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黒麦の価値

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「そんなことをいってるんじゃねえだよ!」

 マーシャル王女殿下に見送られてインフォメーションセンターから出たアタシは、苛立ったように叫ぶ男性の声を聞いた。
 揉め事かと建物から出てこようとした王女を手で制し、困り顔で宥めようとしている売り子のメルカンちゃんと、王国民と思われる中年男性を観察する。

「ご心配なく。魔王の隠れ家うちのお客さんが、商品について質問されてるだけよ」
「そうは見えんぞ。王国の人間が万が一にも魔王領の者と……」
「大丈夫、不安ならここで見ててくださいな。どんなお客さんだろうと、きちんととりこにしてみせますから」

 不満そうな殿下を置いて、アタシは笑顔で男性に近付く。
 歳の頃は40代半ば、赤茶けた首筋と節くれ立った両手は、厳しい労働で鍛え上げたベテランの農夫といったところ。短く刈り揃えられた茶色い髪は癖が強く、難儀な性格を表しているようだ。
 カウンターにはメニュー表といくつかの大銅貨。メルカンちゃんの手には数種類のボトル。彼はウィスキーをオーダーしようとして、何か疑問を持ったのだ。

「いらっしゃいませ、お客様。アタシがこの店のオーナー、ハーンです。何かお困りですか?」

 向き合うと、男性は少しホッとしたような顔になった。
 彼は酔っているわけではない。粗末な木綿地ながら、身なりも清潔で、態度も冷静。理不尽に怒っている様子もない。それどころか、声を荒げてしまったことに恥じ入るような態度さえ見せている。

「あ、ああ。アンタに訊きたいことがあるだよ。何でライ麦の酒だけが高けぇんだ。おかしいだろ。大麦麦芽モルトトウモロコシコーン複合穀物グレーン小盃一杯ワンショット大銅貨3枚で、なんで、いっちばん安くて人気のぇライ麦のんだけが大銅貨3枚と銅貨1枚なんだ」

 なるほど。農家からすると価値が著しく低い――あるいは、需要が落ちて低く扱われつつある――ライ麦のウィスキーだけが高額なのが理解出来ないのだ。
 ふんわり上品な小麦パンに押されて、王国でも敬遠されるようになったらしいボソボソして堅くて癖のある黒パン、もしくは家畜の飼料用に叩き売られるのがライ麦の位置付けなのだろう。

 ふと視線を逸らすと、アタシたちを遠巻きに眺めている人たちの顔にも、野次馬根性じゃない純粋な興味が、ありありと浮かんでいる。

「この娘さんは、“安いのも、ちゃんと美味しいですから他のを呑まれてはいかがですか”って、いってくれたども。俺は、たかが銅貨1枚を惜しんでるんじゃねえだよ。理由が、知りてぇ。それだけだ」

「ああ、それはごもっとも。申し訳ないのですけど、ウチの店員はまだお酒を呑める年齢じゃありませんので、適切な説明が出来なかったようです。その点はお詫びいたしますが……お客さんの疑問に対する答えは、簡単です」

「ほな、なんでだ?」
「いちばん高額なのは、いちばん美味しいからです」

 一瞬ポカンと呆けた顔をした彼は、小馬鹿にされたとでもいうように再び苛立った表情を浮かべる。
 正確にいうとライ麦によるウィスキーの生産が最も難航し、出荷量が少ないからなのだけれども、価値として低いわけではない――むしろ最も力を入れていることだけはハッキリさせなければいけない。
 アタシはメルカンちゃんにショットグラスを4つもらってカウンターに並べ、それぞれに違うウィスキーを注いだ。

「疑われるのもわかりますが、証明してみせましょう。さあ」
「さあ、って……」

 意味がわからないとでもいいたげな表情で、男性は首を振る。カウンターに置かれた大銅貨を指し、真っ直ぐな目でアタシを見た。
 良い顔・・・だ。ジャガイモみたいに朴訥ぼくとつ偏屈へんくつ、そして生き方に・・・・迷いがない・・・・・

「違うだよ、俺は酒をタカりたいんじゃねえ。1杯だけ、試しに呑みたかっただけだ。自分が作ったライ麦が、どんな風に・・・・・扱われているのかを」

 アタシは笑う。
 なんだ、ここに・・・いたんだ・・・・

「何がおかしいだ?」
「あなたを、お待ち・・・してました・・・・・。王国でライ麦を生産しておられる農家の方を、紹介してもらう予定だったんですよ。お代は結構、ただし全部呑んでもらいます。それが、あなたの責任・・・・・・なんですから」
「わかんねえだよ! そりゃあ、いったい、どういう意味だ?」
ライ麦を・・・・馬鹿にするな・・・・・・といっているんです」

 ますます理解出来ないという顔で、男性は差し出されたショットグラスを眺める。

「呑んでくださいな。後悔なんて、させませんから」

 不承不承、彼はショットグラスを手にする。
 まずは左端から。香りを嗅ぎ、口に含んだ後で、ひと息で呑み干す。

「大麦か」
「ええ。悪くはないでしょう?」
「ああ、うめぇ。味が真っ直ぐまっつぐで、素直だ。こんなの、呑んだことがねえ。それにしても、なんて豊かな香りだ。鼻面から麦畑を突っ込まれたみてぇな気分だよ」

 あら、詩人ね。このひとと仕事がしたいって、思うタイプの相手。
 小さく息を吐くと、隣のショットグラスに手を伸ばす。クンとひと嗅ぎしてキュッと呑み干し、小首を傾げて鼻から息を吐く。
 テイスティングとしては乱暴だけど、キツいお酒の味わい方としては、嫌いじゃない。

「こりゃ、トウモロコシだな。大麦より甘くて優しくて、香ばしい後味がある」
「そうです。たぶん、安く大量に作るとしたら、これが中心になると思いますね」
「良いんじゃねえかな。みんなに好かれる味だ」

 その隣のグラスは、複合穀物グレーン。これは特定の素材というよりも、オリジナルのブレンドウィスキーを作ろうとしたものだ。
 どのくらい個性クセを出し、どのくらい素材感を出し、どのくらい親しみやすさを出すか。まだ煮詰め切れてない部分は多いけれども、現時点ではこれが魔王領醸造部隊うちが出したひとつの解答だった。

 彼は呑み干して、少し迷うような顔になる。

「どうです?」
「すごくうめぇ、が……俺は、好きじゃねえ」
「あら」
「悪くいうつもりはねえ。好みの問題だ。こいつ・・・は、着飾った玄人女みてえに感じる。こいつを抱くのは、俺じゃ・・・なくても・・・・良い・・

 今度はアタシが、ポカンとする番だった。
 思わず笑いながら涙を流し、中年農夫の背中を叩く。岩でも叩いたみたいに、硬くてどっしりした背中だった。

「素晴らしいわ。あなた、お名前は?」
「あ? ああ……ロートウェル。王国の隅っこにあるケイアル村で、ライ麦と燕麦を作ってる」
「お父さん!!」

 若い女の子が、半泣きの表情で駆け込んでくるのが見えた。ロートウェルさんにそっくりな栗毛の天然パーマで、王国店員のエプロンドレスを着てる。
 彼女は父親の腰に組み付くと、店から引き摺り出そうと必死になっている。当然のことながら鍛え上げた偉丈夫の身体はビクともせず、女の子の顔は汗と涙でグシャグシャになる。

 なに、これ。

 駆け込んで来た女の子の後ろには、見覚えのある少女たち。ええと……赤毛のチビッ子と、巻き毛のお嬢さま風。ついでにウチの人狼少女、カナンちゃんまで。
 ってことは、もしかしてこのクリクリパーマも、王国のパティシエ・ガールズ?

「パフェルちゃん、落ち着いて。大丈夫だから!」
「だ、大丈夫じゃない、もうお終いよ! ようやく手に入れたチャンスだったのに、こんなところで揉め事を起こして、何もかも台無しにするつもり!? わたしたちがどれだけ真剣にやってきたか知らないでしょ! 生きるか死ぬか、最後の勝負だったのよ!?」

「俺もだ」

「は!?」

「お前が、必死に頑張ってきたのは知ってる。だから俺も、最後の勝負のつもりだった。自分が出来る最高の……」
「最高の、ライ麦・・・!? それを、誰に味わってもらうのよ!? 牛!? 馬!? それともロバ!? ふざけるのもいい加減に……」

 パシンと、叩かれた音で周囲が静まり返る。

 激昂していた少女は、頬を押さえて目を見開き硬直する。殴られたことに、ではない。
 怒りに満ちた表情で自分を睨みつけているのが、誰なのかに気付いたからだ。

「……ま、おう、陛下」

「あ? 魔王? 誰がだ」

 娘が指差す方に目をやり、ロートウェルさんは怪訝そうにアタシを見る。
 ハーンて名乗ったのに、いままで知らんかったんかい。まあ、知らないわよね。

「ごめんなさいね、ロートウェルさん。娘さんに手を上げてしまって。そのことについては、後でいくらでもお詫びをするわ」
「あ、いや……それは、その」
「それでも、許せないものは許せないの。他人の努力と成果を知ろうともしないで、何に支えられて生きているのかも理解出来ない人間が、身勝手な罵倒をする権利なんてない」

 泣き崩れそうになるパフェルちゃんとやらを、周囲の仲間たちが支える。
 彼女自身は、怯えるべきか、恥じるべきか、いきどおるべきか、自分でもわかっていないようだ。

「パフェル、っていったかしら。お父さんの……いえ、生産者の仕事に感謝出来ないなら、あなたは要らない。職人や料理人だけで作り上げられるとでも思ってるなら、そんなひと、ここに居て欲しくないわ」
「ま、待ってください、陛下。違うんです、彼女は……」
「邪魔よ。出てって」

 アタシに命じられた少女たちは、店先からは退去したものの、そこで抱き合ったまま動かなくなる。死刑宣告でも受けたみたいに、というかアタシにその自覚はなかったけど発言はそれに近いものだったのだろう。
 周囲の誰もが身動き出来ないまま、固唾を呑んで結末を見守っている。

「ケチがついちゃったみたいだけど、仕事の話をしましょう」

「仕事、って……でも、俺はもう……いいんだ」

「いいわけないでしょうが。あなたと、ケイアル村の。いえ、王国と、魔王領の、未来の話よ。逃げるのは簡単だけど、逃げた先に何があるっていうの?」

「わかんねえ。あんたが、いや魔王陛下が、何をいってるのか、何をしようとしてるのか、学も知識もねえ俺は、さっぱりわかんねえんだよ」

「学だの知識だの、知ったこっちゃないわ。そんなもの、アタシだってないわよ。でも、自分が何をしようとしてるのかはわかってる。幸せになるのよ。もう誰も飢えさせたりしない。誰にも惨めな思いなんてさせない。あなたは違うの・・・・・・・?」

 激流のなかで孤立したみたいに、彼だけがひとり群衆の中心で立ち尽くしている。
 それでも、周囲を見渡したりしない。誰かの助けを求めたり、他人の顔色を窺ったりもしない。自分の足で立ち、自分の頭で考える。

「……いや、違わねえ。前に、進まなきゃって、思ってたんだ。でも、ケイアル村は、痩せてて、ライ麦と燕麦しか、できねえ。どうしたらいいか、わからねえが、ライ麦を育てるしか、俺には……」

 ひどく居心地悪そうな顔で、ライ麦農夫はアタシと向き合う。
 最後に残ったショットグラスを差し出すと、彼はそれを手に取り、毒杯でも呷るみたいに喉へと流し込む。周囲を取り囲んでいた観衆たちが、痛ましいものでも見るように眉をひそめ、溜息をいた。

ああ・・

 彼は仰向いたまま、喉の奥で小さく声を上げる。
 信じられないものを見るような泣き笑いの表情で、厳つい顔をクシャッと歪める。

「あなたは、進んでたのよ。ずっと、少しずつ、ちゃんと、進んでたの。自分がどこにいるか、見えてなかっただけ。いまは・・・見える・・・でしょう?」

「ああ、そうだな。魔王陛下、俺は、間違ってなかった。こいつはうめぇ。こいつが……俺のライ麦が、どれより・・・・なにより・・・・いっちばん・・・・・うめぇ」

 王国文化振興計画の一環として、ライ麦ライ・ウィスキーはひと足先に、製造設備を魔王領からケイアル村に移管することが決まった。
 翌年から本格生産が始まった王国産ライ・ウィスキーは、クセは強いものの深みのある味で、中年男性を中心に高評を得る。
 後に何度かの改良を重ねてケイアル・ウィスキーと名付けられたそれは、王国を代表する蒸留酒、“朴訥で実直な、気高く熱い男の酒”として確固たる地位を築くことになる。

 魔王領にも莫大なライセンス料と指導料を落とすことにはなったのだけれども、アタシとしては、どうしても許せないことがひとつだけある。
 彼らは何度いっても、“頬を押さえて座り込む可憐な娘”をラベルに使うのだけは、止めようとしなかったのだ。
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