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第一章:上京ガールの体温と東京の温度差
初期の関係性:すれ違いと距離感
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鳩屋フーズとネクストリームの共同プロジェクトは、正式にキックオフミーティングを終え、具体的な作業フェーズへと移行した。そして、小春にとっては悪夢のような、しかし逃れられない現実として、彼女が鳩屋側の窓口担当の一人、それも主にネクストリーム社との連絡調整や資料授受を担当するという役割が本格的に始まったのだ。「佐伯君、結城社長は若いがキレ者だ。失礼のないよう、しっかり頼むぞ。君の成長にも繋がるはずだ」。上司からの、期待という名の重圧がかかった激励の言葉が、ずしりと肩にのしかかる。嬉しいというより、正直、胃が痛くなるようなプレッシャーだった。あの、氷のように冷たくて、全てを見透かすような目をした結城さんと、これから頻繁に、直接やり取りをすることになるなんて。考えただけで、手のひらにじっとりと汗が滲んだ。
週に一度、あるいはプロジェクトの進行状況によってはそれ以上の頻度で、定例ミーティングが開催された。場所は、最新設備が整ったネクストリーム社の会議室か、歴史を感じさせる重厚な鳩屋フーズの本社会議室、時にはそれぞれの自席から参加するオンライン形式で。もちろん、社長である結城が毎回顔を出すわけではなかった。彼の時間は、このプロジェクトだけに割かれるわけではない。しかし、重要なマイルストーンの確認や、戦略的な意思決定が必要な局面、あるいはプロジェクトの進捗に遅延や問題が生じた際には、彼は必ずと言っていいほど、まるで最終兵器のように姿を現した。その度に、小春の心臓は、持ち主の意思とは無関係に早鐘を打ち、背筋には冷たいものが流れ落ちるのを感じずにはいられなかった。彼の存在感は、モニター越しであっても、少しも薄まることはなかった。
(小春 視点) 結城さんと直接言葉を交わすのは、何度経験しても、まるで初めての時と同じように、いや、回数を重ねるごとに、むしろ緊張感が増していくような気さえした。彼はいつも完璧で、一切の隙を見せない。私が何か質問をしようものなら、その内容がどんなに些細なものであっても、彼は一瞬、値踏みするかのように私を見つめ、それから、あまりにも端的で、論理的で、そして一切の感情の起伏を感じさせない、まるでプログラムされたAIスピーカーが模範解答を読み上げているかのような声で答えるのだ。言葉の端々には、こちらの理解力の低さや、質問の意図の曖昧さを、暗に、しかし的確に指摘されているような、そんな見えないプレッシャーが常に伴っていた。世間話なんて、とてもじゃないけれど切り出せるような雰囲気ではない。空気が、凍りついているみたいだから。
一度、どうしても確認しなければならない事項があり、ミーティング後に勇気を振り絞って彼に直接声をかけたことがある。事前に何度も頭の中でシミュレーションし、失礼のないように、かつ簡潔に要件を伝えられるように準備したつもりだった。 「あの、結城社長、先ほどの件で一点だけ、確認させていただきたいのですが……」 彼は、ネクストリーム社の担当役員と何か難しい顔で話し込んでいたが、私の声に気づくと、ゆっくりとこちらを向いた。その無表情な顔と、感情の色を一切映さない瞳に射抜かれて、用意していた言葉が喉の奥に引っかかって出てこない。 「……何かな? 手短に頼む」 促され、慌てて本題を切り出す。鳩屋側の社内システムに関する、非常に細かい、しかし重要な制約事項についてだった。彼は私の話を黙って聞いていたが、最後まで聞き終えると、ふう、と小さく、しかし明らかに面倒くさそうなため息を一つ漏らし、隣にいた役員に顎で示した。 「その件は、担当の彼に聞いてくれ。私に聞くレベルの話ではないだろう」 それだけ言うと、彼は私に背を向け、再び役員との話に戻ってしまった。残されたのは、呆然と立ち尽くす私と、「後でメールで詳細をいただけますか?」と事務的に私に声をかける役員だけ。彼の言うことは、正論なのかもしれない。社長に直接聞くべき内容ではなかったのかもしれない。でも、あの、まるで邪魔者を見るかのような冷たい視線と、切り捨てるような口調は、確実に私の心を抉った。彼の周りには、いつもモデルみたいに綺麗な女性秘書さんや、いかにも「デキる」雰囲気の、彼と対等に渡り合えるようなビジネスパーソンたちが、完璧な笑顔で控えている。私みたいな、田舎から出てきたばかりで、要領も悪く、気の利いたことも言えない人間なんて、きっと彼の視界のノイズでしかなく、彼が貴重な時間と意識を割くに値しない存在なんだろうな。そう思うと、胸の奥が鉛を飲み込んだように重くなり、自分が場違いで、無力で、惨めな存在であることを、改めて思い知らされる気がした。彼にとって、私は名前と顔が一致しているかどうかすら怪しい、「取引先の連絡係」で、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。その事実が、ひどく、冷たく突き刺さった。
(結城 視点) 佐伯 小春。プロジェクトが始まって数週間、彼女の名前と顔は、さすがに結城の記憶にもインプットされていた。良くも悪くも、だ。当初抱いた「面倒事が増えなければいいが」という予感は、残念ながら、日々、確信へと変わりつつあった。彼にとって、彼女は、あらゆる意味で「非効率」の塊に見えた。 まず、思考が直線的すぎる。思ったことが、すぐに顔に出る。それは、ある種の正直さとも言えるのかもしれないが、ビジネスの、特に彼のようなハイレベルな交渉や戦略が求められる場においては、致命的な欠点となり得る。建前や、腹の探り合い、ポーカーフェイスといった、社会で生き抜くための基本的なスキルが、彼女には著しく欠如しているように見えた。 そして、質問が多い。それも、他の経験豊富なメンバーなら暗黙の了解で処理するか、少し考えれば自己解決できるような、初歩的な、あるいは本質からずれた内容であることが少なくない。「あの、すみません、基本的なことで恐縮なのですが、このKPIというのは……?」「先ほどの〇〇という機能についてですが、これは△△という認識で合っていますでしょうか?」彼女が純粋な疑問としてそれを口にしていることは理解できる。だが、そのたびに議論の流れは中断され、結城や他のメンバーは、彼女のレベルに合わせた説明を強いられることになる。それが、結城にとっては、耐え難いほどの時間の無駄であり、プロジェクト全体の進行を遅らせる要因であり、正直、苛立ちの原因となっていた。
ある日の技術的な仕様に関するミーティングでのこと。ネクストリーム社のエンジニアが、最新のクラウド技術を前提とした、効率的でスケーラブルなアーキテクチャを説明していた。他のメンバーが感心したように頷く中、彼女が、またしても恐る恐る、しかし真っ直ぐな目で手を挙げた。 「あの、すみません。すごく画期的な仕組みだと思うのですが、鳩屋の、特に地方の営業拠点では、まだインターネット環境が不安定なところもあって……。オフラインでも最低限の業務ができるような考慮は、されているのでしょうか?」 それは、鳩屋フーズという老舗企業の、特に現場の実情を踏まえた、ある意味で的を射た質問ではあった。しかし、結城が進めようとしている、最新技術を前提とした、スマートで効率的なシステム構想とは、根本的に相容れない、過去に引き戻すような指摘だった。会議室の空気が、一瞬、白けたように感じられた。 結城は、内心の苛立ちを、完璧なポーカーフェイスの下に隠しながら、冷ややかに答えた。 「佐伯さん。我々が今、構築しようとしているのは、未来を見据えたシステムです。レガシーな環境に引きずられていては、本末転倒だ。インフラの問題は、別途、鳩屋フーズ様側で解決していただくべき課題でしょう」 彼の声には、反論を許さない、絶対的な響きがあった。彼女は一瞬、怯んだような表情を見せ、何か言いかけたが、隣に座っていた鳩屋の上司に目で制され、結局、押し黙ってしまった。俯いた彼女の耳が、わずかに赤くなっているのが見えた。 「(やはり、面倒だ。視野が狭すぎる。木を見て森を見ず、とはこのことか)」 結城は内心で毒づいた。足元の石ころばかり気にしていては、目的地には辿り着けない。だが同時に、ほんのわずかながら、彼の計算を狂わせる彼女の「異物」としての存在に、面白さを感じ始めている自分にも、薄々気づいていた。彼の周りにいる人間は、皆、彼の意図を先読みし、彼の望むであろう答えを反響させるだけのイエスマンか、あるいは、最初から彼に異を唱えることなど諦めている者ばかりだ。だが、彼女は違う。まるで、地雷原を、その危険性を知らずに、無邪気に歩いていく子供のように、彼の計画や思考の、想定外のウィークポイントを、時として突いてくるのだ。その「計算外」の要素が、彼の完璧に構築された、しかしどこか停滞していた世界に、予期せぬ、微細な波紋を投げかけているのかもしれない。それは、苛立ちと、ほんの少しの、認めたくはないが、退屈しのぎになるかもしれないという歪んだ期待が入り混じった感情だった。
また別の日。珍しく二人きりで、ネクストリーム社の高層階にある、ガラス張りのエレベーターに乗り合わせたことがあった。夕暮れ時で、窓の外には、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がり始めていた。普通なら、ロマンチックな雰囲気にでもなりそうなものだが、箱の中には、重く、気まずい沈黙だけが支配していた。小春は、夜景に目を向けるでもなく、床の一点を、まるでそこに何か大切なものでも落ちているかのように、じっと見つめていた。 「……何か、面白いことでもありましたか。床に」 沈黙に耐えかねたというよりは、彼女のその挙動不審な様子に、つい、意地の悪い言葉が出てしまった。 小春は、文字通り、びくりと肩を大きく揺らし、慌てて顔を上げた。 「えっ!? あっ、いえ! め、滅相もございません! あの、その、夜景が綺麗だなあって、ちょっと思って……」 明らかに動揺し、しどろもどろになりながら、彼女は取り繕うように言った。そして、ふにゃりと、力の抜けたような、困ったような笑顔を見せた。その笑顔は、彼が知っているどんな女性が見せる笑顔とも違っていた。計算も、媚びも、誘惑も、何もない。ただ、困惑と、わずかな怯えと、そして根本的な人の好さのようなものが、不器用に混ざり合った、奇妙な表情。 「そうですか。毎日見ていると、飽きますよ。ただの、電気の無駄遣いだ」 結城は、吐き捨てるように言った。彼女の、あまりにも素直すぎる反応、そしておそらく本心から綺麗だと思っているであろうその感性に、彼のシニカルな部分が刺激されたのだ。美しいもの、感動的なもの、そういう非合理的な感情は、ビジネスにおいてはノイズでしかない、と彼は信じていた。 「……え」 小春は、信じられないというように、小さく息をのんだ。そして、まるで何かとても大切なものを否定されたかのように、少し寂しそうな、傷ついたような表情で、再び俯いてしまった。 「(しまった、少し言い過ぎたか? いや、事実だ)」 結城は、一瞬だけ後悔に近い感情を覚えたが、すぐにそれを打ち消した。甘やかしてどうする。ここは、そういう感傷が通用する世界ではないのだ。 エレベーターが目的の階に到着し、重いドアが開く。小春は、「お、お先に失礼しますっ!」と、蚊の鳴くような声で言い、まるで何かから逃げるように、足早にエレベーターを降りていった。その後ろ姿は、ひどく小さく、頼りなく見えた。その姿を見送りながら、結城は、自分が普段棲んでいる世界とは全く違う生態系に属する生き物を観察しているような、奇妙な違和感と、ほんの少しの、しかし無視できない罪悪感のようなもの、そして、やはり、彼女に対する理解不能という名の苛立ちが、ないまぜになった複雑な感情を、エレベーターの無機質な壁に映る自分の顔の中に見出していた。
二人の間には、見えない、しかし確実に存在する、深くて広い溝があった。生まれ育った環境、経験してきた人生、拠り所とする価値観、コミュニケーションのスタイル、生きている世界の階層。そのあまりにも大きな隔たりが、会話のテンポを微妙にずらし、互いの真意を屈折させ、意図しないすれ違いを生んでいく。結城の、計算され尽くした合理性と、感情を排した冷たさに戸惑い、翻弄され、時に深く傷つく小春。小春の、非効率なまでの純粋さと、ビジネスの常識から外れた真っ直ぐさに苛立ち、ペースを乱され、時として無意識に攻撃的になってしまう結城。この時点では、まだ互いに特別な感情、ましてや恋愛感情など、一片たりとも抱いていない。ただ、理解できない、相容れない相手に対する、戸惑いと、反発と、埋めようのない距離を感じるだけ。それだけのはずだった。東京の、華やかで、しかしどこまでもドライな空の下で、二つの異なる軌道は、まだ交わる気配すら見せず、どこまでも平行線を辿っているように、誰の目にも見えた。おそらく、本人たちでさえも。
週に一度、あるいはプロジェクトの進行状況によってはそれ以上の頻度で、定例ミーティングが開催された。場所は、最新設備が整ったネクストリーム社の会議室か、歴史を感じさせる重厚な鳩屋フーズの本社会議室、時にはそれぞれの自席から参加するオンライン形式で。もちろん、社長である結城が毎回顔を出すわけではなかった。彼の時間は、このプロジェクトだけに割かれるわけではない。しかし、重要なマイルストーンの確認や、戦略的な意思決定が必要な局面、あるいはプロジェクトの進捗に遅延や問題が生じた際には、彼は必ずと言っていいほど、まるで最終兵器のように姿を現した。その度に、小春の心臓は、持ち主の意思とは無関係に早鐘を打ち、背筋には冷たいものが流れ落ちるのを感じずにはいられなかった。彼の存在感は、モニター越しであっても、少しも薄まることはなかった。
(小春 視点) 結城さんと直接言葉を交わすのは、何度経験しても、まるで初めての時と同じように、いや、回数を重ねるごとに、むしろ緊張感が増していくような気さえした。彼はいつも完璧で、一切の隙を見せない。私が何か質問をしようものなら、その内容がどんなに些細なものであっても、彼は一瞬、値踏みするかのように私を見つめ、それから、あまりにも端的で、論理的で、そして一切の感情の起伏を感じさせない、まるでプログラムされたAIスピーカーが模範解答を読み上げているかのような声で答えるのだ。言葉の端々には、こちらの理解力の低さや、質問の意図の曖昧さを、暗に、しかし的確に指摘されているような、そんな見えないプレッシャーが常に伴っていた。世間話なんて、とてもじゃないけれど切り出せるような雰囲気ではない。空気が、凍りついているみたいだから。
一度、どうしても確認しなければならない事項があり、ミーティング後に勇気を振り絞って彼に直接声をかけたことがある。事前に何度も頭の中でシミュレーションし、失礼のないように、かつ簡潔に要件を伝えられるように準備したつもりだった。 「あの、結城社長、先ほどの件で一点だけ、確認させていただきたいのですが……」 彼は、ネクストリーム社の担当役員と何か難しい顔で話し込んでいたが、私の声に気づくと、ゆっくりとこちらを向いた。その無表情な顔と、感情の色を一切映さない瞳に射抜かれて、用意していた言葉が喉の奥に引っかかって出てこない。 「……何かな? 手短に頼む」 促され、慌てて本題を切り出す。鳩屋側の社内システムに関する、非常に細かい、しかし重要な制約事項についてだった。彼は私の話を黙って聞いていたが、最後まで聞き終えると、ふう、と小さく、しかし明らかに面倒くさそうなため息を一つ漏らし、隣にいた役員に顎で示した。 「その件は、担当の彼に聞いてくれ。私に聞くレベルの話ではないだろう」 それだけ言うと、彼は私に背を向け、再び役員との話に戻ってしまった。残されたのは、呆然と立ち尽くす私と、「後でメールで詳細をいただけますか?」と事務的に私に声をかける役員だけ。彼の言うことは、正論なのかもしれない。社長に直接聞くべき内容ではなかったのかもしれない。でも、あの、まるで邪魔者を見るかのような冷たい視線と、切り捨てるような口調は、確実に私の心を抉った。彼の周りには、いつもモデルみたいに綺麗な女性秘書さんや、いかにも「デキる」雰囲気の、彼と対等に渡り合えるようなビジネスパーソンたちが、完璧な笑顔で控えている。私みたいな、田舎から出てきたばかりで、要領も悪く、気の利いたことも言えない人間なんて、きっと彼の視界のノイズでしかなく、彼が貴重な時間と意識を割くに値しない存在なんだろうな。そう思うと、胸の奥が鉛を飲み込んだように重くなり、自分が場違いで、無力で、惨めな存在であることを、改めて思い知らされる気がした。彼にとって、私は名前と顔が一致しているかどうかすら怪しい、「取引先の連絡係」で、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。その事実が、ひどく、冷たく突き刺さった。
(結城 視点) 佐伯 小春。プロジェクトが始まって数週間、彼女の名前と顔は、さすがに結城の記憶にもインプットされていた。良くも悪くも、だ。当初抱いた「面倒事が増えなければいいが」という予感は、残念ながら、日々、確信へと変わりつつあった。彼にとって、彼女は、あらゆる意味で「非効率」の塊に見えた。 まず、思考が直線的すぎる。思ったことが、すぐに顔に出る。それは、ある種の正直さとも言えるのかもしれないが、ビジネスの、特に彼のようなハイレベルな交渉や戦略が求められる場においては、致命的な欠点となり得る。建前や、腹の探り合い、ポーカーフェイスといった、社会で生き抜くための基本的なスキルが、彼女には著しく欠如しているように見えた。 そして、質問が多い。それも、他の経験豊富なメンバーなら暗黙の了解で処理するか、少し考えれば自己解決できるような、初歩的な、あるいは本質からずれた内容であることが少なくない。「あの、すみません、基本的なことで恐縮なのですが、このKPIというのは……?」「先ほどの〇〇という機能についてですが、これは△△という認識で合っていますでしょうか?」彼女が純粋な疑問としてそれを口にしていることは理解できる。だが、そのたびに議論の流れは中断され、結城や他のメンバーは、彼女のレベルに合わせた説明を強いられることになる。それが、結城にとっては、耐え難いほどの時間の無駄であり、プロジェクト全体の進行を遅らせる要因であり、正直、苛立ちの原因となっていた。
ある日の技術的な仕様に関するミーティングでのこと。ネクストリーム社のエンジニアが、最新のクラウド技術を前提とした、効率的でスケーラブルなアーキテクチャを説明していた。他のメンバーが感心したように頷く中、彼女が、またしても恐る恐る、しかし真っ直ぐな目で手を挙げた。 「あの、すみません。すごく画期的な仕組みだと思うのですが、鳩屋の、特に地方の営業拠点では、まだインターネット環境が不安定なところもあって……。オフラインでも最低限の業務ができるような考慮は、されているのでしょうか?」 それは、鳩屋フーズという老舗企業の、特に現場の実情を踏まえた、ある意味で的を射た質問ではあった。しかし、結城が進めようとしている、最新技術を前提とした、スマートで効率的なシステム構想とは、根本的に相容れない、過去に引き戻すような指摘だった。会議室の空気が、一瞬、白けたように感じられた。 結城は、内心の苛立ちを、完璧なポーカーフェイスの下に隠しながら、冷ややかに答えた。 「佐伯さん。我々が今、構築しようとしているのは、未来を見据えたシステムです。レガシーな環境に引きずられていては、本末転倒だ。インフラの問題は、別途、鳩屋フーズ様側で解決していただくべき課題でしょう」 彼の声には、反論を許さない、絶対的な響きがあった。彼女は一瞬、怯んだような表情を見せ、何か言いかけたが、隣に座っていた鳩屋の上司に目で制され、結局、押し黙ってしまった。俯いた彼女の耳が、わずかに赤くなっているのが見えた。 「(やはり、面倒だ。視野が狭すぎる。木を見て森を見ず、とはこのことか)」 結城は内心で毒づいた。足元の石ころばかり気にしていては、目的地には辿り着けない。だが同時に、ほんのわずかながら、彼の計算を狂わせる彼女の「異物」としての存在に、面白さを感じ始めている自分にも、薄々気づいていた。彼の周りにいる人間は、皆、彼の意図を先読みし、彼の望むであろう答えを反響させるだけのイエスマンか、あるいは、最初から彼に異を唱えることなど諦めている者ばかりだ。だが、彼女は違う。まるで、地雷原を、その危険性を知らずに、無邪気に歩いていく子供のように、彼の計画や思考の、想定外のウィークポイントを、時として突いてくるのだ。その「計算外」の要素が、彼の完璧に構築された、しかしどこか停滞していた世界に、予期せぬ、微細な波紋を投げかけているのかもしれない。それは、苛立ちと、ほんの少しの、認めたくはないが、退屈しのぎになるかもしれないという歪んだ期待が入り混じった感情だった。
また別の日。珍しく二人きりで、ネクストリーム社の高層階にある、ガラス張りのエレベーターに乗り合わせたことがあった。夕暮れ時で、窓の外には、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がり始めていた。普通なら、ロマンチックな雰囲気にでもなりそうなものだが、箱の中には、重く、気まずい沈黙だけが支配していた。小春は、夜景に目を向けるでもなく、床の一点を、まるでそこに何か大切なものでも落ちているかのように、じっと見つめていた。 「……何か、面白いことでもありましたか。床に」 沈黙に耐えかねたというよりは、彼女のその挙動不審な様子に、つい、意地の悪い言葉が出てしまった。 小春は、文字通り、びくりと肩を大きく揺らし、慌てて顔を上げた。 「えっ!? あっ、いえ! め、滅相もございません! あの、その、夜景が綺麗だなあって、ちょっと思って……」 明らかに動揺し、しどろもどろになりながら、彼女は取り繕うように言った。そして、ふにゃりと、力の抜けたような、困ったような笑顔を見せた。その笑顔は、彼が知っているどんな女性が見せる笑顔とも違っていた。計算も、媚びも、誘惑も、何もない。ただ、困惑と、わずかな怯えと、そして根本的な人の好さのようなものが、不器用に混ざり合った、奇妙な表情。 「そうですか。毎日見ていると、飽きますよ。ただの、電気の無駄遣いだ」 結城は、吐き捨てるように言った。彼女の、あまりにも素直すぎる反応、そしておそらく本心から綺麗だと思っているであろうその感性に、彼のシニカルな部分が刺激されたのだ。美しいもの、感動的なもの、そういう非合理的な感情は、ビジネスにおいてはノイズでしかない、と彼は信じていた。 「……え」 小春は、信じられないというように、小さく息をのんだ。そして、まるで何かとても大切なものを否定されたかのように、少し寂しそうな、傷ついたような表情で、再び俯いてしまった。 「(しまった、少し言い過ぎたか? いや、事実だ)」 結城は、一瞬だけ後悔に近い感情を覚えたが、すぐにそれを打ち消した。甘やかしてどうする。ここは、そういう感傷が通用する世界ではないのだ。 エレベーターが目的の階に到着し、重いドアが開く。小春は、「お、お先に失礼しますっ!」と、蚊の鳴くような声で言い、まるで何かから逃げるように、足早にエレベーターを降りていった。その後ろ姿は、ひどく小さく、頼りなく見えた。その姿を見送りながら、結城は、自分が普段棲んでいる世界とは全く違う生態系に属する生き物を観察しているような、奇妙な違和感と、ほんの少しの、しかし無視できない罪悪感のようなもの、そして、やはり、彼女に対する理解不能という名の苛立ちが、ないまぜになった複雑な感情を、エレベーターの無機質な壁に映る自分の顔の中に見出していた。
二人の間には、見えない、しかし確実に存在する、深くて広い溝があった。生まれ育った環境、経験してきた人生、拠り所とする価値観、コミュニケーションのスタイル、生きている世界の階層。そのあまりにも大きな隔たりが、会話のテンポを微妙にずらし、互いの真意を屈折させ、意図しないすれ違いを生んでいく。結城の、計算され尽くした合理性と、感情を排した冷たさに戸惑い、翻弄され、時に深く傷つく小春。小春の、非効率なまでの純粋さと、ビジネスの常識から外れた真っ直ぐさに苛立ち、ペースを乱され、時として無意識に攻撃的になってしまう結城。この時点では、まだ互いに特別な感情、ましてや恋愛感情など、一片たりとも抱いていない。ただ、理解できない、相容れない相手に対する、戸惑いと、反発と、埋めようのない距離を感じるだけ。それだけのはずだった。東京の、華やかで、しかしどこまでもドライな空の下で、二つの異なる軌道は、まだ交わる気配すら見せず、どこまでも平行線を辿っているように、誰の目にも見えた。おそらく、本人たちでさえも。
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