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第三章:東京の毒と、二人の選択
綺麗事ではない「欲」と覚悟の選択
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結城 創を取り巻く状況は、もはや絶望的という言葉すら生ぬるいほど、破滅的な様相を呈していた。決定的な、そしておそらくは最後の一撃となったのは、彼が最も信頼し、ネクストリームの未来を託していたはずの、海外の大手ベンチャーキャピタルからの、まるで背後から撃ち抜くかのような、突然の、そして一切の情け容赦のない「全ての支援打ち切り」と「契約に基づく、投資資金の即時全額回収要求」の、冷酷なまでの通告だった。それは、事前に何の協議もなく、一方的に送りつけられた電子メール一通で、まさに寝耳に水であり、そして、すでに瀕死の状態にあったネクストリーム社の資金繰りに対して、即座に、そして完全に、とどめを刺すに等しい致命的な打撃を与えるものだった。他の金融機関も、その動きを待っていたかのように、まるで示し合わせたかのように、次々と融資枠の停止や、非現実的な追加担保の要求を突き付けてきた。もはや、会社が、法的な意味での死を迎えるまでに、残された時間は、いくらもなかった。破産、倒産、清算… そういった、彼がこれまでの人生で最も忌み嫌い、最も遠い場所にあると信じ、そして見下してきたはずの言葉たちが、すぐそこまで、冷たい足音を立てて迫ってきている、否定しようのない現実。
深夜、結城は、もはや電力すら節約されているのか、不必要に暗く、そして人の気配が完全に消えた広大な社長室で、一人、デスクに突っ伏していた。まるで全身の力が抜けてしまったかのように、指一本動かす気力さえ湧いてこない。目の前には、CFOが、もはや何の感情も浮かべずに置いていった、最終的なキャッシュフローの予測レポート。そこに並んだ数字は、無慈悲なまでに、会社の「死」を、そしておそらくは「結城 創」という経営者の社会的「死」をも、明確に宣告していた。彼が、文字通り、青春の全てを、そして人生の全てを賭けて、時には法や倫理の境界線を踏み越えてまで、必死で築き上げてきたはずの、輝かしいIT帝国は、今、まさに、巨大な音を立てて、彼の目の前で崩れ落ち、瓦礫と化そうとしている。築き上げてきた社会的信用も、天文学的な数字にまで膨れ上がったはずの資産も、そして何よりも彼を彼たらしめていた「時代の寵児」「若き成功者」としての、眩いばかりの地位も、全てが、まるで一夜の夢のように、幻のように、はかなく消え去ろうとしていた。机の上の、成功の証として贈られた数々のトロフィーや盾が、今はただ、虚しく、そして嘲笑うかのように光を反射している。彼は、衝動的に、そのうちの一つを掴み、壁に向かって叩きつけたいような、破壊的な衝動に駆られたが、もはや、そんなことをするエネルギーさえ残っていなかった。
「(……終わりか…? これで、本当に、全てが……無に帰すのか…?)」
深く、暗く、そしてどこまでも冷たい、底なしの絶望感が、まるで粘性の高いタールのように、彼の全身を、思考を、そして魂そのものを、ゆっくりと、しかし確実に満たしていく。これまでの、狂気的なまでの努力も、生まれ持ったはずの才能も、世界を変えようとした野心も、そして彼が、何よりも正しいと信じて疑わなかった合理性も、その全てが、結局は、無意味だったというのか。結局、自分は、この東京という名の、巨大で、無慈悲で、そして冷酷なシステムの前には、あまりにも無力な、ちっぽけな、使い捨ての駒でしかなかったのか。かつて彼を熱狂的に称賛した者たちは、今や手のひらを返し、彼を激しく非難し、あるいは、彼の無様な転落劇を、安全な場所から、高みの見物と決め込んでいるだけだ。誰も、本当に助けてはくれない。誰も、本気で手を差し伸べてはくれない。成功という光を失った自分には、誰も見向きもしない。それが、この世界の真実なのだ。絶対的な、そして骨身にしみるほどの孤独。そして、全てを失うことへの、抗いがたい、原始的な恐怖。それは、彼が長年、成功という名の鎧の下に、必死で押し込めてきた、「成功しなければ自分には何の価値もない」という、根源的な自己否定の感情、そして「誰からも本当に必要とされていないのではないか」という深い孤独感と、最悪の形で結びつき、彼の精神を、内側から、じわじわと蝕み、崩壊させようとしていた。
もう、どうでもいいじゃないか。会社がどうなろうと、世間からどう罵られようと。金も、名誉も、全て失ってしまえばいい。いっそ、全てを投げ出して、このまま、誰にも知られずに、どこか遠い、世界の果てへでも消えてしまいたい。そんな、破滅的で、自暴自棄な思いが、まるで甘い誘惑のように、彼の心を支配しかけた、まさに、その時だった。
ふと、まるで暗闇の中に差し込んだ、一筋の、予期せぬ光のように、彼の脳裏に、鮮明に、そして、もはや彼の意志では抗いがたいほどの強さで、一人の女性の顔が、その表情が、声が、温もりが、浮かんだ。 佐伯 小春。 あの、どこまでも不器用で、世間知らずで、そして彼の基準からすれば、全く洗練されていなくて、しかし、驚くほど真っ直ぐで、嘘がなく、そして、まるで陽だまりのような、温かい瞳を持った女。 彼が弱音を吐いた時、ただ黙って、隣で頷いてくれた、あの困ったような、それでいて、どこまでも優しい笑顔。 彼のために、慣れない手つきで淹れてくれた、あの、決して美味しくはないけれど、なぜか心が安らいだ、ぬるいインスタントコーヒーの味。 彼の、誰にも、そして自分自身にさえも見せたくなかったはずの、醜く、脆い弱さを受け止めてくれた、あの深夜の、静かで、深く、そして揺るぎない共感に満ちた眼差し。
なぜ、今、よりによって、彼女なんだ? この、全てが終わりを告げようとしている、人生のどん底とも言える、絶望の淵の、土壇場で、なぜ、他の、彼を賞賛し、彼を利用し、あるいは彼に依存してきた、数多の人間ではなく、彼女のことだけが、こんなにも鮮明に、こんなにも切実に、そしてこんなにも心を締め付けるほどの強さで、思い出されるんだ?
その瞬間、結城の中で、何かが、プツリと、音を立てて、決定的に、そしておそらくは永遠に、壊れた。あるいは、その破壊の中から、全く新しい何かが、生まれたのかもしれない。 彼を、これまで縛り付け、そして守ってきたはずの、最後の理性。計算。プライド。自己防衛の本能。成功への、そして社会的な評価への、強迫観念にも似た執着。それら、彼が「結城 創」という人間であるために必要だと信じてきた全てのものが、まるで激しい衝撃を受けた、極薄のガラス細工のように、粉々に砕け散り、その、空っぽになったはずの奥底から、もっと、剥き出しの、制御不能な、そして痛切なまでの、原始的な感情が、抑えきれないほどの激しさで、まるで火山が噴火するように、噴出したのだ。
それは、決して、綺麗事ではない。美しくも、清らかでもない。詩的な感傷でもない。 ただ、ひたすらに、彼女を「欲している」という、喉が焼け付くような、飢えた獣のような、あまりにも生々しいまでの、渇望。 もう、何もかも、全てを失ってもいい。この会社も、積み上げてきた金も、世間的な名誉も、築き上げてきた人間関係も、何もかも。だが、彼女だけは、佐伯 小春という、たった一人の存在だけは、絶対に、失いたくない。失うわけにはいかないのだ。もし、彼女までいなくなってしまったら、自分は、本当に、完全に、空っぽの抜け殻になってしまうだろう。この、広大で、無機質で、そして絶望的に冷たい、無意味な世界に、永遠に、たった一人で、救いもなく漂流し続けることになるだろう。 その、想像を絶するほどの、魂の凍てつくような恐怖が、彼の、最後の、かろうじて残っていた理性のタガを、完全に、そして決定的に外させた。
彼は、まるで夢遊病者のように、あるいは、見えない何かに強く突き動かされるように、衝動的に席を立った。床に散らばった資料を踏みつけ、高価な革靴でエナジードリンクの空き缶を蹴散らしながら、ジャケットも掴まず、乱暴に緩めたネクタイをさらに引きちぎるように外し、シャツの胸元を開けたまま、社長室を飛び出した。エレベーターを待つ時間さえも惜しいかのように、非常階段を駆け下り、警備員の訝しげな視線も意に介さず、夜の、冷たい空気が漂う街へと、文字通り飛び出した。どこへ行くという、明確な当てもない。タクシーを拾う思考さえ働かない。ただ、彼女に会わなければならない。彼女の存在を、この手で、この目で、確かめなければならない。今すぐ。この瞬間に。たとえ、それが、どれほど狂っていて、身勝手で、彼のプライドをズタズタにする行為であり、そしておそらくは、何も知らない彼女を、深く傷つけ、混乱させることになるかもしれないとしても。もう、彼には、それ以外の選択肢は、残されていないような気がした。彼の、剥き出しになった、生存本能にも似た、彼女への「欲」だけが、彼を、突き動かしていた。
(小春 視点) その夜、小春は、上司からの指示で、遅くまでかかった残業を終え、心も体も疲れ果て、重い足取りで、自宅アパートへと続く、人通りの少ない、暗い夜道を一人歩いていた。会社での、あの、心ない、しかしおそらくは真実の一端を突いているのであろう、侮蔑的な言葉を耳にして以来、彼女の心は、まるで鉛を飲み込んだかのように、重く、そして暗く沈んだままだった。結城さんのことを考えないようにしよう、忘れよう、と思えば思うほど、逆に、彼の、報道で見る、日に日に憔悴していくような姿や、あの夜に見せた、痛々しいほどの弱さが目に浮かび、胸が締め付けられるように痛んだ。でも、自分には、彼のために、本当に何もできない。彼に、安易に連絡を取る勇気も、そしておそらくは、そんな資格もないような気がしていた。自分は、彼にとって、やはり、ただの「不釣り合いな存在」であり、「厄介なお荷物」なのだろうか。そう思うと、情けなくて、悔しくて、涙が込み上げてくる。俯き、街灯の頼りない光の下で、溢れそうになる涙を必死で堪えながら、ようやく自宅のアパートの、古びた鉄製の階段の前に差し掛かった、まさに、その時だった。
「……佐伯」
不意に、すぐ背後から、低い、そして、今まで聞いたことがないほどに掠れた、まるで魂の奥底から絞り出すような声で、自分の名前を呼ばれ、彼女は、驚きと、そして瞬間的な恐怖で、心臓が止まるかと思いながら、弾かれたように振り返った。 そこに立っていたのは、信じられないことに、結城 創、その人だった。 しかし、それは、彼女が知っている、いつも完璧なスーツを着こなし、冷徹なまでの自信と、人を寄せ付けないオーラを放っていた彼の姿では、全く、全くなかった。高級であることは分かるが、皺の寄ったスーツ。乱暴に引きちぎられたかのように緩められ、だらしなく垂れ下がったネクタイ。胸元までボタンが外され、覗くシャツもどこか汚れているように見える。いつものように完璧にセットされていたはずの髪も、汗か何かで額に張り付き、完全に乱れていた。そして、何よりも、その顔。街灯の薄明かりの下でも分かるほどの、深い、深い疲労と、全てを失ったかのような絶望と、そして、何か、暗い炎のような、追い詰められた獣のような、激しい感情の色が、隠しようもなく、痛々しく浮かんでいた。彼の、いつもは鋭く、全てを見透かすような光を宿していたはずの瞳は、焦点が合っているのかいないのか、どこか虚ろで、しかし、同時に、まるで溺れる者が最後の救いを求めるかのように、必死に、彼女の姿だけを捉えていた。彼からは、高級な香水の香りよりも強く、明らかに、アルコールの匂いがした。彼が、こんな風に、完全に自己を失ったかのように乱れた姿を、人前に、ましてや彼女の前に晒すなんて、想像すらしたことがなかった。 「ゆ、結城…社長…? なぜ、こんなところに…? いったい、どうなさったんですか…?」 小春は、目の前の信じられない光景に対する驚きと、彼のあまりの変貌ぶりに対する心配と、そして、彼から発せられる、尋常ではない、どこか危険な雰囲気に対する、本能的な恐怖で、声が震えるのを抑えることができなかった。 結城は、彼女の問いには、何も答えなかった。ただ、まるで磁石に引き寄せられる鉄のように、あるいは、最後の寄る辺を求める難破船のように、フラフラと、しかし、何か強烈な、抗いがたい力に引き寄せられるかのように、彼女に一歩、また一歩と近づいてきた。そして、彼女の目の前、吐息がかかるほどの距離で立ち止まると、まるで最後の祈りを捧げるかのように、あるいは、これが現実であるという最後の何かを確かめるかのように、彼女の、細い腕を、両手で、強く、しかし、明らかに震えている手で掴んだ。その力は、痛いほどだった。 「……聞くな。…何も、言うな」 彼の声は、ひどく掠れていて、弱々しく、しかし、有無を言わせない響きを持っていた。 「ただ……ただ、俺のそばにいてくれ…それだけでいい。…一人に、しないでくれ…頼む…」 それは、決して、愛の告白などではなかった。計算された口説き文句でも、ロマンチックな言葉でも、優しい慰めの言葉でもない。ただ、剥き出しの、あまりにも脆く、そして痛々しいほどの、彼の、誰にも、おそらくは彼自身にさえも見せたことのないはずの、絶対的な弱さの、完全な告白。そして、彼女という存在に対する、ほとんど幼児的なまでの依存と、なりふり構わない、切実で、そして身勝手なまでの「欲求」の、魂からの表明だった。全てを失いかけ、絶望の淵に立たされた、かつての成功者が、最後の最後に、全てのプライドを捨てて、たった一つの、温かい光に、藁にもすがる思いで、手を伸ばしてきたかのようだった。
小春は、息を呑んだ。彼の、腕を掴む手の、痛いほどの強さと、その、抑えきれない震え。彼の、間近で見る、深く刻まれた疲労の跡と、瞳の奥で、まるで嵐のように揺らめく、深い絶望と、そして、自分だけに向けられている、あまりにも生々しい、剥き出しの感情の激しさ。それは、彼女が、これまでの、平穏で、平凡だった人生の中で、一度も経験したことのない、あまりにも強烈で、圧倒的で、そして同時に、底知れぬほど危険な何かだった。 一瞬、彼女の脳裏を、数日前に、あの冷たくて豪華なロビーで耳にした、あの、心を抉るような、冷たい嘲笑の言葉が、稲妻のように駆け巡った。「今の彼にお似合い」。そうか、自分は、やっぱり、こんな風に、全てを失って、弱りきって、誰かに縋りつくしかないような、そんな、惨めな状況の彼にこそ、「お似合い」の、安っぽい女なのだ、と。逃げ出したい、と本能が叫んだ。怖い、と全身が震えた。このままでは、彼の、この、底なしの闇と絶望に、自分も一緒に引きずり込まれてしまうのではないか、と。自分の、けなげな、しかし所詮は脆いだけの純粋さなど、彼の持つ、この、抗いがたい、しかし破壊的な「毒」の前には、ひとたまりもなく、汚され、壊されてしまうのではないか、と。 それが、おそらくは、世間一般で言うところの、「賢明」で、「正しい」反応だったのかもしれない。これ以上傷つく前に、危険なものからは距離を置く。自己防衛本能に従うなら、そうすべきだったのかもしれない。
だが、彼女は、動かなかった。一歩も、引かなかった。 彼女は、ただ、じっと、目の前の、かつてあれほどまでに完璧で、手の届かない存在に見えた男の、今は、まるで嵐に打ちのめされた迷子の子供のように、弱々しく、傷つき、そして必死な表情を、強い風に吹かれても揺らがない灯火のように、ただ、静かに、そして真っ直ぐに見つめ返していた。 そして、彼女は、その瞬間、これまでの人生で、最も重要で、そして最も困難な「選択」をしたのだ。 逃げることではなく、彼の手を振り払うことではなく、彼を可哀想だと憐れむことでもなく、ましてや、彼の過去や、今の状況を断罪することでもなく。 ただ、静かに、目の前にいる、この、傷つき、迷い、そして自分を求めている、結城 創という一人の人間の、全てを——彼の、誰もが羨むような輝かしい成功も、そして今まさに直面している、誰が見ても惨めなほどの失敗も。彼の、人を惹きつけてやまない圧倒的な強さも、そして、今、彼女の前で、痛々しいまでに晒け出されている、脆く、不器用な弱さも。彼が持つ、抗いがたいほどの、人を虜にするような魅力も、そして、その魅力の裏に、確かに潜んでいるであろう、危険な「毒気」も。その、光も、影も、彼が背負うであろう全ての困難も、彼の持つあらゆる矛盾も、その全てを、一切の条件も付けずに、丸ごと、ただ、受け入れることを。 それは、決して、お人好しな、楽観的な、あるいは感傷的なだけの決断ではなかった。彼女は、この選択が、どれほどの重みを持ち、そして、これから自分たちが共に歩むであろう道が、決して平坦ではなく、むしろ、想像を絶するほどの茨に満ちた、厳しいものになるであろうことを、おそらくは、彼女の持つ、鋭い感受性によって、本能的に、そして痛切に理解していた。世間からの冷たい非難の目。経済的な困窮。そして、何よりも、彼の持つ、複雑で、そして時には破壊的ですらあるかもしれない内面との、困難で、そして終わりが見えないかもしれない対峙。それら全てを、引き受け、そして立ち向かっていく「覚悟」を、彼女は、この瞬間に、決めなければならなかったのだ。 だが、それでも、彼女は、彼の手を、離すことはできなかった。彼を、この、深い、暗い絶望の中に、これ以上、一人で置き去りにすることは、どうしても、できなかった。なぜなら、彼女は、彼の、この、究極の弱さに触れた時、そして、彼が、最後の望みを託すかのように差し伸べてきた、その、震える手を握り返すことこそが、自分が、この、巨大で冷たい東京という街で、彼と出会い、そして、理由も分からずに、しかし抗いがたいほどに、彼に惹かれてしまった、その、たった一つの、そして絶対的な「意味」なのだと、そう、全身全霊で、強く、強く感じたからだ。 彼女は、ゆっくりと、しかし、そこには微塵の迷いもない、確かな意志を持って、彼に強く掴まれていた自分の腕を、そっと、まるで壊れ物を扱うかのように、しかし同時に、決して離さないという決意を込めて、彼の手で優しく包み返すように、両手で、しっかりと握り返した。そして、彼の、虚ろで、しかし必死に、ただ一つの救いを求めているかのような瞳を、夜の闇の中でも分かるほど、真っ直ぐに、そして強く見つめ返し、静かに、しかし、その声には、彼女が持つ、全ての誠実さと、強さと、そして揺るぎない「覚悟」を込めて、こう言った。
「……はい。……私は、ここにいます。結城さんの、すぐそばにいます。…どんなことがあっても、一人には、しませんから」
その言葉は、決して、劇的なものではなかった。しかし、その、短く、シンプルで、そして少しだけ震えた声で紡がれた言葉の中には、彼女の、損得も、計算も、そしておそらくは恐怖さえも超えた、彼に対する、深く、そして絶対的な想いが、何よりも雄弁に、そして確かに込められていた。 その瞬間、結城の、絶望に濁りきっていたはずの瞳に、ほんの一瞬だけ、まるで信じられない奇跡を目の当たりにしたかのような、深い驚きと、そして、長い、長い、暗く孤独な旅路の果てに、ようやく、探し求めていた、たった一つの、温かい安息の場所を、見つけ出したかのような、深い、深い安堵の色が、確かに浮かんだように、小春には、はっきりと見えた。 問題が、全て解決したわけではない。彼らを打ちのめす嵐は、まだ、すぐそこまで迫っている。むしろ、これからが、本当の意味での、過酷な戦いの始まりなのかもしれない。だが、この瞬間、この、東京の片隅の、古びたアパートの前の、街灯だけが照らす、薄暗い路上で、二人の心は、これ以上ないほど、強く、そして深く、永遠に解けることのない絆で、結びついたのだ。絶望の淵で交わされた、綺麗事では決してない、人間の、剥き出しの「欲」と、それを受け止め、そして共に歩むことを決めた、揺るぎない「覚悟」。それによって、彼らの、脆く、危うかったはずの繋がりは、何があっても、もう決して揺らぐことのない、誰にも壊すことのできない、確固たるものへと、静かに、しかし決定的に、昇華された。それは、彼らにとっての、新しい、そしておそらくは、真の意味での関係性の、痛みを伴う、しかし希望に満ちた、始まりの瞬間だった。
深夜、結城は、もはや電力すら節約されているのか、不必要に暗く、そして人の気配が完全に消えた広大な社長室で、一人、デスクに突っ伏していた。まるで全身の力が抜けてしまったかのように、指一本動かす気力さえ湧いてこない。目の前には、CFOが、もはや何の感情も浮かべずに置いていった、最終的なキャッシュフローの予測レポート。そこに並んだ数字は、無慈悲なまでに、会社の「死」を、そしておそらくは「結城 創」という経営者の社会的「死」をも、明確に宣告していた。彼が、文字通り、青春の全てを、そして人生の全てを賭けて、時には法や倫理の境界線を踏み越えてまで、必死で築き上げてきたはずの、輝かしいIT帝国は、今、まさに、巨大な音を立てて、彼の目の前で崩れ落ち、瓦礫と化そうとしている。築き上げてきた社会的信用も、天文学的な数字にまで膨れ上がったはずの資産も、そして何よりも彼を彼たらしめていた「時代の寵児」「若き成功者」としての、眩いばかりの地位も、全てが、まるで一夜の夢のように、幻のように、はかなく消え去ろうとしていた。机の上の、成功の証として贈られた数々のトロフィーや盾が、今はただ、虚しく、そして嘲笑うかのように光を反射している。彼は、衝動的に、そのうちの一つを掴み、壁に向かって叩きつけたいような、破壊的な衝動に駆られたが、もはや、そんなことをするエネルギーさえ残っていなかった。
「(……終わりか…? これで、本当に、全てが……無に帰すのか…?)」
深く、暗く、そしてどこまでも冷たい、底なしの絶望感が、まるで粘性の高いタールのように、彼の全身を、思考を、そして魂そのものを、ゆっくりと、しかし確実に満たしていく。これまでの、狂気的なまでの努力も、生まれ持ったはずの才能も、世界を変えようとした野心も、そして彼が、何よりも正しいと信じて疑わなかった合理性も、その全てが、結局は、無意味だったというのか。結局、自分は、この東京という名の、巨大で、無慈悲で、そして冷酷なシステムの前には、あまりにも無力な、ちっぽけな、使い捨ての駒でしかなかったのか。かつて彼を熱狂的に称賛した者たちは、今や手のひらを返し、彼を激しく非難し、あるいは、彼の無様な転落劇を、安全な場所から、高みの見物と決め込んでいるだけだ。誰も、本当に助けてはくれない。誰も、本気で手を差し伸べてはくれない。成功という光を失った自分には、誰も見向きもしない。それが、この世界の真実なのだ。絶対的な、そして骨身にしみるほどの孤独。そして、全てを失うことへの、抗いがたい、原始的な恐怖。それは、彼が長年、成功という名の鎧の下に、必死で押し込めてきた、「成功しなければ自分には何の価値もない」という、根源的な自己否定の感情、そして「誰からも本当に必要とされていないのではないか」という深い孤独感と、最悪の形で結びつき、彼の精神を、内側から、じわじわと蝕み、崩壊させようとしていた。
もう、どうでもいいじゃないか。会社がどうなろうと、世間からどう罵られようと。金も、名誉も、全て失ってしまえばいい。いっそ、全てを投げ出して、このまま、誰にも知られずに、どこか遠い、世界の果てへでも消えてしまいたい。そんな、破滅的で、自暴自棄な思いが、まるで甘い誘惑のように、彼の心を支配しかけた、まさに、その時だった。
ふと、まるで暗闇の中に差し込んだ、一筋の、予期せぬ光のように、彼の脳裏に、鮮明に、そして、もはや彼の意志では抗いがたいほどの強さで、一人の女性の顔が、その表情が、声が、温もりが、浮かんだ。 佐伯 小春。 あの、どこまでも不器用で、世間知らずで、そして彼の基準からすれば、全く洗練されていなくて、しかし、驚くほど真っ直ぐで、嘘がなく、そして、まるで陽だまりのような、温かい瞳を持った女。 彼が弱音を吐いた時、ただ黙って、隣で頷いてくれた、あの困ったような、それでいて、どこまでも優しい笑顔。 彼のために、慣れない手つきで淹れてくれた、あの、決して美味しくはないけれど、なぜか心が安らいだ、ぬるいインスタントコーヒーの味。 彼の、誰にも、そして自分自身にさえも見せたくなかったはずの、醜く、脆い弱さを受け止めてくれた、あの深夜の、静かで、深く、そして揺るぎない共感に満ちた眼差し。
なぜ、今、よりによって、彼女なんだ? この、全てが終わりを告げようとしている、人生のどん底とも言える、絶望の淵の、土壇場で、なぜ、他の、彼を賞賛し、彼を利用し、あるいは彼に依存してきた、数多の人間ではなく、彼女のことだけが、こんなにも鮮明に、こんなにも切実に、そしてこんなにも心を締め付けるほどの強さで、思い出されるんだ?
その瞬間、結城の中で、何かが、プツリと、音を立てて、決定的に、そしておそらくは永遠に、壊れた。あるいは、その破壊の中から、全く新しい何かが、生まれたのかもしれない。 彼を、これまで縛り付け、そして守ってきたはずの、最後の理性。計算。プライド。自己防衛の本能。成功への、そして社会的な評価への、強迫観念にも似た執着。それら、彼が「結城 創」という人間であるために必要だと信じてきた全てのものが、まるで激しい衝撃を受けた、極薄のガラス細工のように、粉々に砕け散り、その、空っぽになったはずの奥底から、もっと、剥き出しの、制御不能な、そして痛切なまでの、原始的な感情が、抑えきれないほどの激しさで、まるで火山が噴火するように、噴出したのだ。
それは、決して、綺麗事ではない。美しくも、清らかでもない。詩的な感傷でもない。 ただ、ひたすらに、彼女を「欲している」という、喉が焼け付くような、飢えた獣のような、あまりにも生々しいまでの、渇望。 もう、何もかも、全てを失ってもいい。この会社も、積み上げてきた金も、世間的な名誉も、築き上げてきた人間関係も、何もかも。だが、彼女だけは、佐伯 小春という、たった一人の存在だけは、絶対に、失いたくない。失うわけにはいかないのだ。もし、彼女までいなくなってしまったら、自分は、本当に、完全に、空っぽの抜け殻になってしまうだろう。この、広大で、無機質で、そして絶望的に冷たい、無意味な世界に、永遠に、たった一人で、救いもなく漂流し続けることになるだろう。 その、想像を絶するほどの、魂の凍てつくような恐怖が、彼の、最後の、かろうじて残っていた理性のタガを、完全に、そして決定的に外させた。
彼は、まるで夢遊病者のように、あるいは、見えない何かに強く突き動かされるように、衝動的に席を立った。床に散らばった資料を踏みつけ、高価な革靴でエナジードリンクの空き缶を蹴散らしながら、ジャケットも掴まず、乱暴に緩めたネクタイをさらに引きちぎるように外し、シャツの胸元を開けたまま、社長室を飛び出した。エレベーターを待つ時間さえも惜しいかのように、非常階段を駆け下り、警備員の訝しげな視線も意に介さず、夜の、冷たい空気が漂う街へと、文字通り飛び出した。どこへ行くという、明確な当てもない。タクシーを拾う思考さえ働かない。ただ、彼女に会わなければならない。彼女の存在を、この手で、この目で、確かめなければならない。今すぐ。この瞬間に。たとえ、それが、どれほど狂っていて、身勝手で、彼のプライドをズタズタにする行為であり、そしておそらくは、何も知らない彼女を、深く傷つけ、混乱させることになるかもしれないとしても。もう、彼には、それ以外の選択肢は、残されていないような気がした。彼の、剥き出しになった、生存本能にも似た、彼女への「欲」だけが、彼を、突き動かしていた。
(小春 視点) その夜、小春は、上司からの指示で、遅くまでかかった残業を終え、心も体も疲れ果て、重い足取りで、自宅アパートへと続く、人通りの少ない、暗い夜道を一人歩いていた。会社での、あの、心ない、しかしおそらくは真実の一端を突いているのであろう、侮蔑的な言葉を耳にして以来、彼女の心は、まるで鉛を飲み込んだかのように、重く、そして暗く沈んだままだった。結城さんのことを考えないようにしよう、忘れよう、と思えば思うほど、逆に、彼の、報道で見る、日に日に憔悴していくような姿や、あの夜に見せた、痛々しいほどの弱さが目に浮かび、胸が締め付けられるように痛んだ。でも、自分には、彼のために、本当に何もできない。彼に、安易に連絡を取る勇気も、そしておそらくは、そんな資格もないような気がしていた。自分は、彼にとって、やはり、ただの「不釣り合いな存在」であり、「厄介なお荷物」なのだろうか。そう思うと、情けなくて、悔しくて、涙が込み上げてくる。俯き、街灯の頼りない光の下で、溢れそうになる涙を必死で堪えながら、ようやく自宅のアパートの、古びた鉄製の階段の前に差し掛かった、まさに、その時だった。
「……佐伯」
不意に、すぐ背後から、低い、そして、今まで聞いたことがないほどに掠れた、まるで魂の奥底から絞り出すような声で、自分の名前を呼ばれ、彼女は、驚きと、そして瞬間的な恐怖で、心臓が止まるかと思いながら、弾かれたように振り返った。 そこに立っていたのは、信じられないことに、結城 創、その人だった。 しかし、それは、彼女が知っている、いつも完璧なスーツを着こなし、冷徹なまでの自信と、人を寄せ付けないオーラを放っていた彼の姿では、全く、全くなかった。高級であることは分かるが、皺の寄ったスーツ。乱暴に引きちぎられたかのように緩められ、だらしなく垂れ下がったネクタイ。胸元までボタンが外され、覗くシャツもどこか汚れているように見える。いつものように完璧にセットされていたはずの髪も、汗か何かで額に張り付き、完全に乱れていた。そして、何よりも、その顔。街灯の薄明かりの下でも分かるほどの、深い、深い疲労と、全てを失ったかのような絶望と、そして、何か、暗い炎のような、追い詰められた獣のような、激しい感情の色が、隠しようもなく、痛々しく浮かんでいた。彼の、いつもは鋭く、全てを見透かすような光を宿していたはずの瞳は、焦点が合っているのかいないのか、どこか虚ろで、しかし、同時に、まるで溺れる者が最後の救いを求めるかのように、必死に、彼女の姿だけを捉えていた。彼からは、高級な香水の香りよりも強く、明らかに、アルコールの匂いがした。彼が、こんな風に、完全に自己を失ったかのように乱れた姿を、人前に、ましてや彼女の前に晒すなんて、想像すらしたことがなかった。 「ゆ、結城…社長…? なぜ、こんなところに…? いったい、どうなさったんですか…?」 小春は、目の前の信じられない光景に対する驚きと、彼のあまりの変貌ぶりに対する心配と、そして、彼から発せられる、尋常ではない、どこか危険な雰囲気に対する、本能的な恐怖で、声が震えるのを抑えることができなかった。 結城は、彼女の問いには、何も答えなかった。ただ、まるで磁石に引き寄せられる鉄のように、あるいは、最後の寄る辺を求める難破船のように、フラフラと、しかし、何か強烈な、抗いがたい力に引き寄せられるかのように、彼女に一歩、また一歩と近づいてきた。そして、彼女の目の前、吐息がかかるほどの距離で立ち止まると、まるで最後の祈りを捧げるかのように、あるいは、これが現実であるという最後の何かを確かめるかのように、彼女の、細い腕を、両手で、強く、しかし、明らかに震えている手で掴んだ。その力は、痛いほどだった。 「……聞くな。…何も、言うな」 彼の声は、ひどく掠れていて、弱々しく、しかし、有無を言わせない響きを持っていた。 「ただ……ただ、俺のそばにいてくれ…それだけでいい。…一人に、しないでくれ…頼む…」 それは、決して、愛の告白などではなかった。計算された口説き文句でも、ロマンチックな言葉でも、優しい慰めの言葉でもない。ただ、剥き出しの、あまりにも脆く、そして痛々しいほどの、彼の、誰にも、おそらくは彼自身にさえも見せたことのないはずの、絶対的な弱さの、完全な告白。そして、彼女という存在に対する、ほとんど幼児的なまでの依存と、なりふり構わない、切実で、そして身勝手なまでの「欲求」の、魂からの表明だった。全てを失いかけ、絶望の淵に立たされた、かつての成功者が、最後の最後に、全てのプライドを捨てて、たった一つの、温かい光に、藁にもすがる思いで、手を伸ばしてきたかのようだった。
小春は、息を呑んだ。彼の、腕を掴む手の、痛いほどの強さと、その、抑えきれない震え。彼の、間近で見る、深く刻まれた疲労の跡と、瞳の奥で、まるで嵐のように揺らめく、深い絶望と、そして、自分だけに向けられている、あまりにも生々しい、剥き出しの感情の激しさ。それは、彼女が、これまでの、平穏で、平凡だった人生の中で、一度も経験したことのない、あまりにも強烈で、圧倒的で、そして同時に、底知れぬほど危険な何かだった。 一瞬、彼女の脳裏を、数日前に、あの冷たくて豪華なロビーで耳にした、あの、心を抉るような、冷たい嘲笑の言葉が、稲妻のように駆け巡った。「今の彼にお似合い」。そうか、自分は、やっぱり、こんな風に、全てを失って、弱りきって、誰かに縋りつくしかないような、そんな、惨めな状況の彼にこそ、「お似合い」の、安っぽい女なのだ、と。逃げ出したい、と本能が叫んだ。怖い、と全身が震えた。このままでは、彼の、この、底なしの闇と絶望に、自分も一緒に引きずり込まれてしまうのではないか、と。自分の、けなげな、しかし所詮は脆いだけの純粋さなど、彼の持つ、この、抗いがたい、しかし破壊的な「毒」の前には、ひとたまりもなく、汚され、壊されてしまうのではないか、と。 それが、おそらくは、世間一般で言うところの、「賢明」で、「正しい」反応だったのかもしれない。これ以上傷つく前に、危険なものからは距離を置く。自己防衛本能に従うなら、そうすべきだったのかもしれない。
だが、彼女は、動かなかった。一歩も、引かなかった。 彼女は、ただ、じっと、目の前の、かつてあれほどまでに完璧で、手の届かない存在に見えた男の、今は、まるで嵐に打ちのめされた迷子の子供のように、弱々しく、傷つき、そして必死な表情を、強い風に吹かれても揺らがない灯火のように、ただ、静かに、そして真っ直ぐに見つめ返していた。 そして、彼女は、その瞬間、これまでの人生で、最も重要で、そして最も困難な「選択」をしたのだ。 逃げることではなく、彼の手を振り払うことではなく、彼を可哀想だと憐れむことでもなく、ましてや、彼の過去や、今の状況を断罪することでもなく。 ただ、静かに、目の前にいる、この、傷つき、迷い、そして自分を求めている、結城 創という一人の人間の、全てを——彼の、誰もが羨むような輝かしい成功も、そして今まさに直面している、誰が見ても惨めなほどの失敗も。彼の、人を惹きつけてやまない圧倒的な強さも、そして、今、彼女の前で、痛々しいまでに晒け出されている、脆く、不器用な弱さも。彼が持つ、抗いがたいほどの、人を虜にするような魅力も、そして、その魅力の裏に、確かに潜んでいるであろう、危険な「毒気」も。その、光も、影も、彼が背負うであろう全ての困難も、彼の持つあらゆる矛盾も、その全てを、一切の条件も付けずに、丸ごと、ただ、受け入れることを。 それは、決して、お人好しな、楽観的な、あるいは感傷的なだけの決断ではなかった。彼女は、この選択が、どれほどの重みを持ち、そして、これから自分たちが共に歩むであろう道が、決して平坦ではなく、むしろ、想像を絶するほどの茨に満ちた、厳しいものになるであろうことを、おそらくは、彼女の持つ、鋭い感受性によって、本能的に、そして痛切に理解していた。世間からの冷たい非難の目。経済的な困窮。そして、何よりも、彼の持つ、複雑で、そして時には破壊的ですらあるかもしれない内面との、困難で、そして終わりが見えないかもしれない対峙。それら全てを、引き受け、そして立ち向かっていく「覚悟」を、彼女は、この瞬間に、決めなければならなかったのだ。 だが、それでも、彼女は、彼の手を、離すことはできなかった。彼を、この、深い、暗い絶望の中に、これ以上、一人で置き去りにすることは、どうしても、できなかった。なぜなら、彼女は、彼の、この、究極の弱さに触れた時、そして、彼が、最後の望みを託すかのように差し伸べてきた、その、震える手を握り返すことこそが、自分が、この、巨大で冷たい東京という街で、彼と出会い、そして、理由も分からずに、しかし抗いがたいほどに、彼に惹かれてしまった、その、たった一つの、そして絶対的な「意味」なのだと、そう、全身全霊で、強く、強く感じたからだ。 彼女は、ゆっくりと、しかし、そこには微塵の迷いもない、確かな意志を持って、彼に強く掴まれていた自分の腕を、そっと、まるで壊れ物を扱うかのように、しかし同時に、決して離さないという決意を込めて、彼の手で優しく包み返すように、両手で、しっかりと握り返した。そして、彼の、虚ろで、しかし必死に、ただ一つの救いを求めているかのような瞳を、夜の闇の中でも分かるほど、真っ直ぐに、そして強く見つめ返し、静かに、しかし、その声には、彼女が持つ、全ての誠実さと、強さと、そして揺るぎない「覚悟」を込めて、こう言った。
「……はい。……私は、ここにいます。結城さんの、すぐそばにいます。…どんなことがあっても、一人には、しませんから」
その言葉は、決して、劇的なものではなかった。しかし、その、短く、シンプルで、そして少しだけ震えた声で紡がれた言葉の中には、彼女の、損得も、計算も、そしておそらくは恐怖さえも超えた、彼に対する、深く、そして絶対的な想いが、何よりも雄弁に、そして確かに込められていた。 その瞬間、結城の、絶望に濁りきっていたはずの瞳に、ほんの一瞬だけ、まるで信じられない奇跡を目の当たりにしたかのような、深い驚きと、そして、長い、長い、暗く孤独な旅路の果てに、ようやく、探し求めていた、たった一つの、温かい安息の場所を、見つけ出したかのような、深い、深い安堵の色が、確かに浮かんだように、小春には、はっきりと見えた。 問題が、全て解決したわけではない。彼らを打ちのめす嵐は、まだ、すぐそこまで迫っている。むしろ、これからが、本当の意味での、過酷な戦いの始まりなのかもしれない。だが、この瞬間、この、東京の片隅の、古びたアパートの前の、街灯だけが照らす、薄暗い路上で、二人の心は、これ以上ないほど、強く、そして深く、永遠に解けることのない絆で、結びついたのだ。絶望の淵で交わされた、綺麗事では決してない、人間の、剥き出しの「欲」と、それを受け止め、そして共に歩むことを決めた、揺るぎない「覚悟」。それによって、彼らの、脆く、危うかったはずの繋がりは、何があっても、もう決して揺らぐことのない、誰にも壊すことのできない、確固たるものへと、静かに、しかし決定的に、昇華された。それは、彼らにとっての、新しい、そしておそらくは、真の意味での関係性の、痛みを伴う、しかし希望に満ちた、始まりの瞬間だった。
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