東京は、君の温度を知らない

nishi

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第三章:東京の毒と、二人の選択

第三章の結び

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「……一人には、しませんから」
小春の、静かだが、しかし何よりも強く、そして確かな響きを持った言葉は、まるで真冬の凍てついた大地に降り注ぐ、最初の温かい春の雨のように、結城の、絶望と自己嫌悪で完全に乾ききっていたはずの心へと、ゆっくりと、しかし深く、染み込んでいった。彼の掴んでいた腕の中で、彼女が、逆に、彼の冷たく震える手を、彼女の、驚くほど温かく、そして力強い、小さな両手で、しっかりと包み返してくれた、その感触。それは、彼がこれまでの人生で経験した、どんな高価なものよりも、どんな華やかな成功体験よりも、比較にならないほど、リアルで、温かく、そして、彼の存在そのものを肯定してくれるかのような、圧倒的な力を持っていた。
彼は、しばらくの間、ただ、呆然とその場に立ち尽くしていた。彼女の言葉の意味を、その重みを、そして、その言葉を発するために、彼女がどれほどの葛藤を乗り越え、どれほどの「覚悟」を決めたのかを、彼の、まだかろうじて機能している理性が、懸命に理解しようとしていた。目の前にいるのは、ただの世間知らずの、非力な小娘ではない。彼女は、彼の想像を遥かに超えるほどの、しなやかで、そして鋼のような強さを、その、か細く見える身体の奥深くに、秘めていたのだ。そして、その強さは、彼がこれまで信奉してきた、他者を支配し、蹴落とすことで得られる類の、冷たく脆い強さとは、全く異質の、もっと本質的で、そしておそらくは、真の意味で「強い」と呼べるものなのかもしれない。
彼の目から、理由の分からない熱いものが、止めどなく溢れ出しそうになるのを、彼は、奥歯を強く噛み締めることで、必死に堪えた。男が、人前で、ましてや、こんな状況で、涙を見せるなど、あってはならない。それは、彼に残された、最後の、ちっぽけなプライドだったのかもしれない。 「……馬鹿な女だ、君は」 ようやく、彼は、掠れた声で、そう呟くのが精一杯だった。それは、罵倒の言葉のようでありながら、同時に、彼が、これまでの人生で、誰かに向けて発した、最も率直で、そして最も深い、感謝と、そしておそらくは愛情に近い感情の、不器用な表現だったのかもしれない。 小春は、彼の言葉に、少しだけ困ったように、しかし、やはり穏やかに微笑み返した。そして、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、そっと、彼の腕から自分の手を離すと、今度は、彼の、乱れたスーツのジャケットの襟を、優しく直してくれた。それは、あまりにも自然で、そしてあまりにも親密な仕草だった。 「…帰りましょう、結城さん。ここは、寒いです」 彼女は、そう言って、彼の、まだどこか虚ろな目を、じっと見つめた。
その夜、彼らが、その後どうしたのか、結城の記憶は、ひどく曖昧だった。おそらく、彼は、ほとんど無意識のうちに、彼女に導かれるままに、彼女の、あの、狭くて、しかし不思議と居心地の良かったアパートの部屋へと、招き入れられたのだろう。そして、彼女が淹れてくれた、温かい、しかし味のしない白湯を、ただ黙って飲み干したことだけを、断片的に覚えていた。言葉は、ほとんど交わさなかったはずだ。いや、交わす必要がなかったのかもしれない。彼らの間には、もはや、言葉を超えた、もっと深く、そして確かな繋がりが、生まれていたからだ。
もちろん、彼らを襲った嵐が、これで過ぎ去ったわけでは、決してない。ネクストリーム社が直面している経営危機は、依然として深刻であり、法的な問題、資金繰りの問題、そして失墜した社会的信用の回復という、あまりにも巨大で、そして困難な課題が、山のように横たわっている。結城が、再び、以前のような成功を取り戻せる保証など、どこにもない。むしろ、全てを失い、文字通り、ゼロから、あるいはマイナスからの再出発を余儀なくされる可能性の方が、はるかに高いだろう。そして、彼らの前には、世間の冷たい目や、過去の人間関係からもたらされるであろう、さらなる困難や試練が、待ち受けていることも、想像に難くない。
だが、それでも、何かが、決定的に変わったのだ。 結城は、もはや、一人ではなかった。彼が、どれほど深く絶望し、どれほど打ちのめされようとも、彼の隣には、彼の全てを受け入れ、そして「一人にはしない」と、揺るぎない覚悟を持って宣言してくれた、佐伯小春という存在がいる。その事実が、彼の、砕け散ってしまったはずの心の中に、まるで暗闇の中に灯された、小さな、しかし決して消えることのない、希望の灯火のように、温かい光を投げかけていた。彼は、まだ戦える。いや、彼女のために、そして、彼女と共に生きる未来のために、戦わなければならないのだ、と。そう、強く思うようになっていた。 そして、小春もまた、自分の選択の重さを感じながらも、後悔はしていなかった。彼女が選んだ道は、確かに、険しく、困難に満ちているだろう。だが、彼女は、結城 創という人間の、光も影も、強さも弱さも、その全てを知った上で、それでも、彼のそばにいることを選んだのだ。それは、彼女にとっての、初めての、そしておそらくは人生で最も重要な「覚悟」だった。そして、その覚悟が、彼女の中に、これまで知らなかったような、静かで、しかし確かな強さを与えてくれていた。
最大の危機は、まだ去ってはいない。ビジネスの再建、失われた信用の回復、そして、おそらくは法的な戦い。解決しなければならない課題は、依然として山積みだ。だが、その、最も暗く、そして最も困難な時期を、互いの存在を支えとして、そして互いへの揺るぎない想いを胸に、共に乗り越えたことで、結城と小春の絆は、もはや何ものにも壊されることのない、本物の、そしてかけがえのないものへと、確かに変わっていた。
彼らの、新しい関係性は、まさに今、始まったばかりだ。それは、決して甘いだけの、おとぎ話のような恋ではない。現実の厳しさ、人間の弱さ、そして社会の非情さ。それら全てを内包した、痛みと、葛藤と、しかし、それらを乗り越えるだけの、強い意志と、深い愛情に裏打ちされた、大人の関係性。
これから、彼らは、この東京という、美しくも残酷な街で、どのようにして、自らの足で立ち上がり、そして、二人で共に、未来を築いていくのだろうか。結城は、失ったものを取り戻すことができるのか。そして、彼は、小春という光によって、本当に変わることができるのか。小春は、彼の「毒」に染まることなく、彼女自身の輝きを保ち続けることができるのか。そして、二人は、この、あまりにも対照的で、しかし強く惹かれ合う関係性の先に、どのような「答え」を見つけ出すのだろうか。
終章への、期待と、そして、まだ終わらない物語への、確かな予感を、読者の胸に深く刻みつけて、第三章の幕は下りる。彼らの戦いは、そして、彼らの愛の物語は、まだ、始まったばかりなのだ。
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