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※
今まで気づかなかっただけで、私たちはいつも同じ車両に乗り合わせていたらしい。
こうして意識するようになると、いろいろなことに気づく。
彼女は私が乗る駅よりも前から乗っていること。
私が降りるひとつ前の駅で降りること。
シートには座らず、いつでも立っていること。
私がドア近くのシートを指定席にしているように、彼女にも愛用のつり革があるらしいこと。
ケイタイはスマートフォンで、取り出す頻度からメールかラインの返信が主な使い道らしいこと。など。
情報が増えていくにつれて、親しみもわいてくる。
それは彼女も同じだったらしく、いつからか、私たちは目があうと微笑みあうぐらいには親しくなっていた。
ただ、物理的な距離―― 歩数にして三歩の距離―― は、そのままだった。
お互いに自分のお気に入りの場所があるということ。それから、この距離感が丁度よいということもあっただろう。
声のでない私は、とくにその思いが強かった。
だから。
彼女が勇気をふり絞らなければ、関係はずっとこのままだったはずだ。
その日も、私はいつもの電車にのり、いつもの場所に腰をおろして、いつものようにつり革につかまる彼女を見つけた。
彼女も私に気がついた。
私たちはいつものように小さく微笑みあい、いつものようにすぐ目をそらそうとして――
でも、彼女は目をそらさなかった。
真剣な眼差しで私を見つめたままつり革から手をはなすと、不思議な手仕草を始めた。
右手を耳の近くまで持ち上げてこぶしを作り、
次に、両手を人差し指だけ立てた形にして胸元へ持っていき、
その指を軽く折り曲げる。
それだけだった。
私は何が起きたのかわからず、間の抜けた顔で彼女を見てしまう。頭の上にはいくつものクエッションマークが飛び出していたにちがいない。
彼女は口を開けて目を丸くしている私を見て、もう一度微笑んだ。
少し残念そうに目を細めて。
彼女のそうした行動はそれきりで、次の日からはまた何事もなかったように微笑むだけになった。
私もいつも通りに微笑みを返したけれど―― 何事もなかったことにはできなかった。
今までのルールを破ってまで彼女がした行為なのだ。意味がないわけがない。
何かのジェスチャー?
耳のあたりでこぶしを作る仕草は…… 電話?
両手を人差し指だけ立てた形にして折り曲げる仕草は…… クワガタ?
電話とクワガタ。
二つを合わせると 電話をかけてきたのはクワガタだったよ という意味になる。
絶対にちがう。
学校で友人に聞いてみても(もちろん筆談だ)、首をかしげるか、私と似たようなトンチンカンなことを言うばかり。
家に帰って聞いてみても、姉は私と同じようなものだったし、母にいたっては、それよりもカウンセリングはちゃんと通っているのと、トゲのある質問をかえしてきた。なかなか回復しない私に苛立っているのだ。
手っ取り早いのは彼女に直接聞くことだけど、その勇気はない。
だいたい、この前のジェスチャーは何だったのですかと書いた大学ノートをいきなりつきつけたりしたら、驚かせる程度ではすまないだろう。
結局、自分で答えを見つけるしかなかった。
きっかけは、これといった目的もなくテレビを観ているときだった。
民放の安っぽいバラエティ番組が終わると、次の番組までのつなぎに流れるニュースが始まった。
男性キャスターがあいさつをして、今日の出来事を淡々と伝えていく。
だけど私が注目したのは彼ではなく、画面の右端に映る女性だった。
丸く切り取られた枠の中で、しきりに手を動かしている女性。
それは、手話だった。
女性は手話でニュースを伝えていたのだ。
声がだせたなら、私はきっと叫んでいただろう。
そうだ。手話だ!
私は自分の部屋に急いで戻り、机の上のスマートフォンをつかみ取って動画サイトに接続した。
検索ワードは 【動画 手話】。
再生時間の短い、手話のワンフレーズ動画を手当たり次第に確認していく。
目当ての手話はすぐに見つかった。
耳のあたりでこぶしをつくり、次に、両手を人差し指だけ立てた形にして折り曲げる仕草。
おはよう。
私は両手で太ももを叩いた。
そうだ。彼女はおはようと言ったのだ。
それがわかっていたなら、私もおはようと―― 耳のあたりでこぶしをつくり、それから両手を人差し指だけ立てた形にして折り曲げる仕草で―― 返していたのに。
叫びたかった。
正解にたどりつけた喜びを表現したくて。
口を大きく開け、お腹に力を入れて、喉から絞り出すように声を吐き出す。
一度。二度。
三度。
私の口からでてきたのは、息が漏れる音だけだった。
※
今まで気づかなかっただけで、私たちはいつも同じ車両に乗り合わせていたらしい。
こうして意識するようになると、いろいろなことに気づく。
彼女は私が乗る駅よりも前から乗っていること。
私が降りるひとつ前の駅で降りること。
シートには座らず、いつでも立っていること。
私がドア近くのシートを指定席にしているように、彼女にも愛用のつり革があるらしいこと。
ケイタイはスマートフォンで、取り出す頻度からメールかラインの返信が主な使い道らしいこと。など。
情報が増えていくにつれて、親しみもわいてくる。
それは彼女も同じだったらしく、いつからか、私たちは目があうと微笑みあうぐらいには親しくなっていた。
ただ、物理的な距離―― 歩数にして三歩の距離―― は、そのままだった。
お互いに自分のお気に入りの場所があるということ。それから、この距離感が丁度よいということもあっただろう。
声のでない私は、とくにその思いが強かった。
だから。
彼女が勇気をふり絞らなければ、関係はずっとこのままだったはずだ。
その日も、私はいつもの電車にのり、いつもの場所に腰をおろして、いつものようにつり革につかまる彼女を見つけた。
彼女も私に気がついた。
私たちはいつものように小さく微笑みあい、いつものようにすぐ目をそらそうとして――
でも、彼女は目をそらさなかった。
真剣な眼差しで私を見つめたままつり革から手をはなすと、不思議な手仕草を始めた。
右手を耳の近くまで持ち上げてこぶしを作り、
次に、両手を人差し指だけ立てた形にして胸元へ持っていき、
その指を軽く折り曲げる。
それだけだった。
私は何が起きたのかわからず、間の抜けた顔で彼女を見てしまう。頭の上にはいくつものクエッションマークが飛び出していたにちがいない。
彼女は口を開けて目を丸くしている私を見て、もう一度微笑んだ。
少し残念そうに目を細めて。
彼女のそうした行動はそれきりで、次の日からはまた何事もなかったように微笑むだけになった。
私もいつも通りに微笑みを返したけれど―― 何事もなかったことにはできなかった。
今までのルールを破ってまで彼女がした行為なのだ。意味がないわけがない。
何かのジェスチャー?
耳のあたりでこぶしを作る仕草は…… 電話?
両手を人差し指だけ立てた形にして折り曲げる仕草は…… クワガタ?
電話とクワガタ。
二つを合わせると 電話をかけてきたのはクワガタだったよ という意味になる。
絶対にちがう。
学校で友人に聞いてみても(もちろん筆談だ)、首をかしげるか、私と似たようなトンチンカンなことを言うばかり。
家に帰って聞いてみても、姉は私と同じようなものだったし、母にいたっては、それよりもカウンセリングはちゃんと通っているのと、トゲのある質問をかえしてきた。なかなか回復しない私に苛立っているのだ。
手っ取り早いのは彼女に直接聞くことだけど、その勇気はない。
だいたい、この前のジェスチャーは何だったのですかと書いた大学ノートをいきなりつきつけたりしたら、驚かせる程度ではすまないだろう。
結局、自分で答えを見つけるしかなかった。
きっかけは、これといった目的もなくテレビを観ているときだった。
民放の安っぽいバラエティ番組が終わると、次の番組までのつなぎに流れるニュースが始まった。
男性キャスターがあいさつをして、今日の出来事を淡々と伝えていく。
だけど私が注目したのは彼ではなく、画面の右端に映る女性だった。
丸く切り取られた枠の中で、しきりに手を動かしている女性。
それは、手話だった。
女性は手話でニュースを伝えていたのだ。
声がだせたなら、私はきっと叫んでいただろう。
そうだ。手話だ!
私は自分の部屋に急いで戻り、机の上のスマートフォンをつかみ取って動画サイトに接続した。
検索ワードは 【動画 手話】。
再生時間の短い、手話のワンフレーズ動画を手当たり次第に確認していく。
目当ての手話はすぐに見つかった。
耳のあたりでこぶしをつくり、次に、両手を人差し指だけ立てた形にして折り曲げる仕草。
おはよう。
私は両手で太ももを叩いた。
そうだ。彼女はおはようと言ったのだ。
それがわかっていたなら、私もおはようと―― 耳のあたりでこぶしをつくり、それから両手を人差し指だけ立てた形にして折り曲げる仕草で―― 返していたのに。
叫びたかった。
正解にたどりつけた喜びを表現したくて。
口を大きく開け、お腹に力を入れて、喉から絞り出すように声を吐き出す。
一度。二度。
三度。
私の口からでてきたのは、息が漏れる音だけだった。
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