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第一章:上京ガールの体温と東京の温度差
共に時間を過ごすことになる必然的なきっかけ
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プロジェクトは中盤の山場、最も技術的に困難とされたシステム開発の佳境に差し掛かっていた。ネクストリーム社が誇る、AIを活用した最新鋭の顧客分析・需要予測システムと、鳩屋フーズが長年にわたって運用し、幾重にも改修が重ねられてきた、いわば秘伝のタレのような複雑怪奇な基幹業務システムとの連携。それが、このプロジェクトの成否を分ける、まさに心臓部だった。表面的には順調に進んでいるかのように見えた矢先、それは、まるで潜んでいた時限爆弾が爆発するかのように、突如として起こった。
結合テストの段階で、深刻なエラーが、それも複数系統で同時に、次々と発生し始めたのだ。データの互換性が想定通りに担保されない。セキュリティプロトコルが予期せぬ箇所で衝突し、システムがフリーズする。特定の条件下で、処理速度が致命的なレベルまで低下する。問題は一つではなく、複雑に絡み合い、まるで悪意を持った生き物のように、解決しようとすると別の箇所から新たな問題が顔を出す、泥沼のような状況に陥った。プロジェクトルームの空気は一変し、楽観的なムードは消え失せ、重苦しい沈黙と、焦りの色が支配し始めた。
「いったいどうなっている!?」 プロジェクトマネージャーからの緊急報告を受けた結城の声は、普段の冷静さを失い、低く、鋭い怒気を含んでいた。彼のオフィスに呼ばれた担当役員とプロジェクトマネージャーは、直立不動でその叱責を受け止めるしかない。このプロジェクトは、単なる一クライアントとの大型案件というだけではない。ネクストリームの技術力を業界内外に誇示し、今後のさらなる飛躍の足掛かりとするための、極めて重要な戦略的プロジェクトだったのだ。失敗は絶対に許されない。彼の端正な顔から、普段の余裕や、時折見せるシニカルな笑みは完全に消え失せ、瞳の奥には、目標達成のためには手段を選ばない、冷徹なまでの強い意志と、鋭い危機感が燃え盛っていた。
「全員、今すぐ第一会議室に集めろ。状況を正確に把握する。対策本部を設置するぞ」 結城は即座に決断し、自ら陣頭指揮を執ることを宣言した。それは、社長自らが現場の最前線に出るという異例の事態だったが、それだけ状況が逼迫していることの証でもあった。
一方、クライアントである鳩屋フーズ側も、この予期せぬ事態に大きな混乱が広がっていた。このシステム連携が予定通りに完了しなければ、鳴り物入りで準備を進めてきた新規事業のローンチが不可能になるばかりか、最悪の場合、既存の基幹業務にまで深刻な支障が出かねない。会社の根幹を揺るがしかねない一大事だ。そして、クライアント側の窓口担当である小春もまた、この未曾有の危機的状況の渦中に、否応なく巻き込まれていくことになった。彼女は、技術的な詳細こそ理解できない。しかし、鳩屋フーズ側の、特に現場レベルでの複雑な業務フローや、長年の運用の中で蓄積されてきた暗黙知、そして各部署間の微妙な力関係や担当者のキーマンといった、「生きた情報」を、ネクストリーム社の技術者たちが問題解決の糸口を探る上で、正確かつ迅速に伝えるという、極めて重要な役割を担うことになったのだ。それは、もはや単なる連絡係ではなく、両社の文化や言語のギャップを埋める、不可欠な通訳者のような立場だった。
かくして、ネクストリーム社の一番広い会議室は、さながら「作戦司令室(ウォー・ルーム)」と化した。壁一面に設置されたホワイトボードには、複雑なシステム構成図や、問題点のリスト、対策案などが、様々な色のマーカーでびっしりと書き込まれていく。テーブルには、ノートパソコンや技術資料が山積みになり、空になったエナジードリンクの缶や、冷めたコーヒーのマグカップが散乱している。連日深夜まで、時には明け方まで煌々と明かりが灯り、そこには濃密な緊張感と、極度の疲労、そして問題解決に向けた異様な熱気が充満していた。結城は、その中心に座り、次々と報告される状況を冷静に分析し、矢継ぎ早に指示を飛ばす。その姿は、まるで戦場を指揮する将軍のようだった。
そして、その作戦司令室の一角に、小春の席も設けられた。最初は、ただただその場の空気に圧倒され、縮こまっているだけだった。しかし、結城やネクストリームのエンジニアたちから、鳩屋側の内部情報に関する質問が、容赦なく、そして立て続けに飛んでくるようになると、彼女も必死にならざるを得なかった。 「佐伯さん、至急、〇〇部の△△さんが持っているはずの、3年前の仕様変更に関するドキュメントが必要だ。何分で手に入る?」 「佐伯さん、この業務フローについて、現場では実際にどういう手順で処理されているのか、正確な情報を5分以内にまとめてくれ」 「佐伯さん、□□システムのこの挙動は、鳩屋側の運用で許容される範囲なのか? イエスかノーかで答えろ」 結城の指示は、常に端的で、有無を言わさぬ響きを持っていた。小春は、その度に心臓を跳ね上がらせながら、鳩屋の本社にいる関係部署の担当者に電話をかけ、メールを送り、時には古い紙の資料を探し出すために書庫に駆け込むことさえあった。技術的な議論にはついていけなくても、自分に求められている役割を果たすために、ただ必死だった。
最初のうちは、やはりぎこちなかった。互いに極度のストレス下にあり、業務連絡以外の会話は一切なかった。しかし、共通の、そして巨大な「敵」であるシステムトラブルに、それぞれの立場で不眠不休で立ち向かう中で、彼らの間に、ほんのわずかな、しかし確かな連帯感のようなものが、意図せずして芽生え始めていた。それは、決して心地よいものではない、むしろ極限状況下で生まれた、吊り橋効果に近い、刹那的な感情だったのかもしれない。
(結城 視点) 連日の徹夜作業と、絶え間なく降りかかるプレッシャー。さすがの結城も、肉体的にも精神的にも限界に近づいていた。切れ味の鋭かった思考にも、わずかに鈍りが見え始め、普段なら瞬時に下せる判断にも、迷いが生じる瞬間があった。そんな時、ふと隣の席で、小春が鳩屋の担当者と電話で粘り強く交渉している声が耳に入った。彼女は、決して弁が立つ方ではない。むしろ、不器用で、回りくどい話し方だ。しかし、その声には、相手を説得しようとする必死さと、誠実さが滲み出ていた。そして、数分後、彼女は「や、やりました! なんとか、資料を今すぐ送ってもらえることになりました!」と、疲労困憊のはずなのに、小さな声で、しかし満面の笑みで報告してきたのだ。 「……そうか。よくやった」 結城は、自分でも驚くほど素直に、労いの言葉を口にしていた。彼女が手に入れたその情報が、まさに今、行き詰っていた問題解決の、重要なブレイクスルーになる可能性があったからだ。温かい、安物のインスタントコーヒーが差し入れられた時もそうだったが、この時も、彼は彼女に対する認識を、ほんの少しだけ修正せざるを得なかった。 「(……使えない新人だと思っていたが、意外にしぶといな。こういう泥臭い交渉は、うちのスマートな連中より、むしろ向いているのかもしれん。それに、この状況で、あの笑顔か……)」 彼は、初めて彼女を、単なる「取引先の新人」や「非効率な存在」ではなく、「この困難な局面において、特定の価値を発揮する、代替不可能な駒」として、明確に認識し始めていた。それは、もちろん個人的な好意などとは全く無縁の、極めて功利的な評価。だが、人を駒としてしか見ない彼にとって、誰かを「使える」「必要だ」と認めることは、彼なりの最大級の評価であり、関係性の始まりの一歩となり得るものだった。彼女の存在が、この膠着した状況を打開するための、予想外の変数になるかもしれない、と彼は感じ始めていた。
(小春 視点) 連日のトラブル対応と、終わりが見えない作業。睡眠不足とプレッシャーで、精神的にも体力的にも、もう限界だった。次から次へと発生する技術的な問題の詳細は理解できなくても、プロジェクトが危機的な状況にあること、そして、結城さんをはじめとするネクストリームの皆さんが、どれだけ必死に戦っているかは、痛いほど伝わってくる。自分にできることは限られているけれど、それでも、少しでも彼らの役に立ちたい。足を引っ張ることだけは、絶対に避けたい。そんな一心で、鳩屋側の関係部署との連絡調整や、膨大な過去の資料との格闘に明け暮れていた。 そんな極限状況の中、ふと気づくと、以前はあれほど怖くて近寄りがたいと感じていた結城さんに対して、不思議と以前ほどの恐怖心を感じなくなっている自分を発見した。もちろん、彼の厳しい指示や、時折見せる冷徹な表情は相変わらずだ。しかし、問題解決のために、驚異的な集中力で議論をリードし、的確な指示を飛ばし、時には厳しい言葉でチームを鼓舞する姿を間近で見ているうちに、その「怖さ」が、プロフェッショナルとしての「厳しさ」や「凄み」なのだと、少しずつ理解できるようになってきたのだ。 そして、私が調べて報告した情報が、問題解決の役に立った時、彼が「……助かった。ありがとう」と、短く、しかしはっきりと呟いたことがあった。普段、彼から感謝の言葉など聞いたこともなかっただけに、その一言が、まるで乾いた大地に染み込む水のように、疲れた心にじんわりと響いた。 「い、いえ! 私にできることなら、何でも言ってください!」 思わずそう答えると、彼は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、何か言いたげな、複雑な表情で私を見たような気がした。すぐに、また厳しいビジネスモードの顔に戻ってしまったけれど。 彼に対して感じていた「怖い」「冷たい」という感情は、まだ残っている。けれど、それだけではなくなっていた。この人は、とてつもなく厳しいけれど、信頼できるリーダーだ。この人についていけば、きっとこの絶望的な状況も乗り越えられるはずだ。そう思えるようになっていた。彼を「必要」だと感じた。それは、この困難なプロジェクトを成功に導くために、彼の卓越した能力と、決して諦めない強い意志が、絶対に必要だという意味で。そして、ほんの少しだけ、彼のその重圧を、ほんの少しでも軽くする手伝いがしたい、という、これまでにはなかった感情も、自分の中に芽生え始めているのを感じていた。
トラブルシューティングという、過酷で、しかし避けては通れない共通の目的が、図らずも、結城と小春という、本来なら交わるはずのなかった二つの点を、強引に結びつけた。それは、決して甘美なロマンスの始まりなどではない。むしろ、硝煙と疲労と、カフェインとアドレナリンの匂いが立ち込める、戦場のような場所での、必要に迫られた、ギリギリの共同作業だ。互いを異性として強く意識するような余裕は、二人には全くなかった。日々の膨大なタスクと、いつ終わるとも知れないプレッシャーに忙殺され、そんな感情が入り込む隙間など、どこにもなかったのだ。だが、共に極限的な時間を過ごし、互いの仕事への姿勢や、プレッシャーの下での振る舞いを間近で見る中で、当初抱いていた表面的な印象や偏見は、少しずつ剥がれ落ち、互いを、好むと好まざるとに関わらず、「仕事仲間」として、そして否応なく一人の「人間」として、認識し始めざるを得なくなっていた。それは、誰も意図しない、そして誰も気づかないかもしれない、しかし確実な、関係性の地殻変動の始まりだった。東京の無機質な会議室の中で、二つの平行線が、ほんのわずかに、その角度を変え、未来のある一点で交差する可能性を、微かに予感させ始めた瞬間だったのかもしれない。
結合テストの段階で、深刻なエラーが、それも複数系統で同時に、次々と発生し始めたのだ。データの互換性が想定通りに担保されない。セキュリティプロトコルが予期せぬ箇所で衝突し、システムがフリーズする。特定の条件下で、処理速度が致命的なレベルまで低下する。問題は一つではなく、複雑に絡み合い、まるで悪意を持った生き物のように、解決しようとすると別の箇所から新たな問題が顔を出す、泥沼のような状況に陥った。プロジェクトルームの空気は一変し、楽観的なムードは消え失せ、重苦しい沈黙と、焦りの色が支配し始めた。
「いったいどうなっている!?」 プロジェクトマネージャーからの緊急報告を受けた結城の声は、普段の冷静さを失い、低く、鋭い怒気を含んでいた。彼のオフィスに呼ばれた担当役員とプロジェクトマネージャーは、直立不動でその叱責を受け止めるしかない。このプロジェクトは、単なる一クライアントとの大型案件というだけではない。ネクストリームの技術力を業界内外に誇示し、今後のさらなる飛躍の足掛かりとするための、極めて重要な戦略的プロジェクトだったのだ。失敗は絶対に許されない。彼の端正な顔から、普段の余裕や、時折見せるシニカルな笑みは完全に消え失せ、瞳の奥には、目標達成のためには手段を選ばない、冷徹なまでの強い意志と、鋭い危機感が燃え盛っていた。
「全員、今すぐ第一会議室に集めろ。状況を正確に把握する。対策本部を設置するぞ」 結城は即座に決断し、自ら陣頭指揮を執ることを宣言した。それは、社長自らが現場の最前線に出るという異例の事態だったが、それだけ状況が逼迫していることの証でもあった。
一方、クライアントである鳩屋フーズ側も、この予期せぬ事態に大きな混乱が広がっていた。このシステム連携が予定通りに完了しなければ、鳴り物入りで準備を進めてきた新規事業のローンチが不可能になるばかりか、最悪の場合、既存の基幹業務にまで深刻な支障が出かねない。会社の根幹を揺るがしかねない一大事だ。そして、クライアント側の窓口担当である小春もまた、この未曾有の危機的状況の渦中に、否応なく巻き込まれていくことになった。彼女は、技術的な詳細こそ理解できない。しかし、鳩屋フーズ側の、特に現場レベルでの複雑な業務フローや、長年の運用の中で蓄積されてきた暗黙知、そして各部署間の微妙な力関係や担当者のキーマンといった、「生きた情報」を、ネクストリーム社の技術者たちが問題解決の糸口を探る上で、正確かつ迅速に伝えるという、極めて重要な役割を担うことになったのだ。それは、もはや単なる連絡係ではなく、両社の文化や言語のギャップを埋める、不可欠な通訳者のような立場だった。
かくして、ネクストリーム社の一番広い会議室は、さながら「作戦司令室(ウォー・ルーム)」と化した。壁一面に設置されたホワイトボードには、複雑なシステム構成図や、問題点のリスト、対策案などが、様々な色のマーカーでびっしりと書き込まれていく。テーブルには、ノートパソコンや技術資料が山積みになり、空になったエナジードリンクの缶や、冷めたコーヒーのマグカップが散乱している。連日深夜まで、時には明け方まで煌々と明かりが灯り、そこには濃密な緊張感と、極度の疲労、そして問題解決に向けた異様な熱気が充満していた。結城は、その中心に座り、次々と報告される状況を冷静に分析し、矢継ぎ早に指示を飛ばす。その姿は、まるで戦場を指揮する将軍のようだった。
そして、その作戦司令室の一角に、小春の席も設けられた。最初は、ただただその場の空気に圧倒され、縮こまっているだけだった。しかし、結城やネクストリームのエンジニアたちから、鳩屋側の内部情報に関する質問が、容赦なく、そして立て続けに飛んでくるようになると、彼女も必死にならざるを得なかった。 「佐伯さん、至急、〇〇部の△△さんが持っているはずの、3年前の仕様変更に関するドキュメントが必要だ。何分で手に入る?」 「佐伯さん、この業務フローについて、現場では実際にどういう手順で処理されているのか、正確な情報を5分以内にまとめてくれ」 「佐伯さん、□□システムのこの挙動は、鳩屋側の運用で許容される範囲なのか? イエスかノーかで答えろ」 結城の指示は、常に端的で、有無を言わさぬ響きを持っていた。小春は、その度に心臓を跳ね上がらせながら、鳩屋の本社にいる関係部署の担当者に電話をかけ、メールを送り、時には古い紙の資料を探し出すために書庫に駆け込むことさえあった。技術的な議論にはついていけなくても、自分に求められている役割を果たすために、ただ必死だった。
最初のうちは、やはりぎこちなかった。互いに極度のストレス下にあり、業務連絡以外の会話は一切なかった。しかし、共通の、そして巨大な「敵」であるシステムトラブルに、それぞれの立場で不眠不休で立ち向かう中で、彼らの間に、ほんのわずかな、しかし確かな連帯感のようなものが、意図せずして芽生え始めていた。それは、決して心地よいものではない、むしろ極限状況下で生まれた、吊り橋効果に近い、刹那的な感情だったのかもしれない。
(結城 視点) 連日の徹夜作業と、絶え間なく降りかかるプレッシャー。さすがの結城も、肉体的にも精神的にも限界に近づいていた。切れ味の鋭かった思考にも、わずかに鈍りが見え始め、普段なら瞬時に下せる判断にも、迷いが生じる瞬間があった。そんな時、ふと隣の席で、小春が鳩屋の担当者と電話で粘り強く交渉している声が耳に入った。彼女は、決して弁が立つ方ではない。むしろ、不器用で、回りくどい話し方だ。しかし、その声には、相手を説得しようとする必死さと、誠実さが滲み出ていた。そして、数分後、彼女は「や、やりました! なんとか、資料を今すぐ送ってもらえることになりました!」と、疲労困憊のはずなのに、小さな声で、しかし満面の笑みで報告してきたのだ。 「……そうか。よくやった」 結城は、自分でも驚くほど素直に、労いの言葉を口にしていた。彼女が手に入れたその情報が、まさに今、行き詰っていた問題解決の、重要なブレイクスルーになる可能性があったからだ。温かい、安物のインスタントコーヒーが差し入れられた時もそうだったが、この時も、彼は彼女に対する認識を、ほんの少しだけ修正せざるを得なかった。 「(……使えない新人だと思っていたが、意外にしぶといな。こういう泥臭い交渉は、うちのスマートな連中より、むしろ向いているのかもしれん。それに、この状況で、あの笑顔か……)」 彼は、初めて彼女を、単なる「取引先の新人」や「非効率な存在」ではなく、「この困難な局面において、特定の価値を発揮する、代替不可能な駒」として、明確に認識し始めていた。それは、もちろん個人的な好意などとは全く無縁の、極めて功利的な評価。だが、人を駒としてしか見ない彼にとって、誰かを「使える」「必要だ」と認めることは、彼なりの最大級の評価であり、関係性の始まりの一歩となり得るものだった。彼女の存在が、この膠着した状況を打開するための、予想外の変数になるかもしれない、と彼は感じ始めていた。
(小春 視点) 連日のトラブル対応と、終わりが見えない作業。睡眠不足とプレッシャーで、精神的にも体力的にも、もう限界だった。次から次へと発生する技術的な問題の詳細は理解できなくても、プロジェクトが危機的な状況にあること、そして、結城さんをはじめとするネクストリームの皆さんが、どれだけ必死に戦っているかは、痛いほど伝わってくる。自分にできることは限られているけれど、それでも、少しでも彼らの役に立ちたい。足を引っ張ることだけは、絶対に避けたい。そんな一心で、鳩屋側の関係部署との連絡調整や、膨大な過去の資料との格闘に明け暮れていた。 そんな極限状況の中、ふと気づくと、以前はあれほど怖くて近寄りがたいと感じていた結城さんに対して、不思議と以前ほどの恐怖心を感じなくなっている自分を発見した。もちろん、彼の厳しい指示や、時折見せる冷徹な表情は相変わらずだ。しかし、問題解決のために、驚異的な集中力で議論をリードし、的確な指示を飛ばし、時には厳しい言葉でチームを鼓舞する姿を間近で見ているうちに、その「怖さ」が、プロフェッショナルとしての「厳しさ」や「凄み」なのだと、少しずつ理解できるようになってきたのだ。 そして、私が調べて報告した情報が、問題解決の役に立った時、彼が「……助かった。ありがとう」と、短く、しかしはっきりと呟いたことがあった。普段、彼から感謝の言葉など聞いたこともなかっただけに、その一言が、まるで乾いた大地に染み込む水のように、疲れた心にじんわりと響いた。 「い、いえ! 私にできることなら、何でも言ってください!」 思わずそう答えると、彼は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、何か言いたげな、複雑な表情で私を見たような気がした。すぐに、また厳しいビジネスモードの顔に戻ってしまったけれど。 彼に対して感じていた「怖い」「冷たい」という感情は、まだ残っている。けれど、それだけではなくなっていた。この人は、とてつもなく厳しいけれど、信頼できるリーダーだ。この人についていけば、きっとこの絶望的な状況も乗り越えられるはずだ。そう思えるようになっていた。彼を「必要」だと感じた。それは、この困難なプロジェクトを成功に導くために、彼の卓越した能力と、決して諦めない強い意志が、絶対に必要だという意味で。そして、ほんの少しだけ、彼のその重圧を、ほんの少しでも軽くする手伝いがしたい、という、これまでにはなかった感情も、自分の中に芽生え始めているのを感じていた。
トラブルシューティングという、過酷で、しかし避けては通れない共通の目的が、図らずも、結城と小春という、本来なら交わるはずのなかった二つの点を、強引に結びつけた。それは、決して甘美なロマンスの始まりなどではない。むしろ、硝煙と疲労と、カフェインとアドレナリンの匂いが立ち込める、戦場のような場所での、必要に迫られた、ギリギリの共同作業だ。互いを異性として強く意識するような余裕は、二人には全くなかった。日々の膨大なタスクと、いつ終わるとも知れないプレッシャーに忙殺され、そんな感情が入り込む隙間など、どこにもなかったのだ。だが、共に極限的な時間を過ごし、互いの仕事への姿勢や、プレッシャーの下での振る舞いを間近で見る中で、当初抱いていた表面的な印象や偏見は、少しずつ剥がれ落ち、互いを、好むと好まざるとに関わらず、「仕事仲間」として、そして否応なく一人の「人間」として、認識し始めざるを得なくなっていた。それは、誰も意図しない、そして誰も気づかないかもしれない、しかし確実な、関係性の地殻変動の始まりだった。東京の無機質な会議室の中で、二つの平行線が、ほんのわずかに、その角度を変え、未来のある一点で交差する可能性を、微かに予感させ始めた瞬間だったのかもしれない。
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