異世界転移者の日常生活風−−戦乱を添えて

おたべ ひとり

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二章

プロローグ

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 この世界では、死が近い。

 セレナ・ド・ラ・ヴァリエール――。

 ヴィンセント港領において「薔薇」と称されるその令嬢は、朝になると、屋敷の鏡の前で完璧な淑女の仮面を被る。

 背筋を伸ばし、慈愛に満ちた微笑みを浮かべれば、それでいい。


 戦争は遠い場所で起きているはずなのに、このヴィンセント港領には傭兵と難民、そして武器だけが絶え間なく流れ込んでくる。

 城壁の外には魔物が出没し、内側でも刃傷沙汰は珍しくない。

 剣を持たぬ者は弱く、魔法を使えぬ者はなお弱い。

 そして、人間は属性魔法を使えない。


 火や水、雷といった力は、魔物や亜人種だけがその心臓に宿す「魔石結晶」を通して操るものだ。

 だが、人間にも抗う力はある。

 特定の神を信仰し、その教義に身を委ねることで、人間は神聖魔法を使えるようになる。


 それは癒やしや防護だけでなく、時には身体を鋼より硬く、岩より重く変える力として顕れることもある。

 使える魔法の性質は信仰する神によって異なり、信心が深いほど、その力は安定する。

 街の住人の多くは神殿に通い、荒くれ者の冒険者でさえ、戦いの前には祈りを捧げる。

 それがこの世界の「常識」だ。


 ――そして、セレナは祈る。

 彼女は静かに、自室の奥に鎮座する軍神の祭壇へと向かう。

 戦神アキレス。

 かつて数多の戦場を蹂躙し、不敗を誇ったとされる伝説の神だ。


「……チッ、やってらんねーわ」


 鏡の中の淑女が、ドスの利いた声を漏らす。

 慣れた手つきで細い煙草を挟み、紫煙を吐き出しながら、彼女は戦神に身を委ねる。

 高貴な血筋としての矜持を保つ一方で、その内側には、この混沌とした街の空気に当てられた、暴力的なまでに荒々しい気性が同居していた。


 魔法は属性を操るだけではない。

 信仰がもたらす「身体強化」は、一振りの扇子を凶器に変え、しなやかな拳を城門さえ砕く鉄槌へと変える。

 信心は深い。

 だが、それは敬虔な祈りというより、暴れ馬のような闘争心の手綱を神に預けているに等しい。


 自室の奥で拳を握り込むと、空気が震えた。

 足音が一つ。

 絨毯を静かに踏みしめる、隙のない足音。


 セレナは顔を上げ、背後の男を鏡越しに睨む。

 執事、ヴィクターだ。

 彼は室内を満たす紫煙に一瞬だけ不快そうに眉根を寄せ、微かに顔をしかめたが、すぐに無表情に戻って銀のトレイに載せた灰皿を差し出す。

 セレナもそれに応えるように、短くなった吸い殻を執拗に灰皿へと押し付けた。


 豪奢なデスクの上に、ずしりと重い執務書類が置かれた。

 セレナはそれを受け取り、無言で中身に目を通し始める。

 作業の合間に、短いやり取りがいくつか交わされる。

 内容は仕事とは関係のない、不敬極まりない不満。


 やがて、彼女の手が止まり、方針が決まる。

 それを伝えると、執事は納得した様子で深く一礼した。


 しばらく言葉を交わした後、男は部屋を出ていった。

 扉が閉まる直前、二人はもう一言、静かに言葉を交わす。


 あとに残ったのは、元の静けさと、かすかに残る煙の残滓だけだった。

 セレナは仮面を再び被り、次の社交の準備に戻る。


 夜、遠くで鐘が鳴る。

 神に守りを願う、祈りの音だ。

 セレナは部屋の灯りを消す。

 口の端から、か弱い救いを求める言葉が零れることはない。


 剣も属性魔法も必要としない女は、言葉の代わりに、戦神の加護をその拳に宿す。

 死が身近なこの世界で、それでも街は回り、明日も秩序は必要とされる。


 セレナ・ド・ラ・ヴァリエールは、その一端を担って生きている。
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