い、地獄絵図と化していた。




 近くのビジネスホテルの一室に駆け込み、私は極度の恐怖と緊張からようやく解放され、腰が抜けてしまった。ベッドに座り込んでいる横で、兄は特に動揺している風でもなく、床に自動小銃と弾薬、サバイバルナイフを並べて武器の手入れをしていた。

 外はまさに地獄だった。生者を求めてさまよう感染者のいかに多いことか。だが、それ以上に恐ろしかったのは兄の落ち着きっぷりだった。コンビニから目当てのビジネスホテルまでのルートを分析して、どの道が人目につきにくいかを調べ、かつ感染者とかち合った時に袋小路に入ったり挟み撃ちにされたりしないような道を選んで経路を割り出していく。外に出てからも、襲いかかってくる感染者への対処は異常に冷静で、つい先程まで私たちと同じ生きた人間だったと言うのに、接近される前にライフルで頭部を射撃していた。
 兄のことは怖いし嫌悪が混ざって仕方なかったが、この世でこれ以上頼りになる存在も私は知らなかった。私は結局兄のそばを離れることなどできないまま、ホテルへと駆け込んだ。

 ラジオで近況を確認しながら、淡々と作業する兄に、私は恐る恐る声をかける。スマートフォンを握りしめているが、母や父からの応答がないのが気になった。

「……お兄ちゃんのところにも、お母さんとお父さんからは、連絡きてない?返事が、返ってこなくて……。」

 兄の手がぴたりと止まり、じっとりした視線が私を射抜く。しまった、機嫌を損ねたかもしれない。そう思って呼吸が浅くなり、冷や汗が吹き出すが、兄は思いの外淡々と言った。

「来てないね。けどまぁ、もう駄目だろうな。俺たちがこうして生きてること自体、かなり奇跡的なことだぜ?多分、お前が思ってるより今のこの世の中な、危機的状況だ。生存者は2割を切ってる、首相官邸も応答なし、警察も医療も一切機能を失ったみてぇだ。人の心配より自分の心配した方がいいぜ。」

 あんまりにも温度のない兄の言葉に、私は言葉も出てこず、押し黙った。私のせいでぎくしゃくしたとはいえ、実の両親だ。少しの情くらいは残っていると思っていたが、兄の目には不安も悲しみも憐憫のひとかけらすら見当たらなかった。非難めいた視線を感じたのか、兄は整った顔を歪めて喉の奥で笑う。
 
「悪いが、警官だからって国を守りたいとか、んな殊勝な気持ちも使命感も持ち合わせてないもんでね。何しろ厄介払いされて警官になっただけだしな。まぁ……こうして有事にお前を守れて、俺だけのもんにできたことを考えると、今はこの状況に感謝しかないが」

 兄が、ゆっくりとベッドに乗り上げ、私の肩をぐっと押す。怯えたところで抵抗することもできなくて、私はいとも簡単に仰向けになった。兄の肩越しに天井が見える。

「そんなに怖がるなよ……。お前、俺と再会してから怯えた顔ばっかしやがって。……あのな、別にお前のことを恨んだりなんてしてないぜ?お袋に言いつけたから怒ってるだとか、そんなことも一切ない。あれは俺の落ち度だ、お前が不安になって周りに打ち明けることを予測できなかった俺の。どうせ友達の話を聞いて周りと違うことをしてるから不安になってきたってとこだろう。もっと俺に依存させて、外界からの情報も遮断しておくべきだった。」

 兄の大きな手のひらが、服の中に入り込む。見下ろす瞳は暗く澱んで、歪んだ愛情と独占欲に満ちていた。

「だが、これでもう邪魔する奴はいない。何しろお前をいくら犯しても、裁く司法もクソもねぇ。それに……お前は俺から離れたりしたら、途端にゾンビの群れに食われちまう。そんなの嫌だろ?――お前はな、もう俺を受け入れるしかないんだよ。」

 頭では拒否したいと思っているのに、身体が動かない。そう、兄の言うことの方が正しいんだと、私は心のどこかで認めてしまっていた。
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