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第一章
苦しい日々の追憶
深い眠りの中、セレンティアの意識は、避けたい過去の断片へと引きずり込まれていった。
『今日の食事はなしよ。あんな失敗をするなんて、この家の恥だもの』
冷たい目をした「母」の声。目の前には地面に投げつけられた皿とスープ。そして空腹でしくしくと痛む胃。
『お姉様、どうして意地悪するの? 私のドレスを汚すなんて……私、何か悪いことしたのかしら? 大事な人からのプレゼントなのに……』
クラリスが大勢の貴族の前で、涙を浮かべて被害者を演じる。周囲から向けられる、非難と憐れみの混じった視線。
弁明しても意味がないことを知っている。私はただ、下を向いて黙っているしかなかった。
『この魔力もない役立たずが! お前の価値は、ただ俺の力になることだけだ! 覚えておけ!』
暗く湿った地下室。「父」である侯爵の怒声が壁に響く。鍵のかかる音。暗闇の中、一人、膝を抱えて震える自分。
『エリーゼ、お前は本当に陰険だな。クラリスとは大違いだ。二度と近づくんじゃない』
エドワードの軽蔑の眼差し。彼はクラリスと腕を組み、私を見下ろす。胸が締め付けられるような痛み。
映像、音、感情が、秩序もなく、嵐のように押し寄せる。
(嫌だ……もうやめて……。ごめんなさい……もう二度としません……どんなことでもしますから……)
眠りの中で、彼女は苦しそうに体をよじらせる。額に冷や汗がにじみ、呼吸が浅く、早くなる。
(逃げ出したい……どこかへ……。誰か……お願い……助けて……)
しかし、暗闇は彼女を容赦なく締め付ける。そこには、優しい紺色の瞳も、温かな手もない。ただ、記憶の中で繰り返される、終わりのない苦しみだけがあった。
「……ぁ……っ……」
微かな泣き声が、寝室に響く。彼女の指がシーツを強く掴み、皺くちゃにする。
この悪夢は、彼女がこれから乗り越えねばならない、癒えることのない傷の深さを物語っていた。たとえ物理的にあの家を離れ、温かい家族に囲まれても、心の傷はそう簡単には消えないのだ。
そして、そうして苦しむ彼女を、アルデリカは静かに見守っていた。
セレンティアが悪夢にうなされ、苦しそうな息づかいをしているのを寝床の傍らで見守りながら、アルデリカの心は、遠い、忌まわしいあの日に引き戻されていた。
――あの日、公爵邸は地獄のような騒然とした空気に包まれていた。
「セレンティア様がおられません!」
一人のメイドの絶叫を皮切りに、屋敷中がパニックに陥った。ほんの一瞬、目を離した隙に、赤子だった末妹の姿が、ゆりかごから消えていた。
「どこにいるんだ!? 皆で探せ!」
父の悲痛な叫び。家臣や使用人たちが総出で屋敷中、庭中をくまなく探し回る。しかし、跡形もない。
「私が……私が見つけに行くわ」
「だめです、奥さま!」
「いいえ行くわ! 必ず見つけられる。……お願い」
当時、まだ若かった母の顔は、恐怖と悲壮感で歪んでいた。彼女は、泣き叫ぶアルデリカとギルバート、引き止める夫を置いて、たった一人、馬に飛び乗って邸宅を飛び出した。
――そして、二度と帰っては来なかった。
数日後、母の愛馬だけが、泥と何かしら暗い染みをまとって邸宅に戻ってきた。母の行方はついにわからず、やがて「事故死」として処理された。
あの日から、カルデンシア公爵家はより一層、外部に対して冷徹で、閉ざされた世界と呼ばれるようになった。笑い声は消え、屋敷には重い沈黙が蔓延った。父の表情はより険しく、ギルバートは無口になった。
そしてアルデリカは――。
アルデリカはあの日のことを、毎日毎日思い出しては苦しんだ。
「アルデリカ、お願い。しばらく妹の面倒をみてくれる?」
「うん!」
そう、言われていたのに。
ほんの少しの間だけだった。あの時彼女は、まだ歩き始めたばかりのセレンティアが、庭の可憐な花々に興味津々で手を伸ばしているのを見ていた。
(あの花、摘んであげよう。きっと喜ぶわ)
ほんの一瞬、目を離した。たったそれだけの時間だった。彼女が振り返った時、ゆりかごは空だった。
当然、その場にいたべきメイドも、同時に何かに気を取られて目を離していた。今思えば、それはあまりに不自然な偶然だ。あのメイドには明らかに落ち度があり、その後、厳しく尋問された末、追放された。しかし――。
(それでも……もし私が、あの時、彼女から目を離さなければ……。もし私が、もっとしっかりした姉だったなら……)
その思いが、十数年間、アルデリカの心を蝕み続けた。
彼女はより強く、より聡明に、より完璧であろうと努力した。すべては、あの過ちを二度と繰り返さないため。すべては、残された家族を守るため。そして、すべては――自分自身に対する、終わりのない贖罪のためだった。
「……ぁ……っ……やだ……」
ベッドで苦悶するセレンティアの声に、アルデリカは我に返った。
彼女は深く息を吸い、絹のハンカチで妹の汗ばんだ額をそっと拭った。
「大丈夫よ、セレンティア」
彼女の声は、普段の冷静さを装いながらも、わずかに震えていた。
「ここには、もうあなたを傷つける者はいない。あなたは、もうあの家にはいないの」
アルデリカはそっと手を伸ばし、セレンティアの握りしめた小さな拳を包み込んだ。
(今回は、絶対に……。二度と、お前を離さない。二度と、お前を傷つけさせない)
その固い決意が、アルデリカの瞳に、静かな炎を灯した。彼女のこれまでの全ての努力と、冷徹ささえもが、この瞬間のためにあったのだと、自分に言い聞かせるように。
失われた母。行方不明だった妹。傷ついた家族。
この手で、残された今を守り抜く。それが、姉としての、そしてあの日の過ちを背負い続ける者としての、彼女なりの償いの形だった。
『今日の食事はなしよ。あんな失敗をするなんて、この家の恥だもの』
冷たい目をした「母」の声。目の前には地面に投げつけられた皿とスープ。そして空腹でしくしくと痛む胃。
『お姉様、どうして意地悪するの? 私のドレスを汚すなんて……私、何か悪いことしたのかしら? 大事な人からのプレゼントなのに……』
クラリスが大勢の貴族の前で、涙を浮かべて被害者を演じる。周囲から向けられる、非難と憐れみの混じった視線。
弁明しても意味がないことを知っている。私はただ、下を向いて黙っているしかなかった。
『この魔力もない役立たずが! お前の価値は、ただ俺の力になることだけだ! 覚えておけ!』
暗く湿った地下室。「父」である侯爵の怒声が壁に響く。鍵のかかる音。暗闇の中、一人、膝を抱えて震える自分。
『エリーゼ、お前は本当に陰険だな。クラリスとは大違いだ。二度と近づくんじゃない』
エドワードの軽蔑の眼差し。彼はクラリスと腕を組み、私を見下ろす。胸が締め付けられるような痛み。
映像、音、感情が、秩序もなく、嵐のように押し寄せる。
(嫌だ……もうやめて……。ごめんなさい……もう二度としません……どんなことでもしますから……)
眠りの中で、彼女は苦しそうに体をよじらせる。額に冷や汗がにじみ、呼吸が浅く、早くなる。
(逃げ出したい……どこかへ……。誰か……お願い……助けて……)
しかし、暗闇は彼女を容赦なく締め付ける。そこには、優しい紺色の瞳も、温かな手もない。ただ、記憶の中で繰り返される、終わりのない苦しみだけがあった。
「……ぁ……っ……」
微かな泣き声が、寝室に響く。彼女の指がシーツを強く掴み、皺くちゃにする。
この悪夢は、彼女がこれから乗り越えねばならない、癒えることのない傷の深さを物語っていた。たとえ物理的にあの家を離れ、温かい家族に囲まれても、心の傷はそう簡単には消えないのだ。
そして、そうして苦しむ彼女を、アルデリカは静かに見守っていた。
セレンティアが悪夢にうなされ、苦しそうな息づかいをしているのを寝床の傍らで見守りながら、アルデリカの心は、遠い、忌まわしいあの日に引き戻されていた。
――あの日、公爵邸は地獄のような騒然とした空気に包まれていた。
「セレンティア様がおられません!」
一人のメイドの絶叫を皮切りに、屋敷中がパニックに陥った。ほんの一瞬、目を離した隙に、赤子だった末妹の姿が、ゆりかごから消えていた。
「どこにいるんだ!? 皆で探せ!」
父の悲痛な叫び。家臣や使用人たちが総出で屋敷中、庭中をくまなく探し回る。しかし、跡形もない。
「私が……私が見つけに行くわ」
「だめです、奥さま!」
「いいえ行くわ! 必ず見つけられる。……お願い」
当時、まだ若かった母の顔は、恐怖と悲壮感で歪んでいた。彼女は、泣き叫ぶアルデリカとギルバート、引き止める夫を置いて、たった一人、馬に飛び乗って邸宅を飛び出した。
――そして、二度と帰っては来なかった。
数日後、母の愛馬だけが、泥と何かしら暗い染みをまとって邸宅に戻ってきた。母の行方はついにわからず、やがて「事故死」として処理された。
あの日から、カルデンシア公爵家はより一層、外部に対して冷徹で、閉ざされた世界と呼ばれるようになった。笑い声は消え、屋敷には重い沈黙が蔓延った。父の表情はより険しく、ギルバートは無口になった。
そしてアルデリカは――。
アルデリカはあの日のことを、毎日毎日思い出しては苦しんだ。
「アルデリカ、お願い。しばらく妹の面倒をみてくれる?」
「うん!」
そう、言われていたのに。
ほんの少しの間だけだった。あの時彼女は、まだ歩き始めたばかりのセレンティアが、庭の可憐な花々に興味津々で手を伸ばしているのを見ていた。
(あの花、摘んであげよう。きっと喜ぶわ)
ほんの一瞬、目を離した。たったそれだけの時間だった。彼女が振り返った時、ゆりかごは空だった。
当然、その場にいたべきメイドも、同時に何かに気を取られて目を離していた。今思えば、それはあまりに不自然な偶然だ。あのメイドには明らかに落ち度があり、その後、厳しく尋問された末、追放された。しかし――。
(それでも……もし私が、あの時、彼女から目を離さなければ……。もし私が、もっとしっかりした姉だったなら……)
その思いが、十数年間、アルデリカの心を蝕み続けた。
彼女はより強く、より聡明に、より完璧であろうと努力した。すべては、あの過ちを二度と繰り返さないため。すべては、残された家族を守るため。そして、すべては――自分自身に対する、終わりのない贖罪のためだった。
「……ぁ……っ……やだ……」
ベッドで苦悶するセレンティアの声に、アルデリカは我に返った。
彼女は深く息を吸い、絹のハンカチで妹の汗ばんだ額をそっと拭った。
「大丈夫よ、セレンティア」
彼女の声は、普段の冷静さを装いながらも、わずかに震えていた。
「ここには、もうあなたを傷つける者はいない。あなたは、もうあの家にはいないの」
アルデリカはそっと手を伸ばし、セレンティアの握りしめた小さな拳を包み込んだ。
(今回は、絶対に……。二度と、お前を離さない。二度と、お前を傷つけさせない)
その固い決意が、アルデリカの瞳に、静かな炎を灯した。彼女のこれまでの全ての努力と、冷徹ささえもが、この瞬間のためにあったのだと、自分に言い聞かせるように。
失われた母。行方不明だった妹。傷ついた家族。
この手で、残された今を守り抜く。それが、姉としての、そしてあの日の過ちを背負い続ける者としての、彼女なりの償いの形だった。
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