東京は、君の温度を知らない

nishi

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第一章:上京ガールの体温と東京の温度差

小春の視点:東京への期待と現実とのギャップ

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足元から、いや、地面そのものから揺さぶられるような感覚。まるで意思を持った濁流だ。絶え間なく押し寄せ、砕ける波のように、人々が私を掠めていく。人の流れに逆らえば、たちまち飲み込まれてしまいそうになる。改札を抜けた先、そこは新宿駅という名の巨大な迷宮だった。故郷の、二両編成のディーゼルカーが日に数本、ごとごとと音を立てて停まるだけの、あの空が広いのどかな駅とは、何もかもが違う。ここは、情報と欲望と無関心が飽和して渦巻く、コンクリートとアスファルトの海だ。天井から吊るされた無数の案内表示はどれも似て見え、壁一面に流れるデジタルサイネージの広告は次々と切り替わり、視線を落ち着ける暇もない。何本もの路線を示す複雑な色分けと出口の多さに、地図アプリを開いても現在地を見失いそうになる。どこへ向かえばいいのか、一瞬、呼吸の仕方も忘れてしまうほど、私は人の流れから少し外れた柱の陰で、ただ立ち尽くしていた。
行き交う人々は皆、驚くほど速足で、その表情は能面のようだった。硬質なアスファルトを叩くハイヒールの音、高級そうな革靴の規則正しいリズム、誰かのイヤホンから漏れるシャカシャカという音。誰もが明確な目的を持っているようで、私のような、戸惑い立ち止まっている人間は、流れを妨げる邪魔な石ころでしかないかのよう。時折乱暴にぶつかる肩、小さな舌打ち混じりの「すみません」。謝罪の言葉にすら、温度は感じられない。皆、自分の進むべきレールの上だけを見て、あるいはスマートフォンの画面に視線を落としたまま、前へ前へと急いでいる。まるで、巨大な精密機械の一部になったみたいだ。冷たくて、正確で、滑らかに動くけれど、どこか人間味の欠けた、ひどく孤独な部品。時折、道端で香る焼き鳥やラーメンの匂いに、ふと空腹を思い出すけれど、その匂いすら排気ガスの匂いにかき消されていく。
上京する前、私が胸に抱いていた東京は、もっとずっと人間味のある、温かい光に満ちた場所だったはずだ。何度も繰り返し読んだファッション雑誌には、「東京で見つける、新しい私」なんていう、甘い言葉の特集が組まれていた。キラキラした笑顔のモデルたちが、見たこともないようなお洒落な服を着て歩く表参道、緑豊かなテラス席で優雅にブランチを楽しむ代官山。週末には、少し足を延ばせば箱根の温泉や湘南の海にも行ける、アクティブなライフスタイル。ドラマの中では、平凡なヒロインが、偶然の出会いからエリートな彼と素敵な恋に落ちたり、持ち前の明るさと頑張りで仕事で大きな成功を掴んだりしていた。「きっとそこに行けば、何もなかった私の日常が、色鮮やかに変わるはずだ」「私も、何か特別な物語の主人公になれるかもしれない」。そんな、淡い、けれど抗いがたい期待と、ほんの少しの野心を、古びたスーツケースいっぱいに詰め込んで、私はこの街にやってきたのだ。実家の、代わり映えしない風景から抜け出したかった。もっと広い世界が見たかった。
けれど、現実はドラマのようには、雑誌のようには、キラキラしていなかった。まず、最初の、そして最大の洗礼は、毎朝の通勤ラッシュ。ニュース映像では見ていたけれど、実際に体験するそれは想像を絶していた。故郷では満員電車なんて言葉すら存在しなかったのに。ドア付近に押し込められ、背後からも側面からも容赦なく人の圧力がかかる。息が詰まり、肋骨がきしむような感覚。知らない誰かの汗の匂い、柔軟剤の香り、昨夜のアルコールの残り香、甘すぎる香水の香り、湿った呼気が混じり合い、むっとするような空気が澱む。ぎゅうぎゅう詰めの車内で、私は必死に吊革を握りしめ、足を踏まれないように、必死で守っている通勤カバンを潰されないように、ただただ耐える。爪先立ちになり、少しでも空間を確保しようと無駄な努力をする。時折、急ブレーキでよろけて誰かにもたれかかってしまい、睨まれることもあった。息苦しさに眩暈を覚えながら、「ここで倒れたらどうなるんだろう」「誰か助けてくれるのかな」なんて、不吉なことを考えてしまう。車窓から見えるのは、どこまで行っても続く、灰色にくすんだビル群ばかり。ドラマで見た、朝日を浴びて颯爽とオフィス街を歩く、あの輝かしい自分の姿は、想像の中にすら、もう見つけられなくなっていた。電車を降りた時には、化粧は崩れかけ、髪も乱れ、もうすでに一仕事終えたような疲労感が、鉛のように肩にのしかかる。
やっとの思いで見つけたアパートは、「都心へのアクセス良好」「デザイナーズ風」という謳い文句とは裏腹に、駅から商店街を抜けてさらに十分ほど歩いた、日当たりの悪い路地に立つ古い建物の一室だった。不動産屋で提示された家賃と、礼金、敷金、仲介手数料といった初期費用の合計額には、本当に目眩がした。母がこっそり持たせてくれた貯金をほとんど使い果たしてしまった。ワンルーム、六畳一間。クローゼットは小さく、備え付けのキッチンはコンロが一口しかない。窓を開けても、すぐ目の前は隣のアパートの壁で、手を伸ばせば届きそうな距離だ。太陽の光が直接部屋に差し込む時間は、一日のうちでほんのわずか。それでも、「ここが、私の東京での城なんだ。私の新しい生活の始まりなんだ」と自分に言い聞かせると、少しだけ胸が温かくなるような気がした。引っ越しの段ボールがようやく全て片付き、最低限の家具――通販で買った安いマットレスと、折り畳みの小さなテーブル、ホームセンターで揃えたカラーボックスを配置すると、殺風景ながらも、ようやく人心地がついた。けれど、夜になると、この街の本当の音が聞こえてくる。壁の薄さを実感させる隣の部屋のテレビの音や話し声。遠くで、そして時にはすぐ近くで鳴り響く救急車やパトカーのサイレン。週末の夜には、アパートの前で酔っ払いが騒ぐ声。故郷の、カエルの合唱と虫の声だけが響く、あの穏やかで深い静寂が、無性に恋しくなる瞬間だった。予算を切り詰めるため、大好きだったカフェ巡りや外食も諦めた。ランチは手作りのお弁当か、安いコンビニのおにぎり。夕食は、小さなキッチンで簡単な自炊をするか、スーパーの見切り品。雑誌で切り抜いてファイルしていた「東京の美味しいお店リスト」「憧れブランドの新作リスト」は、今の私にとっては、ただの虚しい紙切れに過ぎなかった。ショーウィンドウに飾られた綺麗な洋服やバッグを、ただため息混じりに眺めるだけ。
入社したのは、中堅の広告代理店。新しい環境、新しい仕事。期待と不安がぐるぐると胸の中で渦巻く中、私の社会人生活は始まった。電話応対、コピー取り、会議室の準備、資料作成の補助。任されるのは、まだ誰にでもできるような簡単な業務ばかりだけれど、それでも毎日が緊張の連続だ。電話の相手の声が早口で聞き取れなくて何度も聞き返してしまったり、敬語の使い方を間違えて先輩にこっそり注意されたり、頼まれた資料の意図を汲み取れず見当違いなものを作ってしまったり。そのたびに、心臓がどきりと音を立てて縮み上がり、顔から血の気が引くのを感じる。先輩たちは皆、私よりずっと若くても、テキパキと仕事をこなし、業界用語を使いこなし、スマートに見えた。忙しそうで、どこか私との間に見えない壁があるように感じられた。「何か分からないことがあったら、いつでも聞いてね」と笑顔で言ってくれる、面倒見の良さそうな女性の先輩もいるけれど、その目が「こんなことも分からないの?」「自分で少しは考えなさいよ」と語っているように思えて、なかなか気軽に質問する勇気が出ない。ミーティングでは、飛び交う専門用語やアルファベットの略語が理解できず、話についていけず、ただ愛想笑いを浮かべて頷いているだけになってしまうこともあった。早く一人前になりたい、会社の役に立ちたい、認めてもらいたい。焦る気持ちばかりが空回りして、自分の不甲斐なさに落ち込む夜も少なくない。時折聞こえてくる同僚たちの噂話や、派閥のようなものにも、まだ馴染めずにいる。
それでも、私はここで負けるわけにはいかなかった。逃げ出すわけにはいかなかった。「東京で、自分の力を試したいんだ。もっと成長したい」。そう言って、駅のホームで「体に気をつけるのよ」と涙ぐむ母と、「まあ、お前が決めたことなら」と少し寂しそうに、でも黙って背中を押してくれた父、そして「寂しくなるけど、いつでも応援してるからな! 夏休みには遊びに行くぞ!」と力いっぱい手を振ってくれた地元の親友たちに、誓ってきたのだ。あの時の、みんなの顔を思い出すと、胸が熱くなる。落ち込むことがあっても、冷蔵庫にマグネットで貼った、実家で飼っている柴犬のふうちゃんの、気の抜けたような愛らしい写真を見て、「ふうちゃん、見ててよね! 私、ここでちゃんと踏ん張るから! かっこいい大人になるんだから!」と、誰もいない部屋で、心の中で(時々、声に出して)話しかける。持ち前の、少し能天気なくらいの明るさと、「なんとかなる! きっとなる!」という根拠のない楽観主義だけが、今の私の唯一にして最大の武器だ。我ながら、単純で、打たれ弱い豆腐メンタルだと思う。でも、そうでもしなければ、この巨大で、華やかで、でも時々ひどく冷たく感じる街のプレッシャーと温度に、私はとっくに押し潰されて、凍えてしまっていたかもしれない。たまに見つける、路地裏の小さな花壇の花や、公園で昼寝している猫の姿に、ほんの少しだけ心が和む。そういう小さな「温かいもの」を見つけるのが、少しだけ得意になってきたかもしれない。
週に一度、母から決まって電話がかかってくる。「もしもし、小春? 元気?」「ちゃんとご飯食べてるの? 野菜も食べなさいよ」「変な人に声かけられたりしてないでしょうね? 戸締りはちゃんとしてる?」「無理しちゃダメよ、疲れたらいつでも帰っておいでね」。その、少し心配性で、でも変わらない、太陽みたいに温かい声を聞くと、不意に、堪えていたものが込み上げてきて、堰を切ったように涙がこぼれそうになる。「……うん、元気だよ! 大丈夫! ご飯もちゃんと食べてるし、会社の先輩もみんな親切だし、毎日すごく充実してるから!」。心配かけたくなくて、喉の奥につっかえた塊を飲み込み、いつもより少しだけ高い、わざとらしいくらいに明るい声を作る。本当は、慣れない仕事で今日も小さなミスをして落ち込んでいること、時々、自分がこの街で完全に一人ぼっちなんじゃないかと怖くなること、そんな弱音は、絶対に、絶対に言えない。「そっか、元気なら良かったわ。でも、本当に無理はしないでね。いつでも、あなたの帰る場所はあるんだからね」その優しい言葉が、嬉しいと同時に、甘えてしまいそうになる自分を戒めるように、胸に重く響く。電話を切った後、狭い部屋に一人になると、さっきまで無理に纏っていた元気な自分の仮面が、音を立てて剥がれ落ちて、深い静寂と、どうしようもない孤独感が、冷たい水のように、じわりと足元から私を包み込むのだった。駅からの帰り道で見かける、楽しそうに腕を組んで歩くカップル。カフェの窓から見える、気の置けない仲間たちと笑い合う同世代のグループ。SNSのタイムラインを流れていく、地元の友達の結婚報告や、子供の写真。そのどれもが、今の私には遠い、眩しい世界の出来事のように感じられた。私は、何を手に入れたくて、ここに来たんだっけ?
これが、私の「憧れの東京」での、リアルな始まり。期待と不安、憧れと現実。きらめく摩天楼の光と、その下にどこまでも広がる無数の影。理想と現実の大きなギャップの中で、私は少しずつ、この巨大な都市の本当の「温度」というものを、この肌で、心で、感じ始めていた。それは、まだ、私の内側にある小さな体温よりもずっと低くて、冷たくて、戸惑うことばかりだけれど。それでも、私はここで生きていくのだ。いつか、この街の温度を、少しでも温かいと感じられる日が来るように。そう、強く、何度も、自分に言い聞かせながら。
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